Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第125巻第5号

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原著
Karl Jaspersの発生的了解について―Max Weberの方法論という観点から―
岡 一太郎
もみじヶ丘病院
精神神経学雑誌 125: 365-382, 2023
https://doi.org/10.57369/pnj.23-053
受理日:2022年12月15日

 Jaspers, K. の発生的了解は従来その主観的曖昧さや了解可能性の限界などの批判にさらされてきた.人間学的立場からvon Baeyer, W. はそれを「コモンセンスに定位した普通の了解性」と否定的に表現したが,Jaspersのテクストを改めて検討すると,(i)遡及不可能な明証性,(ii)非個人的な一般性,(iii)具体的現実からの遊離,という普通ではない側面が見出された.Jaspers自身が認めているように,その了解概念が形成されていく過程でWeber, M. の果たした役割は看過できない.このためJaspersが言及しているWeberの著作にあたることを通して先の3側面について考察し,そのいずれに関してもWeberからの少なからぬ影響が,とくに現実の意味連関を模写するのではなく構成する手段として概念を用いる構成主義的な傾向が見出された.それとともにJaspersの了解は普通でないようにみえて,実際のところ精神科臨床と精神病理学の営みを的確に把捉していることを確認した.Jaspersは精神科学の方法論に関して,一般概念によって対象化されうる事象しか扱わないという点でWeberと共通の立場にあった.ただし精神療法的アプローチに関してはWeberから離反して,理念型という一般概念による了解を拒むこの今における一回性を帯びた単独的な事象を重視していた.

索引用語:カール・ヤスパース, マックス・ウェーバー, 発生的了解, 一般性, 単独性>

はじめに
 1938年にSchneider, K. は,刊行されて25年を迎えた書物を取り上げることは「異例」であるとしつつも,「Karl Jaspers著『精神病理学原論』*1の25年」23)と題した論考を発表した.Schneiderはそこで精神医学において並ぶものなきこのまさに「異例」な書から初めて学問の要件を満たす精神病理学が存在するようになったことを強調し,「了解的関連」やそれと密接に結びついた「人格の発展と病的過程」という対概念など,Jaspersが精神医学にもたらした画期的な寄与を確認する.それに続けてこの書がそれに相応しい受容が得られなくなっているという問題を指摘し,その要因を検討している.最大の要因はおそらくSchneiderがそこで言及しえないことにあったろう.ドイツで「水晶の夜」と呼ばれる忌まわしい出来事が起きたのが1938年であり,当時Jaspersはユダヤ人の妻をめぐって苦境に立たされ,沈黙を強いられていた.
 ナチスの時代が去るとともにJaspersは正当に復権を果たしたが,精神医学における彼の現前は別の仕方で再び深刻な困難に陥ることになる.DSM-IIIを機に1980年代以後,精神障害の器質因を前提とするアメリカ精神医学が神経科学の飛躍的な発展と相まって世界を席巻していき,ドイツもその例外とはならなかった.1913年から1世紀以上を経た今日,JaspersとSchneiderを領袖とする記述学派の見方はいわば時代に追い越された「古典」の範疇へと仕舞い込まれてしまったかのようにみえなくもない.しかし私見ではJaspersの了解概念はこうした趨勢においてもなお,あるいはまさにそれゆえに,精神病理学的に再検討されるべき根本問題の1つであり続けている.
 再確認するとJaspersは「精神的なものから精神的なものが出てくることがわれわれに発生的に了解される」8)(p.179)と述べ,この発生的了解における精神的なものの関連を「了解的関連」8)(同)と名づけ,自然科学が扱う「因果関連」8)(p.180)と対置した.そして了解的関連を扱う心理学を「了解心理学」8)(p.27)と呼んだ.周知のようにドイツにおいてJaspersの了解概念,とりわけ発生的了解は繰り返し批判にさらされてきた.そこで主に問題にされたのは1つには,誰が感情移入をするかによって了解可能と了解不能の間の境界線が定まらないという主観的な曖昧さである.これに対して例えばHäfner, H. はvon Gebsattel, V. E. による嗜癖研究に依拠して,経過への着目によって「客観主義的な転回」5)をはかった.もう1つの難点は,Jaspersが精神病の了解に課した厳しい制限であり,第二次世界大戦前にはGaupp, R. とKretschmer, E. を中心にしたチュービンゲン学派,戦後には新ハイデルベルク学派をはじめとする人間学的立場からとくに妄想の了解可能性の拡大が試みられてきた6)27).最近では内海26)が了解可能でない場合こそ可能になるものとして「エンパシー」をJaspersの了解に対比させて論じている.
 新ハイデルベルク学派を率いたvon Baeyer, W. はJaspersの了解概念に容赦ない批判を加えた際に,それを「コモンセンスに定位した普通の(allgemeine, am common sense orientierte)了解性」27)と否定的な意味合いで評した.しかし改めて発生的了解とそれに関する了解心理学に関するJaspersのテクストをみなおすと,その了解性をvon Baeyerのいうように「普通」とみなしてしまうことを躊躇わせる論述が1つならず,それも発生的了解の本質的な局面を扱う箇所に見出される.Jaspersへの従来の批判では前述したように,彼の了解性がはらむ問題を指摘し,その難点を乗り越える試みが提出されるのが常であった.今回,われわれはそのようなアプローチはとらず,Jaspersの了解概念に伴う違和感のうちにとどまり,それを「普通」と形容し難くする特性そのものを考察してみたい.日常臨床における了解はそうした普通でない側面を含んでいないという判断が留保なしに正しいとは言い切れないかもしれないからである.
 この課題に取り組むにあたって,Jaspersの了解心理学は確かに彼独自のものであるとはいえ,精神科学領域の先行研究に少なからず負っていることを考慮する必要があるように思われる.『総論』において彼自身が「了解についての方法的意識はマックス ウェーバーの著作を通じた偉大な伝統と関連して私に解るようになった」10)(中・p.19)と述べており,Jaspersの了解概念が形成されていく過程でWeber, M. の果たした役割は看過できない.「われわれは自然を説明し,心的生を理解する」3)というテーゼで知られるDilthey, W. もまたJaspersに少なからぬ影響を与えたことはよく知られている.これに関してGlatzel, J.4)がDiltheyの生の哲学を丁寧に読み解くことを介して,そこからのJaspersの離反が精神病理学にもたらした負の遺産を明らかにした研究が想起される.GlatzelはそこでWeberからJaspersへの展開についても取り上げていたが,Diltheyに関する論述に比べると質・量ともに劣る感が否めない.本邦では熊﨑12)13)にJaspersの方法論について医学史的に関連領域の文献にあたりながらHusserl, E. やDiltheyの影響を相対化する一方で,Weberが果たした重要な役割を周到に跡づけした労作があるが,WeberとJaspersの関係についてはなお論じ尽くされたとは言い難い.そこでこの小論では,Weberが精神科学の方法論を扱った代表的な論考のうちでJaspersによって言及された著作を取り上げるが,その前にJaspers自身の了解心理学について,どの辺りが普通ではないのかを確認しておく.

I.Jaspers
 Jaspsersの了解心理学について,まずは論評を控えて彼自身の叙述に沿って確認しておく.この主題については,初期では論文「早発性痴呆の場合の運命と精神病の間の因果関連および『了解』関連」9)(以下,「運命と精神病」)と後期では『総論』において詳しく扱われている.興味深いことに1959年に出版された原書第7版でも変更の加えられることがなかった後者の内容を1913年に発表された前者のものと比べると,発生的了解の「明証性」やそれと「現実」との関係を論述した部分は,両者の間で一言一句そのまま重なるところが多い.

1.発生的了解
 以下では「大した臨床経験はないものの,非常に深い臨床眼をもった」23)若き精神科医としてのJaspersが提示し,1913年の「運命と精神病」から約半世紀の時を経た1959年の原書第7版においても彼のうちで揺らぐことのなかった発生的了解の核心部を主に取り上げる.したがって哲学的色彩の濃くなった第4版になって初めて導入された「実存的了解」と「形而上的了解」が了解心理学にもたらした転回については限定的にしか扱わない.『総論』では前者の了解に関しては「了解不能なものは了解可能なものの源泉として了解しうる以上のものであり,(中略)了解可能な生成者である」10)(中・p.10),後者の了解に関しては「精神病患者は我々にとっては単に一個の経験的実在のみではく,(中略)立証はできないながら有意味的である」10)(中・p.12)などと論述されており,どちらの了解も「コモンセンスに定位した普通の了解性」27)にはおよそ収まらない.
 第5版の『総論』と実質的に等しい第4版への大幅な増補・改訂を第二次世界大戦中に準備していたJaspersに資料提供や助言を惜しまなかったSchneiderであるが,戦後それが出版されると近しい周囲に対して哲学的傾向を強めたその新版への批判的態度を隠さず,読むなら初版の『原論』をと勧めていたという7).これに関連してSchneiderは発生的了解を扱った1953年の論考24)において「無意味(sinnlos)」という表現は「つねに心理学的に無意味」(強調は原著者)であることを意味しており,例えば詩人Hölderlin, F. の統合失調症は「超越的な意味」においてしか意味をもたないが,そのような意味は精神医学とは無関係であると指摘していた.通常は了解不能とされる精神病を了解可能とみなす実存的了解と形而上的了解はSchneiderのいう「心理学的」な了解とは明らかに異なる水準に位置する.われわれもまたSchneiderと同様に,統合失調症を了解不能とみなすJaspersの「普通の」27)了解にとどまろうとするが,それはまさにそうした平均的な判断を支えている日常的な自明性2)から逸脱するところに統合失調症の本態的な病理が存すると考えるからである*2
 発生的了解はすでに『原論』において,「何の心理学も用いずに了解できる理性的関連が精神の内容であったことを確かめるだけのこと」8)(p.181)である「理性的了解」8)(同)と「思考の内容をその思考する人の気分や願望や恐れから出たと了解する」8)(同)ことである「感情移入的了解」8)(同)とに分けられた.そして「精神的なもの自体の本当に心理学的な了解」8)(p.182)であるとされた後者が主に取り扱われている.
 以下にJaspersが挙げた発生的了解の具体例の一部を引用しておく.なお後で論じるため,テクストには便宜的に引用した順に番号をふっておく.

