Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第125巻第4号

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連載 21世紀の「精神医学の基本問題」 ―精神医学古典シリーズ―
Karl Jaspers―共鳴する魂の人―
佐藤 晋爾1)2)
1)筑波大学医学医療系茨城県地域臨床教育センター精神科
2)茨城県立中央病院精神科
精神神経学雑誌 125: 305-317, 2023
https://doi.org/10.57369/pnj.23-045

 Jaspers, K. の『精神病理学総論』は大著のうえに議論が錯綜している箇所があり,全体を見通すことが難しい.本稿では,Jaspersが『精神病理学総論』をどのような目的で執筆したか,全体の構成の意味などを,伝記や彼の哲学著作を参照して検討する.また,Jaspersの提唱した代表的な概念,了解と説明において誤解されていると考えられる点,特に「神経症=了解可能,精神病=了解不能」について著者の見解を述べた.今となっては時代的にそぐわない点がいくつかはあるが,症候学を十分に学ぶためには,Jaspersの『精神病理学総論』はいまだ価値ある著作である.

索引用語:カール・ヤスパース, 精神病理学総論, 了解, 説明, 症候学>

はじめに
 Jaspers, K. の精神病理学に関する総説は繰り返し書かれており,入手が容易で代表的なものとして,内村42),加藤20)21),山岸46)47)の論文がある*1.とりわけJäger, M.5)による解説は非常に簡潔なうえに正確で,彼以上にまとめることは少なくとも著者にはできない.本稿は屋上屋を重ねるものとなるがご容赦いただきたい.
 ところで著者は,Jaspersを権威主義的に紹介することを本意としていない.むしろJaspersの主張の一部に違和感をもち,それを批判するためにJaspersを読んできた34-37).ところが,その過程で,これまで彼の主張とされてきた通念,例えば了解可能性で精神病と神経症を分ける,了解ができなければ器質的説明に移るなどが,必ずしもJaspersの意図に沿っていないのではないかと考えるようになった.本稿は,著者の独断的読解を含め,これまでの報告と違った観点からJaspersの精神病理学を紹介したい.
 また,Jaspersの議論は錯綜して非常にわかりにくい.その理由の一端は,発想の根拠や概念の具体例が,ほとんど書かれていないことにあると思われる.しかし,それらはJaspersの自伝や他の著作で見つかることがある.したがって『精神病理学総論』以外の文献も適宜参照する.
 本稿ではJaspersの『精神病理学総論』の第四版(第五版)11),*2を主に扱うが,第四版は総論とし,初版8)にふれる際は原論とする.また適宜,著者の責任で訳を変更している.

I.Jaspers小伝(
 Jaspersが,どの程度の期間,精神科医としての実務にかかわっていたかについてははっきりしない.Janzarik, W.6)によればHeidelberg大学年報にJaspersの名前が掲載されたのは1914年までという.Häfner, H.3)は,1909年7月1日6)に無給助手になった後,6週間でJaspersは臨床業務から離れたとしているが出典が明らかではない.6週間なのか5年なのかは別にして,Jaspersの精神病理学的知識は,主に授業の準備,心理検査,同僚との議論から得られたものだった.Jaspers本人は「電流を流したり,治療したり,カテーテルを用いたり,研究をしていた」15)「鑑定の仕事や同僚が病気の際に外来診療を行った」12)と当時のことを述懐しており,主に実験を行い,時に治療も行ったと自らの仕事について考えていたようである.しかし,大学研究者,教育者としての評価は高く,前任のNissle, F.教授が他大学に転出後,Heidelberg大学精神科教授に推挙されている.Jaspersは自分の体力を考えて,断腸の想いで断っている12).もし実現すれば無給助手からの大出世だった.
 精神科医としての経験について,1966年の対談15)でJaspersは意見を述べている.名前を明らかにしていないが,明らかにKraepelin, E.による批判24)に対してやや激しく反論し,「経験が欠けているという批判は昔からあった.ある高名な精神科医に経験でなく思索で(原論を)書いており,その意味では精神病理学ではないと指摘された」「しかし,事柄自体ではなく,経験の有無で批判するのは卑怯であり,拒否する.この批判は事柄自体の議論を避けている」15)と述べている.Jaspersが順調に臨床経験を積んでいたとしても,医師として働き始めてわずか4年後に原論は出版されており,若書きであることは否めない.とはいえ,Jaspersの主張も理解できる.臨床医としての経験が長ければ原論のような書物を誰でも執筆できるかと言えばそうではあるまい.また,原論のどこが思索的すぎで実践的でないのかを具体的に批判しなければ議論にならないというJaspersの主張もその通りであろう.
 Jaspersの臨床経験が短かった主な理由は,彼が気管支拡張症に罹患していたためだった.20歳前後で気管支拡張症患者が30歳前に死ぬ可能性があることを医学論文で読み,Jasersは常に死を覚悟していた12)14).結果としてJaspersは長寿だったが,晩年までしばしば高熱を出し,肺炎になり,喀血していたことが,自伝14)やArendt, H.への手紙に記されている23).若い頃から300メートル歩くだけで休まなければならず,時に本棚から本をとるのにも難渋し12)14)16),執筆も覚書を書いてまとめていた12)
 確かにJaspersは医師としての経験は短かった.しかし,「17歳から哲学者」と自伝に書いた12-15)青年が,短期間ながら医師として働き,70年以上患者で,病の当事者であり続けたことは,少なくとも医師―患者関係とは何かを考えるうえで,臨床医としての経験の浅さを補うに十分だったと思われる.例えば病状を心気的なものと判断された時期があると自伝14)に記しており,このような経験はまちがいなく精神医療とは何かについて深く考える材料になっただろう.
 なお,本人は精神病理学への関心を捨てたことはないとはっきりと述べており12),Arendtとの書簡23)でも,晩年に至るまで(精神)医学的判断やアドヴァイスをしていた.また1962年の書簡では,同年Heidelberg大学医学部から名誉博士号を授与されたことを「自分の学問的出自が認められた」と素直に喜び,「自分の学部よりも医学部のほうがくつろぎを感じ」,医学部が好きだと述べている23)

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II.『精神病理学総論』の目的
1.方法の提示
 Jaspersにとって学問の条件とは,研究の方法が明確であることだった.これは精神医学に限らず,どのような研究でも今もって同じだろう.研究実施や論文執筆に関する書物で強調されるのは,研究方法をしっかり立て,明晰に記述することである.研究方法が曖昧では結果の信頼性も妥当性も低くなり,その結果を検証することができなくなる.
 そしてJaspersが精神病理学に適切と考えた方法が,記述,そして了解と説明だった.了解と説明については多くの論文があり19)33)40)41),ここではふれない.近年の文献であれば,概要の丁寧な説明28)と分析哲学を用いて独自の検討27)を行った熊﨑の文献,Jaspersの哲学思想にまで踏み込んだ山岸の文献48),感情移入概念を再検討している内海の文献44)は必読である.著者も了解について批判的検討と再解釈を試みているので参照いただきたい35).本稿では,了解と説明について,あまり指摘されていないと思われる点だけ後にふれる.

