1969年5月の第66回日本精神神経学会総会(金沢総会)以降,日本精神神経学会理事会は主に金沢総会で示された方針に従って運営されたが,会員の学会離れ,財政的逼迫などがあり苦しんだ.一方,学会運営の民主化は順調に進められ,医局講座制の問題は各大学でそれぞれ改革がなされた.保安処分の問題は,触法患者の増加から社会や行政の要請があり,行政からの提案に精神科七者懇談会の働きかけが加わって,司法と医療が協力し合う形の医療観察法の成立で落ち着いた.精神医療の問題は官主導の精神保健法の成立およびその後の改正が中心になり進められてきたが改革は道半ばである.精神科専門医制度は学会内部の地道な努力と卒後臨床研修制度の発足など外部からの圧力が加わって漸く発足した.その後会員数が増加し,他学会との交流や行政との関係も改善し,精神科の親学会としての立場を回復した.金沢総会という大きな変革とその後の経過のなかから学んだことを十分生かしていくことが重要である.
はじめに
1964年にライシャワー事件があり,それと関連して1965年に精神衛生法の改正があった.一方,インターン制度廃止の動きや学園紛争が始まっていて何となく落ち着かない雰囲気のなかで,1968年に第65回日本精神神経学会総会(長崎総会)が開催された7).理事会では認定医制度に関する議案が提出され通ったが,評議員会ではさまざまな異論が出て議案は通ったものの,総会には提出されなかった.そして1年後の1969年5月に第66回日本精神神経学会総会(金沢総会)は開催されたが,学会運営が非民主的である,医局講座制反対,認定医制度反対,保安処分反対,精神医療の改革などが叫ばれ,評議員会が紛糾して延々と続き,理事会不信任,評議員会解散勧告決議がなされ,騒然とするなかで,学術発表は中止となった.本稿ではこの金沢総会以降,日本精神神経学会(以下,学会)の改革がどのように進んだのかについて述べてみたい.
I.金沢総会以降の理事会の方針14)
(i)医局講座制反対:各大学では話し合いが行われ変化がみられた.
(ii)学会運営が非民主的:学会は民主的に運営されるようになった.
(iii)産学共同を否定:学会開催費用は,それまで行われていた製薬会社などから寄付を募ることをやめ,参加費で賄い,不足分は学会が補塡することになった.この開催方法は,現在まで続いている.これは目に見える改革といえる.
(iv)精神医療の改革:不審死の多発,暴力など,問題となった精神科病院の調査発表を行い,患者の人権擁護を推進するように精神科病院に改革を促した.
(v)保安処分反対:学会は現状の制度で対応するのがよいと主張し,司法や警察の関与を否定した.しかし精神障害者による傷害・殺人事件などはメディアにより報道されていた.
(vi)認定医制度反対:精神医療の改革が先で,認定医制度を論じるべきではない.認定医制度は医局講座制を強化するだけだと主張した.
以上のような方針で学会の改革を進めた.
II.学会運営の困難な時期
上記のような理事会の方針で学会が運営されたが金沢総会以降の学術総会では一般演題の発表がなく,シンポジウムのみが行われた13).金沢総会から9年後の1978年,第74回総会からシンポジウム関連一般演題を募集するようになったがなかなか増えていかなかった.その結果,学会員は年次総会に参加せず,退会するものも増え学会員の学会離れが進んだ.1973,1974,1976年の学術総会は出席者定数を満たさず流会になり,別に委任状を大量に集めて総会だけを開催し,予算案だけは何とか通すという事態になった.会員数は減少し,学会の財政は逼迫した.
III.金沢総会で最も問題になった3つの課題
金沢総会では学会の運営が非民主的である,医局講座制が問題であるほかは,(i)保安処分,(ii)精神医療改革,(iii)認定医(専門医)制度が最も問題になったように思われる.そこでこれらの問題について経過を述べることにする.
1.保安処分反対
1969年5月,第66回金沢総会で理事会が不信任され,新理事会が開かれ,刑法改正に関する意見書案が採択された.「精神障害者の問題は,精神医療担当者にゆだねるべきで,司法,警察権の介入は許されるべきではないという基本的な態度で検討する」ということになった8).1971年総会シンポジウム「刑法改正における保安処分問題と精神医学」では保安処分制度に対する反対意見が出され,保安処分に反対する委員会が発足した6).1972年には改正刑法草案が公表され,1974~1976年にかけて法制審議会から改正刑法草案が答申された.1975年8月学会の保安処分に反対する委員会は保安処分制度新設に反対する意見書を提出した2)3).
