Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第125巻第6号

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連載 21世紀の「精神医学の基本問題」 ― 精神医学古典シリーズ
Emil Kraepelin―現代精神医学の通奏低音―
渡辺 哲夫
グレースデンタルメディカルクリニック
精神神経学雑誌 125: 530-539, 2023
https://doi.org/10.57369/pnj.23-074

 19世紀の末,Kraepelin, E. が疾患単位学説を礎石にして精神医学の体系を打ち立てて以来,現代に至るまで,この体系は精神医学の通奏低音であった.内因性精神病のなかでは早発性痴呆と躁うつ性精神病,そしててんかん性精神病という三大内因性精神病が確固たる真理と見なされた.しかしこの論はわずか20年で崩壊した.Kraepelin自身が破壊したのである.この成り行きの理由は,3つある.第1にKraepelinが疾患単位学説から症候群学説に立場をかえたこと.第2に,早発性痴呆が細分化されて自壊したこと(『精神医学教科書・第8版』).第3に,てんかん性精神病が排除されて(『精神医学教科書・第9版』),精神病像産出に必要な発作的生命力が消去されたこと,である.Kraepelinの創造性は『精神医学教科書・第6版』(1899)と『第7版』(1904)で頂点に達した.しかし「精神病の現象形態」(1920)と題された症候群論文ののち,彼が何を考えていたのか,これはわからない.五里霧中の気分だったのかもしれない.1990年,DSM-IIIが世界的に普及してから約10年後,「新Kraepelin主義(neo-Kraepelinian)」という呼称が使われだしたが,この言葉はKraepelinの業績の深刻さも彼の苦悩も表現してはいない.彼の謎めいた人格と業績は,冷酷陰鬱な外見にもかかわらず,その内面には熱帯雨林の如き祝祭性が持続していたという矛盾において露見している.

索引用語:疾患単位学説, 症候群学説, 三大内因性精神病構想, Kraepelinの気質>

はじめに
 Kraepelin, E. は1856年2月15日にノイシュトレリッツに生まれた.ベルリンとバルト海の中間にあるやや小さな規模の北の街で,人口は3万人弱であった.父親は音楽と文学の教師であり,母親は優しかった.誕生の約3ヵ月後には現在はチェコに属するモラビア地方のフライベルクにFreud, S. が生まれた.思えば精神医学のパラダイム・メーカーがほぼ同時に,ドイツ語圏の北と南の慎ましい中産階級の家に生まれたわけである.この二人によって,今日のわれわれの臨床基盤が設定されたのだが,二人が互いに個人的に交流することはなかった.20世紀になってそれぞれの論著のなかで互いの名前と業績がやや批判的に少し言及されたのみである.
 Freudはその境涯が詳しく調査され多くの自叙伝・評伝に記録されて,知識人のあいだで周知のことになり,精神分析とともに彼自身も有名人になった.だが,Kraepelinは,精神科医のあいだではある程度知られているにもせよ,その著作である分厚い教科書群が熟読玩味されることはなかった.Freud論をめぐる膨大で強烈な熱気と較べると,Kraepelin評伝あるいは自叙伝ないしは伝記的研究書も桁違いに少ない.じっさい,Kraepelinはかなり不人気な医学者であった.今でも彼を熱愛するひとはあまりいない.Freudが特別に輝く創造者であったため,二人の仕事を比較しても仕方がないともいえようが,Kraepelinの人格や仕事にも不人気の理由がありそうだ.
 わが国のKraepelin的学問の流れの系譜は,「呉秀三,内村祐之,西丸四方」と表記できようが,呉はKraepelinと気まずかった(内村)ようだし,内村は2年間のミュンヘン留学中,Kraepelinとひと言も言葉を交わさなかった.遠くから眺め,遠くから講演を聴いただけである.内村には,Kraepelinに接近しすぎると傷つけられるという予感が生じていた.さらに,斎藤茂吉がKraepelinから受けた露骨な握手拒絶という屈辱的な体験は有名である15).留学前,内村は茂吉から直接に体験を聴いていたし,『楡家の人びと』においても北杜夫がKraepelinの残酷な仕打ちと父のこころの痛みを,なまなましく書いている.
 西丸は個人的な接点こそなかったが「クレペリンは日本では評判の悪い人である.何となく冷たい,人間味のない,自然科学的疾病観に徹した,病気を見て人間を見ない,たくさんの症例を集めて処理するだけで生きた,心のある人間を見ない人であると思われている.ドイツでもこれに類した逸話があり(略)」8)とほぼ断定的に書いている.西丸が師の内村から個人的になまなましい思い出ばなしをいろいろと聞いていた可能性はある.
 「ドイツでも…」と西丸が書いているので,1つだけ例を挙げる.1920年,22歳になったKolle, K.(後年,Kraepelin,Bumke, S. のあとを継承してミュンヘン大学精神科を主宰)は期待に胸を膨らませてミュンヘン大学が誇る大先生Kraepelinの臨床講義に参加した.講堂に連れ出された朴訥従順な男性患者に「結婚の意味は何か?」とKraepelinが問いかけた.朴訥な患者は迷いつつ「…人生の伴侶を持つことです」と答えた.Kraepelinは即座に「諸君,これでこの患者が精神病質者だとわかっただろう」と聴衆に語って講堂を去った.Kolleは唖然とした.怒りのあまり音を立てて靴底を床に擦りつけて不快と不満と憤激の気持ちを表した.ところが周囲の学生たちはKolleを怪訝そうに眺めるのみで,Kolleの怒りの念は宙に浮いてしまった.つまり,「性欲の満足と子孫繁栄です」という答えがKraepelinの求めていた正解だとKolle以外の聴衆はすでに承知していたのである.師Kraepelinについて,過度の生物学主義者,人種差別論者,反ユダヤ主義者とKolleは明瞭に記している.58歳になっていたKolleは,Kraepelinに対する怒りと尊崇の念を二重拘束的に痛感しつつ回想し,師の評伝を書いていたのである5)
 これらは,Kraepelinの特異だが,ありのままの姿であろう.では,呉・内村・西丸という先達たちは,なぜ少々不快な気持ちと警戒心を抱きつつもKraepelinを尊敬し,その学問を(わが国の)精神医学のパラダイムとしたのか.重大な何かがこの冷酷陰気な大御所教授から発散されていたのではないか.そもそもハイデルベルク学派の始祖ともいうべきKraepelinのまわりに,なぜ,多くの若い俊才たちが集い,師のもとで学び,師の存在によって育てられたのか?
 序言からいきなりKraepelinの矛盾に満ちた特異な人格に主眼をおいて書き出してしまったが,この大御所の学問の広範な影響の表面だけをみて尊敬するのでは,その偉大な学問が,人情味の乏しい,冷酷なだけのドイツ・プロフェッサーから生まれ出てきたという奇妙な事実,つまり,Kraepelin個人の非人間的な心情から偉大な精神医学体系が生まれ出てきた不思議な経緯は理解できまい.
 以下,普通の精神医学史的な記述にしたいが,その記述の裏側にKraepelinという特異な人間の内奥の炎が生涯消えぬままであった経緯は忘れないようにしたい.