2.症候学の統一,提示
 Jaspersの自伝を引用する.

 しばしば同じ物事が異なった言葉で語られましたが,おおかたは曖昧模糊たるものでした.多数の学派がそれぞれ勝手な用語を使用したのです.まるでいくつかの特殊用語といったものが存在するほどの相違が生じておりました.統一的にあらゆる研究者を結びつける共通の科学的なひとつの精神医学は,存在しないかのような観がありました.(邦訳p.26)12)

 またJaspersは,カンファレンスの議論がいつも最初からやり直しているような粗末なものだったとも述べている12).当時のHeidelberg大学精神科は,研究者同士が気兼ねなく平等な立場で活発に討論し,互いが切磋琢磨するというJaspersにとって理想の場所だった.彼は原論8)出版後にKeil大学やGreifswald大学などから教授招聘を受けているが,すべて蹴っている12)14).おそらくJaspersは,当時のHeidelberg大学の同僚たちと,研究についてはともかく,診断と治療についてもっと多面的で多様に議論できるはずだと残念に思っていたのであろう.そのために必要だったのが,症候学をある程度統一することだったのである.
 事実,Jaspers以前に,妄想について明確に概念を提示して分類した精神科医はおそらくいない.だからこそ,現在でも,妄想の議論ではまずJaspersの議論の批判から始まるのが通例なのである.とはいえ,多くの批判がある通り,Jaspersの症候概念や分類は,現在の精神医学にそぐわない箇所が多くある.
 しかし第七版の序文にこう書かれている.

 今日は方法的な点についてもっとよい本を書くこともできよう.〈略〉若い研究者の課題である.

 Jaspersは知識の拡大のみならず,了解と説明も含めた自身の方法も,新しい概念*3で乗り越えられることを望んでいた.Jaspersに忠実であろうとすることは,むしろ彼の議論を批判的に検討することなのである4)

3.限界を明確にする(邦訳上p.76-77)
 この点はあまり強調されないか,Jaspersの考え方の硬さとして否定的にふれられると思われる30)45).しかし著者は,この点こそJaspersの現代的側面と考える.どのような学問にも必ず解明されていない課題があり,それを超えて何かを論じると憶測になる.
 著者の記憶では1990年以前の精神医学領域の生物学的論文にdiscussionでlimitationが記載されていることはほとんどなかったように思う.しかし,現在ではdiscussionにlimitationを記すことは必須になっている.意外なことのようだが,Jaspersが主張したことは,精神病理学よりも生物学的精神医学研究の論文で,Jaspersを意識せずに行われているのである.一方,精神病理学の論文では,著者も含め,ほとんど注意されていないように思われる.先に述べたが,限界を強調すると自由に考えることが妨げられると考えられているのだろう.
 しかし,自由すぎる思考は実際の臨床経験との距離が広がり,瞬く間に机上の空論になってしまう.Jaspersの発想の根幹にKant, I. の思想があることは自伝10-12)から確認できるし,1911年8月にGruhle, H. に送った書簡16)で,Kantを研究することで自身の研究の見通しがよくなったとJaspersは書いている.ちなみにこの際,Husserl, E.,Wundt, W.,Lipps, T.は役に立たなかったと記している.Jaspersは,経験を超えて理性を働かせることで解決不能な二律背反に至るというKantの『純粋理性批判』18)の議論を常に意識していたであろう.経験から離れないことはJaspersにとって重要なことだったと考えられる.違う表現になるが,Jaspersは以下のように指摘している.

 症例報告こそが(精神病理学的)探求の基礎である.(邦訳上p.35,下p.180,p.182)
 治療する意図と行動による経験が精神病理学の構想となる.(邦訳下p.355,強調著者)

 まずは経験された事実,これこそが重要とする態度は,むしろ生物学的研究を専門にされている方のほうが肯かれるのではないだろうか.

III.『精神病理学総論』の構成
 ここでは総論の構成を紹介し,その特徴をどのようにとらえておけば通読が比較的容易になるか,著者の考えを述べる.

1.臨床把握のシミュレーション
 Jaspersが自伝で繰り返し記しているちょっとした自慢話がある.それは解剖学の試問で脊髄の構造を問われた際,さまざまな研究方法と結果に至る各過程を多面的に答えて教授を感心させたというものである.脊髄構造の知識をただ答えたのではなく,研究の諸方法とその結果を複数解説して,脊髄構造について立体的に答えたのであろう12)13).このアプローチは総論の構成そのままである.
 例えば,心の現象のとらえ方を以下のように列挙することができるだろう.
 主観的,内面的に,ある心の現象はどのように体験されているか
 ある心の現象は,言動としてどのように客観的に観察できるか
 ある心の現象と身体との関係はどのようなものか
 複数の心の現象を連なりでどのように理解できるか
 性格とはどのようなものか
 心の現象に遺伝はどのようにかかわるのか
 症状の組み合わせや経過の特徴はどのようなものか
 心の現象と体質や性別はかかわりがあるのか
 などである.
 実はこれらは著者が思いつくままに列挙したのではない.そのままJaspersの総論の章立てになるのである.具体的には以下のようになる.
 第一部第一章 主観的現象学
 第二章,第四章 作業心理学,表現心理学
 第三章 身体心理学
 第二部 了解心理学
 第二部第四章 性格学
 第三部 説明心理学
 第四部第一章 疾病学
 第四部第二章 形相学
 若干,順序の入れ違いはあるが,おおむね流れにそっていることがわかっていただけるだろう.Jaspersはこの構成の仕方を,諸理論を「分類組織化(systematik)」した12)14)と表現している.一見,理論が総花的に並んでいるようにみえるかもしれない.そして総論を読み通す苦痛はここにあるだろう.しかし,著者が並べた項目を再度,読み直してほしい.われわれが臨床で,患者のさまざまな側面を苦労して把握する順番とほぼ同じではないだろうか.
 まずは患者の主観的苦悩はどのようなものかを知る.そして,治療者が観察できる症状を整理して,それらがどう命名できるか検討し,次いで各症状の関連性,身体疾患との関連性,病前性格,家族遺伝歴の把握など.この手続きと総論の章立ては相似になっており,本書を通読することが,患者把握のいわばシミュレーションになる構成なのである.もし医学的理論的な整合性を優先すれば,基礎医学的な遺伝や体質,性別を冒頭で論じて,その後に,性格分類,症候,その主観的内容という構成になると考えられる.そして,もしもそうなっていたら本書を読むことはもっと困難になったであろう.
 この点は本書を通読して著者が感じた印象にすぎないので,Jaspers自身にそのような意図があったかはわからない.しかし,そう考えることで,総論には通読するだけの価値はある*4と思っていただけるのではなかろうか.
 ただしこの構成では問題が1つある.例えば妄想ならば,概念,判断力との関係,内容の意味,了解可能性,症候学的位置づけ,真正妄想と妄想様観念,支配観念との鑑別点などがさまざまな章でばらばらにふれられるのである.したがって,Jaspersの考える妄想を十全に把握するには総論を読み通すしかない.また,Jaspersの妄想概念に対する批判は,総論の第一部第一章の主観的現象学の議論だけでは不足している可能性を念頭におかなくてはならない.Jaspersは総論のこの特徴について注意を促し,繰り返し概念が現れる意味を考えるようにと記している(邦訳上p.71).