1980~1981年にかけて新宿西口バス放火事件,深川通り魔殺人事件がおき,これをきっかけに行政から保安処分推進の動きが出てきた.1981年6月,奥野誠亮法務大臣が保安処分推進の発言を行った.これに対して学会理事全員,20大学精神科教授,公立病院長が「保安処分新設の承認を見合わせるように」鈴木善幸総理大臣宛に申し入れ書を送付した9).1982年の学術総会シンポジウム「保安処分」では大方は反対意見であったが,野田正彰2)3)が「サインを見落さず適切な対応をすれば事件発生予防の可能性が高い.精神科救急医療,地域精神医療体制の充実,高い診断能力と訓練を積んだ臨床精神科医の育成が必要」と意見を述べた.
1987年に精神保健法が成立して,患者の人権尊重,社会復帰促進が示された.1990年には処遇困難者専門病棟問題が注目された.道下忠蔵2)3)6)が全国の処遇困難例の調査を行い,その結果から「全国の国公立病院に集中治療病棟を設置し対応,それでも困難な症例などは専門病棟を設立して対応する」という案を呈示した.1992年には学術総会シンポジウム「医療環境といわゆる処遇困難者問題」が開催され,専門治療病棟の凍結を求めるという決議がなされた.その後1990年守山荘病院事件,1986年岩手県立北陽病院事件,2000年西鉄高速バス乗っ取り事件などがおきた.1999年の学術総会シンポジウム「司法精神医学の現代的課題」では山上皓2)3)6)が「触法精神障害者による犯罪の頻回反復,長期服役する精神病者の増加,精神病院内の暴力事件の多発,病院内での過剰拘禁,専門処遇施設がないための研究・育成の遅れ,社会の偏見の増幅,触法精神障害者処遇制度の施設の不備のため,予防できるものが事件として生じている」と主張した.これに対して,保安処分推進論の再燃を恐れる患者団体から強い反対があり,会場は混乱した2)3).
1999年の精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(精神保健福祉法)改正案可決の際に,「重大な犯罪を犯した精神障害者の処遇の在り方についての検討を求める」という附帯決議がなされた.それを受けて法務省・厚生省合同検討会が開催された.このような時期に,2001年池田小学校児童殺傷事件が起こった.小泉純一郎首相や政府関係者,識者から「触法精神障害者の問題」について発言が続いた.この動きに対して,学会理事会は,新しい制度ではなく現行法下での改善を優先すべきであると提言した.2001年11月自由民主党による「心身喪失者等の触法及び精神医療に関するプロジェクトチーム」から報告があった.「触法心身喪失者に新たな処遇決定手続きと専門治療施設の新設,保護観察所の指導監督下での通院治療の規定」を提言し,2002年3月にこの報告が閣議決定された.学会の精神医療と法に関する委員会はこの提言に対して1981年の治療処分の刑事局案と同じであり,反対するとした.一方,精神科関係団体の意見の取りまとめをしていた精神科七者懇談会1)はこの提言を討議した.学会と全国自治体病院協議会は反対し,日本精神科病院協会のみが賛成した.このような状況のなかで,精神科七者懇談会のメンバーである精神科講座担当者会議の修正案が三國雅彦ら4)の努力で示された.「政府案の修正を要望する.即ち精神医学の進歩を取り入れ『再犯の恐れ』ではなく『治療可能性』にパラダイムシフトさせてほしい」要望が通れば,精神科講座担当者会議は賛成するというものであった.政府与党はこの案を採用し,与党修正案が2002年12月衆議院で可決,2003年6月参議院で可決した.その結果2005年7月「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」が施行された.
2.精神医療の問題
1)精神医療の改革
1969年5月第66回金沢総会で精神医療改革への姿勢を確認した.1972年には昭和47年度精神病院実態調査に対する要望書を提出,1973年には精神衛生実態調査についての疑義表明がなされた2)3).1975年には作業療法点数化に反対する決議をした.反対理由は,(i)精神医学的に普遍妥当性があるか,(ii)患者使役ではないか,(iii)患者労働と収益の帰属などが問題にされた.1979年には「精神障害者の社会復帰施設に関する中間報告」に基づく予算化の凍結を要望した.ところが,1980年矢作川病院問題,1981年大和川病院調査報告など精神科病院での人権問題があり,1983年に精神医療改革に関する宣言を行った14).このような状況のなか,1983年に全国精神衛生実態調査が行われ,学会は全会員に対して精神衛生実態調査が行われたことに関する不当性を訴えた6)11).1984年には宇都宮病院事件が発生した.看護者による患者の虐待であるが,背景に複雑な問題が存在していた.1985年には宇都宮病院問題に関する本学会の決議がなされた.同年には松山精神病院問題に関する調査報告,和泉丘病院事件についての調査報告,淀の水病院調査報告,香川県立丸亀病院調査報告が次々になされた8).1986年には学会から精神衛生法「改正」についての見解を出し,開放化と自由入院を促進し,精神医療を改革するための提案を行った.1987年には海外から研究者を招いて,精神衛生法改正国際フォーラムを開催し,参加者からは有意義な会議と評価された.