 1)攻撃された者は腹を立て防御行為をするし,欺かれた者は邪推深くなる.10)(中・p.2)

 2)ニーチェが弱さ,惨めさ,悩みの意識から道徳的要求と贖罪宗教が発生するのは,心がこの迂回路をとって己の弱さにも拘らず権力への意志を満足させようとするからだということを我々に確信的に了解させるならば,我々はこれ以上遡及できない直接的明証性を体験するのである.10)(中・p.3)

 次に,精神病理を扱った了解的関連の一例を挙げておく.

 3)反応性精神病の意味を我々は了解でき,異常な精神状態は全体として何かの目的に役立っていて,いくつかの症状も多少ともこの目的に相応している.患者が責任能力がなくなりたいと欲すれば拘禁精神病になり,賠償を得たければ賠償神経症となり,どこかの病院で世話してもらいたければ様々の病苦が現れて病院を廻り歩くようになる.こうした患者は本能的不随意的にかような方法で自分の願望を満たそうと努める.10)(強調は原著者)(中・p.129~130)
 この引用にあるように精神病体験に関しても意味内容は了解可能とされていたが,注意すべきはJaspersが『原論』のときから内容の了解可能性をもってしてもその精神病体験の出現は了解不能にとどまるとして,両者を区別していたことである.

 4)また睡眠や発熱や精神病の時の恐ろしい幻覚を何か別の条件による不安から出たものとすることがある.こういう場合にはいずれももちろん了解関連はある.しかしこの了解的関連は妄想や幻覚や強迫観念の内容と,その前にある感情状態や体験との間の関係をおしえても,一体どうして妄想や幻覚などが現れたのかということはまったくおしえない.8)(強調は原著者)(p.182)

 引用2)にあるように,発生的了解が成立するところにはそれ以上遡ることのできない「直接的明証性」の体験があるとされる.この直接性に関連して,発生的了解の明証性は帰納法によるものではないことが繰り返し確認される.

 5)このような明証性は,種々の人格に対する経験を機縁として得られるが,反復される経験によって帰納的に証明されるものではなく,確信させる力を自分自身の中に持っている.10)(強調は原著者)(中・p.3)

 6)了解的関連の生起の頻度を確かめ,了解的関連を規則とするのは誤りである.その明証性はこれによっては決して増加しない.帰納的に見出されているのはそれ自体ではなく,それの頻度である.10)(強調は原著者)(同)

 発生的了解に伴う明証体験はJaspersによって「全了解心理学」の基礎に据えられる.

 7)全く非個人的な,私的なものから解き放たれた了解的関連に対するかかる明証体験の上に,全了解心理学は構成されている.10)(中・p.3)

 発生的了解は経験的な確認や検証を経ずにそれ自体で明証的であって一般的に正しいものの,実際の個別的な事象に適用された当該の了解的関連の正しさまでがそのことによって保証されるわけではない.

 8)ある了解的関連の明証性があるからといって,この関連が何か個々の場合にも真実であるとか,一般に事実生起するということが証明されているとは限らない.(中略)この関連の一般的(理想型的)了解は正しいにも拘らず,個々の場合に対してかように転用することは誤っていることがある.10)(中・p.3)

 それ自体では正しい了解的関連が個別のケースに誤って転用されうる1つのパターンとして,同じ1つの心的布置に対して相反する2つの了解が可能な場合がある.そのような例としてJaspersは一部の弱者では,引用2)のルサンチマンの心性とは逆に,自らの分に甘んじて強者を愛することが了解されると述べている10)(中・p.87).
 こうした個々の場合への転用の正誤には,当該の了解的関連をそこに見出すための手がかりとなる現実の材料がどれだけ与えられているかという条件が絡んでいる.十分な手がかりを得ることは実際上,困難であり,そのため了解は「解釈」にとどまるとされる.

 9)個々の場合における了解的関連が真か否かの判断はその明証性のみに基くのではなく,この関連が了解される掴みうべき手がかりという客観的材料(言葉の内容,精神的創造物,行為,生活様式,表情運動)にまつところが大きいからである.しかしこれら客観的なものはいつも変らず不完全にとどまり,個々の実際の事象の了解は皆従って,多かれ少なかれ解釈を出ない.10)(強調は原著者)(中・p.3)

 無媒介的に明証的な了解的関連があって,それが実際の事象に転用されるという構図において,具体的な現実とのつながりを一切もたない了解的関連も見出されうるという主張もなされる.

 10)あらゆる具体的現実から解き放たれて,或る精神的関連を明証的に了解し発見できることはある(後略)10)(中・p.4)

 11)原則としては,例えばある作家が,まだ起ったことがないような了解的関連を異論の余地なく提示するということが確かに考え得る.それは現実にはないが,理想型の意味で明証性を持っている.10)(同)

 このラディカルな可能性をJaspersは積極的に認めていたようで,われわれの日常的な了解的関連の多くはde Montaigne, M. E. やNietzsche, F. W. といったモラリストや哲学者らによる発見に負っているという.

 12)つまり了解関連は常に非凡な人の直観によってのみ新たにまた説得力をもって発見されたのである.人間の了解しうる精神生活に関してわれわれの知っている知識の大部分は二次文献を介して直接また間接にこれらの了解関連から生まれる.9)(p.230)(訳は一部改変)

 この引用に従うと,平均的な人々は,天才によってすでに発見されていた了解的関連に従って他者の言動をとらえることが少なくないのであり,その場合,人は当該の現実に自ら出会う前にそれに適用されるべき既製の了解的関連が与えられていたということになる.

2.「普通の」了解性
 冒頭で述べたようにvon BaeyerはJaspersの了解概念を「コモンセンスに定位した普通の了解性」27)と評したが,Jaspersの叙述を辿ってみると,そこには容易には受け容れ難いところが少なからずある.とはいえ,そこから直ちにJaspersの論じた了解的関連を誤っていると断定することには慎重でなければならない.それは,普段はあまりにも馴染んでいるために気づかないままとなっている普通の了解性がもつ普通ではない一面を露わにしているだけなのかもしれない.いずれにせよ,Jaspersの発生的了解に関する論述からわれわれが素朴に違和感を感じずにはいられないところを拾い出していく.
 自然科学者は「観察や実験や多数例の蒐集によって,起った事象の規則を見出そうとする」10)(中・p.2)のであり,因果関連はこのように「個々のものどもから一般的なものへの上昇の道」18)(p.115)とAristotelesが定式化した帰納法を用いて発見される.これに対して了解的関連は引用2)でいわれるように,それ以上遡及できない直接的な明証性をもつのであり,この明証性は引用5)にある通り,帰納的に証明されるものではない.Jaspersはこうした見解を何の前置きもなく提示しており,「明証性」という表現の意味についても説明がなされていない.
 われわれをとりわけ戸惑わせるのは,引用7)において全了解心理学がその上に築かれる明証体験を伴う了解的関連が「全く非個人的な,私的なものから解き放たれた」ものとされていることである.いうまでもなく臨床家が了解するのは目前にいる他の誰でもないその患者であって,ありきたりであっても唯一無二であるはずの治療関係において見出される了解的関連はむしろ個人的で私的なものでなければならないはずである.
 しかし引用8)にあるように,複数の症例に或る同じ一つの了解的関連が「転用」されることは,個々の具体例における当事者がほかでもないその人であるという個別性を超越した一般性を了解的関連が有することを示す.これに加えて了解的関連の非個人性を際立たせるのは,引用10)や11)にあるようにこの関連が,具体的な現実から遊離して,つまり了解されるべき個人との現実の出会いなしに,それ自体で存在しうるという可能性が積極的に認められていることである.
 Jaspersの了解的関連を普通のものとして受容し難くするものとして,それが遡及不可能な明証性と非個人的な一般性をもち,またあらゆる具体的現実から解放されてありうる,ということを確認した.これらの問題に関してはすでに例えば鈴木がそのJaspers批判のなかで「理想型や明証性といった討論を受けつけないかのような概念が,経験的な具体例への十分な参照なしに絶対性を帯びて使われることも問題」25)であると指摘しており,また最近では熊﨑が引用7)の「全く非個人的な,私的なものから解き放たれた了解的関連」という箇所に対して「感情移入からはかなり隔たった印象を与える」14)と控えめに論難している.
 われわれが抱く了解のありようから隔たったこれらの特性を検討するための端緒を,「理念型」という鍵概念を含むWeberの了解にかかわる論考が与えてくれる.例えば以下のJaspersの叙述はその了解的関連の明証性とWeberの理念型とのつながりに言及している.
 13)因果の規則は帰納的に得られ,理論となってその頂点に達し,理論は現実の直接所与の基礎に横たわるものを考える.一つ一つの例はこの理論に包摂される.ところが発生的了解の関連はこれに反して,理想型的関連で,それ自体において明証的であり(帰納的に得られるのではない),理論に到達させるのではなく,一つの尺度であって,個々の事象はこれに即して測られ,種々の程度に了解的であると認められるのである.10)(中・p.4)