I.Kahlbaum・Heckerを継承して
 直接的,間接的というニュアンスの差はあるにせよ,どのような発見も先駆的な仕事を礎にしてなされる.ドイツ精神医学を西欧精神医学の中心軸としたGriesinger, W.(1817~1868)はKraepelinが12歳のときに腹膜炎のためベルリンで急死した.彼は創意に満ちた活動家だったが脳疾患の存在を前提とした単一精神病論者であった.それゆえ,Kraepelinの体系にとっては間接的な先駆者ではあったが,Kraepelinの医学的研究に直接する歴史的意義はあまり明瞭ではない.
 Kraepelinに直接先駆した臨床家はKahlbaum, K. L.(1828~1899)である.KahlbaumはGriesingerよりも11歳若かったが,Griesingerが1868年に急死した頃,Kahlbaumは,「カタトニー」という新たな病名を使い始め,単一精神病論者によって主宰されていたケーニヒスベルク大学から追放され,ポーランド国境近くに設立されたゲルリッツの私立精神病院の院長になっていた.この転職に若いHecker, E.(1843~1909)が同行したことは知られている.この頃の数年間は,ドイツ精神医学が単一精神病論から疾患単位学説に軌道を変更しつつある時期であった.KahlbaumとHeckerがゲルリッツで展開した精神医学はKraepelinに直接先駆するものであった.
 後年になって,若いJaspers, K.(1883~1969)は,1913年,このドイツ精神医学の軌道変更の意味について次のように記している.

 「カールバウムの理念はクレペリンがとり上げて発展させるまで作用を及ぼさずにいた.クレペリンの教科書の版を重ねるにつれて,発展の基礎が据えられ,一時的に一方的に定められた単位をしだいに克服してカールバウムの作った端緒を発展させて実らせたのである.先へ先へと彼は作っては作りかえ,疾患単位という彼の理念を事実としての精神医学各論のなかで実現せしめる助けとした.同じ原因,同じ心理学的基本型,同じ展開と経過,同じ転帰,同じ脳所見をもつ病像,すなわち全体像として一致する病像は,本当の,天然自然に定まった疾患単位なのである」2)(p.312)

