Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第125巻第5号

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連載 21世紀の「精神医学の基本問題」 ―精神医学古典シリーズ―
呉秀三は何に憤慨し何をめざしていたか
金川 英雄1)2)
1)国立病院機構埼玉病院
2)昭和大学精神神経科
精神神経学雑誌 125: 430-442, 2023
https://doi.org/10.57369/pnj.23-060

 呉秀三(第3代東京帝国大学教授)は東日本を中心に1918年に私宅監置について調査し,『精神病者私宅監置の実況』(以下『実況本』)をまとめた.それらをもとに私宅監置と精神医学の歴史を分析した.それ以前,呉は精神医学を日本に移植するために留学したが,その間に医療を欠いた『精神病者監護法』ができたことに憤慨した.監置室は速やかに廃止すべきであり,各都道府県に公立精神科病院を建設するべきだと提言した.法律改革への働きかけの1つが内務省からの雑誌連載の出版配布であり,1919年の『精神病院法』成立の礎になったが,多数の公立精神科病院創設は不可能に近いと考えていた.『実況本』では精神病は適切な入院医療が重要で改善するが,公立精神科病院が足りず欧米と比べると大きな差があると述べている.著者は法律の成立とその周辺の細部も分析したが警察が法律を厳密に解釈し,施行したことは『精神科監護手続き』という本からわかる.警察が強制的に精神病者を隔離していた印象があるが,実は家族が困り果て監置を県にお願いする形であった.大分県に残る当時の記録では煩雑さのために,なかなか監置手続に踏み切らなかったことがわかる.その後の私宅監置の調査記録もあり,警察が指導したためか,待遇は改善されている.江戸時代にも同様の記録があり,家族親戚の申し立てに医者の診断書が添えられ,奉行所が私宅監置を許可した.『精神病者監護法』の骨格に江戸時代との類似性があり,この法律は突然できたものではなく現代までつながる連続性があった.呉の『わが国における精神病に関する最近の施設』では明治から昭和までの大学の精神科病棟,公立,民間精神科病院から民間収容施設までが網羅されている.呉は東京帝国大学内に精神科外来の設置を望んでいたが,呉の前任教授と内科教授が留学中に現地でドイツの貴族の娘と三角関係になった背景から内科教授が外来の設置に抵抗を示した.そのため呉は精神病者慈善救治会を作り,寄付金を集め精神科病棟を建設し大学に寄付した.樫田五郎は毎年の出来事を年表にまとめたので,呉は本を書けた.

索引用語:呉秀三, 樫田五郎, 精神障害者, 私宅監置, 精神科病院>

はじめに
 呉秀三はヨーロッパの精神医学を明治期の日本に移植した精神科医である.現代でも彼の本はよく引用されるが,その難解さのために,原文を完読して分析した論文はなかった.また医学的には隔離拘束する施設は,精神科以外にも避病院7)という急性伝染病施設があったが,本稿では精神科領域に絞って話を進める.

I.『精神病者私宅監置の実況』の説明
 私宅監置の法律ができた背景には,火事,地震が頻発するので,脆弱な木造家屋が多かった日本の特殊性があるようだ.アジアでも韓国はオンドル(床下暖房)の土造りの住居で,中国は石造りの家も多い.土造りや石造りの場合は頑強な構造となっているためヨーロッパと同じで,一般住居での隔離に困難はなかった.また江戸時代の記録を探ると,刀をもった武士が多数存在し,その武士にもいわゆる精神病のほかに進行麻痺,アルコール依存での刃傷沙汰,放火の記録が多数ある.その意味からも明治期に,法律整備が急務だったようだ.
 歴史は未来を映す鏡である.現在の『精神保健及び精神障害者福祉に関する法律』も突然にできたわけではない.すぐ前の法律を改正しながら今の法律が成りたち,つながっている.一つ一つを分析しないと前に進んでいかない.
 著者は医学部を出た後に,働きながら通学した文学部歴史学科で原文を読み,「現場に行け」と教育を受けた.東京帝国大学第3代教授呉秀三(1865~1932年)の『精神病者私宅監置の実況』16)(以下『実況本』)と『わが国における精神病に関する最近の施設』34)(以下『最近の施設』)の2冊を読むと,通説とは異なる点がきわめて多く,原文を読む重要さを痛感した.本稿では2冊とも手に入りやすい現代語訳を中心に書く(図1).
 まず呉の一生と業績は表1の通りである.
 『実況本』は日本の特定地域の私宅監置室,精神障害者民間施設,公的施設,在宅患者の視察調査分析の記録である.呉が1910年から1916年まで医局員を派遣して調査した記録で,364の監置室を調査し105例が載せられている.『精神病者監護法』を改正する目的で書かれ『精神病院法』が制定された.
 内務省保健衛生局が印刷した『実況本』の構成を列記する(表2).
 呉は何を言いたかったのだろうか.引用して呉に直接語らせるのがよいだろう,第7章「意見」の冒頭である.