 なお「理想型的」とあるのは原文では“idealtypisch”であり,Weberの“Idealtypus”を出自としており,社会学ではこの術語は通常「理念型」と訳される.次にJaspersの発生的了解の特異性を,Weberを参照枠としてみていくことにするが,これにより「理想型」や「明証性」という術語は少なくとも「討論を受けつけないかのような概念」ではなくなるはずである.先取りして述べておくと,Jaspersの「普通の」発生的了解はWeberの理念型をはじめとする精神科学の方法論にかなり強く規定されており,この小論の冒頭で引用した「了解についての方法的意識はマックス ウェーバーの著作を通じた偉大な伝統と関連して私に解るようになった」というJaspersの言葉は額面通りに受け取られてよいように思われる.

II.Weber
 Jaspersは『原論』の緒言において精神病理学の方法論にとって「価値がある」8)(p.40)文献として,とくにWeberの1903年から1906年まで3回に分けて発表された『ロッシャー及びクニースと歴史派経済学の論理的問題』28)(以下『ロッシャーとクニース』)と,1904年に出された『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』29)(以下『客観性』)という2著作に言及している.以下の議論は主に安藤英治と中野敏男のWeber研究に依拠しているが,門外漢の不明に由来する基本的誤解がありうるかもしれない.
 『ロッシャーとクニース』と『客観性』が執筆された当時の文化史的背景にふれておく1)15)19).自然科学が「農学,工学など実学の発展」1)(p.157)などにより目覚ましい成果をもたらしたことによって19世紀半ばの西欧では「自然科学万能主義」15)(p.31)が一般に浸透していき,そのなかで自然科学の方法に馴染まない学問は非科学的として価値の切り下げを被り,精神科学は「俗流唯物論の台頭によって自然科学的な心理学にまで退化していた」15)(同).今日に通じていなくもないこうした風潮に抗って19世紀末に「恒常不変なる形式」31)を考察する自然科学に対して「一回的内容」31)を観察する歴史学を擁護したWindelband, W. をはじめとしてDiltheyやRickert, H. によって精神科学の独立的な地位が哲学的に確保されていく19).それに続く20世紀初頭は,それが経験科学に属しうるか否かなど精神科学の基礎づけをめぐってさまざまな主張がなされていた.
 この論争の渦中にあったWeberは安藤によると,『ロッシャーとクニース』において他家の諸学説との対決を通じて,自らの立場をあたかも「点描」1)(p.171)するかのようにして非体系的に形成していき,そこで素描されたさまざまな論点を「すっきりと整理し,ポジティブに展開した」1)(同)のが『客観性』であった.精神科学の方法論をめぐる基本問題を考察したこれらの研究におけるWeberの多岐にわたる議論のなかから,Jaspersの了解概念と少なからぬ関連が見出せると思われるテクストを拾い出してみる*3

1.解 明
 上記の著作がWeberによって執筆された当時,一部の論者は,精神事象は自然事象と異なり概念や法則による把握を許さず,歴史学やそれに類した精神科学は自然科学と根本的に異なる方法を要すると主張していた.これに対してRickertに倣ってWeberは自然と同様に精神もまた「類概念や法則」28)(S.12)による把捉が可能とみなした.その一方で彼はRickertのいう「他人の精神生活の原理的な把捉不可能性」28)(ibid.)は受け入れず,「いかなる種類の人間行為および人間の表出の経過も有意味な解明(sinnvollen Deutung)が可能である,ということが成立する」28)(S. 12f.)(強調は原著者)と述べて他者了解の可能性を積極的に肯定する.
 ここでいわれる「解明」はWeberにおいて他者了解を表す彼独自の術語であり,自然の諸事象を「把握する(begreifen)」ことと対照的に用いられる.次の文は,人間の行為ないし人格がその自由意志のゆえに,自然事象とは異なり予測不可能であることから,それを不合理とみなす立場を批判するところに出てくるが,Jaspersの了解概念を規定する「追体験可能」や「動機」にも言及されている.

 われわれの因果的な欲求は人間の行動を分析する際には質的に別種の充足を見出し得るのであり,その充足は同時に不合理概念へ質的に別種の色調をもたらしもする.われわれは人間の行動の解釈に関して,少なくとも原理的には,人間の行動をわれわれの法則論的な知識と合致させられるという意味で「可能」なものとして把握するだけではなく,それを「了解する(verstehen)」,すなわち「内的に」「追体験可能な」具体的な「動機」ないしそうしたものの複合体を突き止めるという目標を定めることができる.28)(強調は原著者)(S.67)
 引用中にあるようにWeberのいう解明としての了解は,なぜ事がそうなったのかを知りたいという「因果的な欲求」を満たすものとして構想されている.ここでいう因果とは,自然科学的に追求される因果だけではなく,精神科学において扱われる「欺かれた者は邪推深くなる」という類の心的な因果も含まれる.なおWeberにおいて「目的」は,「ある行為の原因となる,ある結果の表象である」29)(強調は原著者)(p.98)として,あくまで因果論的な文脈のなかでとらえられる.
 人間の行為を不合理であるとみなす立場に対してWeberは,行為の了解可能性をもって反論した.精神病理学的にこれに関連することとしてWeberはヒステリーについては了解可能と認める28)(S.102)一方で,行為の了解不能性のうちに「『狂人』の原理(Prinzip des»Verrückten«)」(強調は原著者)(S.67)28)をみており,Jaspersによって「単に誘発された精神病やひとりでに起った精神病の時には病気の発生増悪は一次的で,身体的にのみ説明され,患者の個人的なめぐりあわせや体験と関係がなく」9)(強調は原著者)(p.198)などと述べられた『原論』の精神病論*4を先取りしていたようにみえる.

2.妥当性
 Weberは自然事象の認識と同様に,心的事象の解明的な了解に対しても,それが経験科学に属する限り妥当性,つまり「現実に通用すること,あてはまること」30)(事項注 2頁)が求められるのであり,経験的に検証される妥当性を確保しているか否かが判断について「唯一考慮に値する問題である」28)(S.110)と述べ,その重要性を強調する.了解に大いにかかわるLipps, T. の「感情移入」がその妥当性に関して検討された際には,それが「妥当性の意味での『認識価値』にプラス」28)(S.108)をもたらさず,妥当な認識に何も付け加えないとされた.感情移入に関するWeberのこの否定的な見解はLippsの或る主張を念頭に置いている.それによると,まず他者の表出運動に対して感情移入が生じ,その過程が「客観化」されることで二次的に「知的な了解」が派生してくるのであり,「『感情移入』は単なる『知的な了解』と比べて『より以上のもの(mehr)』である」.28)(ibid.)
 Weberにとって,この「より以上のもの」は「純粋な『体験作用(Erleben)』」28)(ibid.)であって,「客観化された『認識作用(Erkennen)』」28)(ibid.)ではない.この辺りの議論は次節で述べるように,体験作用のうちに「固有の『確実性』」28)(強調は原著者)(S.102)を積極的に見出そうとする立場に対するWeberの批判とつながっている.

3.daβとwas
 体験が「最も確実なもの」28)(S.104)であるということは,Weberからすると,「われわれが体験しているということ(daβ wir erleben)」(強調は原著者)(ibid.)についてのみ該当する.この究極的な確実性を有する「体験しているということ」についてWeberは,それが「『諸感覚』や『意欲』とまったく分かち難く結びついた『知覚』の総体」28)(S.103)であって,「判断の客体にされることがなく(中略)あらゆる経験的な認識に対して無関心な状態にいつまでもとどまる」28)(強調は原著者)(ibid.)という.またWeberは「われわれ自身の現実的な『了解』の初歩が開始され得るためには,『体験作用』の曖昧な未分離性が疑いなく(中略)破られていなければならない」28)(強調は原著者)(S.104)とも述べる.西田幾多郎の純粋経験16)を想起させるこの論述のすぐ後のところで,次のようにwasがdaβに対置される.ちなみにドイツ語のdaβとwasは英語でいえば,前者は名詞節を導く従属接続詞thatに,後者は先行詞を含む関係代名詞で名詞節を導くwhatに相当する.

