非難.これが刑事精神鑑定(以下,鑑定)に潜在する重要なキーワードである.鑑定とは何のために行うのか.対象者を非難できるか否かを決定するために行うのである.非難できるとしたらどの程度非難できるかを決定するために行うのである.
鑑定は精神科医が行う.精神医学の一分野である.だが鑑定を依頼するのは法曹である.裁判官や検察官や弁護士である.彼らは精神医学そのものに関心があるわけではない.彼らが関心をもっているのは責任能力である.彼らの精神医学についての関心は,責任能力を判断するための材料についての関心にすぎない.そして責任能力とは刑法でいう責任主義と一体をなす概念であり,責任主義とは被告人の非難可能性を決定する概念である.かくして鑑定という仕事の先には,臨床医学とはまったく異質の「非難」という語が終着点に待ち構えている.
わが国の法律に従えば,被告人が精神障害者であるとき,その被告人の行為を非難できない可能性が発生する.刑法39条とその大審院の解釈がその根拠である.だが精神障害のなかでもパーソナリティ症なら非難できるというのが伝統的な考え方である.なぜならパーソナリティ症はパーソナリティの偏りにすぎないからである.たとえその偏りが非常に大きなものであっても,パーソナリティと名がつく以上は,非難のターゲットになる.重大犯罪の被告人に重罰を科す判決文には「冷酷」「短絡的で身勝手極まりない」「全く悔悟反省していない」「人の痛みを顧みない」などが常套句のように並ぶ.どれも被告人のパーソナリティに対する非難の表現である.もし人のパーソナリティを非難できないということになれば,そもそも人を非難することはできないというに等しい.パーソナリティ症の行為を非難できるとするのは,社会秩序維持のために必要な論理構造なのである.
しかし,パーソナリティ症についての生物学的研究が進み,脳基盤が解明されてくるに従って,この論理構造からきしみ音が聞こえ始めている.パーソナリティ症の脳に機能異常が見いだされたら,他の精神障害との違いはどこにあるというのか.「その異常は正常からの偏りにすぎない」というシュナイダー流の説明は根拠薄弱なドグマに響く.精神現象が脳機能の現れであるとすれば,パーソナリティ症と他の精神障害を峻別するものは溶解する.他の精神障害による行為は非難できないことがあるのに,パーソナリティ症による行為なら常に非難できるとすることには根拠がない.
精神障害とは何であったか.現代における定義を問うているのではない.起源を問うているのである.もともとはある人物の精神に障害ありとする根拠は,その人物の言動が標準から逸脱しているという観察から始まっていたはずである.その逸脱が精神の異常でしか説明できないと結論されたときが,精神障害という概念の誕生である.つまり逸脱があったから精神障害とされたのであって,精神障害があるから逸脱した言動がみられるとされたのではない.そのような起源に目を向けたとき,ある任意の犯罪=逸脱行為について,それを精神障害によらないものと精神障害によるものに峻別し,前者は非難できるが後者は非難できないとする論理は説得力を失うことに気づかざるをえない.パーソナリティ症の非難可能性をめぐる議論につきまとう歯切れの悪さには,こうした背景がある.
ICD-11のパーソナリティ症の頁を開いてみる.ひと目でわかるのは,従来のパーソナリティ症の下位分類が撤廃されたことである.そしてパーソナリティ困難という概念が導入されたことが目を引く.このような変革の基底には,「自己機能」と「対人関係機能」のあり方を人間の正常性の基準にするというICD-11の姿勢があることが読み取れる.それはすなわち…という議論展開は精神医学者や心理学者にとっては大いに関心あるものであっても,世の大部分の人々はそんなことに関心はない.その大部分の人には裁判官をはじめとする法曹も含まれる.ICD-11によってなされた変革が彼らの目にどう映るか.明白である.そこにみえるのは正常のパーソナリティとパーソナリティ症の連続性である.「パーソナリティ症は,他の精神障害とは違い,やはり非難できる」彼らは自信をもってそう言うであろう.「妄想性パーソナリティ障害」や「統合失調型パーソナリティ障害」という診断名をつきつけられると,それはパーソナリティ障害と妄想性障害・統合失調症のどちらに近縁なのかという問いが発生するが,ICD-11ではそういう厄介な問いは発生しない.それが発生しないのは病態の本質をみようとしないからだと言えばそれはその通りであるが,それもまた精神医学者の議論にすぎない.世の大部分の人々にとっては診断基準の本質論など遠い異国の言葉で唱えられた念仏である.現代の診断基準は仮の設定にすぎないのだなどと言っても虚しく響く.それを言ったら現代の法律もまた仮の設定であって普遍的なものではない.仮でも何でも現時点で最も権威あるものが重んじられるのである.
パーソナリティ症でも認知の問題が発生しうることはICD-11に明記されている.しかし同じ「確信」でも,妄想と冠せられれば責任能力は減弱の方向に作用し,認知の問題と冠せられれば責任能力ありの方向に作用する.それは言葉の使い方の問題にすぎないと反論されればその通りであるが,裁判が言葉によって進められる以上,法廷で繰り広げられるのは事実についての争いというより言葉についての争いといった様相を呈することはしばしばある.名は時に実より重要になる.
ICD-11ではパーソナリティの成り立ちや構造が重んじられており,その点は高く評価できる反面,生物学的研究の成果はみえにくくなっている.これはパーソナリティ症の被告人を非難しやすくする事情であるといえる.それに対抗して弁護側は,被告人にみられる認知の問題を妄想と名づけることで,診断はパーソナリティ症ではなく妄想症であると主張することが考えられる.すると今度は妄想の定義が問題になり,そこに勃発するのはまさに言葉の使い方についての争いである.それは精神医学や,さらには自然科学からもかけ離れた筋違いな論争という印象もある.しかし振り返ってみれば,精神医学の論争はどうなのか.それは事実についての争いなのか,言葉についての争いなのか.「言葉を大切にする」という大義名分を盾にした,言葉のみについての議論が精神医学のそこここに跳梁跋扈しているのではないか.対立が鋭く前面に出る裁判という場面では,議論の根底にある真実や,さらには欺瞞が,否応なく顕在化する.ICD-11のパーソナリティ症をめぐる鑑定で,そして法廷で発生する問題は,実は精神医学界に根深く潜在し続けている問題でもある.
なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.