図1画像拡大
表1画像拡大表2画像拡大

 「我々は我が国における私宅監置の現状がすこぶる惨憺たるものであり,行政庁の監督にも行き届かないところがあるのがわかった.我々はここで重ねて言おう.この監置室は速やかに廃止すべきであると.このような収容室の存在を見るのはまさに博愛の道に反するものであり,実に国家の恥辱である」32)

 それには各都道府県に公立精神科病院を建設するべきだと呉は言っている.だが一方で,病者を治療すべき公立精神科病院が足りないことを指摘している.昭和時代後半に民間病院が多数できたが,現実家の呉は早急にできるとは考えていなかっただろう.さらに続ける.

 「現在の状況と,欧米の文明国の精神病者に対する国家・公共の制度や,施設の整頓・完備とを比べると,実に雲泥の差だと言わざるを得ない」32)

 呉は留学で得た精神医学の知見に基づいて,政策提言をした.

 「そもそも精神病は良性の疾病ということはできないが,決して世間の多くの人が誤解するようにその予後が不良なものではない.ふさわしい時機に対処し,適切な医療を加えれば,少なからず治癒するべき疾病である」32)

 この頃,抗てんかん薬と睡眠薬などの薬物療法が導入され,興奮状態を睡眠薬で一時的でも抑えることができた.文献を調べると,昭和の時代まで「致死性緊張病」という言葉があった.興奮状態のまま衰弱して亡くなるのである.

 「しかも,この病はわずかでも治療の時機を逸し,あるいは不適切な処置を施すと,その予後が不良となり,治るべきものも直ちに癒えず,病状が経久性となってしまうものもまた少なくない.このため,精神病の治療の道は一つだけあって,他にはない.曰く,早期にせよ晩期にせよ,病院に収容して十分な治療を加えることである」33)