 われわれが実際に体験するところのもの(Was wir aber eigentlich erleben)については,「体験作用」の段階そのものが去り,体験されたものが判断の「客体」にされた後になって,はじめて,「解明的」解釈がそれを捉えることができる.そして,この判断はと言えば,それはそれで,その内容からして,もはや未分離のままの曖昧さにおいて「体験される」のではなく,「妥当なもの」として承認されるのである.28)(強調は原著者)(ibid.)

 感情移入はWeberにとって,それが主客未分の「体験しているということ」というdaβの段階にとどまっている限り,判断の対象にならず経験的にその妥当性を検証できないため,解明的な了解には何ももたらさない.daβの主客未分が破られて「体験するところのもの」というwasの段階に移行したのちに初めて感情移入がもたらした何かは「知的な了解」としてとらえられ,そこから妥当な認識を得る可能性がわれわれに与えられることになる.
 こうしたWeberの見解に対して,たしかに主客未分の状態にあるために「体験しているということ」は,経験的な妥当性を備えた認識の外部にとどまるとしても,無媒介的に生きられた具体的に豊かな内実を含んでいるのではないかという疑いが残る.この疑問は臨床的には,daβの段階にあっていまだ対象化しえないまま治療者にたしかに感じられている何かを了解に関して取り扱わなくてよいのかという問いにつながる.
 先の疑いに関連してWeberは「いったい事物概念は存在するのか」28)(強調は原著者)(S.108)という問題をたて,哲学者のCroce, B. との批判的対話を行う.「事物(Ding)」という聞き慣れない言葉は中野によると,「ウェーバーにあっては,カントの言う『物自体(Ding an sich)』において使われるような意味とは異なって,つねに個性的で実在的(wirklich)かつ確実な存在」15)(p.58)を表す.これより事物の概念をめぐる問題は,daβからwasの段階への移行が概念化,言語化とかかわることを示唆するとともに,daβの内実をどこまでwasが取り出しうるのかという可能性を問うている.
 Croceによると概念は本質的に「ただ一般的で,したがって抽象的な本性しかもち得ない」28)(S.108)ため,事物という「個体的な何かの『概念』は形容ノ矛盾contradictio in adjectoである」28)(ibid.).Croceが概念として不特定多数の個体のいずれにも用いられうる一般的で抽象的な関係概念を考慮しているのに対して,Weberは概念をそのように「言葉であらわしうる観念形象のほんの一部」28)(S.110)に狭く限定するべきではないという.事物概念としてWeberは「ビスマルク」28)(S.6)を例に挙げており,たしかに固有名は或る1つの具体的な個体のみを指示する.私見ではしかし固有名もまた概念体系の一部に包摂されており,一般概念とともに使用されることからdaβの段階には属さない*5.つまるところWeberのいう事物概念が表すのは,daβの主客未分が破られた後で言語化が可能となったwasの段階に属する事象である.daβとwasの対には了解の本質にかかわる重要な観点が含まれていると思われ,あとでJaspersとWeberの方法論の相互関係を検討する際に〔具体的にはIII.1.4)節およびIII.2. 節で〕再論する.

4.一例と多数例
 自然事象の把握と行為の了解を対比して論じるところで前者の具体例として挙げられたのが,暴風によって岩壁の一部が崩落して砕け散る場合と骰子を振る場合である.岩石の破片が落下する方向や粉砕の程度,また当該の一振りで出る骰子の目に関して,なぜそうなったのかを知りたいという因果的な欲求は,当該事象の「具体的な決定因子」28)(S.65)を完全にとらえることが現実的に不可能であるがゆえに,その事象が落下の法則といった「『法則論的な』知識と矛盾していないはずである,という判断に甘んじるしかない」28)(強調は原著者)(ibid.),とされる.
 骰子についてはそのつどの一振りでどの目が出るかはわからずとも,回数を多数重ねることで6つの各面がほぼ等しく上を向くようになるという確率論の基本定理である大数の法則の妥当性は経験的に把握できる.骰子で見出されるこの事情をWeberは自然事象全般に敷衍し,ただ漠然と自然法則に従っているはずとみなすだけにとどまらずに,それ以上のことをいうには当該の事象を多数回にわたって観察しなければならず,そうして初めて「蓋然性判断」28)(S.68)へと至ることが可能になる,という.
 Weberによるこの一般化は,自然科学の用いる帰納法に関する哲学者の野家啓一の指摘と一致しており,不当ではない.野家によると,帰納法では有限個の観察事実という前提から無限個を包摂する普遍的法則が結論として導出されることから,「有限から無限への推論という『帰納的飛躍』が存在する」18)(p.116)ことになる.当該仮説の反証となる事実が将来,発見される可能性がどこまでも残されるため,「帰納的論証の結論は必然的ではなく,一定の確率でその法則が成立するという蓋然的な主張にとどまる」18)(ibid.).このように「多数の個別例をまって初めて(中略)蓋然性判断へと」28)(強調は原著者)(S.68)至るという自然事象の把握を行為の了解と対照化してみせたのが以下のWeberの論述である.

 これに対して,たとえばフリードリヒ二世の1756年における或る極めて個人的な個別の状況のなかでの行動は,岩石の破砕のようにただ法則論的に「可能」というだけではなく,「目的論的に」合理的であるとみなされる.そうみなされるのは(中略)われわれがその事象を「適切に引き起こされたもの」として,つまり王の特定の意図および(正しいにせよ誤っているにせよ)洞察を仮定することで「十分に」動機付けられていると見出されるというようにして,である.ここで「解明可能性」は,「解明可能」ではない自然事象と比較して「可測性」にプラスを生じさせている.解明可能性は,因果欲求が満足される仕方のみをみるならば,「多数」の諸事例と同等である.28)(強調は原著者)(S.68f.)

 心的な事象についてわれわれは当該のその一回の出来事に対して,それを感情移入的に了解することによって合理的な判断へと達しうる.因果的な欲求を満たすのに,自然科学的な把握においては多数例を要するのに対して,精神科学的な了解では当該の一例で足りる.

5.明証性
 或る行為の解明的な了解の場合,同様の多数の事例を介してではなく,その一回の個別例それ自体において因果的な要求が満たされるところにWeberは了解に固有の「明証性(Evidenz)」を見出す.

 われわれは行為を「意味」へと向けて解釈することを求める.この意味は(中略)個別例において無媒介的に明証的に確認され得る.28)(S.69f.)

 「明証性」は,ただ(経験則から)「把握されたもの(Begriffenen)」に対して,「了解されたもの」そして「了解可能性」を際立たせる.28)(強調は原著者)(S.115)

 引用中の「明証性」という言葉に付した脚注においてWeberは,それが「普通は(中略)判断の諸根拠の認識という意味」28)(ibid.)で用いられるが,彼自身は「『意識諸事象の内的直観性』の代わり」28)(ibid.)として使用すると断っている.Weberが明証性の通常の意味とみなしていた用法は,今日では例えば「科学的根拠に基づく医学」と訳されている“evidence-based medicine”という術語に見出されるものである.これに対してWeber独自の意味での明証性とは直観的に明白にとらえられることを指しており,数学的ないし自然科学的な明証性から区別するのに,Weber自身はそれに「『心理学的な』明証性」28)(S.116),「意識的な心的活動の『感情移入可能な』諸事象の現象学的に条件付けられた明証性」28)(ibid.)という表現を与えていた.
 Weberはまた,或る特定の状況を生じさせるたびに人が「全く字義通りに『計算』され得る」28)(S.70)ように厳密に同一の仕方で反応することを実験的に証明できた場合を想定したうえで,「そのような証明はそれ自体としては,『なぜ』そもそもかつて,ましてや,なぜいつも,そうした仕方で反応が起こったのかということをわれわれに少しも『了解』させてくれない」28)(ibid.)と指摘する.つまり,こうした多数例における同一事態の反復的な確認は自然科学においては法則の帰納的な蓋然性を高めるものとして大いにその価値が認められるが,個別例において明証性をもって得られる解明的な了解にとってはその了解を深めることにつながらない.了解に固有な明証性はまた「理念型」という概念の形成につながっているとされる(S.115).なおWeberが混同しないように注意を促した明証性と妥当性の関係については,それを検討するために必要な論点を準備したのちにIII.1.2)節で取り上げる.