2.心的現象の全体像の把握を目的にしている
 総論のもう1つの独特さは,病的現象だけでなく正常心理も検討し,心の現象全体を対象にしていることである.Jaspersは精神病理学に対する生理学に相当するものがないと原論の時点から指摘し(原論,邦訳p.17,総論,邦訳上p.4),このために彼は「心理学的前置き」を自らまとめている.そして,これがしばしば長い.例えば空間と時間についてなら,Kantの感性論を換骨奪胎した議論を,細かなフォントの文章で,邦訳で3ページにわたって読まなくてはならない.
 Jaspersとしては,野心的な取り組みと自負していたと推察され,類書で邦訳が入手可能なKretschmer, E. の『医学的心理学』26)と自書を比較している箇所がある(邦訳上p.60-61).そこでJaspersはKretschmerの議論を「理論的単純化」で「文体が文学的すぎる」と批判している.ちなみにJaspers自身が,大変に似た表現でKraepelin24)から批判されている.著者は正直,正常心理学的概念についてはKretschmerの著作に軍配を上げる.Jaspersの正常心理学は,現代では飛ばしてしまってもよい箇所だろう.

3.疾病に関する各論がない
 本書が精神病理学の著作として特異なもう1つの点は,各疾病のまとめがない,いわゆる各論がないことである.精神病理学的な教科書であれば,まず総論として症候学や脳神経系の知識などが記述され,その後に各論として疾病の特徴や治療法が並ぶのが典型的な構成だろう.しかし,Jaspersは疾病ごとの記述をしていない.それは後に述べる診断に対する考え方が独特だったこともあるが,そもそも診断の前に,患者その人をいかに全体的に把握するかを第一に考えるべきであるというJaspersの考えが反映されていると思われる.
 また疾病の各論がない,疾病の特徴の記述がないということは,鑑別に関する記載がほとんどないことになる.本書が奇妙な印象を与え,臨床的実用性が乏しく感じられるもう1つの理由がこの点だろう.
 その意味で総論は,当時,得られる限りのさまざまな方法とその方法で得られた知識の集大成であり,膨大なreview本と位置づけることができる.一般に,自身の思索がなく引用だけで成り立つのは事典の類だろうが,総論の構成にはJaspersの考えが相当に入り込んでいる.この点も本書を読みにくくしている,あるいは読む気を失せさせる特徴かもしれない.とはいえ,もちろん現在も読む価値のある著作である.それは最後に述べる.

IV.『精神病理学総論』の誤解
 了解と説明に関して誤解があると著者が考えることを,3点だけ指摘したい.

1.了解と説明の関係
 心的発生的了解が限界になれば器質的説明へ移るようにJaspersが指示していると説明される文章を目にすることがあるが,この点はどうだろうか.
 Jaspersのいう説明とは,原因があれば結果が生じる,因果による把握のことである.これは,物を動かせば,物が動く,というような物理的法則が典型的な例となる.Jaspersは心的現象にも「内からの因果性」(邦訳中p.2)があると表現するが,あくまで比喩にすぎないと釘を刺している.Jaspers自身は心的現象に原因と結果という物理法則のような関連は認めない.Jaspersにとって,説明,すなわち因果にかかわる要因は,環境,素質,身体状態,遺伝など心的現象以外のものである(邦訳中第三部).
 しかし,ややこしいのは「精神的なものが了解で,物質的なものが説明というのは誤り」(邦訳中p.4)と述べていることである.この一見,矛盾した説明でJaspersは何を主張したいのだろうか.以下はあくまで著者の読解である.
 因果的説明は理論的説明とほぼ同じ意味であり,Jaspersは認めていないが心的現象にも因果的理論的説明はある.代表的な心的現象に関する因果的説明は精神分析理論であろう.精神分析では心的次元に原因を想定し,その結果,心的現象(症状)が生じると考える.つまりJaspersの「物質的なものが説明というのは誤り」という文章は,心的現象にも因果的理論に該当するものがあるという事実を指摘しているだけなのである.ではJasperが心的現象の発生を,原因と結果,因果で説明するのを,あくまでも拒んだのはなぜだろうか.
 それは,精神分析のような特定の心的理論的因果説明であろうが,器質的因果的説明であろうが,これらの因果的理論で心的現象の発生が簡単に説明され,安易にわかったことになるのを避けたかったからではないだろうか.Jaspersは「因果的説明に限界がない」と述べているが,心的現象の発生に因果をもちこむと「何でも説明できてしまう」ということだろう(邦訳中p.4).
 議論が抽象的なので臨床例で論じたい.目の前に洗浄強迫の患者がいるとする.例えば脳科学的理論,つまり器質的因果でセロトニンの異常,または皮質線条体のコネクションの異常,あるいは前頭頭頂葉の血流低下が原因だと説明すれば,強迫症状が生じた理由はひとまず「わかった」と言えてしまう.あるいは精神分析理論,つまり心的因果で,ある出来事がはっきりと抑圧はされていないが,それに伴った情緒だけが別の観念や出来事に結びついて症状が形成されたと説明されれば,やはり「わかった」ことになる.このように理論的因果的説明を先にすると,われわれは患者の状態をとりあえず理解してしまえるのである.
 しかし,臨床現場でわれわれがまず行うべきことは,患者の状態を理論に落とし込むことでなく,症状や苦痛をなるべくそのまま把握することであろう.だからこそわれわれは「限界がある了解」(邦訳中p.5)を先に行わなければならない.われわれは,理論的に把握する前に,洗浄強迫の患者がどのような主観的体験で苦痛を感じているのか,その症状で家族関係がどのように変化したか,患者の生活にどのような破壊的影響が生じているかなどを把握しなければならない.了解が限界になれば説明へ移るとされているのは,説明が先だと了解,つまり患者の内面や生活史,家族歴などを詳細に把握しなくても済んでしまうかもしれないからである.そしてそのような患者理解は,理論の単なる従属物にすぎない.
 さらにつけ加えるなら,了解は終わりがない.Jaspersは以下のように述べている.