II.『実況本』の分析
 本書で呉が高らかに当時の現状を非難しているように誤解している人がいるがそうではない.本をていねいに読むとわかるのだが,呉といえども政府には大変気を使い,その批判をするときには,難解な漢語や二重否定を多用してわざと意味がわかりにくい書き方をしている.自分が日本の精神科の最高責任者だったが,政府が強く,激しい非難の一方で,呉のもどかしさが伝わる.
 政府は陸軍,海軍病院を次々に建設していった.誤解されやすいが,いわゆる兵隊のためだけの病院を造ったのではない.造船所,火薬工場などの軍事兵器製造工場の労働者のための病院も多数造った.ちなみに小説家吉川英治は,18歳のときに年齢を偽って造船所で働き,作業中船底に墜落し重傷を負った.それから彼は小説家をめざした.
 法律制定のための呉の仕掛けの1つが,『実況本』の出版配布である.この本は最初,雑誌連載だったが優れた論文として,内務省が出版した.内務省は明治の初め,警察を含むすべての役所を統括する機関だった.その後それが厚生省,労働省などに分化していったのである.『実況本』の特徴は明治期の本にもかかわらず,写真が多いことである.監置室の写真を撮ることは,地元の写真屋に依頼し大きな機材を専門家にもたせて,撮影場所まで同伴させなければならなかった.『実況本』の写真をよく見ると,患者はすべてポーズを取り,カメラ目線である.
 読む人はパラパラと一通り,写真を見ればよいのである.そうすると内容は読まなくても,監置室を改善しようと訴えている呉の意図がわかるのである.
 呉の努力にもかかわらず,私宅監置の法律,『精神病者監護法』(以下,監護法)は廃止されず並立したと考える人がいるが,これは正しくないようだ.精神科病院が圧倒的に少なかったので,監護法がなければ現実面が立ちいかなかったのだ.
 呉は病院設置の努力を続ける.樫田五郎は呉の一番弟子だが,その長兄,樫田亀一郎は天皇の侍医である.天皇の行幸時にその莫大な予算を使って,訪問地に精神科病院を開設した形跡がある.当時は恩恵を施すために,行幸予算の一部を使い,女学校新設などをするのが習わしだった.著者の聞き取り調査で関東初の天皇御陵建設のために,高尾山に精神科病院を開設したことがわかった.
 内容をみても『実況本』には,実は開放処遇の症例も載っている.例えば第8例(図218)は寺院で本堂脇の部屋に寝ていて,カギはかけていないと明記してある.日常臨床でよくみる急性期を過ぎ,無為自閉状態であったと推測する.
 『実況本』に記された「この国に生れた不幸を重ねるものというべし」という言葉が有名となり,呉は日本の精神医学を一方的に批判していた印象があるが,言葉の独り歩きというもので不適当な解釈である.呉は一介の大学教授ではなく,西欧精神医学を日本に移植した当時の精神科最高責任者である.これは総理大臣が「この国に生まれた人は不幸だ」と言うのと同じで,だったらあなたが改革してくれという話だ.
 私宅監置も警察が精神障害者を確保して,強制的に隔離したと誤解されているが,あくまでも家族が困って警察を通して,県知事に申請する形式であった.呉は『精神病鑑定例』15)でも第1例目は放火の症例を記している.当時は放火と対人暴行の2つがあると監置室対象で,現在でいう触法患者に近い人が多かった.
 『実況本』では現場を分析し家族に理解を示している.例えば「被監置者の病状に不潔症,拒絶症等あり,このような症状の看護に経験のない家族は,どうして良いか分からない.困難で心労のためにこんなふうになるのも,考えないといけない.まして府県によっては被監置者を監置室外に出す場合にはそのたびに警察署の許可を受けることが必要だ.入浴でも警察官が立ち会う規則がある事実を考えれば最もだ」30)と,医療が介入していないことに怒っている.なぜ誤解が生まれたのか,当時の状況を推察してみる.
 (i)開放処遇も多く,拘束は禁止されていた.『実況本』にも拘束した写真はない.
 (ii)介護を要するので監護人住居から離れたところに監置室を作ることは,禁止されていた.そのため母屋の軒下を利用して,監置室設置とした例も多い.監置届には見取り図の提出が義務づけられ,『実況本』はそれを警察署で引き写したのだが,遠くの畑などに監置室を作った例はない.
 (iii)写真を見ていくと,ほとんどの患者が意識してカメラ目線でポーズをとっている.第102例27)も発病して妻に逃げられた例だが,不鮮明ながら監置室の戸は開けられ本人は屋外に立ってポーズをとり,帯も締めなおし目線の先はカメラである(図3).
 「本人は○市を探し妻に会ったが,妻は長女も置き捨て再び逃走した.町役場は被監置者の食料費として1日14銭,看護人に1日15銭を与えている.看護人は患者の実母で67歳,監置室前の借家に住み,被監置者の子3人を養う.実母の看護は良い」
 第27例19)のてんかん性精神病もよく引用される写真で,著者も以前終戦時に精神障害者が飢えに苦しんだというテレビのドキュメンタリー番組で見たことがある(図4).だが『実況本』での説明文は次のようだ.
 「患者は栄養状態が良く(中略)写真を撮るというとすぐに着衣を整え,二個の茶碗を前記のいわゆる食卓上に並べ,にっこりと微笑んでレンズ中の人物となった」
 写真が初めての患者が多く,写してもらいうれしかったようだ.
 (iv)日本全国の情報が掲載されているといわれているが実際にとりあげられているのは1府14県で,監置室の大きさの表はわずか8県しか掲載されていない29).しかも東日本が中心である.この理由は後述する.
 (v)戦前の日本は軍関係以外の国民向けの内科,外科病院は少なく8),精神科病院はさらに少なかった.昭和の時代までは内科疾患も家庭で看て,家で寝て医者が往診に来るのが普通だった12).病院は戦後の高度成長期に増加した.
 (vi)精神科病院が足りないという理由で,民間収容施設にも呉は理解があり,現実的提案をしている.
 「神社仏閣等精神病院でない場所に精神障害者を収容し,医者でない者が処置することは法律に反する行為で取り締まりが必要なのはもちろんだが,われわれはすぐに廃止を呼びかけはしない.医師の監督を置くか精神病院の組織として,医師法に沿う形で改善策を講ずるのが有益で目的にかなった処置だ」31)
 『実況本』には,そのような施設も多数載っている.神社仏閣では慈悲の心で精神障害者を収容した所があった.忘れられたが,田辺日草や柴田桓要が昭和初期の精神病院建設に大きな役割を果たした5).著者も静岡県穂積神社を現地調査したが,相当深い山中にあった.もちろん呉の本に載っていない民間収容施設も多数あった.著者が調査した『実況本』にない施設,「ふぢ屋」もその1つである4).そこの宿泊帳は客が自分で,平民などの身分と精神病名を書く記載欄があった.
 (vii)通信手段の乏しい当時,行き倒れや徘徊する認知症を含む,家族に連絡のつかない精神障害者に悩まされていた.そのため公立の精神障害者収容施設が,日本全国に多数あった.第100例26)の写真では,立っている婦人は管理人,戸は開き不鮮明だが建物中に被監置者がいるがこれも笑顔だ.
 第9323),98例25)は山梨県甲府市の公立の収容施設の行旅病者救護所に入所していた.この施設は規模が大きい.甲府には甲州街道が通り,山からの物資集積地であったため旅人も多く,それに伴い徘徊者も多かったためと推測される.見取り図を見ると,保護室のような監置室が長屋のように続いた構造で,病室はなく精神症状が落ち着くと外に出したようだ(図5).現地調査では甲府駅からの一本道で現在は消防署になっている.今は市街地となっているが当時は町のはずれで,周囲は絹産業のための蚕のエサ用の桑畑だった.

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図3画像拡大
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III.なぜ言葉が独り歩きしたのか
 これまで『実況本』の文章の難解さのために,今まで述べてきたように正確な内容として理解,分析されることなく,戦後,突然次の言葉だけが有名となり,別の意味をもって独り歩きしだした.