6.理念型
 理念型という一般的な概念については,精神科学における概念の位置づけに関するWeber独自の方法論的見解を確認することが重要と思われ,そのために少し遠回りをする.
 19世紀半ば以後の西欧における自然科学偏重のもとで,精神科学―WeberはRickertに従って「文化科学」という術語を用いる―が扱うべき現象をも自然科学の枠に嵌め込もうとする当時の風潮をWeberは「自然主義的一元論」29)(p.105)と呼んでいた.歴史学においても事情は同様であり,多くの研究者は自然科学に倣って,歴史的な出来事の観察から規則の仮説を設定し,その仮説の検証を経て,そこから現実の事象の演繹を可能にする概念体系を構築することを究極的な目標としており,「『客観的』実在の表象的模写が,概念の目的である,と前提してかかって」29)(強調は原著者)(p.148)いた.
 現実の抽象化を経て一般的な概念への上昇を果たし,逆にそこから下降して現実の具体的な個々のものを導き出すためには,概念は現実の「無前提な模写」29)(p.116)でなければならないが,Weberはそうした客観的な無前提性は文化科学の認識においてはありえないとみなす.というのも,「文化とは,実在のうち,価値理念への関係づけによってわれわれに意義あるものとなる,その構成部分を,しかもそれのみを,包摂する」からである29)(強調は原著者)(p.83).文化科学はしたがって研究者が「世界に起こる,意味のない,無限の出来事」29)(p.92)から,彼自身の価値理念という「『主観的な』前提」29)(p.96)に基づいて意義を付与した「有限の一片」29)(同)として拾いだした文化現象を扱うのであり,具体的には一方で「個々の現象の連関と文化意義とを」,他方では「そうした現実が,歴史的にかくなって他とはならなかった根拠を了解(verstehen)しよう」29)(p.73)(訳は一部改変)とする.
 自然主義的な観点においては,現実を模写する概念は歴史的研究の「最終目標」となるのに対して,Weberが「理念型」として構想した概念は「意義のある連関を認識するという目的のための手段」29)(p.149)であり,「概念と歴史的研究との関係が逆になる」29)(同).理念型の本質についてはその形成過程に関する説明が明らかにしてくれるように思われる.
 こうした理念型が獲得されるのは,ひとつの,あるいは二,三の観点を一面的に高め,その観点に適合する,ここには多く,かしこには少なく,ところによってはまったくない,というように,分散して存在している夥しい個々の現象を,それ自体として統一されたひとつの思想像に結合することによってである.この思想像は,概念的に純粋な姿では,現実のどこかに経験的に見いだされるようなものではけっしてない.それはひとつのユートピアである.29)(強調は原著者)(p.113)

 純粋にそれが表す通りのものは現実のどこにも見出されない「非現実的な」29)(p.148)概念である理念型を用いる歴史的な研究では「現実が,どの程度この理念像に近いか,または遠いか,(中略)を確定する課題」29)(p.113)が生じる.この確定作業において理念型は「実在を測定し,比較し,よってもって,実在の経験的内容のうち,特定の意義ある構成部分を,明瞭に浮き彫りにする」29)(p.119).なお理念型は個人の出来事に関してだけ問題になるのではなく,「『封建制』『重商主義』」29)(p.117)といった一時代の文化的な事象を扱う概念も理念型に含まれている.例えば中世のキリスト教とは何であったかという問いに答えようとして,仮にその時期に実在した無数の個々人がキリスト教と呼んだものを完全に叙述したとすれば,それは「極度の矛盾にみちた(中略)ひとつの混沌の観を呈する」29)(p.125)ことにならざるをえない.先の問いは,それに取り組む当の研究者が自身の価値理念に照らして「信仰箇条・教会法と慣習倫理の規範・生き方を律する格率」29)(p.126)などの諸要因を取り出し,それらを思考の上で矛盾のない1つの連関へと構成した理念型としてのキリスト教的なものをもって答えるほかない.

III.WeberとJaspers
 精神科学の方法論を扱ったWeberの考察をやや詳しくみてきたが,私見ではそこにJaspersの了解に関する議論との照応を難なくみてとれる.このことは「私はただ精神科学的伝来物を精神医学の実地と関連させただけ」10)(中・p.19)という『総論』におけるJaspersの控え目な物言いが単なる修辞ではなく,「理念型」に限らず「明証性」も含めて「精神科学的伝来物」の多くをWeberから彼が受け継いだことを率直に認めるものであったことを示唆する.

1.継承
 Weberからの影響を考慮することによって,Jaspersの了解概念に関してわれわれに違和感をもたらす問題として取り出しておいた(i)遡及不可能な明証性,(ii)非個人的な一般性,(iii)具体的現実からの遊離,という普通ではない側面に光をあてることが可能になるように思われる.これら3つの側面はいずれも他の2側面と交錯しており,各々の問題を論じるなかで残りの問題も適宜扱われることになる.

 1)遡及不可能な明証性
 Jaspersが了解について,I.1. 節の引用5)のなかで「反復される経験によって帰納的に証明されるものではなく,確信させる力を自分自身の中に持っている」10)(中・p.3)(強調は原著者)と述べ,同節の引用2)にある通り「これ以上遡及できない直接的明証性」10)(同)が体験されるとした.これに対して,そこでいわれる明証性なるものがそもそも何であって,その明証性が経験的な反復可能性によらず当該の一回的な了解それ自体に宿るのはどういう事情なのか,という疑問が呈されてきた.
 Weberが彼独自の意味で用いた「明証性」はJaspersがこの表現に込めた内実をそのまま含んでいるように思われる.Weberは1756年にフリードリヒ二世がとった行動を例にとって,自然事象に関する蓋然性判断が多数の事例を調べて初めて把握されるのとは対照的に,解明的な了解は当該のその1回の個別例において直観的に明らかなものとして得られるとして,そこに明証性をみていた.
 こうしたWeberの意味での「心理学的な明証性」28)(S.116)は,自然科学における帰納法的に根拠づけられた明証性とは根本的に異なっている一方で,Jaspersのいう遡及不可能な明証性とは無理なく重なり合う.特定の反応が同様の状況で繰り返し反復されるという経験的な証明がどれほど理想的な形で成功しようとも,そのことが当の了解それ自体を少しも深めることにならないというWeberの指摘は,自然科学の帰納的な方法が明証的な了解に何の寄与ももたらさない,としたJaspersのI.1. 節の引用5,6)における議論にそのまま踏襲されている.
 遡及不可能な明証性についてはまだ論じるべきことがあるが,それについては非個人的な一般性あるいは具体的現実からの遊離という主題との関連においてしか検討できないため,それぞれの脈絡のなかで取り扱う.

 2)非個人的な一般性
 Jaspersの発生的了解がわれわれを戸惑わせる別の要因は,「全く非個人的な,私的なものから解き放たれた了解的関連に対するかかる明証体験の上に,全了解心理学は構成されている」10)(中・p.3)といわれる「非個人性」にあった.Jaspers自身の「発生的了解の関連は(中略)理想型的関連で」10)(中・p.4),また「一般的(理想型的)了解」10)(中・p.3)という言葉から,Jaspersのいう了解の非個人的な一般性もまたWeberのいう理念型のそれに由来する可能性が検討されなければならない.
 これに関して想起されるべきはWeberにおいて了解の明証性が理念型という「一般的な概念」28)(S.115)の形成に結びついているとされていたことである.実在する個別の具体的な事象に関してその意味連関を際立たせる理念型という概念は「純粋な姿では,現実のどこかに経験的に見いだされるようなものではけっしてない」29)(p.113)非現実的なものであるというところに,理念型の一般性が示されている.一般概念としての「花」は実際にはどこにも咲いていないが,だからこそ個々の現に見ることのできるどの花も「花」としてとらえられる.同様のことは,命題の一般性についてもいえるのであり,例えばI.1. 節の引用1)のなかの「欺かれた者は邪推深くなる」という理念型的関連は,「花」という一般概念と同様に,いつどこの誰にでもその関連を見出しうる一方で,この関連それ自体を純粋に表す事象は現実には存在しない.I.1. 節で引用したJaspersの挙げたどの例に関しても,「攻撃された者は腹を立て防御行為をする」などのように,実際のところ了解的関連はそれが誰についても転用可能である一般的なものである.見方を変えれば,或る個人に属する個別的な事象は,一般性を経由することによって初めて,その個人以外の人々へと開かれうるのである.WeberとJaspersにとって了解とは一般性に依拠するこの開けにほかならない.或る人の精神的な事象が了解されるとき,その事象は当該の人にしかない固有なものとしてではなく,他の誰にでも見出せる一般的な意味関連の一例としてとらえられる.一般的であるということは,或る個人に特異な単独的なものではないということであり,したがって「非個人的」である.
 またWeberの理念型が「現実が,どの程度この理念像に近いか,または遠いか(中略)を確定する」29)(p.113)ものであったように,JaspersにおいてもI.2. 節の引用13)にある通り,個別の事象は一般的な了解的関連を「尺度」10)(中・p.4)として測られ,I.1. 節の引用9)にあるように「言葉の内容,精神的創造物,行為,生活様式,表情運動」10)(中・p.3)といった客観的材料にしたがって当の事象は「種々の程度に了解的であると認められる」10)(中・p.4)ことになる.ただし,それらの客観的な材料は「いつも変らず不完全に」10)(中・p.3)とどまることから「個々の実際の事象の了解は皆従って,多かれ少なかれ解釈を出ない」10)(強調は原著者)(同)のであり,明証的な了解に非明証的な解釈が対置させられる.
 一般的で明証性をもつ了解が個別例に適用された場合にはその明証性を失い解釈となるということは,I.1. 節の引用8)における「ある了解的関連の明証性があるからといって,この関連が何か個々の場合にも真実であるとか,一般に事実生起するということが証明されているとは限らない」10)(中・p.3)という見解と密接に関連している.そして,ここでJaspersのいう「個々の場合にも真実である」ことは,Weberにおいては「妥当性」という術語で言い表されていたことに相当する.実際,引用8)のJaspersの論述が次のWeberによる明証性と妥当性の区別をそのまま引き継いでいることは明らかであろう.