 了解は決着しない.(邦訳中p.85)
 完結しない.(同p.86,p.88-89)
 了解は中間的なもの(Zwischen)である.(邦訳中p.16-17,p.329)

 発生的了解を応用展開したとJaspers自身が述べている『世界観の心理学』9)にも同じ記載がある.

 了解は無限に前進を続ける.(邦訳上p.253)
 了解は決して静止的な態度ではなく運動である.(同ページ)

 中間的なものとはJaspersが自身の哲学著作9)10)12)14)15)でよく用いる,途上(im Weg),浮遊(Schweben)などと同じく,可能性,開放性を意味する言葉である.つまり,了解が終わって説明に移るのではない.了解はいつも不十分であり,理論的には限界があるかもしれないが実践的には終わりがない.考えてみれば当然で,ある患者のことを完全に知り尽くしたなどということはありえない.一通り患者の訴えを了解したが,あるところからわからない,だから器質で説明するという単純なことをJaspersはおそらく述べていない.了解する内容には,これ以上了解できないものと了解できなくはないものがあり,後者については了解する努力を可能な限り続けることが求められている.一方,了解できないところで,もし説明可能なら因果(あるいは実存)を持ち込むことになり,そうでなければ保留にするのがJaspersの本意に沿うと著者は考える.
 ところで,この議論はもうひとひねりある.Jaspersは別の箇所で,了解は了解不能にぶつかり,それは生物学的因果関係と実存*5であるとし(邦訳下p.297),一方で,因果性は自由にぶつかると述べている(同ページ).つまり,了解⇔了解不能(説明,実存)で,説明(因果)は,因果⇔自由なのである.これも理論的につじつまが合わないのだが,強引につなげると,実は2つの流れがあることをJaspersがやや乱暴に記したと考えられる.1つは了解(精神)⇔了解不能(説明:器質)⇔自由(実存:精神)であり,もう1つが了解(精神)⇔了解不能(実存:精神)である.つまり,説明にも限界があり,最終的には精神に開かれるということである.別の箇所で因果的説明のことを自然認識と表現しているが,

 把握の形式―自然認識の場合,了解の場合,開明を伴う了解の場合―は,その都度,限界に達する.(邦訳下p.297)

 と,説明には限界があるとしている.では,一体,説明に限界があるのか,ないのか.おそらくJaspersは,本来の意味の自然認識,自然的な因果関係は限界が自覚されているが,体系化された理論,Jaspersとしては学問として認めがたい理論では限界が意識されていない,何でも説明可能になっていると主張したいのだろう.Jaspersにとって患者を把握することは,単純に精神(了解)から器質(説明)へという一方通行ではないのである.

2.発生的了解について
 静的了解と発生的了解については総論に直接あたっていただくとして(邦訳上p.40-41の注扱いになっている5行を読んでくださればよい),著者が気づいた点で,発生的了解に関する邦訳の問題がある.発生的了解でよく引用される概念は「心的なものから心的なものが確かさをもって生じる」(邦訳上p.40)である.
 しかし原論の該当箇所(邦訳p.27)と総論(邦訳上p.40,中p.1,p.9:この箇所は原論の原著p.146の改訂箇所と思われる)の原文は“wie Seelisches aus Seelischem mit Evidenz hervorgeht”で,いずれの箇所もwieがある(原論,邦訳p.180,原著p.146にはなぜかない).したがって,正確に訳すと「心的なことらから,心的なことらが,確かさをもって,いかに生じるか」になる.なぜこれが略されたのかわからないのだが,単に「生じる」だと心的現象が生じる関連をそのまま把握することになる一方,「どのように生じるか」だと関連の仕方の把握になり,意味が異なる.
 今後,発生的了解を考えるうえで見逃してはならない点と思われる38)

3.神経症と了解可能性34)
 もう一点は,了解可能=神経症,了解不能=精神病という「通念」についてである.Jaspersを一読していただければ理解されるが,まず原論では神経症という語がほぼ出てこない.総論では,明確な概念記載がないまま邦訳中巻から突然,登場する.わずかに記されている神経症の概念は,人間自体(Menschen selbst)を侵さぬ心の逸脱(Abweichen)であり(邦訳下p.30-31),健康との区分は明確で,かつ健康な体験や性格の増強ではないというものである(同ページ).他に精神病は新しい何かが精神に生じ自律的に進行する過程(prozess)の病だが,神経症はそうではない(邦訳下p.224),あるいは神経症になるのは心(Seele)であるという記載がある(邦訳上p.372).
 一方の精神病は,人間全体(Menschen im Ganzen)を侵す心の逸脱であり,人格の狂い(verrückt)とされる(邦訳下p.30-31).原論では精神病(的体験)を,現実的でない内容が強い関連をもつこと,日常生活に支障があること,限られた期間に生じると説明されている(原論,邦訳p.343).
 以上のようにJaspersの神経症概念は曖昧で,さらに彼は後に述べるように診断分類を重視していない.では,総論の記述を実際にみてみよう.

 神経症は了解不能なことがある.(邦訳上p.277,下p.392).
 (核心)神経症*6は広い範囲(in weitem Masse)では了解可能だが,素因のあるものとしては,全体的に(im Ganzen)了解できない.(邦訳下p.224).

 意味がとり難いが,疾病図式の全体のなかでは了解可能の部類に入るが,神経症だけをとりだすと了解できない部分があるということではないだろうか.以下の文章がそのような意味であろう.

 病的体験反応は,症状の内容は了解できるが,意識の外にある何らかのメカニズムで体験が生じること自体は了解できない.(邦訳中p.124-125)

 一方,精神病圏の場合,妄想内容は了解可能であり,躁うつ病やうつ病,あるいは精神病過程でもいくばくかの了解連関が現れるなどの記載がある(邦訳中p.130,p.131,p.161-167,p.169-173,下p.61,p.205,p.223).
 Jaspersは神経症が了解可能とはっきりと記していないと思われるが,そのような記載はまったくないわけではない.読み落としの可能性はおいて,著者が拾えたのは以下である.

 了解可能な関連で器官が選択されれば器官神経症となる.(邦訳上p.372)

 これは症状内容・選択の了解という観点であり人格や経験の連続性の話ではない.