 「わが国十何万の精神病者は,実にこの病を受けた不幸の他に,この国に生まれた不幸をも二重に背負わされている」32)
 呉は何に怒っていたのか.第一に,留学先の西欧先進国に比べて,当時,日本の精神医療の水準が低いということ,そして,『精神病者監護法』に医療が欠落している点であった.監置室入室時こそ精神病という医者の診断書が必要だが,後は警察官が見回りチェックするだけだった.そのため患者の精神,身体状態よりは,逃げられないような監置室の構造などに重点がおかれた.それは身体的な虐待の防止などには一定の効果があったが,食事を三度三度与えてさえいれば,食べるか食べないかは,問題にされなかった.
 なぜ多数の問題点が討議されずに呉のこの一文だけが,独り歩きしたのだろうか.原本を見た方ならわかるが,『実況本』は句読点も乏しく一文が長く続き,一部は改行もない巨大な漢字カタカナ文のかたまりである.いわゆる古い漢文の書き方である.
 この巨大な文字の塊に「この国に生まれた不幸」文が埋め込まれているのだが,ぱっとみて探すのは困難だ.他の本を読んでも明治時代,専門書は難解に書くのが美徳とされていたようだ.また印刷が悪く,字がかすれているので,漢字を同定するのが難しい.大変古い漢字で,使われなくなった言葉というより単語自体がむずかしい.本文の難読単語のほんの一例を挙げる.
 「夐然,旗幟,蔚葱,彌,不圖,鞅掌,盡瘁,黜陟,幽邃,蓊,清洌,才藻,聖慮,貴顕紳士」

 呉は知識の限りの漢語を織り込んでおり,著者は『実況本』の現代語訳に3年かかった.さて,この有名な一文を最初に抜き出したのは松沢病院の管理栄養士であった鈴木芳次(1912年2月4日~1989年1月28日)だった.それを戦後,人々が利用した.
 その根拠を提示する.著者は2018年12月,鈴木夫妻が〔妻は松沢病院看護科長,浦野シマ(1913年3月13日~2015年11月29日)〕退職後創設した若松共同作業所を訪問し,聞き取り調査を行った.息子夫婦から貴重な故人の蔵書をいただいた.そのなかに『精神病院と患者給食―その改革を求めて―』51)があった.それは鈴木の一周忌に彼の論文を,妻がまとめたものだった.前書きに当時松沢病院副院長の金子嗣郎(1930年5月13日~1997年1月22日)が『実況本』を「古書市で発掘したのも,彼の熱意と執念の賜ものと言えるだろう」と明記している.実際,鈴木本人がその経緯を『実況本』復刻時についていた小冊子『柴崎通信第一号』(1973年4月30日)に書いている.

IV.調査者の記録と現地調査
 私宅監置調査体験記を著した呉門下生の氏家信(1882年3月31日~1949年3月23日)は,斎藤茂吉ほど有名ではないが精神科医で歌人であった.主に長野県の私宅監置室調査をし,後にその体験を『精神病側面史』53)として書いている.随筆なので読むと物見遊山の楽しい旅行に思えるが,実際はそうではなかった.著者は検証するためにその通りに歩いてみた.
 (i)確かに氏家は川中島古戦場跡や,上杉謙信の妻女山麓の史跡も見ていた.氏家が使った旅館の浅間温泉「富貴の湯」(現「浅間の湯」)に著者も泊まってみた.
 (ii)だが決して遊んだのではない.江戸時代,旅人は1日に40キロくらい歩いた.人力車や馬車などを使ったにしても,氏家は1日30キロ以上歩くことが必要な大変な調査旅行で,著者は氏家の1日分を歩ききれず,日を分けた.
 (iii)『実況本』が東日本を中心にまとめられたのは氏家らの調査が夏休みを利用して行われたので,扇風機もない時代の夏のこと,暑くてとても西日本には行けなかったと考えられる.著者は9月の快晴の日に油断して水をもっていなかったため,監置室を結ぶ自動販売機もない田舎道で,渇きに苦しんだ.そのとき,なぜ当時の調査が東日本や高原に多いのかがわかった.
 (iv)監置室設置は警察への届け出が必須だったので,調査方法はまず警察に行って監置届の書類を調べ写した.氏家の随筆にも,群馬県と山梨県を調査した斎藤玉男の回顧談46)でも同じように調査したことが明記してある.そのため監置室の見取り図と構造が詳しく記述されている.本署で一軒ずつ調べてから監置室宅に行くので,直線移動の著者よりジグザグに長距離を歩いている.
 記録には悲惨な例も多いのだが,よく読むとそれだけではない.氏家は私宅監置の第1例17)を優良例として掲げているが,室内の客間に監置室がしつらえられ,大変感心している.図6上では左に床の間がきれいに見え,その下の写真は対照的な不良例(第81例)である(図6).この頃山間部は養蚕で景気がよく,裕福な家庭が多かった.氏家の紀行文にもその様子が書かれている.本文を読み込み分析し,当時の史料を複数参考にしないと,とんでもない誤解を招くことになる.

図6画像拡大

V.『精神病院法』の成立と出版の経過
 『精神病院法』成立と『実況本』『最近の施設』の出版の経過をみると,今回挙げた2冊とも樫田五郎が執筆,出版に大きく関与している.