 Jaspersは,KahlbaumからKraepelinまでの研究史を,連続した疾患単位追究の努力として理解した.とりわけ,Heckerの「破瓜病」論文(1871)1)とKahlbaumの『緊張病』と題されたモノグラフ(1874)3)に示された画期的な発見は,むかしから知られていた「(妄想性)狂気(Wahnsinn)」概念を巻き込んで統一されて,Kraepelinの「早発性痴呆」概念の具体的内実(三亜型)となる.つまり,Kraepelinは,疾患単位学説という原理においてだけでなく,早発性痴呆と名づけられた臨床具体性においても,KahlbaumとHeckerの直接的影響を十二分に受けているのである.
 もちろん,Kraepelinは,KahlbaumとHeckerの仕事を丸写ししたのではない.メランコリーとマニーを内包する「破瓜病・緊張病」と「躁うつ性精神病」の分離独立化の業績(1899)6)が目立つが,この二元差異化は,そのまま,精神病を単一精神病的に見なすか,疾患単位的に見なすか,という相違の表れである.また,Kahlbaumは多様な予後を認めるゆえに明るい(Heckerの破瓜病は重篤な例を対象とする)が,Kraepelinは「精神荒廃」という暗い予後に至る例だけを「早発性痴呆」とする傾向を示す.
 以上のようなはっきりした相違はあるにもせよ,直接的先駆者Kahlbaumから後継者Kraepelinへ,というJaspersの見解は原則として正しい.Kraepelinは『精神医学教科書・第3版』(1889)において「カタトニー」を「Wahnsinn」の下位群として採用し,『第4版』(1893)において「破瓜病」を「(狭義の)早発性痴呆」の名のもとに導入している.だが「(広義の)早発性痴呆」が1893年に定式化されるまで20年間近い歳月を要したわけで,Kraepelinの歩みは慎重なものであった.永遠に到達不可能であり,ただ研究の方向をさし示すだけの「理念」(Kant, I., Jaspers)2)であると考えるしかない疾患単位の構想ゆえに,Kraepelinの歩みは緩徐になるほかなかったのかもしれない.
 しかし,Kraepelin自身,自分が追究している疾患単位という「理念」の到達不可能性をどれくらい明瞭に自覚していたか? これはよくわからない.
 厳密には精神医学研究史とはいえないが,KahlbaumとKraepelinは,幾度か個人的に出会って言葉を交わしているので,その光景を想像して再現しておこう.
 後述するが,Kraepelinは15歳のとき,22歳の女性と結婚の約束をしていた.おそらくは8歳年長の兄Karlの友人たち(ませた少年Emilはいつも兄Karlのグループに入り込んでいた)の誰かの姉か妹だろうと推測される.ところが,1883年,ライプツィヒ大学のFlechsig, P. 教授は,ミュンヘン大学の大人物von Gudden, B. 教授のもとからやってきたKraepelinに悪意を抱き,2ヵ月でKraepelinを解雇してしまった.今でいうパワーハラスメントであるが,Guddenの顕微鏡標本を剽窃したFlechsigが,怖いGuddenではなく立場が弱く若いKraepelinに八つ当たりした結果の解雇であった.この結果,Kraepelinは突然無職になり,一切の仕事と収入を失った.生家からの仕送りや自著の『コンペンディウム』の印税などでかろうじて食べていたが,ライプツィヒの無職の医師の生活は惨めなものになり,すでに12年も待たせた婚約者をさらに我慢させることになった.
 悩んだKraepelinは,私立精神病院に就職してその給料で結婚生活を送ろうと考えた.そして,いきなり念頭に浮かんだのがゲルリッツの病院であった.KraepelinはKahlbaum院長に依頼し,快諾され,就職を約束した.Kraepelinはこの旨を敬愛するライプツィヒ大学心理学教授Wundt, W. M. に伝えたが,Wundtに「君は一個人の奴隷になるつもりか?」と反問され,Kahlbaumとの約束を反故にしてしまった.Kraepelinの『回想録』には,Kahlbaumに誘われたが断ったと記されている.どちらが真実かはわからないが,精神医学史は「Kahlbaum,Hecker,Kraepelinが一堂に会するゲルリッツ精神病院」という創造的光景を見る機会を永遠に失ったのである.1886年,Kraepelinはドルパート大学(現在はエストニアのタルトゥ大学)教授になったが,厳寒のロシアの地で,5年間,Kraepelinは,Kahlbaumの「緊張病」を徹底的に研究したと回想している9)
 「分裂性(カタトニー性)現象形態」は1920年に執筆された『精神病の現象形態』においてなお中枢的意義を持ち続けていたのだから,二人のこのすれ違いエピソードには何かしみじみとした余韻が残る.
 学問上の父Kahlbaumの仕事を意識し続け,厳父の如き偉大なGudden,慈母の如きWundtに生活の糧まで面倒をみられるほどに愛されたKraepelinは,後年になって目立ってくる冷酷陰険な面とは別の何かをもった青年医師だったのだろうか?
 HeckerとKraepelinが出会ったという記録は見当たらない.だが,Heckerによって活写された「破瓜病」は,それが重篤な経過と転帰に重点が置かれた記述であったゆえに,「緊張病」以上にストレートに「(狭義・純型の)早発性痴呆」発見の道をさし示していたと考えられる.

II.疾患単位学説再考
 疾患単位とは何か? これは容易な問題ではない.Kraepelinが生まれた頃まで,いや,さらにKraepelinが医師になった頃まで,精神疾患はなお40以上の名前のもとに分類されていた.単一の精神病が40以上の見え姿に分岐したのだと考えられていた.しかし,Kraepelinがヴュルツブルク大学の医学部に入学した頃,Kahlbaumはゲルリッツにおいて以下のように書いている.

 「(略)最初の発見とともに,次々と新しい発見がおのずから生じ得る道が開かれてきた他の自然領域と,自然のままの精神的領域との間に大きな差異はあろうはずはない.このような最初の発見こそ,従来用いられなかった疾患分類画定の方法によるまったく新しい種類の精神疾患形態の設定に他ならない.われわれは,この方法を,臨床的方法と呼び,これは,単一の心理学的原理や一面的な身体主義的原理に基づく従来の方法と対立するものである.とくに“全身性麻痺を伴う精神病”の設定は特筆されてよい.臨床的方法に基づいて,さらに新しく設定された病型は,私が思春期精神病または破瓜病と名づけた疾患群である.この疾患群に関しては,私の設定と疾患素材の集積を基礎として,また部分的には自分自身の観察で裏づけしつつ,Hecker博士が特殊各論的な記述を行っている.このような一連の新しい分類画定の最初に緊張病または緊張性精神病が位置するわけであり,本書でその特殊各論的かつ臨床的な成果が提示されるであろう」3)