同じ1987年には学会の評議員会から精神保健指定医制度に反対する特別決議が出された9).
しかし,精神保健法は同年に成立した.これは患者の人権保障や社会復帰施設の促進などを述べた画期的な法律であった4).1988年には学会評議員会から「精神保健法に関する見解」が出された.1993年精神保健法の改正(平成5年改正),1995年には学会から精神保健・医療・福祉に関する行政組織についての要望が出されている.1995年に精神保健福祉法に改正され(平成7年改正),1997年には「障害者プラン」の抜本的見直しに向けての見解が出された.また1998年には精神保健福祉法改正に向けての要望が出された.1999年には精神保健福祉法(平成11年改正)が改正され,学会からは精神医療のあり方に関する要望書,2000年には精神病床のあり方に関する要望書が出された.精神衛生法の改正は精神医療の改革に重要な役割を果たしていると考えるのでその流れを以下に示す.
2)精神衛生法の改正の流れ10)
1950(昭和25)年 精神衛生法制定
(i)精神科病院の設置を都道府県に義務づける,(ii)私宅監置を廃し,(iii)精神衛生鑑定医を設ける
1965(昭和40)年 精神衛生法改正
(i)精神衛生センターの充実,(ii)地方精神衛生審議会の新設,(iii)通院医療費公費負担制度の導入,(iv)保健所の精神衛生業務,(v)施設長の通報による措置入院,(vi)緊急措置入院,(vii)措置入院患者の無断離院の通報義務化,(viii)措置解除の手続き厳密化
1987(昭和62)年 精神保健法の制定
(i)入院患者の人権保障(精神医療審査会,入院時の告知義務,退院請求,処遇改善請求,処遇の基準,定期病状調査の審査),(ii)社会復帰の促進(精神障害者社会復帰施設の制度創設)
1993年 精神保健法(平成5年改正)
1995年 精神保健福祉法(平成7年改正)
1999年 精神保健福祉法(平成11年改正)
2013年 精神保健福祉法(平成25年改正)
(i)精神障害者の医療の提供を確保するための指針の策定,(ii)保護者制度の廃止,(iii)医療保護入院の見直し,(iv)精神医療審査会に関する見直し,良質かつ適切な精神障害者に対する医療の提供を確保するための指針
1950年と1965年の改革は,社会情勢を反映してか,精神障害者の入院管理体制の整備・強化であったが,1987年の改革ははじめて精神障害者の人権保障と社会復帰の促進のための改革であった.2013年の改革もその流れを汲むものであった.
3.認定医・専門医制度
1968年の長崎総会では,認定医制度に関する理事会提案について評議員会でいろいろな異論が出て,議案は通ったが,総会に提出されなかった.1969年の金沢総会では,精神科病院における患者人権無視事件,大学における医局講座制の問題,認定医の問題などで学会が紛糾,学術総会が中止になった.1969~1987年の間に諸学会で認定医・専門医制度が発足した.基幹科では精神科以外すべての科で実施された.学会では認定医・専門医について言及することはタブーになっていたが,1987年に精神医学教育委員会ができて,卒後教育問題を検討することになった2)3).その後この問題について毎年シンポジウムを行うようになった.1994年に精神医学教育委員会のなかの卒後教育と学会認定医制検討小委員会の山内俊雄委員長から学会認定医制度に対する答申が行われた.これは山内答申といわれるもので,もし認定医制度が発足するとすればという仮定の形での答申であった13).この答申に関連して学会認定医制現実検討小委員会ができて1996年に認定医制が実現したとき,どのような現実的問題が存在するかに関する中間答申がなされた.これに並行して卒後研修推進小委員会(村上靖彦委員長)が活動を開始して1996年に精神科卒後研修実施計画(案)が提出された.これは認定医制度とは別に,学会が各地区に評議員会主導で卒後教育委員会を作り教育講習を行い,関連団体に働きかけて民主的で開かれた研修体制をつくるというものであった12).認定医制の実現に向けた動きと学会独自の精神科卒後研修実施計画という2つの動きがしばらく続いた.その後周囲の情勢が変化してきた.