 「呉博士は医学士樫田五郎と『精神病者私宅監置の実況及其の統計的観察』を著わし,各府県警察部長,貴衆両院議員,中央衛生会委員に配付す.内務省衛生局もその百部を分譲購入しこれを関係者に配付す」42)

 樫田五郎は後に内務省に入り,呉の忠実な弟子として精神衛生行政を進めていく.
 症例写真を見ると,当時の感度の悪い写真機にはっきり映るように,白い服を着て本まで持ってポーズを取る調査者が第64例21)と第103例28)の2回登場している.その部分だけ病名が書かれており,富山県10)なので,樫田五郎とわかった.「忙しい呉に代わり,調査全体を統括したのは私,樫田だ」というメッセージだった.史料が乏しく樫田がどの程度の力をもっていたか不明なため,著者は苦労して樫田家の墓を調べた.墓石には樫田五郎は五男だが,長男の亀一郎は明治天皇の侍医だったと記載され,中央とのつながりがわかった6)

VI.榊俶と『精神病者監護法』成立時の精神科を取り巻く状況
 明治の初め政府は優秀な人を選び,ドイツに派遣した.明治の遣唐使である.内科,眼科,精神科などそれぞれの科の欧米の最新知識を吸収し,その学問全体を日本に移植する役だ.精神科で選ばれたのが,東京帝国大学初代精神科教授の榊俶であった.榊の帰国後の業績は,相馬事件の相馬誠胤の診断書や『癲狂院設立ノ必要ヲ論ス』48)という本である.てん狂院は今の精神科病院のことで,キツネ憑きだとか怨霊だと言っていた明治期に,近代精神医学を導入し,呉に先駆けて日本で初めて入院の利点を説いた.
 この本では入院の利点を次のように書いている.(i)適切な治療と看護ができる.(ii)患者を保護し危害を防げる.(iii)規律ある生活を守らせるのに便利である.(iv)てん狂院は急性期症状を治療する効果がある.(v)疾病の症状を細かく診察するのに便利で診断治療を助ける.(vi)病院に入院させれば家族は自分の生活ができる.入院料はかかるが,実際は負担が軽減する.
 だが榊俶はドイツ留学中にトラブルを起こす.榊俶とVirchow, R.L.K.の教室で一緒だった,森鴎外の『独逸日記』が詳しい.内科の巨人,青山胤通が強く反対したため,帝国大学の東京本郷に精神科外来が長くおかれなかったのは,有名な話である.精神科への偏見だと思われていたが,人間臭い話であるが,ドイツ留学中の伯爵令嬢をめぐる既婚の榊俶のいたずら心による三角関係がその背景にあったのである.文学界では『鴎外全集』44)に載る有名な話だが,医学界までは伝わらなかった.
 『独逸日記』をもとに説明すると森鴎外の所に片山国嘉(後の法医学教授,精神科第2代教授)が来た.Lehmannという女性が,日本人留学生と結婚したがっているというので,青山胤通を紹介し交際はうまくいった.加藤照麿(父は東京帝国大学初代綜理,私費留学)と3人で公園に行き,青山だけが用事で先に帰った.榊俶が通りかかり話しかけると,Lehmannは青山からもらったバラを榊俶にあげてしまう.後日,加藤の所に彼女から動物園で榊俶に会いたいと手紙がくる.青山のプライドが高いのを嫌っていた加藤は時間を設定し,その時に動物園に行けば面白いものが見られると青山に言う.隈川宗雄(後の帝国大学医科学講座教授)が気の毒に思い,青山に本当のことを告げる.Lehmannは謝罪したが青山は激怒し絶縁,榊俶も既婚者なのですべて消えた.
 その後,榊俶は若くして咽頭がんで亡くなったので,呉は急遽,ヨーロッパに派遣された.留学中に,『精神病者監護法』が成立した.その間第2代教授を兼任したのは,法医学教授の片山国嘉だった.法医学と言っても現在と異なり,医療全体の法整備を受けもった.そのため『精神病者監護法』は法律的には整備されたが,医療は抜けた.正確に言えば榊俶が死んで,法律作成時に日本に精神科医と呼べる人間がいなかったのである.呉は帰国してその点を嘆いた.
 呉の問題解決能力の高さを示す例として詳しく以下に述べる.前に述べた通り帝国大学の精神科は都立松沢病院の前身,巣鴨病院だけだったので呉は大変な苦労をして,帝国大学構内に精神科を併設した.だが,相当悩んだようだ.『最近の施設』で榊俶の業績を讃えているが,最後は唐突に「(榊俶)博士は結婚したこと二回,最初は古賀氏の女性が一女を産んだが,理由があって去る」と書いた36)
 呉は精神病者慈善救治会という上流階級の集まりを組織し大隈重信伯爵邸で園遊会をしたりして寄付金を集めた41).呉の目的の1つはこの寄付金を使い,大学に頼らず,精神科外来を本郷に建設したことだ.つまり大隈綾子(重信夫人)が会長の上流婦人会が,帝国大学に病棟を寄付したのだ.それがたまたま精神科外来棟だったということだ.死ぬまでドイツの伯爵令嬢を忘れられなかった青山は帝国大学の精神科外来開設に反対していたが呉は押し切った.