 身体病理学と精神病理学を分断しないKahlbaumの方法は,素朴記述現象学(フェノメナリズム)的であるといっていいだろう.「病める人間の生きた諸現象」の一切が発見され記述され,病気の経過を含めて分類画定されねばならぬと彼は考える.特に「単一の心理学的原理や一面的な身体主義的原理」を駆使するような哲学的方法は却下される.こうした「臨床的方法」によってその精神性と行動特性が見事に記述され発見された代表が「進行麻痺」であり,「破瓜病・緊張病」と画定命名され始めた「疾患単位」の雛型なのである(Kahlbaumは「疾患単位」といわず,「病型」あるいは「疾患形態」という表現を用いていた).経過と転帰が重視され,メランコリー/マニー/昏迷/錯乱/荒廃と記述画定されるが,いくつかの病相(経過段階)が欠けても構わないとKahlbaumは書いている.事象そのものに忠実なKahlbaumは「疾患単位」に完璧な秩序や法則を要求しない.Kahlbaumの記述現象学は自由であるがゆえに曖昧かつ自然な印象を与える.しかし,Kraepelinの場合がそうであるように,完璧な秩序を要請された「疾患単位」は人工的で不自然な印象を,すなわち非現象学的で作為的な印象をわれわれに与える.先にJaspersの指摘を引用したが,「同一の…,同一の…」という不自然で観念的かつ操作的な人工性は,Kraepelinにおいて特に目立つ特徴,いわば強迫的な要請なのである.
 しかし,精神医学のなかに,自然な体系性と秩序性を求めたはずのKraepelinが,その疾患単位学説において,不自然かつ人工的な疑似秩序に陥り,その体系の作為性を論難されるに至ったのはなぜであろうか? 理由はいろいろとあるだろうが,肝腎な点を指摘するなら,ひとつは,Kraepelinが「人格」概念を破棄して疾患単位を探究したこと,もうひとつは,疾患単位という概念をKant, Jaspersが考える意味での「理念」として理解することができなかった可能性が大きいこと,であろう.Kraepelinの精神医学体系は,Kahlbaumのフェノメナリズムよりも秩序あるものとなった印象を有するが,その秩序に潜む過度の人工性が,疾患単位学説の脆さを招いてしまったのである.
 Kraepelinの人工的体系の非「理念」性について,また「人格」概念破棄ゆえの脆さについて,代表的な批判を挙げておこう.
 Jaspersは次のように批判する.

 「(略)しかし理念の代わりに理念が到達されたとみせかけること,一つ一つの例をしらべるかわりに,疾患単位を出来上がったものとして早発性痴呆とか躁鬱病というように記述することから間違いがはじまるのである.このような記述は不可能なことを行おうとするのであるから,必ずまちがいであり,示唆する所も少なく死んだものになってしまうことは予測できる」2)(p.315-316)

 疾患を発見して手に取って名づけて満足してはいけない,「理念」が唯物論的に堕落して無機物化してしまうからだ,とJaspersは批判する.Kleist, K.(1879~1960)はこのようなJaspersを「診断的虚無主義者」と切って捨てるが,なお存命中であったKraepelin自身は若いJaspersの見解に対して沈黙していたようだ.
 「人格」概念破棄が精神医学体系をいかに脆弱なものにしてしまうか,精神医学史研究家でもあったZilboorg, G.(1890~1959)は書いている.

 「クレペリンの体系の誕生は,人間がひとたび精神病になったらもはや彼からたいしたことは期待しないという態度の最終的な業績であった.(略)クレペリンの体系の明確さと明晰さそのものが,その弱点の根源になったように思われる.なぜならばそれは人格に対する考慮を全く徹底的に排除したからである」18)(p.338)

 「人格」概念の破棄は,そのまま,Kraepelinの人間に対する敬意の欠如の現れだとZilboorgは批判する.Zilboorgはいわゆるネオ・フロイディアンの世代の一人であったゆえ,Kraepelinの精神医学体系の非人間性と「人格」概念の破棄が許せなかったのだろう.Zilboorgが精神医学史の名著を書いたのは1941年だが,そののち半世紀も経ないでアメリカにDSMという「新Kraepelin主義」の簡易モデルが拡散してしまったのは皮肉な史実である.つまり,1980年に出されたDSM-III以降に特に目立つのだが,診断名一覧とコード番号シリーズがそのまま「疾患単位」の人工的連立にすり替わるという奇怪な錯覚がアメリカから世界中に拡散した.
 「理念」は,物的因果関連の次元の観念(思い込み)にまで堕落し,精神医学的研究を見当づけ導いてゆく力を失った.そして「人格」概念の破棄は,「理念」の唯物論的観念化と軌を一にしていて,疾患単位を非人間的な記号にすり替えてしまった.
 Kraepelinが「理念」の真義を知らなかったと断定はできないだろう.シジフォスの神話のようなKraepelinの努力は,成就しなかったとはいえ,死ぬまで続けられた.Kraepelinは自分の疾患単位学説に決して満足していなかった.彼は,明瞭な自覚を欠いていたにもせよ,また,学問的満足を得られないままであったにせよ,やはり「理念」に導かれるままに生涯を終えたのだ,といっていいだろう.
 だが「人格」概念を知ろうとせず用いもしないKraepelinの態度は一貫していたようで,結果として精神医学の疾患単位学説を無機的で不自然で冷淡な因果法則概念の如くにしたようだ.
 いずれにせよ,DSMとICDにみられる軽薄さは,重苦しいKraepelinの努力,疾患単位学説の重厚さ,そして「人格」概念の難しさ,これらすべてを忘却した結果であり,この“手引き書”は,われわれの臨床を安心させるべく操作する“取扱い説明書のようなもの”と考えておくのが賢明だろう.