 しかしある解明がこの明証性を特に高度に備えているからといって,そのこと自体は,まだその解明の経験的な妥当性を少しも例証するものではない.というのも,外的な経験や結末において同一の行動が,極めて異なった動機の布置連関から生み出されることもありうるのであって,それらのうちで理解の明証性が最も高いのものが,常に現実にも作用していたとは限らないからである.30)(p.9~10)

 Jaspersはその「解釈」において,Weberはその「妥当性」において,ともに一般的な了解が現実に個人の心的事象にあてはまるのかどうかを問題にしており,そこではその個人に固有な個別性が扱われているようにみえるかもしれない.しかし明証性を伴う了解それ自体は一般的な意味関連であり,Jaspersの解釈もWeberの妥当性も,そうした一般的な関連がその一般性において実際に当該の個人にあてはまることであって,個人に固有である単独性には届いていない.

 3)具体的現実からの遊離
 了解の非個人的な一般性と,「あらゆる具体的現実から解き放たれて,或る精神的関連を明証的に了解し発見できる」10)(中・p.4)という了解の具体的現実からの遊離は互いに一方が他方を指し示す関係にあるように思われる.このことを明らかにするのに,Weberの方法論を,すなわち理念型という一般概念が客観的現実の忠実な「模写」ではなく,価値理念に基づいて現実の事象から意味連関を取り出す暫定的な「手段」であるとした方法論を考慮する必要がある.

 カントに帰りつつある現代認識論の根本思想,すなわち,概念はむしろ,経験的に与えられたものを精神的に支配する目的のための思想的手段であり,もっぱらそうしたものでありうるにすぎない(中略)指導的な価値理念の交替が避けられない以上,真に確定的な歴史的概念は,一般的な最終目標とは考えられない.29)(p.149)

 この引用部のうちに,歴史学は過去の事象をありのまま描写して再現するのではなく,理念型という概念を用いてその意味連関を構成し,また別の理念型によって新たに有意味な連関を構成し直すということを繰り返す終わりのない試みであるというWeberの見解が読み取れる.
 Weberは理念型について「それがたんなる思想の遊びにすぎないか,それとも,科学上有効な概念構成であるかは,けっして先験的には決められ」29)(強調は原著者)(p.117)ず,当該の文化的事象を有意義に認識することに対する「その効果いかん」29)(同)という実践的な規準によって判断されるとした.これに対して精神病理学へWeberの理念型を導入したJaspersが,「ある作家が,まだ起ったことがないような了解的関連を異論の余地なく提示するということが確かに考え得る」10)(中・p.4)と述べるとき,了解的関連をもたらす理念型は先験的に有効でありうることを積極的に認めており,実際,『総論』に「先験的了解」10)(中・p.88)という表現が見出せる.Weberにおいては,理念型に対するその実践的な規準が示すように,或る現実の事象がまず存在しており,次いでその事象に対する有効な理念型の形成が問題となるのに対して,Jaspersでは或る理念型を介して了解されるべき事象がまだ現実には存在していない段階においてすでにその理念型が提出されうることが排除されない.
 一般的・抽象的な概念と個別的・具体的な現実の関係に着目して両者の相違を際立たせるならば,Weberにとって現実は,その意味連関を暫定的に付与する概念よりも以前にあって,またいかなる概念をもってしてもとらえきれない彼方に現実があるのに対して,Jaspersにおいては概念のもたらす意味連関が予め用意されており,その意味連関を転用しうる現実がとらえられるとされる.こうした差異はあるものの,概念が現実の意味連関を模写するのではなく構成する役割を果たすことから,その傾向の強弱はあるにせよWeberもJaspersもともに構成主義的*6である.両者の用いる理念型という一般概念は―Weberの依拠するKant, I. において現実の経験を秩序づける悟性概念が経験に先行するものであったように―現実を模写するものではないという意味で現実に依存しておらず,Jaspersの表現を借りれば「具体的現実から解き放たれて」いる.
 この具体的現実からの遊離は了解の直接的な明証性とも密接にかかわっている.或る一般的な了解が明証性をもつのは,それがかかわる現実の個別的な事象と合致するからではなく,文化的共同体の各成員において間主観的に共有されている概念的な意味連関の先験的な枠組みにその了解が属しているからであろう.I.1. 節の引用2)でいわれるルサンチマンの心性のように,現実の事象に新たな意味連関を与える理念型が非凡な人物によって提出された場合も,それが明証性を得るのは,つまるところ了解的な意味連関の一般的な枠組みにその概念が整合的に収まることによる.I.1. 節の引用10)や12)にあるように,新しい理念型についてそれが「発見」されるという表現をJaspersが用いるのは,当の新たな概念が了解的関連の公共的な枠組みのうちに回収される限りで,それがすでに可能なものとして既存の枠組みに潜在的に含まれていたとみなすからであると思われる.Jaspersの「可能性のうちで明証的に了解されるもの(das in der Möglichkeit evident Verstandene)」10)(中・p.86)(訳は一部改変)という表現における「可能性」をここでの文脈に引きつけると,概念的な意味連関の間主観的な枠組みと言い換えられる.

 4)方法論
 Jaspersの「普通の」了解に見出された(i)遡及不可能な明証性,(ii)非個人的な一般性,(iii)具体的現実からの遊離,という普通でない側面について,WeberからJaspersが受け継いだ「精神科学的伝来物」が少なからず関与していることをみてきた.これらの相互に参照し合う側面はいずれも他者了解の本質にかかわると思われ,WeberからJaspersへの影響は表層的なものとは言い難い.これは両者が精神科学の方法論に関して原則的に共通の立場にあったことを示唆する.
 まずWeberにおける精神科学の方法論を再確認しておく.自然の諸事象と異なり,自由意志をもって行為する人間主体をいかにして経験科学において取り扱うのかという困難な課題と取り組むなかでWeberによって,とりわけ重要とみなされたのは妥当性であり,妥当性の経験的な検証であった.これに関連してWeberから問題視されたのが「われわれが体験しているということ(daβ)」28)(S.104)である.このdaβの段階は「最も確実なもの」28)(ibid.)ではあるものの,なお主客未分であって判断の対象になりえず,したがって経験的な吟味をしようがない事態だからである.これより感情移入についても,daβの主客未分が破られて「われわれが実際に体験するところのもの(Was)」28)(強調は原著者)(ibid.)というwasの段階に移行して初めて,経験科学的に取り扱えるようになる.Croceとの批判的対話において「事物」28)(S.107)の概念の可能性が問われたように,daβからwasへの移行は概念化,言語化をもたらす.
 Weberが経験的な検証に耐えうる精神科学の妥当性は概念によって支えられなければならないとしたのと同様に,Jaspersもまた『原論』から『総論』まで一貫して,その序論において「学問」の一分野として精神病理学の知は概念化され伝達可能なことが必要不可欠であるとみなしていた.ここでは『原論』の当該箇所を引用しておく.

 学問というのは,伝えることができる,体系的な,概念としての考え方でなければならないのであって,このような考え方ができる限りでのみ精神病理学は学問なのである.精神医学において名人芸というのは言葉に表すことができず,せいぜい人と人との交りの中で感受性のある者にやっと伝えられるようなものは本に書けるようなものでもないし,本から得ようとすべきものでもない.8)(p.14)

 引用部において精神病理学が扱うことは「本に書ける」ものでなければならないと論じられており,問題となっているのは発話ではなく書字としての言語化,すなわち記述である.発話においては,何かを伝えようと音声を発する話し手とその音声を受け取る聞き手が「今ここ」で現に出会っているという一回性を帯びた対話状況に規定されている.これに対して,いったん発話が書きとめられると,そのテクストは対話という具体的な現実の課す「今ここ」という条件を免れるようになることが哲学者のRicœur, P.21)によって論じられている.テクストにおいては対話の「今ここ」における話し手の意図も,表情や身振りといったその身体的表出も,もはや現前していない.またテクストは「今ここ」にいる特定の対話者にのみ限定されることなく,いつでもどこでも,読むことのできる者なら誰にでも開かれる.Ricœurはこうした事情を,その場限りで消えていく発話という一回性の「出来事」から,文字言語に固定された「意味」への超出としてとらえる.