 「(1916年)大正5年に本郷の東京帝国大学医科大学附属病院の構内に精神科の小さな木造の外来診療所と7床の病室が建てられ,長い間かかって精神科の教授室,研究室,医局,病棟などができた」43)

 1949(昭和24)年2月23日に入院した作家の坂口安吾が内部の様子を書いている.

 「僕のいた東大神経科は,重症者を置かない.置く設備がないからである.廊下の出入口の一ヵ所に鍵がかかるだけで,個々の病室には鍵がかかっていない」47)

VII.私宅監置のマニュアル本とその後
 戦前の大分県の監置許可願の原文が存在している9).それをみると,不思議なことに周囲はなかなか私宅監置に踏み切らず,放火,対人暴行などがあって初めて監置になった.
 「精神病者入院案内」という副題の『精神病者監置手続』3)という詳細な監置手続のマニュアル本がある.東京周辺の精神科病院の写真の次に,監置の重要性,監護義務者の説明と順位が書かれている.現在と大きく異なるのは監護義務者を,親族会議で選任するとある.監置はそのうえで,家族が警察,役所にお願いするものだった.
 本書をみると,届け出の様式が厳格で煩雑,そのうえ法律解釈はさまざまで,保護室入室だけではなく精神科病院入院自体を監置と考える県もあった.概要を以下に説明する.
 (i)急な時は精神科病院入院も含めて,まず仮監置,24時間以内に「監置願(甲)」を警察署長に届けると7日間監置可能で,県知事の許可が得られた.
 (ii)「監置願(乙)」は診断書添付で提出し警察署長の許可で30日間監置可能で,その間に「監置願(丙)」と医師診断書と戸籍謄本を住所地の警察を経て届け県知事の監置許可書を30日以内にとる.
 (iii)本書では役所手続きに時間がかかるので,甲,乙を同時に提出し,日をおかずに丙を出すことを勧めている.かんたんに言うと,まず願い書,次に診断書添付,最後に戸籍謄本添付の三段階である.
 (iv)事件で警察が保護したときは,監置手続が不要で報告だけでよい.
 (v)病状が急迫でなく,最初から本監置にするときは,本監置願いである「監置願(丁)」,診断書,戸籍謄本を直接地方長官に提出できる.
 以上の願い書の差違は「精神病監護法の第何条による」という書類上の言葉と添付書の違いだけだ.病院監置ではなく私宅監置の場合は,監置願に監置室の構造,設備,食事計画などを記した書類を添付して,警察に提出して許可を受ける必要があった.
 他に「監置場所の変更届」「精神病者全治,死亡,行方不明届」「監置廃止届」があった.3年間は「再監置届」を出せば再監置は可能で,病院監置も含めて退院(退所)時は「精神病者全治届」が必要だった.後見人が禁治産者を監置するときは,監置義務者不要で「禁治産者監置届」を提出した.
 保護義務者がいないか,貧困などでその義務を果たせないときは市町村長が,精神科病院に監置を委託できた.監置費用は病者,扶養義務者が払うが,払えないときは市町村が一時立て替え,府県が払う.内容を白紙に所定の形式で記入すればよく代書屋も存在した.
 虚偽の書類,違法監置をした者には,1年以下の重禁固と100円以下の罰金を筆頭に7段階の罰則があることが明示してある.難解だがよく読むと,法律的にはいろいろなケースを想定し,よくできている.だが煩雑でいちいち書類提出が必要となるので,これでは多少のトラブルがあっても,周囲は触らないで放置したはずである.
 昭和期に私宅監置のその後調査をした記録がいくつかある49)52).そのなかで1937年の,やはり漢字カタカナ文で書かれた『私宅監置ノ実情ニ就イテ』1)を説明する.時代は変わり写真は鮮明になったが,患者は写さなくなった(図7).形式は『実況本』と同じで優良例,不良例などに分類分けして「警察が月二回以上巡回」「長女を殺害」などの解説がある.監置室は軒下,納屋からしだいに屋内に作られるようになり,なかには廊下続きの奥座敷の設置例もある.
 日本全体の家屋状況も良くなり,公立の精神障害者収容施設も改善されていた.不景気にもかかわらず,月2回は警察が介入し,待遇自体は改善していったと考えられる.

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VIII.法律はつながっている
 江戸時代からの記録をつぶさにみてみると,法律は歴史的につながっていることがわかる.江戸時代に座敷牢に入れられたのは道楽者と精神病者だ.親の言うことをきかず,お金も使い放題,借金の証文までこしらえる道楽息子,芝居役者にのめり込む道楽娘がいたとすると両親が声をかけ親族会議を招集した.ふしだらさを書面にして,そこに親戚がそろって,署名捺印し「おおそれながら」と奉行所に届ける.精神病者は,それに医師の診断書が必要だった.
 江戸時代の座敷牢の体験記が存在する.幕末の英雄,勝海舟の父,勝小吉は座敷牢体験を『夢酔独言』11)という自叙伝で自慢して,経緯を書いている.勝小吉の祖父は米山検校といい,目が不自由だったが,金貸しで莫大な富を得た.それで武家人株を買って,子どもを武士にした.