III.内因性精神病二元論
 Kahlbaumは,緊張病はフランス精神医学が探究してきた「循環病(folie circulaire)」に近いもので,これらは,はっきりとは区別できない,「メランコリー」と「マニー」は緊張病の「循環性に変遷する経過」の要因(プロツェス)であり,分離できない,と考えていた.Heckerの破瓜病における「メランコリー」と「マニー」も同様であり,破瓜病もまた「循環病」と峻別できないとゲルリッツの二人は考えた.それゆえに,KahlbaumとHeckerの記述は単一精神病論的な雰囲気をなお淡く身にまとっていた.Kraepelinもその教授資格試験(1883)で「破瓜病は特定の一疾患ではなく,発育期の特別な事情によって,メランコリーまたはマニーが悪性の経過をとるようになった一病型である」と答えている14).当時の西欧精神医学の実情がよくわかる.つまり鋭敏な臨床家は皆,単一精神病論と疾患単位論のあいだで揺れ続けて定まらず,悩み抜いていたのである.
 この振り子運動的な不安定さを何とか安定させようと決断したのがKraepelinである.1896年の『精神医学教科書・第5版』において「荒廃過程」と名づけられた(広義)早発性痴呆と(体質性の)周期性精神病とがすでに分けられつつあったが,1899年の『第6版』になると,「早発性痴呆」と「躁うつ性精神病」が2つの異なった(内因性)精神病として分断された6).ここに成立をみた二元論は歴史的に決定的なもので,これは以後,現在まで続いている.言い換えるなら「緊張病」の循環性変遷過程が「メランコリー」か「マニー」で停止してしまうのが「循環病=躁うつ性精神病」であり,この病相で停止せずに昏迷・錯乱・荒廃へと進行してしまうのが,予後不良の「緊張病」あるいは(多く予後不良な)「破瓜病」なのだと見なされるようになった.
 この循環性変遷過程は,同一次元で起こるのではない.1920年に書かれた『精神病の現象形態』(後述)において,精神病の重さは層次構造論的に3段階に分けられるが,「躁うつ性精神病」はもっとも軽く浅い第1の侵襲層において発生する.しかし「早発性痴呆(とりわけ緊張病が重要視される)」はより深い侵襲によって露呈する第2層の病像=症候群だとされる.そして最深の第3層侵襲において大脳疾患に依拠する症候群が顕現するとされている.
 さて,以下は著者の憶測だが,精神医学史における1つの興味深い物語と思われるので記しておく.Kahlbaumは1899年4月15日に死去した.享年は70.緑内障と偏頭痛そして糖尿病を病んでいたという記録が残されていた.他方,Kraepelinは復活祭の休暇に重要な執筆を終える癖をもっていた.それゆえ,正確には決められないが,Kahlbaumの死とKraepelinの『第6版』の擱筆は同時的だったと考えられる.神秘的な暗合をあげつらうつもりはない.ただし,内因性精神病の二元論を終生認めなかったKahlbaumが死んだとき,Kraepelinがこの二元論をはっきりと書いたのは興味深い史実である.Kraepelinの学問的「超自我」ともいえるKahlbaumの死が,Kraepelinの筆の運びを少し軽くしたのではあるまいか? 以上は著者の想像であり,同時性の神秘を語るつもりはない.思えば,Griesingerの死と「カタトニー」なる病名の誕生も同時的であったが,それ以上のことではない.
 Kraepelinの早発性痴呆・躁うつ性精神病二元論は,名前を変えつつ現在まで持続している.だが,Zilboorgが指摘していたように,この二元論の人工性と不自然性そして脆弱性は否定できない.このような現状にあって著者がもっとも重視するのはKleistの研究とその学派の弟子にあたるLeonhard, K.(1904~1988)が構想した「類循環精神病(運動性・錯乱性・不安恍惚性精神病)」である13).その構想は動物的不穏から人間的錯乱をへて神秘的恍惚までという一種の層次構造性を帯びているが,獣性と神性を併せ持つ人間の本性を衝いていて興味深い.多くの非定型精神病が語られているが,Leonhardの構想は特別に発見的で優れているようだ.

IV.三大内因性精神病学説
 Kraepelinの精神医学的業績は,第1に,異常現象全般の「体系的秩序化」の試みにおいて認められる.そして第2に重視されるのは,内因性精神病を,早発性痴呆と躁うつ性精神病に二元分離した構想である.だが,以上の2点においてのみKraepelinの業績を論じることは精神医学史的にみるなら正確ではない.Kraepelinの精神病研究はさらに歩みを進めていた.彼は,早発性痴呆と躁うつ性精神病に続く第3の精神病を「てんかん性精神病(Epileptisches Irresein)」として分離独立させた.教科書の版でいうなら『第7・第8版』(1904~1915)7)8)で特にはっきりと「てんかん性精神病」が記述されている.ここでは二元的二項対立の構図でなく,三元的な構図が想定されている.この鼎立状況において,三大内因性精神病という構想が生まれてくる.
 しかしこの鼎立構想は長くは維持されなかった.『第6版』以前においててんかんは「全般性神経症」のなかに位置づけられ,そして『第9版』になるとシンプルに「てんかん(Epilepsie)」となってしまう.このKraepelinの病名に関する迷いあるいは悩みは興味深い.
 この時代,特に議論されたのは,てんかん者に現れる精神的諸現象を,けいれん発作と等価の本質的「代理症(エクイヴァレント)」と見なすか,付随的で偶発的な現象に過ぎないと見なすか,というものであった.「代理症」には「気分激変性,恍惚症,幻覚,妄想,朦朧夢幻症,譫妄性錯乱症,興奮,昏迷,人格変化…」など要するに挙げればきりがなく,すべての精神症状が帰属する.そしてKraepelinは基本的見解を述べている.