 神経症は過程とは根本的に異なる意味で了解可能である(Die Neurose ist in einem grundsätzlich ändern Sinn verstellbar als der Prozess).(邦訳下p.244)

 この文章は素直に読めば,神経症とは了解可能な人格の発展に起因しているので,精神病の発症と関係する過程とは異なるという意味にとれる.ところが,この文章の直前で,核心神経症と過程の違いは直観的には明らかだが,概念や個別的な基準,言い換えれば発展か過程かという概念や症状レベルで区別するのは難しいとJaspersは書いている.つまり,文脈からは,「人格の発展は了解可能」(邦訳下p.221)という概念や個別の症状などで神経症を了解できない,神経症かどうかの判断は直観的にしかわからないと主張しているようにしか読めないのである.ともあれ,このわかりにくいわずか1ヵ所を除けば,全体を通じてJaspersが神経症を了解可能と述べている箇所はなく,先にふれたようにむしろ逆の記載が多い.
 著者の考えでは,Jaspersの了解概念を意味連続性と言い換えたSchneider, K.39)が,意味連続性と体験反応の診断を結び付けたことに起因する誤解なのではないかと思われる.そもそもJaspersもSchneiderも神経症という語を明確に用いていないのでこの誤解自体も再考の余地があるのだが,重要なことはJaspersの了解は診断に限定されない広い概念4)だということである.一方,Schneiderの意味連続性はほぼ診断基準となる概念で,両者の意味は異なる点に注意が必要だろう.この了解可能性と鑑別についてはBlankenbrug, W.1)が同じく批判をしている.Müller-Surr, H.(1982)の文献が挙げられているが,了解可能=発展=神経症,了解不能=過程=精神病という「魅力的」1)な図式はもっと以前からあったはずであり,誰がいつ主張し始めたのかは不明である.
 臨床では,過剰な了解が診断でしばしば問題になる29).確かに診断のツールとして,概念として曖昧な了解を用いれば,そのような危険性があるだろう.しかし,Jaspersの了解の射程はあくまで患者の状態の把握であって,診断ではない*7.せいぜい診断の補助である.この点さえ意識していれば,了解は重要で有力なツールである34)

V.『精神病理学総論』の限界
1.診断について
 Jaspersはなぜか診断についてあまり論じていない.診断分類の意義を研究や教育的価値程度しかないと断言し(原論,p.318),総論では表現がより辛辣になり,統計をかけたり,教科書で各論を執筆したりするのに有益な程度(邦訳下p.73)と記している.とはいえ,当座の整理法と断ったうえで,器質,内因,反応・発展という大雑把な区分,器質は診断できるが,内因と反応・発展は類型であるために各概念の境界が曖昧で診断不可能であること,これら3つの分類にヒエラルヒーがあること,互いに排除せずに重なることがありえると指摘している.とりわけ最後の点,例えば器質疾患に反応性精神障害が併存することがありえることは重要な指摘である(邦訳下p.83-84).Kretschmar25)も器質障害に心因反応が重なった例を1919年に報告しているが,これは現在のリエゾン・コンサルテーション精神医学で大変に有益な考え方である.
 医学は一元的に考える傾向があり,身体疾患で精神状態を呈しているのか,端的に精神疾病の患者なのかで,スタッフ間で葛藤を生むことがある.しかし,両者が重なっている例は総合病院で臨床を行っていればしばしば経験する.このように臨床的に大事な指摘がさらりと記してある点が,総論を読む楽しみである.
 なおJaspersの診断について,彼の主張した症候群分類仮説(邦訳下p.41-89)の意義は,内村の文献42)を参考にしていただきたい.著者としてはJaspersの仮説はともかく,原論にある「誰それ型と患者名で病気を分類する」臨床的知恵が有用と考える(原論,邦訳p.315).中井32)はフランスの旧医学教育制度が同じような発想で訓練されていたことを述べており,フランス語の読めたJaspersはこの教育法を意識していたかもしれない.Jaspersが勧めているように,経験が浅い時期は何々病と早々に診断名をつけてわかったことにせず,経験症例の共通点や差異点を細やかに蓄積し,先行文献や上級医師との議論のなかから疾病イメージを作り上げるほうが,診断も治療も対応も奥行きがあって豊かなものを身につけられるのではなかろうか.

2.心因・神経症概念の貧困
 Jaspersは当時のドイツ精神医学でおそらく定説だったと思われる体質説に基づいて,心因・神経症を論じている.この点で,Jaspersの方法や分類では,例えば摂食障害などをうまく論じることができない28).ただし,これは当時の医学水準,あるいは医療現場の状況による限界と考えられる.したがってわれわれがなすべきことは,Jaspersの方法が心因・神経症概念に無力であると切り捨てるのではなく,Jaspersの立場でこの問題をどのように扱えるか,あるいは扱えないのかを,しっかりと検証することだろう4)

3.議論の錯綜,繰り返しの多さ,矛盾
 Jaspersの議論の内容ではなく書き方という形式の問題になるが,著者もこの点は同意する.鈴木41)はこの点を中心に入念に総論を批判しており,説得力のある鈴木論文を読むと,おそらく総論を手に取る気は失せてしまうだろうと思われる.
 ただし鈴木41)はこの欠点の理由をJaspersの臨床経験の少なさに求めているが,著者はそれだけではないと考えている.というのも,この欠点は総論に限らず,彼の哲学書,例えば主著『哲学』10)や『世界観の心理学』9)でも同じくみられるからである.両著書ともに,総論と同様に繰り返しの多い文章で,同じテーマが複数の項目や節で別の表現で扱われる.このため,読み返しが必要になりきわめて煩雑で,しかも概念全体を通覧できないので一読して理解しがたく,時として矛盾した記述に行きあたる.ある箇所だけを読めば,特定の概念を十分に把握できるということは,ほとんどない.本稿でも同じ概念についてさまざまなページから引用していることに気づかれたかもしれない.
 あくまで推測だが,Jaspersが身体疾患に罹患していた12-14)ことから,ある程度の期間でまとめて執筆せずに,断片的な覚書をまとめるスタイルをとったこと12)が影響しているのではないだろうか.Jaspersの著作を読む際には,メモをとりつつ倦まずじっくりと取り組むしかない.

VI.Jaspersを今,読む意味
1.症候学を学ぶ
 精神症候学,用語,その概念を学ぶうえで,本書は今もって重要な書物である.例えば,近年,レビー小体型認知症の症状の1つとしてパレイドリアが話題になることがある.ある論文から例示されている単語を若干変更してパレイドリアの説明を引用すると「天井のしみ,霞などの意味のない対象が,顔や生物などの意味のある物にみえる錯覚」とされていた.
 さて,夜,一人で歩いていたレビー小体型認知症の患者が,「うっすらと見えた木の影を,人の立ち姿だと思った」と述べたら,それはパレイドリアだろうか.
 Jaspersの記述では,

 感動時でもなく,その際実在判断もなく〈略〉雲や古い壁の面などから実体的に瞭然とした錯覚的形象が形作られる.(邦訳上p.98)