 「21歳の秋から24歳の冬まで,檻の中へ入っていたが,苦しかった(略)一ヵ月もたたないうちに,檻の柱を2本ぬけるようにしておいたが,考えてみんな俺が悪いと気がついたから,檻の中で手習いを始めた」(文献11より著者訳)

 勝海舟はそのときに生まれたので,逆に勝海舟生誕の地に座敷牢があったとわかる.現地調査をすると両国公園(墨田区両国4-25-3)だった.
 江戸の町奉行所で取り扱った裁判,行政関係の判例集である『類集撰要』45)に,興奮状態の乱心者の私宅監置願いの記録があった.本文に頁数はないが,数えると140~141頁目に理由が書いてある.1793年,神田永井町の39歳,天順と言う男性の書類だ.私宅監置書類に前書きがあり,理由が述べられ,その後細かく経過,精神症状,経緯が書かれ,乱心しているので私宅監置し,その子どもを跡継ぎにしたいとある.監置室の見取り図が添付され,医師の口上,現在でいう診断書もあり,祖母の名前を筆頭に五人組,親戚他連名で南町奉行所に願い出ている.
 統合失調症緊張型か進行マヒの興奮のようである.実は明治時代の『精神病者監護法』の届けと基本構造がまったく同じである.これら明治初期までの慣例をもとに,『精神病者監護法』ができたと考えられる.江戸時代も地方によって異なるが,大都市では法的にはかなりしっかりとして,この奉行所への提出という形式が,警察の巡視に重きがおかれ,医療が抜けた原因の1つと推察される.

IX.『精神病に関する最近の施設』
 呉の『実況本』と『最近の施設』は夫婦のように,精神医学史を互いに補いあっている.『最近の施設』は明治,大正期の精神科に関するすべてが載っている.第1章では明治の精神科の状況が書かれ,日本神経学会の創設など多岐にわたる.驚いたのは呉がvon Bälz, E.を,私の医局員より劣ると酷評していることだ35)
 第2章では研究教育施設で,それぞれの大学病院の写真,見取り図,そして人名が書かれている.第3章は精神病者収容施設で病院施設が網羅してあり,東京府てん狂院,巣鴨病院,九州帝国大学精神医学教室の詳細な見取図もある37)
 当時の大学精神科教室の説明も詳しい.本文標記の学校名を本文表記で挙げると,京都帝国大学医科大学,九州帝国大学医科大学,愛知医学専門学校,長崎医学専門学校,大阪府立高等医学校,仙台医学専門学校,千葉医学専門学校,岡山医学専門学校,京都府立医学専門学校,熊本県立医学校,金沢医学専門学校,新潟医学専門学校,慈恵会病院付属医学専門学校,日本医学校の説明,見取り図,写真が載っている38).この場合の医科大学は,医学部の意味である38)
 次に精神科病院も載って,東京府てん狂院が上野公園付近にあった時代の貴重な見取り図もある.その後の東京都立松沢病院の前身,府立巣鴨病院はさらに詳しく,年代別の平面図も何枚もある.巣鴨病院には等級が分かれ,自費室病棟,保護室だけの病棟もあった(図839)
 さらに陸軍,海軍病院が多数開設されたが,精神病室をそのなかに必ず設置した.徴兵は統合失調症の好発年齢であり,また戦争神経症にも悩まされていたからである.横須賀陸軍病院の精神病室の平面図もあるが,甲府の行旅病者救護所と同じで保護室の集まりである.現在は横須賀市立うわまち病院になっている.
 民間病院も多数載っている.今はない東京亀戸にあった加命堂病院もあり,著者はあるとき病院名が語呂合わせだと気がついた.ちなみに隣に水路があり,興奮患者は船で運ばれたのかもしれない.関西の病院も載っていて,大阪精神病院は名前が変わったが現存する.私立京都てん狂院保護室やその他の保護室の模型もある.
 『最近の施設』には民間主要施設の説明,医師名も詳しく明記してある.第4章で精神病者の待遇と処置,第5章が法律の変遷である.最後に樫田が明治元年からの精神科のすべてを,年ごとに克明に記載した精神科年表もあり,これをみると明治,大正期の歴史書は不要だ.樫田のおかげで,呉は何冊も本を書けたといってもよいだろう.
 呉は生涯に多数の本を書いた50).『精神病学集要』14)は当時の最先端の精神科教科書だが,現在でも重要なのは医学史,リハビリテーション部門の章である.松沢病院内に村落療法施設,つまり患者村を造ろうとしたことがわかり,そのための3万坪の敷地だったのだ.
 『医聖堂叢書』13)では,江戸時代までの精神障害者が関与したと思われる記載を集めている.ただし原文のままで解説はない.『実況本』『最近の施設』と上記2冊が呉四部作といえる.