 実際に書記行為(écriture)は何を固定するのか.言うという出来事(l'événement du dire)ではなく,言うことの«言われたもの»(le«dit»du dire)である.(中略)要するに,書かれるもの,書き記されるものは,言うことのノエマであり,発話の出来事の意味(le sens)であって,出来事としての出来事ではない.21)(訳は一部改変)

 特定の意味内容をもつテクストは「今ここ」の束縛を解かれて,話し手からも聞き手からも自律し,いつでもどこでも誰にでも繰り返し基本的に同じ内容を提供する反復可能性とともに一般性を獲得するようになる.Weberのいうdaβとwasの対概念に引きつけてみるなら,「今ここ」において現在進行形で発話がまさに生み出されていく過程はdaβの段階に,いつでもどこでも或る定まった意味内容を伝達するテクストはwasの段階にそれぞれ対応することになる*7
 JaspersもWeberとともに精神科学において扱われるべき対象を,私が自分の生を現に展開している「今・ここ」という生の主観的な条件に規定されない事象,したがってwasの段階において概念によって客観化されうる事象のみに限定した.この方法論的原則に則って他者了解においては,他の誰にも見出しえない当人に固有の個別性は捨象されることになる.概念が一般性を有するのは,それが文化共同体の成員によって共有される公共性と,時間,空間,人物のいずれに関しても限定を受けない反復可能性のゆえであり,唯一無二の単独性と一回性を帯びた事象は概念の網の目がすくいとる対象には含まれていない.したがって或る個人を了解するとは,その人にしかない個別的な諸事象のうちに埋もれている「全く非個人的な,私的なものから解き放たれた了解的関連」10)(中・p.3)とJaspersが表現した一般的な意味関連を発見することにほかならない.
 例えば,テクストとして記された了解的関連が読み手に受容される場面を想定してみる.読み手は当の患者にも当の治療者にも一度も直に会ったことがなく,そこで主題化されている意味関連を,もっぱらテクストを通して,つまりその一般的な意味内容においてとらえるほかない.これに関して上記した「出来事」から「意味」への超出とともに指示表現が被る変化についてのRicœurの指摘は示唆的である.対話者たちが用いる指示代名詞や人称代名詞は,彼らに共有されている対話状況によってその指示対象が定められる直示的な指示である.例えば「これ」という指示表現であれば,それが発せられた「今ここ」の対話においては現実世界のどの対象であるのか同定されている.しかしこの表現が書き記されたテクストにおいては,対話状況から切り離されているがゆえに,当該の指示はもはや直示的ではありえない.こうしてテクストにおける指示表現が現実世界の対象を指示する機能を宙吊りにされるそのことのうちにRicœurは対話状況に依存しない「非状況的な指示」21)とそれによって可能世界が開かれる契機を見出す.
 精神病理学においてわれわれは自らの臨床経験で得られた個人的な何かを言語化して症例報告などのテクストの形にすることによって不特定多数の者へと向けて発信し,その経験の一部は専門領域を同じくする人々の共有財産として受け継がれてきた.確かに臨床経験は架空の絵空事でないことから,症例記述に含まれている指示表現を,フィクションにおけるような純粋に非状況的な指示とはみなせない.しかし読み手は,書き手が症例呈示のなかで再現した治療者と患者との過去の対話場面に参与することはできず,当該の「今ここ」から遊離した文字言語の一般的な概念に頼りながら指示表現を解するしかない.このことはむしろ積極的にとらえられるべきなのであり,まさに言語の表す概念の一般性こそが,治療者ないし患者という当事者と読者という非当事者の間にひらいている大きな懸隔に架橋することを可能にしている.そのようにして読者に伝達される了解は,やはり非個人的で一般的な概念による規定を免れない.
 このようにみてくるとJaspersの了解概念は普通でないようにみえて,実際のところ精神科臨床と精神病理学の営みを的確に把捉している.われわれはJaspersの論じたように,(i)遡及不可能な明証性,(ii)非個人的な一般性,(iii)具体的現実からの遊離,という局面によって特徴づけられる了解をしてきたのであり,これからもまたしていくことになろう.

2.離 反
 それでも臨床家が今ここにおいて患者と現に出会いつつ了解する作業はwasの段階のみに限定されうるのかという疑問はなお払拭されない.この問いにJaspers自身が否定的に答えようとしたところが『総論』に点在しており,そこではWeberに倣ってJaspersが精神病理学に課した伝達可能な一般概念に基礎をおく方法論からの逸脱が見出される.そのような箇所ではいずれも患者と相対する実践的な場面が扱われており,とくに重要と思われる叙述を引用しておく.

 これ〔引用者註:因果的なもの〕に反して了解可能なものは一般に容易に把握されるが,その適用は至難である.何となれば,この適用は一般的なものから導きだしたものではなくて,外でもなくこの医師とこの患者との個人的形態における具体的了解の歴史的起源がますます更新してゆくことだからである.この適用は全く個性的なものが最も強烈に今在ること(Gegenwärtigkeit)である.10)(中・p.238)

 遡及不可能な明証性をもつ一般的な了解が個別例に適用される過程において元の完全な明証性が失われたものが解釈であったが,引用部では了解を個別例へと適用するその行為に焦点が合わされている.適用という行為それ自体は一般的なものから導出されえず,あくまで他の誰でもない「この医師」と「この患者」の間の現在における対話によって了解を新たにすることであるとされる.適用という行為は「この」という一般化を拒む形容をもって限定された人物が「今在ること」という特権的な時間性において了解を更新してゆく絶対に反復不可能な「歴史的起源」とみなされており,ここで問題になっている「全く個性的なもの」は概念化の困難なdaβの段階にある.
 「伝記法(Biographik)」を扱った章におかれた次の叙述では,臨床家が個別例を了解しようとする際に,臨床家に立ち現れる患者の在り方と,そのような患者に対する臨床家の基本的態度が扱われ,同じくdaβの段階が主題となっており,やや長いが引用しておく.

 私が或る病歴で何か一般的なものの例と認知するもの(認識の道)と,現在あるもの,一回限りのものとして私が立ち向かい認めるもの,即ち私が一般的に述べる時には利用できぬこの不思議なもの(運命共同体の道,実存的形而上的経験の道)との間には根本的差異がある.…更に,次の二者の間に根本的区別がある.一つは(中略)研究者の捉われぬ態度であり,もう一つは,私が共に関わりを持ち,その中に吸い込まれ,際限なく解釈される偶然の出来事や一回限りの事や予想や可能性が今ここで形而上的一義的に明らかとなるといった,他者の運命へ医師が関与する態度である.私が見るものは,理性の経験的な眼で見るだけではない.従って明らかである(offenbar)と私に思われたが実証できなかったものは,私がただ物語って,その中で感じえられるようにできるのである.(中略)そして物語そのものの力は,一度は物語れたが二度目にはできないのではあるまいか―そうした現在あるものを見る感情の興奮に根ざしている.10)(強調は原著者)(下・p.184~185)

 この引用部においては「一般的なもの」と対極的な事象として「現在あるもの」「一回限りのもの」が取り上げられ,後者が「一般的に述べる時には利用できぬこの不思議なもの」として概念化による記述を拒むことが指摘されている.またその一回性を帯びた事象は時間的には「今ここ」としてやはり現在に位置づけられている.Weberがdaβの段階についてそれが「最も確実なもの」でありながら判断の対象になりえず経験的な検証が不可能とみなしたのに似て,現在における一回性の出来事は「明らかであると私に思われたが実証できなかったもの」とされる.言うまでもなく,歴史的出来事のこの単独的な明らかさは理念型的了解の一般的な明証性とは峻別されなければならない.また実証できない件の出来事は,語られはするものの,その語りは反復しえないであろうという予感に満たされている.
 「一般的に述べる時には利用できぬこの不思議なもの」について引用部では「実存的形而上的経験の道」を歩むなかで出会われるとされていることから,Jaspersはそれを実存的了解や形而上的了解と結び付けていたようである.もしその通りならば,WeberからのJaspersの離反はそれらの「高次の発生的了解」11)の導入とともに始まることになる.おそらくJaspersにとって普通の了解はWeberの一般概念としての理念型に本質的に規定されているがゆえに,一般性に回収されない今在ることは,「一般的(理想型的)了解」のいわば向こう側にあってそれとは水準を別にする超越的な了解においてしか扱えなかったと思われる.
 実際,Jaspersは或る患者を「一般的なものの例」10)(下・p.182)とするのが症例報告であり,「一回限りのもの」10)(同)とみなすのが伝記であるとして両者を対照化したところで,次のように述べる.

 一人の個人というものの意義は,同時に又歴史的意義でもありうる.しかし精神病理学者にとって彼の興味が一人の人物に向いているときには,個々の人間は何の歴史的意義も客観的価値もなしに存在する.又さらに精神病理学者にとっては,こういう個々の人は恐らく理想型を明らかに代表するものとなろう.10)(同)

 理念型に基づく了解はその非個人的な一般性のゆえに,一人の個人の単独的な歴史性にふれられず,その個人を理念型の1つの転用例とするにとどまらざるをえない.