1987年に精神衛生法が改定され精神保健法が成立し,1995年には精神保健福祉法の改定が行われ,患者の人権を守ること,社会復帰制度の促進などが実施されてきた.2000年に卒後臨床研修の精神科必修化が決まり,2004年から実施されることになったが,専門医,指導医の不在が問題になった.また,第三者的専門医資格認定機構が設立されることになり,専門医制度のない精神科医の場合,社会的不利益を被るのではないかという心配が出てきた.認定医制に関する学会内部での討論の積み重ねと,周囲の情勢の変化から,2002年の横浜総会で学会認定医制度採用が決定された14).そのときには同時に学会が世界精神医学会(World Psychiatric Association)を主宰し,国内外から多数の精神科医が横浜に集まった.学会が国際学会を主宰できるほどに視野が広がったことも学会認定医制度採用と関連していたと考えられる.長崎総会から実に37年経過した2005年にようやく専門医制度が発足した.
IV.金沢総会後の変革の考察
1.学会運営,医局講座制
金沢総会では,学会の非民主的運営,医局講座制に対する反対など,学会執行部やその背景にある大学の運営に対する反対があった.それまでは東京大学の精神医学教室の教授が理事長になる場合が多く,事務局も東京大学のなかにあった.金沢総会以降は東京大学の教授のみが理事長になることはなく,さまざまな大学の教授が理事長になっている.事務局も東京大学以外の場所に置かれており,1つの大学と関連が強いということはまったくなくなった.学会の運営は民主的になったといえよう.医局講座制については,各大学の教室の運営に関して,教授を含めたスタッフの協議で決める,教室員全員で話し合う場を設けるなど,以前にあったような教授がすべて決めて教室員の希望などを聞くことがないという雰囲気ではなくなった.また,新しく卒後研修制度が発足してからは,大学に所属せず直接市中病院で研修を行うなど,大学離れも進み,医局講座制の枠組み自体が緩んできたということもできる.
2.保安処分,精神医療の改革,認定医・専門医制度
1)保安処分
保安処分の問題は,学会の意見としては,「触法患者を含めて精神障害者の人権を守るべきであり,再犯の予測は困難であるので現行法下での精神医療を充実させればよく,精神医療の問題に司法や警察は関与すべきではない」と主張し続けた.その後も,度重なる精神障害者による殺人を含む事件がおきたが,学会としての対策を示すことはできなかった.一方,社会や行政からの圧力が加わり自由民主党による案が提示され,この案を精神科七者懇談会で議論した.精神科七者懇談会は学会が,厚生省などの行政との関係が緊張し医療法の改正や診療費の問題などに対応できていないために,学会を含む6つの団体があつまり(後に日本総合病院精神医学会が加わって7つになる)1990年に発足した.精神科七者懇談会では,臨床現場の立場から日本精神科病院協会は提案に賛成したが,学会と全国自治体病院協議会は原則に基づき反対し意見が割れた.その後メンバーの1つの精神医学講座担当者会議は,精神医療の進歩に伴い,高度の精神医療を提供することで,「再犯の恐れ」から「治療可能性」にパラダイムシフトすることができると考え,政府に修正案を申し入れ,その修正案が受け入れられ医療観察法が成立した.学会は一貫して反対を主張し続けたが,当時卒後研修問題などで積極的に発言していた精神科七者懇談会およびそのメンバーが役割を果たしたといえる.
2)精神医療の改革
精神科病院での虐待や死亡,不正な問題が次々に明らかになった.学会は積極的に調査報告し,人権擁護を推進した.しかし反対意見などを述べたが,他領域の人々と協力して精神医療の改革に向けて具体的な行動をとることはなかった.一方,厚生省(厚生労働省)は,宇都宮病院問題以降,精神医療の改革に対して積極的となり,精神保健法の成立およびその後の改定などを行い,患者の人権を守り社会復帰の促進を目標にした官主導の精神医療改革を行ってきた.その流れに従って2004年9月には「精神保健医療福祉の改革ビジョン」を示し,10年計画で改革に取り組んできた.一部で救急・急性期・回復期などの病棟の機能分化や地域医療では訪問診療・訪問看護などが行われ,就労移行支援や作業所などは増えてきている.しかし「入院医療中心から地域生活中心へ」という改革ビジョンの目標ははるか遠いと言わざるをえない.民間精神科病院が80%以上を占める本邦における精神医療改革は,精神科病院を巻きこんだ大胆な改革が必要になると考えられ,いまだ道半ばといえる.