図8画像拡大

おわりに
 現代において精神科病院以外の一般病院,老人病院,施設でも隔離,拘束が行われているが,精神科病院と一般病院は異なる法律で運用されている.精神科病院は罰則もあり厳格な運用をされているが,一般病院などはグレーゾーンとなっているので,将来問題化するおそれがある.
 最後に秋元波留夫先生(1906~2007)が多数の精神科古典を復刻したので,われわれは精神医療史を知ることができる.浜田晋先生2)(1926~2010)からは聞き取りをし,遺言で蔵書をいただいた.2012年夏に保崎秀夫先生(1926~2021)のご自宅で戦後の一時期,防空壕で隔離されていた患者を収容していった話を聞いた.また,保崎先生は戦争末期の混乱のなか,医学部疎開先での分散授業の時間割りを知るため,給食係をしながら全授業に出席したそうである.日本がベルリン同様に四分割される噂を聞き,寸断された交通のなか,新潟方面から日本海側を移動して,山を越え関西から帰京された.その大学への報告によって,医学部の継続性が確認され,戦後スムーズに再開されたと話された.

 精神科先達の苦労と努力に感謝します.それゆえわれわれは今ここにいます.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 靑木延春: 私宅監置ノ實情ニ就イテ. 精神経誌, 41 (11); 1085-1096, 1937

2) 浜田 晋: 町の精神科医―精神科診療所開業のすすめ―. 星和書店, 東京, 1991

3) 今道小十郎編: 精神病者監置手続―精神病者入院案内― 吐鳳堂書店, 東京, 1912

4) 金川英雄, 堀 みゆき: 精神病院の社会史. 青弓社, 東京, p.77-81, 2009

5) 同書. p.181-204

6) 金川英雄: 日本の精神医療史―明治から昭和初期まで―. 青弓社, 東京, p.181-184, 2012

7) 金川英雄: 感染症と隔離の社会史―避病院の日本近代を読む―. 青弓社, 東京, 2020

8) 金川英雄: 三浦半島の医療史―国公立病院の源流をたどる―. 青弓社, 東京, 2020

9) 監置精神病者に関する綴. 1940. 大分県公文書館蔵.

10) 樫田五郎: 富山県下に於ける精神病状況視察報告. 神経学雑誌, 14 (6); 244-245, 1915

11) 勝 小吉: 夢酔独言. 講談社, 東京, 2015

12) 小泉和子: 家で病気を治した時代―昭和の家庭看護―. 農山漁村文化協会, 東京, 2008

13) 呉 秀三編: 医聖堂叢書 (復刻) 思文閣, 京都, 1970

14) 呉 秀三: 精神病学集要. 上 (精神医学古典叢書新装版). 創造出版, 東京, 2002

15) 呉 秀三: 精神病鑑定例. 上 (精神医学古典叢書新装版). 創造出版, 東京, 2003

16) 呉 秀三, 樫田五郎 (金川英雄訳) : 現代語訳 精神病者私宅監置の実況. 医学書院, 東京, 2012

17) 同書. p.36-37

18) 同書. p.52

19) 同書. p.92-93

20) 同書. p.106

21) 同書. p.155

22) 同書. p.179

23) 同書. p.205

24) 同書. p.205-214

25) 同書. p.209-214

26) 同書. p.216-217

27) 同書. p.221-223

28) 同書. p.225

29) 同書. p.292-294

30) 同書. p.316

31) 同書. p.329

32) 同書. p.334

33) 同書. p.335

34) 呉 秀三, 樫田五郎著, 金川英雄訳: 現代語訳 わが国における精神病に関する最近の施設. 青弓社, 東京, 2015

35) 同書. p.18

36) 同書. p.69-75

37) 同書. p.82-92

38) 同書. p.82-112

39) 同書. p.128-182

40) 同書. p.164, 165

41) 同書. p.280-291

42) 同書. p.389

43) 松沢病院120周年記念誌刊行会編: 松沢病院120年/年表 星和書店, 東京, p.24, 2001

44) 森 鴎外: 日記 (鴎外全集35), 岩波書店. 東京, p.111-112, 1975

45) 御検使御見分, 変死人, 捨子, 久離欠落, 乱心者檻願 (類集撰要14). 国立国会図書館デジタルコレクション.

46) 斎藤玉男: 八十八年をかえりみて―斎藤玉男先生回顧談―. 大和病院, 1973

47) 坂口安吾: 精神病覚え書. 文藝春秋, 27 (6); 72-78, 1949

48) 榊 俶: 癲狂院設立ノ必要ヲ論ス. 編集発行人田中義一. 東京, 1892 (初出: 国家医学, 1; 31-35, 1892)

49) 佐々木恒一: 京都府下に於ける私宅監置の現況. 精神衛生, 30; 13-14, 1938

50) 精神医療史研究会: 呉秀三先生―その業績―. 呉秀三先生業績顕彰会. 1974

51) 鈴木芳次: 精神病院と患者給食―その改革を求めて― (鈴木芳次著作集, 浦野シマ編). 第一出版, 東京, 1990

52) 高野六郎: 精神病者に対する施設の概況. 精神衛生, 1 (7); 1-14, 1934

53) 氏家 信: 精神病側面史. 精神と科学, 16 (8); 13-18, 1942

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