 とされている.パレイドリアの概念は「感動時ではない」ことから,もし患者が不安や恐怖に怯えながら何かを見誤れば,それは感動錯覚であってパレイドリアではない.したがって先の例では,患者の気持ちを問診で確かめなければ,パレイドリアか感動錯覚かを鑑別できず判断保留とするしかない.この点はほとんど常識だが,もう少し総論を読むとJaspersは自身の論文7)を参照せよと指示しており,それによれば,

 雲や城壁の表面など「不完全な感官印象から生じる」(邦訳p.115,強調原文ママ)7)

 と,対象の意味の有無ではなく,感覚印象として曖昧であるか否かを強調し,

 冷静な意識の際に同意なしに意志に反してあらわれる(邦訳p.119)7)

 としている.つまり通常の錯覚と違い,曖昧な対象を誤って感覚し,それは感情が変化したり注意を向けなおしたりしても制御できないのである.さらにあるものに見えたり,見えなくなったりもする〔「それが生じたり消えたりする」(邦訳p.118)7)〕特徴がある.これは相当に奇妙な現象であり,JaspersがGriesinger, W.から引用しているのは「鏡を見るといつも豚の頭が自分のほうをじっと見ていた」と訴えるメランコリーの女性患者である.
 したがって,前述したパレイドリアの説明は「特別な感情がない状態で,天井のしみ,霞などの形状が曖昧な対象が,顔や生物などの形態が明瞭でそこに実際にある物であるかのようにみえる錯覚.この錯覚は,注意を向けても消えず,意志と関係なく消えることも現れることもある」とするのが正確になる.
 このようなことを述べると,重箱の隅をつつくのが精神病理専門の医師のすることかとうんざりされるだろうか.あるいは,Jaspers信者が冗長なことを主張しても生産的でないとお考えになるだろうか.実際,そのようなことを耳にすることがある.しかし,著者が主張したいのは,そういうことではない.
 研究対象の定義がJaspers程度に(何ならJaspers以上に)厳密でないと,一体,何の心的現象について研究をして結果を出したのか,わからなくなるのではないかと申し上げたいのである.
 著者など,とても理解の及ばない数々の素晴らしい生物学的研究は,おそらくきわめて厳密な対象の定義と選択,さらに管理の行き届いた条件下で行われているであろう.そのことを考えると,心的現象の概念がアンバランスなほどに素朴ではないだろうか.生物学的マーカーを主に扱う精神科以外の医師が行う研究ならまだしも,精神科医の行う研究ならば,いくらでも曖昧になりえる心的現象の概念をできるだけ厳密にすることで,まさに専門医ならではの考察を紡ぎだすことができるのではと愚考する.現に,分子生物学的,遺伝的研究や脳機能画像研究などでは,精神科医が参加していなくとも多くの結果が出ている.その種の報告との価値ある差別化は,精神科医にしかできない方法の厳密化とそれに基づく考察の存在だろう.

2.Clinical Pearlを見つける
 総論は膨大なreviewという性格をもつことから,いわゆるclinical pearlをあちこちに見つけることができる.本書の通読は確かに苦しいかもしれないが,時に拾い物のようにかつての精神科医たちの熟練の技を知ることができる.
 例えば,最近,医学雑誌で特集される心因性非てんかんけいれん(psychogenic non-epileptic seizures:PNES)が総論でふれられている.Gruhle, H. W.が引用され(邦訳上p.370),心因性のけいれんの場合,両目を硬く閉じる,けいれんが両側になったり片側になったりする,瞳孔が散大しているなどの特徴が指摘され,逆に真のてんかん発作は,突然の発症,眼球の偏位,持続時間が5分以上は稀などと記載されている.うっかりすると50年以上前の本でなく,最近の総説を読んでいる錯覚を覚えてしまう.
 あるいは,「真正妄想は中心がない結晶産物だが」(邦訳上p.166),「妄想様観念や支配観念は一人,一つのことに集中する」(邦訳下p.66)という記載がある.現在の診断名なら,妄想性障害の場合,妄想体験の対象が具体的な近所の誰それだったり,主題がある何かだけ(例えば「同僚が嫌がらせをする」だけ)になったりするが,統合失調症では,対象や主題が多方向にわたることが多いということになろう.ちなみに同様のことを宮本31),*8やLacan, J.29)も述べている.このようにDSMにない特徴が書かれており,妄想の鑑別が可能になる.
 また,最近,注目される(と同時に混乱している)カタトニアも,原論から引用されているKleist, K. の文献(原論p.146,総論上p.280)で「最後の瞬間の反応(Regieren im letzten Augenblick)」という重要なサインが記載されている.カタトニア状態に特有のもので,ベッドサイドにしばらくいた後に立ち去ろうとすると患者が何か言おうとし,振り返ったり近づいたりすると黙ってしまう反応のことである.著者は思いあたる症例がいくつかあり,この概念を総論で見つけてから臨床現場で重宝するサインの1つにしている.また,このサインを念頭において改めてKahlbaum, K. L.17)の著作にあたると,よく似た現象を示す症例がきちんと記述されていた.かつての精神科医たちの精緻な観察眼をわれわれは見習わなくてはならない.

おわりに
 繰り返しになるが,著者はJaspersに無批判に従うべきだと権威として持ち上げるつもりは毛頭ない.むしろJaspersの議論には矛盾や穴が多いとさえ思っている.だからといって臨床的に不適切41)で総論を読む意義が少ないとも思わない.著者はその矛盾や欠けている部分にこそ発展可能性があると考えている.例えば,哲学に軸足を移した後の議論も含めてJaspersの精神療法論を検討するなどである34-38)
 さらにJaspersの総論に対して正鵠を得た批判をするためには,彼がどう主張しているかを十分に把握しなければならない.内省こそ人間らしさと考える(邦訳上p.7,p.11,p.200,中p.74,p.76~78)Jaspersは,自身の議論の見直しを執拗に行っている.このため,ある批判をしても,総論の別の箇所でその点に彼自身がふれている可能性がありえるのである.例えば妄想の意味について,人間学的精神病理学といえるような記載があり〔「妄想をもたない人間はいるのだろうか」という箇所がある(邦訳上p.300)〕,Jaspersが妄想問題を了解概念に閉じ込めたというvon Beyer, W. R.45)やMatussek, P.30)らの批判は完全にはあたらないことになる.
 JaspersはHeidelberg大学の同僚たちの,繰り返し「最初からやり直し」12)になる議論にうんざりしていたのだった.これはわれわれにも突き付けられている問題でもある.議論のやり直しを避けるために,われわれはあるテーマの出発点,そしてそれがどのように議論され,何がわかっていて,何がわかっていないのか―残念ながら学問としての進展が緩徐な精神医学では古典的な著作に記されていることがいまだに多い―を学び続けなければならない.著者もまだ勉強途上の身であるが,それでも最近のカタトニアについての議論は,かつての緊張病問題(Katatoniefrage)17)を「最初からやり直し」ていないかと思うことがある.
 最後に著者が強調したいJaspersの一面を紹介したい.Jaspersは決して治療に無関心だったわけではなく,総論でもそれを十分に意識していたであろうことである.
 精神療法の教科書は部分的に精神病理学の教科書でもある.(邦訳下p.354)
 精神病理学の役割は心の生活を明らかにし,認識を広げていくことである.このことは患者が自身で自己を明らかにするAufhellung in Sich Selbstを促し,精神療法の一つの方法となる.(邦訳上p.15)
 そして,総論で最も美しいと思う文章である.
 他人の心の出来事を自身の心に共振させることが研究者には必要である.
 精神病理学者とは,振動する魂である(Der Psychopathologie ist eine vibrierende Seele).(邦訳上p.32~33)