 「癲癇発作は癲癇の非常に重要な随伴現象ではあるが,唯一の随伴現象でもなく,あるいは欠くべからざる随伴現象であるとも限らない.真正癲癇であっても特有の発作が他の症状の背後に退くか,持続的に全く欠けているようなものが疑いもなく存在する」8)(p.3)

 発作なきてんかん者に「代理症」だけ出現することにKraepelinは注意喚起をしている.Kraepelin自身は論を展開していないが,『第8版』の目次構成は〔IX〕内因性精神荒廃(早発性痴呆),〔X〕癲癇性精神病,〔XI〕躁鬱性精神病となっている.ここに3つの重要な内因性精神病を想定していたKraepelinの構想が浮かび上がってくるだろう.
 「三大内因性精神病」との表現は20世紀半ばまで用いられた.著者がこの概念に初めて出遭ったのは第二次世界大戦後のJaspersによる『総論』においてであったが,思えばそれよりも早くKretschmer, E.(1888~1964)が『体格と性格』(1921)11)や『天才の心理学』(1928)12)において,「細長型,肥満型,闘士型」という体格,「分裂,循環,粘着」という気質(病質)という有名な人間類型を提唱していた.1980年頃になってわが国の安永浩は「中心気質」17)なる概念をてんかん親和的と直感される5歳から8歳くらいの「子ども」の如き直接性の気質として描いたゆえ,この発想の流れは,明言はされなくとも,KraepelinとKretschmerの三大内因性精神病構想に淵源を有していただろうと考えられる.
 脳波をはじめとした生理学的研究の進歩によって,てんかん性精神病は精神医学から排除されたが,検査結果などの物的証拠のみを追いかける最近の精神医学が臨床的直観の発見性を抹殺破棄しつつあるのは懸念すべきである.
 ともかくKraepelinの体系秩序は,『第6版』の二元論,『第7~8版』の三元論に至って頂点に達したといえる.だが,頂点を極めた者はつねに落下の危険に曝される.この危機的状況は後述するが,その前に,あまり知られていないKraepelinの生命の祝祭性について触れておこう.「粘着・中心気質」がKraepelinその人の内奥で燃えていた可能性は否定できない.

V.Kraepelinの祝祭性
 Kraepelinの『回想録』は1919年頃までの思い出を叙したものだが,遺族子孫の許可が得られず,Hippius, H. らの願いが実り,編集出版されたのは1983年になってからである.公開遅延の理由はおそらく「偉大なるミュンヘンのプロフェッサー」という出来上がった印象を子孫たちが維持したかったからであろう.内村祐之はこの「自叙伝」の存在を知っていたようだが読めないのを残念がっていた15).内村の死から3年後,『回想録』はようやく公開された.惜しい経緯だが,内容は特別に興味深い.Kraepelinは自身の内面について雄弁ではなかったが,それは彼の内面が冷たく乾燥していたということではない.精神医学体系化ないし構造化の大仕事から話題は少しずれるが,『回想録』を読むとそこには吃驚するようなKraepelinが顔を出してくる9)
 Kraepelinが愛し充実した日々を過ごしたハイデルベルクからミュンヘンに招聘されたのは1903年夏のことである.招聘状が届いてからも彼は大いに悩んだ.ミュンヘンでは医学部や研究所の造改新築など膨大な雑務が待っているのを知っていたし,ノイシュトレリッツから招いた老母や妻子と一緒の生活の豊かさ,有能な部下たちとの連帯感に満ちた教室のなかで,Kraepelinはハイデルベルクのすべてに惚れこんでいた.亡くなったGudden先生の記憶があり,医師になりたての頃の懐かしい思い出はあるにせよ,ミュンヘンに魅力は感じなかった.結局は招聘を受けたのだが,大学当局に,かなり長期間の研究旅行を許可してくれるよう依頼した.大学当局から許可が下り,Kraepelinは,『第7版』の原稿校正終了の直後,兄のKarlとともに,1903年の12月末から4ヵ月の休暇を得て,インドを経由してジャワ島を巡り,ゆっくりと往復する南洋熱帯の旅に出た.推測するに彼の胸中には「てんかん性精神病」を加えた三大内因性精神病鼎立構想の自負と不安が充満していた頃である.だが,船旅の途上,Kraepelinは本人も驚いてしまうような変化を体験することになる.

 「私が手紙のなかで詳細に描写したこの旅行が,私にとって何を意味するかは,容易には言葉に尽くすことができない.これはまず,完全な緊張解除であり,最近はしばしば耐え難いくらいになっている義務からの解放であった.甲板の椅子の上にからだを伸ばしてまどろみながら,ゆるやかに上下する青い海を見やった時に感じた最初のことは,気持ちの良い休息の感情,何もせず何も考えなくてよいという,限りなく満足した意識であった.それに,いたるところにつきまとって私の意志を束縛する無数のしがらみからの,完全な解放の喜ばしい確信が加わっていた.私は志を懐いて初めて世に出た少年のように,生きいきとして,冒険心に満ち満ちている自分を感じた.(略)
 (略)この旅行の時ほど完全な幸福を感じたことはなかった.からだの調子はずっとこの上なくよかったし,南洋の気候に馴れることも私には少しも苦にならなかった.毎日いや毎時間が尽きることのない新しい印象に満たされ,日常生活の灰色の単調さから解放されて,喜びの恍惚にひたり,この美しい世界をこころゆくまで味わうことのできる帰結に至った決断を,何度も賛美したのであった.(略)」14)(p.163)