3)認定医・専門医制度
学会の理事会は精神医療の改革が先で,認定医制度の問題は時期尚早であり,医局講座制の強化につながると主張した.その動きは厳しく,学会内で認定医の問題を公に語ることはタブーになっていた.このようななかで認定医・専門医をなんとか作りたいと思っていた会員が1987年教育委員会を立ち上げ,地道に卒後教育問題を論じ,毎年シンポジウムに取り上げ,1994年の山内答申につながった.しかし学会内部の動きは反対,慎重,賛成に分かれ,2002年に専門医制度が採択されるまで8年もかかっている.その間,周囲の情勢が変化した.1987年精神保健法が成立し,2005年に新しい卒後研修制度が実施されることになったが認定医制度がないために指導医の問題が指摘された.また,国家的な規模の専門医資格認定機構の設置が提案され,最後に残った精神科でも認定医研修の制度化を急ぐ必要があった.国際精神医学会の開催も決まり,これらの動きに押される形で,長崎総会から34年ぶりに2002年に精神科認定制度が採択された.学会内部での地道な努力と外圧が必要であったといえる.採択後は学会を挙げて準備に取りかかり必要な事柄を着実に実施してきた.その結果,専門医取得者が増加し,学術発表が充実し,会員が急激に増加した.専門医制度発足時2006年4月の会員数は11,552名であったが,2019年7月の会員数18,276名となり,6,700名も増加している.2019年7月現在,専門医数11,376名,指導医数7,705名である.専門医制度が発足して,新たに学会の礎が築かれたといえよう.
おわりに
精神障害者の人権を守り,充実した生活ができるように精神保健,医療,福祉の質を向上させる必要がある.上記の目標を達成するために,学会内部で自由な意見の交換ができ,学会以外の人々との連携・協力を得て進めていく必要がある.国際的な交流,知識を十分生かしていくことも必要で,広い視野を持ち続けることが何よりも大切である.
社会の要請や学会員の希望も受け止めながら学会運営を行っていくことも欠かせない.
金沢総会という大きな変革とその後の経過のなかから学んだことを十分生かしていくことが何よりも重要である.
編注:本特集は,2019年第115回日本精神神経学会学術総会シンポジウムの内容をもとにしたものであり,2019年が「金沢総会後50年」に当たる.
なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.
1) 小島卓也: 精神科七者懇談会の発足と活動について. 精神医学, 57 (7); 585-590, 2015
2) 小峯和茂: 年表. 日本精神神経学会百年史 (日本精神神経学会百年史編集委員会編). 日本精神神経学会, 東京, p.356-376, 2003
4) 三國雅彦: 医療観察法精神科医療―その実現はどのようにして可能になり, 積み残し課題は何か―. 精神医学, 60 (11); 1217-1222, 2018
5) 守屋裕文: 精神保健福祉法の100年間の経過と日本精神神経学会. 日本精神神経学会百年史 (日本精神神経学会百年史編集委員会編). 日本精神神経学会, 東京, p.377-414, 2003
6) 中島 直: 精神障害者と触法行為をめぐる学会の議論. 同書. p.356-376
7) 日本精神神経学会百年史編集委員会編: 日本精神神経学会百年史 日本精神神経学会, 東京, 2003
8) 日本精神神経学会: 第66回日本精神神経学会議事録 評議員会. 精神経誌, 71 (11); 1029-1128, 1969
9) 日本精神神経学会: 第66回日本精神神経学会議事録 総会. 精神経誌, 71 (11); 1128-1208, 1969
10) 櫻木章司: 精神保健福祉法改正とその背景―戦後精神科医療の歩み―. 三訂精神保健福祉法の最新知識―歴史と臨床実務― (日本精神科病院協会監, 高柳 功, 山本紘世ほか編). 中央法規, 東京, p.159-195, 2015
11) 田原明夫: 金沢総会から精神保健法成立まで. 日本精神神経学会百年史 (日本精神神経学会百年史偏執委員会編). 日本精神神経学会, 東京, p.188-207, 2003
12) 上野豪志: 日本精神神経学会における認定医制度をめぐる議論の経緯と到達点. 同書, p.474-519
13) 山口成良, 森 温理, 西園昌久ほか: 座談会「学会の100年, そしてこれから」. 同書, p.556-580