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) Blankenbrug, W.: Unausgeschöpftes in der Psychopathologie von Karl Jaspers. Karl Jaspers: Philosophie, Arzt, Politischer Denker (ed by Hrsg. Hersch, J., Lochman, J. A., et al.). Piper, München, p.127-159, 1986

2) de Clérambault, G. G.: Les délires passionnels. Érotomanie, Revendication, Jalousie. Bulletin de la Société Clinique de Médecine Mentale, février, 1921; 61, 1921

3) Häfner, H.: Descriptive psychopathology, phenomenology, and the legacy of Karl Jaspers. Dialogues Clin Neurosci, 17 (1); 19-29, 2015
Medline

4) 石川 清, 宇野昌人: ヤスパース (井村恒郎, 懸田克躬ほか編, 異常心理学講座第7). みすず書房, 東京, p.341-381, 1966

5) JägerM.: Konzepte der Psychopathologie. Kohlhammer, Stuttgart, 2015 (木谷知一訳: 基礎としての精神病理学. 星和書店, 東京, 2019)

6) Janzarik, W.: Jaspers, Kurt Schneider und die Heidelberger Psychopathologie. Karl Jaspers: Philosophie, Arzt, Politischer Denker (Hrsg. Hersch, J., Lochman, J. A., et al.). Piper, München, p.112-126, 1986

7) Jaspers, K.: Die Trungwahrnemungen. Zs. F. d. ges. Neurol. U. Psych., Bd4, s, p.289-354, 1912 (藤森英之訳: 盲覚. 精神病理学研究2. みすず書房, 東京, p.101-194, 1971)

8) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie. Ersten Auflage. Varlag von Julius Springer, Heidelberg, 1913 (西丸四方訳: 精神病理学原論. みすず書房, 東京, 1971)

9) Jaspers, K.: Psychologie der Weltanschauungen. Springer, Berlin-Heidelberg-New York, 1919 〔上村忠雄, 前田利男訳: 世界観の心理学, 上巻, 下巻 (ヤスパース選集25, 27). 理想社, 東京, 1971〕

10) Jaspers, K.: Philosohie. Springer, Berlin-Heidelberg-New York, 1932 〔草薙正夫, 信太正三訳: 実存開明 (哲学II). 創文社, 東京, 1964/鈴木三郎訳: 形而上学 (哲学III). 創文社, 東京, 1969〕

11) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie. Vierten Auflage. Springer, Heidelberg, 1946 (内村祐之, 西丸四方, 島崎敏樹ほか訳: 精神病理学総論, 上, 中, 下巻. 岩波書店, 東京, 1953, 1955, 1956)

12) Jaspers, K.: Philosophische Autobiographie. Hrsg. Schilpp, P. A.: Karl Jaspers. Kohlhammers, Stuttgart, s, p.1-79, 1957 〔重田英世訳: 哲学的自伝(ヤスパース選集14). 理想社, 東京, 1965〕

13) Jaspers, K.: Mein Weg zur Philosophie. Rechenschaft und Ausblick. Piper, München, 1958 (草薙正夫, 林田新二ほか訳: 哲学への道. 以文社, 東京, 1980)

14) Jaspers, K.: Schicksal und Will (Hrsg. Saner, H. ). Piper, München, 1967 (林田新二訳: 運命と意志. 以文社, 東京, 1972)

15) Jaspers, K.: Provokationen: Gespräche und Interview (Hrsg. Saner, H.). Piper, München, 1969 (武藤光朗, 赤羽竜夫訳: 根源的に問う―哲学対話集―. 読売新聞社, 東京, 1970)

16) Jaspers, K.: Korrespondenzen: Psychiatrie/Medizin/Naturwissenschaften (Hrsg. Bormuth, M., von Engelhardt, D.). Wallstein, Göttingen, 2016

17) Kahlbaum, K. L.: Die Katatonie. Hrischwald. Berlin, 1874 (渡辺哲夫訳: 緊張病. 星和書店, 東京, 1979)

18) Kant, I.: Kritik der reinen Vernunft. Verlang Hartknoch, Riga, 1782 (熊野純彦訳: 純粋理性批判. 作品社, 東京, 2012)

19) 柏田 勉: Jaspers, K.の「了解」概念について―Jaspers, K.に対する批判の検討―. 臨床精神病理, 35 (3); 261-269, 2014

20) 加藤 敏: カール・ヤスパースにおける精神病理学と哲学・哲学的信仰. 人の絆の病理と再生―臨床哲学の展開―. 弘文堂, 東京, p.66-84, 2010

21) 加藤 敏: 『精神病理学総論』(カール・ヤスパース). 精神病理・精神療法の展開―二重らせんから三重らせんへ―. 中山書店, 東京, p.119-143, 2015

22) Kirkbright, S.: Karl Jaspers: A Biography: Navigations in Truth. Yale University Press, New Haven, 2004

23) Köhler, L., Saner, H.: Hannah Arendt/Karl Jaspers Briefwechsel 1926-1969. Piper Verlag, München, 1985 (大島かおり訳: アーレント=ヤスパース往復書簡1-3. みすず書房, 東京, 2004)

24) Kraepelin, E.: Die Erscheinungsformen des Irreseins. Zschr. f. ges. Neurol. u. Psychiatr., Bd62. p.1-29, 1920

25) Kretschmer, E.: Psychiatrische Schriften. Springer, Heidelberg, 1919 (湯沢千尋訳: 外傷性脳衰弱における心因性妄想形成. 精神医学論集. みすず書房, 東京, p.37-58, 1991)

26) Kretschmer, E.: Medizinische Psychologie. Hrgs. Kretschmer, Georg Thieme, Stuttgart, 1922 (西丸四方, 高橋義夫訳: 医学的心理学. みすず書房, 東京, 1955)

27) 熊﨑 努: 了解の現代的な意義を再考する. 臨床精神病理, 38 (3); 279-289, 2017

28) 熊﨑 努: 了解と症状把握. 精神科シンプトマトロジー―症状学入門― (内海 健, 兼本浩祐編). 医学書院, 東京, p.54-64, 2021

29) Lacan, J.: Les Psychoses (Le Séminaire Livre 3). Seuil, Paris, 1981 小出浩之, 鈴木國文, 川津芳照ほか訳: 精神病, 上巻. 岩波書店, 東京, 1987)