 これがKraepelinか!と驚いてしまう.南洋熱帯の大自然のなかでこころもからだも溶けてゆくような至福の境地で恍惚陶然とした大先生Kraepelin,こういう告白はじつに稀有である.彼は「詩」もたくさん残しているが,秋から冬にかけての欧州自然の寂しさの詩が多く,熱にうかされた,大自然と太陽と無限の色彩の渦との一体化を歓喜する少年のような手記はこれ以外にはない.だが,そう思って『回想録』を読み直すと,酷似した恍惚体験は散見されるのである.普仏戦争勝利の報に飲酒酩酊する少年Emil,Kant-Laplaceの「星雲説」を発展させて宇宙進化の神秘を解こうとして兄の友人たちに嘲笑される少年,すでに述べた婚約の件,これらすべて14歳から15歳にかけてのエピソード.結婚の至福の歓びを隠せない純粋な青年,娘たちとサイクリングを楽しむ若い父親,絵画芸術とりわけムリリョの聖母マリア画を偏愛し至高の歓びに浸る青年医師,ヴァグネリアンたる紳士,イタリアに別荘を購入し熱帯・亜熱帯の植物でその庭園を埋め尽くした教授,….列挙すればきりがない.陰気で冷酷なドイツのプロフェッサーに過ぎないと決めつけてしまうのは現代のわれわれの錯覚だろう.彼にはやや複雑な人格二重性があったようだ.Kraepelinの「詩情」を味わっていた内村はここに「分裂病詩人ヘルダーリンの面影」と鋼鉄のように硬く克明な記述で目標に向かう「粘着性気質」の印象を同時に感受した15)
 思うにKraepelinの気質は,元来,自然に直接する動物(コドモ)のような「中心気質」(安永浩)の強い人間だったのであろう.それがなぜ「循環気質」を飛び越えて一気に「抽象宇宙層」親和的な「分裂気質」へと跳躍する傾向を帯びてしまったのか,これは不思議である.彼が人間社会に適合するような「循環気質」を欠いていたのは確かなようだ.
 シジフォスのような精神医学体系構築への努力,この血と汗を流す源となる熱狂性にも,われわれは,「中心気質・粘着性気質」に固有の爆発的祝祭性を,生命の噴出を感じるのである.

VI.疾患単位から症候群へ
 『第8版』の執筆と出版は1909年から1915年までの歳月を要している.「てんかん性精神病」は維持されたが,早発性痴呆は10の亜型に細分化され,人工的なまでに秩序的であった『第6版』までの早発性痴呆の三亜型構想は崩壊しつつあった.疾患単位学説の崩壊過程をKraepelinはどのように眺めていたか.彼の内心は不明だが,意外と淡々としていたのではあるまいか? 具体的には症候群学説に立脚したHoche, A.(1865~1943)の疾患単位学説批判がKraepelinに再考を促したようだ.Hocheは,多様な要因がさまざまの侵襲性に応じて多彩な精神病現象として露呈するのであって,疾患単位探究は観念的に生み出された「幽霊捜し」のようなものだ,内因性精神病・神経症の現象はすべて一人の人間の人生上に現われる症候群なのだ,と批判した.論争は起こったが,Kraepelinが応答的に書いた単独論文『精神病の現象形態』9)はKraepelin自身の変化と譲歩の大きさを示すもので,周囲はこれに驚いた.Kraepelinは,結局,Hocheの批判に屈したのではなく,Kolleが指摘するように,自己の内なる真理愛に忠実であったのだろう.
 この論文でKraepelinは発生学的な進化論の見地を採用し,侵襲の度合いに応じて,発生論的に克服されてきた「既成装置」が露呈し,これらがさまざまの現象として精神医学的病像になってくるのだと説いた.ジャクソニズムに似た層次構造論であるが,克明な固有名と文献の引用記載を明記する習癖のあるKraepelinがそれを記載していないことから,Jackson, J. H. の層次構造論全体をまだ知らなかったと推測される.じっさい「ジャクソンてんかん」への言及はなされている.
 Kraepelinは病的表現型として,10の現象形態(症候群)を考える.delirant,paranoid,emotionell,hysterisch,triebhaftと形容される5症候群は軽く浅い侵襲ゆえに起こり,schizophren,sprachhalluzinatorischとされる2症候群は中等度の重さと深さの侵襲ゆえに起こり,最深度の侵襲からencephalopathisch,oligophren,spasmodischとされる症候群が露呈するとされる.誌面の都合上,詳細を論じるゆとりはないが,躁うつ性精神病が軽度の侵襲ゆえにとされ,緊張病症候群を主体とする分裂性症候群が中等度の侵襲ゆえにとされ,てんかん(発作)は最重度の侵襲ゆえに,と想定されて区別される9)16)
 疾患単位学説では三大内因性精神病とされた3つのプロツェスが同じ平面上で考えられていたが,いまや次元を異にした3つの症候群として,いわば立体的に捉え直される.Kraepelinが疾患単位学説を棄て去ったわけではない.ここに,1つのプロツェスからすべての内因性精神病現象が差異化されて展開してくるという単一精神病学説を加えると,一見矛盾しているようだが,3つの基本学説(“疾患単位”・“症候群”・“単一精神病”の3学説)がKraepelinのなかで混沌たる思考になって,Emil少年にとっての「星雲」宇宙の如く,渦を巻いていた,と想像される.
 Kraepelinは64歳にして,尋常ならざる謎のなかに歩みを進めたかのようである.少なくとも,祝祭性に没入しやすい体質と気質の持ち主であったKraepelinにとっては,秩序正しい人工的体系よりも,「星雲」のカオスのほうが精神医学の本質に近いと感じられ,より好ましく感じられたのかもしれない.