おわりに
 Jaspersの発生的了解は従来その主観的曖昧さや了解可能性の限界などの批判にさらされてきた.人間学的立場からvon Baeyerはそれを「コモンセンスに定位した普通の了解性」と否定的に表現したが,Jaspersのテクストを改めて検討すると,(i)遡及不可能な明証性,(ii)非個人的な一般性,(iii)具体的現実からの遊離,という普通ではない側面が見出された.Jaspers自身が認めているように,その了解概念が形成されていく過程でWeberの果たした役割は看過できない.このためJaspersが言及しているWeberの著作にあたることを通して先の3側面について考察し,そのいずれに関してもWeberからの少なからぬ影響が,とくに現実の意味連関を模写するのではなく構成する手段として概念を用いる構成主義的な傾向が見出された.それとともにJaspersの了解は普通でないようにみえて,実際のところ精神科臨床と精神病理学の営みを的確に把捉していることを確認した.Jaspersは精神科学の方法論に関して,一般概念によって対象化されうる事象しか扱わないという点でWeberと共通の立場にあった.ただし精神療法的アプローチに関してはWeberから離反して,理念型という一般概念による了解を拒む一回性を帯びた現在的な事象を重視していた.
 概念化を受けたwasの段階に先行して概念化以前のdaβの段階があるというWeberの議論に立ち戻るならば,「実存的形而上的経験の道」という高次の了解をもちださなくとも,平均的な通常の了解においてすでに,理念型的了解の成立する以前に,現在における一回性の出来事にふれている可能性が考慮されなければならない.このことは何よりも実践的に,従来ラポールと呼ばれてきた現象によって支持される.ラポールは自らの身をもって現に患者と接する治療者につねにすでに与えられる患者とのこの今におけるつながりであって,周知のようにそれを感得した当事者がその内実を直接的に言語化して第三者に伝えるのはきわめて困難である.つまり,ラポールはまさにJaspersのいう一般性に回収されない一回性を帯びた現在的な出来事に相当し,一般的な明証性と区別されるべき単独的な明らかさをもつ.
 われわれが治療するのは,誰でもあり誰でもないような人一般などではなく,他の誰でもないこの患者である.非個人的な理念型的了解にとどまっている限り,単独的な存在として現に相対している目前の患者には届かない.Jaspersが治療実践における一回的な現在を取り上げたのは,それへと開かれなければ,不特定の誰にでも適用可能な一般的な了解にとどまったまま,当の患者その人の個別的な了解へと達しえないことを何処かで考えていたからなのかもしれない.daβの段階における治療者と患者の間のつながりとしてのラポールは,wasの段階に移行した後の理念型的了解においてはそれを或る特定の概念をもって表すことは至難であるものの,理念型的了解がそこに生じてくる培地の如き場所にあたる.
 Weberのwasとdaβの対は,Schneider22)24)がその了解の方法論において―I.1. 節の引用4)においてJaspersが精神病体験の意味内容とその出現との間に設けた区別を引き継ぐようにして―心的事象をSoseinとDaseinに,意訳すれば「意味」と「存在」に分けた際に,前者をWas,後者をDaβという表現で言い換えたことを想起させる.そこでSchneider24)が主張した通りWasの発生的了解は精神病においても可能であるならば,またSchneiderのWasとDaβの対がWeberのそれと接続可能であるならば,統合失調症における了解不能性はDaβの発生的了解をめぐるものであり,単独性への開けを可能にする何かにその病理が存することを示唆するのかもしれないが,この問題は稿を改めて論じなければならない.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

 謝 辞 稿を終えるにあたり,臨床と研究の両面にわたる御懇篤な御指導に対して,もみじヶ丘病院理事長 南部知幸先生に厚く御礼申し上げます.

文献

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15) 中野敏男: マックス・ウェーバーと現代, 増補版. 青弓社, 東京, 2013

16) 西田幾多郎: 善の研究. 岩波書店, 東京, 1979

17) 野家啓一: 物語の哲学. 岩波書店, 東京, 2005

18) 野家啓一: 科学哲学への招待. 筑摩書房, 東京, 2015

19) 野家啓一: 歴史における説明と理解. 歴史を哲学する―七日間の集中講義―. 岩波書店, 東京, p.55-73, 2016

20) 岡 一太郎: 他者―他者了解の方法論的諸相―. 臨床精神医学, 44 (5); 719-725, 2015

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22) Schneider, K.: Versuch über die Arten der Verständlichkeit. Z ges Neurol Psychiat, 75; 323-327, 1922

23) Schneider, K.: 25 Jahre "Allgemeine Psychopathologie" von Karl Jaspers. Nervenarzt, 11; 281-283, 1938

24) Schneider, K.: Klinische Gedanken über die Sinngesetzlichkeit. Mschr Psychiat Neurol, 125; 666-670, 1953
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25) 鈴木 茂: 臨床的方法としてみた記述と了解概念―Karl Jaspers批判―. 自己愛性人格/解離性障害/躁うつ病の拡散―精神医学における症例記述の復権のために―. 金剛出版, 東京, p.230-254, 2015

26) 内海 健: 精神病理学の基本問題―ヤスパースの「了解」概念をめぐって―. 精神経誌, 123 (9); 545-554, 2021

27) von Baeyer, W.: Wähnen und Wahn. Enke, Stuttgart, 1979

28) Weber, M.: Roscher und Knies und die logischen Probleme der historischen Nationalökonomie. Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 2 Aufl. J. C. B. Mohr, Tübingen, p.1-145, 1903-1906/1951 (松井秀親訳: ロッシャーとクニース. 未来社, 東京, 1988)

29) Weber, M.: Die "Objektivität"sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis. Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 4. Aufl. J. C. B. Mohr, Tübingen, p.146-214, 1904/1973 (富永祐治, 立野保男訳: 社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」. 岩波書店, 東京, 1998)

30) Weber, M.: Über einige Kategorien der verstehenden Soziologie. Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 4. Aufl.. J. C. B. Mohr, Tübingen, p.427-474, 1913/1973 (海老原明夫, 中野敏男訳: 理解社会学のカテゴリー. 未来社, 東京, 1990)

31) Windelband, W.: Geschichte und Naturwissenschaft. Präludien. J. C. B. Mohr, Tübingen, 1913 (篠田英雄訳: 歴史と自然科学. 歴史と自然科学・道徳の原理に就て・聖―『プレルーディエン』より―. 岩波書店, 東京, p.19, 1936)

注釈

*1 1913年の初版以後この著作は改訂を重ね,大幅に増補され哲学的な傾向を強めて一新された感のある第4版が1946年に上梓された.邦訳は初版が『精神病理学原論』8),1948年の第5版が『精神病理学総論』10)として出されている.なおJaspersが手を加えた最後の版である第7版は,第5版と内容はまったく同じままで,ただ序文が書き換えられたものである.以下では訳書の題名に従って初版を『原論』,第5版を『総論』と表記する.煩雑さを避けるため,『原論』と『総論』がそうであるように同一の著作から複数回にわたって引用する場合は,各々の引用の際にその頁数を記す.

*2 最近,加藤11)はJaspersの了解を扱った論考において,その実存的了解を「高次の発生的了解」として積極的に評価している.別のところ20)で述べたように,精神病の了解可能性を拡大しようとする人間学的な試みと並んで,その異他的な了解不能性を精神病理学的に見つめる眼差しを失わずにいることもまた必要なように思われる.

*3 『ロッシャーとクニース』の邦訳はひとかたならず意味が取りにくく,安藤や中野の論考において同書が論じられる際,この訳書の訳文は採用されず,そのつど新たに訳し直されている.中野の著作には要所要所で同書のこなれた訳文が載せられており,以下で同書を引用する際は原書の頁数を記し,中野の訳がある場合にはそれを用い,ない場合には拙訳をあてる.

*4 ここで「『原論』の」という限定は以下の事情から付けられている.Jaspersは『総論』において了解心理学が,2つの了解不能な領域,すなわち一方では因果関連によって把握される「意識外の機構―身体を基礎としている機構」10)(中・p.15),他方では哲学的に開明される「実存」10)(同)と境を接すると指摘し,了解可能性の境界を画定する双方の了解不能性を詳しく扱っていた.それとともに「実存」と関連してJaspersは通常は了解不能とされる精神病を了解可能にするものとして,実存的了解と形而上的了解という概念も提出していた.これに対して,了解不能な行為は「精神病理学あるいは類縁の学問」28)(S.68)によって扱われるというWeberの論述には,了解に関する彼自身の方法論の重点は了解不能性そのものにはないことが示されており,精神病理に関する言及は専門領域の異なるWeberにおいてはわずかにとどまる.したがって,精神病を了解可能とする精神病論がWeberによって扱われることもなかった.

*5 これに関して安藤は「歴史上の人物は『かつて実在したその人物とは,ただ“機能的に”関係しているにすぎない思惟的産物』(S.110)であり,徹頭徹尾『人為的に構成された像』(ibid. 傍点は原文ゲシュペルト)にほかならない」1)(p.176)と『ロッシャーとクニース』からの引用を交えつつ述べ,Weberの歴史認識における人物の人為性を強調している.

*6 ここで念頭におかれているのは,歴史は過去の再現ではなく,現在において或る視点から構成されたものとする歴史観であり,この見方は本邦ではとくに野家啓一17)がその「歴史の物語り」論において積極的に主張してきたものである.われわれ20)は別のところでJaspersの了解を野家の「歴史の物語り」論と接続しうることを確認したが,この可能性の淵源はWeberにまで遡る.

*7 精神的なものと精神的なものとを意味関連で結びつけることであるJaspersの発生的了解が可能になるには,以前に論じたように20),特定の精神的なものが予め確定されていなければならない.この予備的な作業を担うのが静的了解であるが,私見では特定の精神的なものを固定するそのことは,Ricœurのいう「意味」,Weberのいうwasの段階における概念をまって初めて可能となる.こうした特定の意味内容の固定としての静的了解はしかしdaβの段階では不可能である.それでは,意味内容に依拠しない発生的了解はありえないのだろうか.この問いに対してSchneider22)24)は後述するように彼独自の“Dasein”概念をもって,そのような発生的了解があると答えたのであり,われわれもまたdaβの段階における発生的了解を積極的に肯定する.

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