30) Matussek, P.: Untersuchungen über die Wahnwahrnehmung. 1. Mitteilung. Psychiat U Z Neur, 189; 279-319, 1952 2. Mitteilung, Schweiz Arch Neur, 71; 189-210, 1953 (伊東昇太, 河合 真, 仲谷 誠訳: 妄想知覚論とその周辺. 金剛出版, 東京, 1983)

31) 宮本忠雄: 自己臭症. 妄想研究とその周辺. 弘文堂, 東京, p.305-319, 1982

32) 中井久夫: 医学の修練について. 治療(中井久夫著作集2). 岩崎学術出版社, 東京, p.123-129, 1985

33) 岡 一太郎: 他者―他者了解の方法論的諸相―. 臨床精神医学, 44 (5); 719-725, 2015

34) 佐藤晋爾: Jaspersの了解概念の精神療法的活用の可能性. 精神経誌, 121 (2); 107-115, 2019

35) 佐藤晋爾: Jaspers, K.の精神療法論―『Allgemeine Psychopathologie』初版から第四版までの変遷―. 精神経誌, 122 (10); 734-748, 2020

36) 佐藤晋爾: 精神療法におけるEinfühlung (共感・感情移入)―Jaspers的精神療法に向けて―. 臨床精神病理, 41 (3); 211-222, 2020

37) 佐藤晋爾: Max Isserlin―Jaspersの精神療法論の源流―. 精神医学史研究, 26 (1); 40, 2022

38) 佐藤晋爾: カール・ヤスパース―治療実践と結びつけるために―. 最新精神医学, 28 (1); 21-29, 2023

39) SchneiderK.: Klinische Psychopathologie (Hrsg. Huber, G., Gross, G.). Georg Thime, Stuttgart, 2007 (針間博彦訳: 新版 臨床精神病理学. 文光堂, 東京, 2007)

40) 総田純次: 「理解」概念を手引きとした精神病理学の学問的位置を巡る考察. 精神経誌, 108 (6); 571-586, 2006

41) 鈴木 茂: 臨床的方法としてみた記述と了解概念. 自己愛性人格/解離性障害/躁うつ病の拡散―精神医学における症例記述の復権のために― (生田 孝編). 金剛出版, 東京, p.230-254, 2015

42) 内村祐之: ヤスパースの「病像合成論」. 精神医学の基本問題 復刻版. 創造出版, 東京, p.179-197, 2009

43) 宇野昌人: カール・ヤスパース. 現代精神病理学のエッセンス (相場 均, 荻野恒一編). ぺりかん社, 東京, p.157-175, 1979

44) 内海 健: 精神病理学の基本問題―ヤスパースの「了解」概念をめぐって―. 精神経誌, 123 (9); 545-554, 2021

45) von Beyer, W. R.: Wähnen und Wahn. Enke, Stuttgart, 1979 (大橋正和, 迎 豊訳: 妄想の現象学. 金剛出版, 東京, 1994)

46) 山岸 洋: ヤスパース. 精神医学群像 (藤縄 昭, 大東祥孝ほか編). アカデミア出版会, 東京, p.386-404, 1999

47) 山岸 洋: 解題. 新・精神病理学総論 (山岸 洋訳). 学樹書院, 東京, p.7-90, 2014

48) 山岸 洋: 了解について. 精神科治療学, 31 (6); 689-693, 2016

注釈

*1 絶版になっているものだが,臨床的意義をまとめた宇野43),哲学的な解説もある石川ら4)の文献も参考になる.石川論文が掲載されている「異常心理学講座」シリーズ(みすず書房)に西丸四方による論文があるが,入手困難で著者は未読である.

*2 1942年に執筆された『精神病理学』の第四版で大幅な増補改定が行われて,1946年に出版されたが,当時は入手が困難だった.このために邦訳の『精神病理学総論』は,1948年に出版された第五版を訳出している.内容はほぼ同じである.なお,『精神病理学総論』の邦訳の正確な発行年は,上巻:1953年,中巻:1955年,下巻:1956年である.

*3 些末なことだがJaspersは総論で定義(Definition)という言葉をほぼ使っていない.有名な妄想の箇所も「妄想の概念(Der Begriff des Wahns)」(原著,p.80)であり,よく「妄想の定義」と紹介されるが,これは本来,誤りである.この表現の意図だが,以下,著者のまったくの推論である.これはJaspersがKantから受けた影響に起因すると思われる.Kant18)は定義を「ある事物の周密な外縁を,その概念の限界内において根源的に提示する」,つまり内包的なものとした.例えば三角形の定義「三つの辺と三つの角をもつ」という概念には,これ以上付け加えるものも差し引くことができるものもない.さらにKantは経験的な概念は定義できないとし,哲学(思索)においては定義より先に概念から出発すると述べている.また対象の認識は総合的(拡張的)であり,その後,概念が形成されていくとKantは考えた.以上を雑駁にまとめると,定義は固定的だが概念は経験によって更新されるということである.概念という言葉を使ったJaspersの真意は,自身の精神病理学を決定版として固定せず,経験によって拡張・更新されるべきというものだったと思われる.これは本稿の本文箇所と一致する考え方である.

*4 Jaspersは総論の読み方について,各章を順々に読むように指示し,そうすることで各学問的知見が確実に得られると述べている(邦訳上p.75).しかし,冒頭から順に読む理由として,これだけでは弱いと著者は考える.

*5 Jaspersのいう「実存」は乱暴に説明すれば「本来の私自身であること」だが,この考え方も著者は臨床応用できると考えており,稿を改めて論じたい.

*6 Schulz, J. H.の概念で,環境によって生じ,環境調整で治癒する異質神経症,内面的な葛藤で生じ,暗示などで治癒する辺縁神経症に対する概念.人格のなかに葛藤があって治癒困難であり,カタルシス療法や説得が必要とされる(邦訳下p.81).

*7 なお,著者の読み落としがなければ「了解不能のあり方を見分けることが診断学的諸区分の基礎となる」(邦訳下p.350)と,了解と診断を結びつける文章が1ヵ所だけある.全体的な理解を乱す,著者からすると「うっかり」としかいえないような記載が,特に総論は多い.

*8 宮本31)の当該論文では,当時は常識だったのか,統合失調症の妄想は網状(en réseau)でパラノイアの妄想では扇状(en secteur)と引用なしで述べている.著者の調べた限りではde Clérambault, G. G.2)が出典のようである(文献2では解釈妄想病の妄想はextension graduelleで熱情精神病の妄想はsecteurとなっている).

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