おわりに
 21世紀になった現在,われわれ精神科医の思考,感性,そして臨床実践は,明らかにKraepelinの体系的思考の支配下にある.ただし,「理念」であるべき疾患単位は,到達され獲得され物象化された既知の実在とされ,症候群学説と単一精神病学説は,新たに登場したスペクトラムなる概念のもとに理解されつつあるようだ.矛盾に満ちたこれら諸原理が今後どのように科学的に統合されてゆくのか,いまはわからない.Freudが創り出したパラダイムと異なって,Kraepelinが創り出そうと努力したパラダイムは,まるで荒れ野のようである.隠しきれない剝き出しの荒れ野,これが整地され舗装されたかのように変装した姿をとっているのが現在のDSMやICDの本性である.
 しかし,Kraepelinの途方もない努力が生み出した三大内因性精神病の構想は,Kretschmer,安永浩(中心気質論),木村敏(イントラ・フェストゥム論)4)という研究者の一連の仕事によって継承されて,真実のプロツェス論として,現在によみがえりつつある,ともいえよう.
 われわれが,症候群論にまで至ったKraepelinから学ぶべきことは,際限なく豊かなのだと思われる.本稿はそのごく一部分に触れたにすぎない.DSMやICDの根底に向けて垂直に掘り下げて,その根っこであるクレペリンの思索と苦悩と夢想にまで降りてゆくことは不可能ではあるまい.
 ここで要請されるのは,DSMやICDを暗記する学習努力ではなく,精神医学史の暗黒の根幹にまで達する歴史眼光だけであろう.

 本稿には現在は用いられていない表記が頻出しているが,歴史的・時代的な背景実情に配慮して,古い表記のままにしておいた.ご理解を願う次第である.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) Hecker, E.: Die Hebephrenie Ein Beitrag zur klinischen Psychiatrie. Virchow's Archiv pathol Anat Physiol. p.52, 1871 (渡辺哲夫訳: 破瓜病. 星和書店, 東京, p.1-64, 1978)

2) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie, Für Studierende・Aerzte Und Psychologen. Verlag von Julius Springer, Berlin, 1913 (西丸四方訳: 精神病理学原論. みすず書房, 東京, 1971)

3) Kahlbaum, K. L.: Die Katatonie oder das Spannungsirresein, Eine klinische Form psychischer Krankheit. Verlag von August Hirschwald, Berlin, 1874 (渡辺哲夫訳: 緊張病. 星和書店, 東京, 1979)

4) 木村 敏: てんかんの存在構造. てんかんの人間学 (木村 敏編). 東京大学出版会, 東京, p.59-100, 1980

5) Kolle, K.: Emil Kraepelin(1856-1926). Grosse Nervenaerzte, Bd1, 1. Aufl. Thieme, Stuttgant, 1956 (岡 不二太郎訳: クレペリン精神医学百年史―人文史への寄与―. 創造出版, 東京, 2000)

6) Kraepelin, E.: Psychiatrie: Ein Lehrbuch für Studierende und Aerzte, 6. Auflage. Verlag von Johann Ambrosius Barth, Leipzig, 1899

7) Kraepelin, E.: Psychatrie: Ein Lehrbuch für Studierende und Aerzte, 7. Auflage. Verlag von Johann Ambrosius Barth, Leipzig, 1904

8) Kraepelin, E.: Psychatrie: Ein Lehrbuch für Stdierende und Aerzt, 8. Auflag. Verlag von Johann Anbrosius Barth, Leipzig, 1909~1915 (西丸四方, 西丸甫夫訳: 精神分裂病. みすず書房, 東京, 2020/西丸四方, 西丸甫夫訳: 躁うつ病とてんかん. みすず書房, 東京, 1986)

9) Kraepelin, E.: Die Erscheinungsformen des Irreseins. Zeitschr. f. ges. Neurol u Psychiat, 62; 1-29, 1920

10) クレペリン, E.: クレペリン回想録(影山任佐訳). 日本評論社, 東京, 2006

11) クレッチュマー, E.: 体格と性格(相場 均訳). 文光堂, 東京, 1968

12) クレッチュマー, E.: 天才の心理学(内村祐之訳). 岩波書店, 東京, 1982

13) レオンハルト, K.: 内因性精神病の分類(福田哲雄, 岩波 明ほか監訳). 医学書院, 東京, 2002

14) 高野良英: クレペリンと早発性痴呆論. 分裂病の精神病理13 (飯田 真編). 東京大学出版会, 東京, p.131-185, 1984

15) 内村祐之: わが歩みし精神医学の道. みすず書房, 東京, 1968

16) 内村祐之: 精神医学の基本問題―精神病と神経症の構造論の展望―. 医学書院, 東京, 1972

17) 安永 浩: 中心気質という概念について. てんかんの人間学 (木村 敏編). 東京大学出版会, 東京, p.21-57, 1980

18) ジルボーグ, G.: 医学的心理学史(神谷美恵子訳). みすず書房, 東京, 1958

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