Advertisement第117回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第121巻第5号

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資料
台湾精神医学の発展と日本のかかわり―台大醫院精神部五十年紀要・日治時代精神病學史より―
平野 羊嗣1), 王 百慧2), 謝 明憲3), 黃 宗正3), 黒木 俊秀2), 神庭 重信1)
1)九州大学大学院医学研究院精神病態医学
2)九州大学大学院人間環境学府実践臨床心理学講座
3)國立臺灣大學醫學院附設醫院精神醫學部
精神神経学雑誌 121: 356-365, 2019
受理日:2019年1月17日

 国立台湾大学医学部精神科が1996年に出版した「台大醫院精神部五十年紀要」に掲載された日治時代精神病學史について翻訳を行い,他の資料より情報を追加したうえで,若干の解説を加えた.国立台湾大学(臺灣大學)は,7番目の帝国大学として,1928年に台北帝国大学(臺北帝國大學)として設立され,終戦後に現在の国立台湾大学に改名された.台北帝国大学時代,3人の高名な精神科医(中村讓,竹内八和太,中脩三)が台湾の精神医学の創成期に活躍し,その礎を築いた.台湾の精神医学は終戦とともに台湾初の精神科教授である林宗義に継承され,今日まで発展を遂げている.紀要には,日治時代の台湾における当時の授業の様子と,同国の精神医療の事始めの状況が克明に記録されている.これまで,日治時代の台湾の精神医学・医療の状況は,風祭や橋本らが報告しているが,本資料は現代の台湾の精神医学者による精神医学史という点で意義深く思われる.
  
 【お詫びと訂正】
  
 本論文について、図1と図3の写真が逆に印刷されるという誤りと、P357の5行目に誤りがございましたので,ここにお詫びとともに訂正いたします。
  
 P357
 誤)呉秀三教授は東京帝国大学医学部精神科の初代教授であり
 正)呉秀三教授は東京帝国大学医学部精神科の二代目教授であり(片山國嘉教授併任の時期を考慮すれば三代目)
  
 オンラインジャーナルでは、訂正後(正)で掲載させていただいております。
  
 修正日:2019年7月16日

索引用語:精神医学史, 日本, 台湾, 日治時代>

はじめに
 2017年8月,台湾統合失調症学会の特別講演に招待された際に,九州大学精神病態医学教室(以下,九大精神科)と台湾大学精神科との関連について少しふれたところ,台湾大学精神科の謝明憲先生に,貴重な資料があるからぜひ持ち帰るようにと言われ,「台大醫院精神部五十年紀要」4)をいただいた.国立台湾大学(臺灣大學)は,7番目の帝国大学として,「日本統治時代(日治時代)」の1928年に台北帝国大学(臺北帝國大學)として設立され,終戦後に国立台湾大学となり現在に至る.台北帝国大学時代,3人の高名な精神科医(中村讓,竹内八和太,中脩三)が台湾の精神医学の創成期に活躍し,その礎を築いた.台湾の精神医学は終戦とともに,台湾初の精神科教授であり,台湾における精神医学の父といわれる林宗義に継承され,発展を遂げた.紀要には,日治時代の台湾における当時の授業の様子と,同国の精神医療の事始めの状況が克明に記録されている.これまで,日治時代の台湾の精神医学・医療の状況は,風祭2)や橋本1)らが報告しているが,本資料は現代の台湾の精神医学者による精神医学史という点で意義深く思われる.以下,黃先生ら原著者に翻訳と写真使用に関する著作権の許諾を得て,「台大醫院精神部五十年紀要」に掲載されている,「日治時代精神病學史」について,九州大学実践臨床心理学講座の王が主に翻訳を行い,九大精神科の平野がそれを修正し,他の資料より情報を追加したうえで,若干の解説を加えた.本資料が,日本ならびに台湾の間に複雑に織り込まれた精神医学史を紐解くうえで,参考になれば幸いである.

I.日治時代精神病學史
1.中村讓教授時代
 本校(現国立台湾大学医院精神医学部)は,1897年4月12日に台北病院附属医学講習所の設立から,台湾総督府医学校(1899年4月1日)の時代を経て,1901年に初代の学部4年生を迎えた.それに合わせて精神病理学の授業も時間割に追加され,4月から7月までの第1学期は毎週2時間,9月から12月の第2学期は毎週1時間の頻度であった.当時,医学校の医師教員は軍医2名を含み,わずか9名のみで,1人の教員が2~3教科を担当していたことから,当時いかに医学部教員が不足していたかがわかる.また,時間割に精神病理学の授業があるにもかかわらず,当時,実際に精神科を専門とする医師はいなかったため,まともな精神科の授業が実施されていなかったことがうかがえる.
 1910年1月7日,東京医科大学(現東京大学医学部)の呉秀三教授と助手2名が来台し,台中県郡大藩で3ヵ月にわたるクレチニズム(先天性甲状腺機能低下症)調査を行っていた.呉秀三教授は東京帝国大学医学部精神科の二代目教授であり(片山國嘉教授併任の時期を考慮すれば三代目),日本における精神科領域の第一人者でもある.当時助手の一人であった中村讓*1は,台湾に精神科医療が存在しないことに気づき*2,1916年から基隆病院院長を務めながら,精神科の診療を開始し,同院での入院体制を整えた.基隆病院は台湾総督府が各地に設置していた病院の1つであり,対外貿易の拠点である基隆(台湾の北部)に位置する.中村讓は当初,台北病院と,本校の専任教授の職を断り,あえて,規制が少なく,臨床も研究も自分の意志で自由に行える基隆病院を選んだ.当時の台湾において,中村讓は唯一,精神科治療を専門とする医師であり,裁判所における訴訟事件の精神鑑定も依頼されていた.その多くの仕事が基隆病院で行われていたため,当時の基隆病院には精神科外来診療や病棟があったと思われる.
 1917年,台湾総督府医学校三代目校長である堀内次雄が,中村讓に医学校の嘱託講師を委任したことによって,はじめて精神病理学講義が精神科医による開講となった.翌年の1918年,中村讓は台湾総督府医学校専門部教授としての依頼を受け,初代教授として就任することになる(図1).
 当時,実習に相応な資源がないゆえに,中村讓は,日本のテキストや,これまでに行われた鑑定報告を題材に授業を行った.1つの症例鑑定にかかる時間は約1ヵ月から3ヵ月であり,裁判所に提出する鑑定報告書は25~50ページほどの内容であった.これらの症例をとおして学校側も精神病理学の紹介を行った.精神病鑑定第1集に3つの症例,1920年から1921年の第2集に3つの症例が掲載され,精神病診断過程に関する文章および鑑定報告は,当時の医学界に大きな影響を与えた.
 中村讓は,1925年から2年間ヨーロッパに留学し,河田直吉が代わりに基隆病院院長代理を務め,医学専門学校は当時の台北仁濟病院の精神病棟主任である竹内八和太が科長代理を務めた.その頃,台北仁濟病院は台湾総督府医学校の精神病実習診察所として指定された.それまで台北仁濟病院は主に貧困の住民や身寄りのない老人を受け入れていたが,1922年11月から,精神病専用の病棟を設置し(病床数10),台湾における初の精神病患者の受け入れ施設となった(図2).1925年,基隆市緑町で「基隆養命堂」が設立され(病床数10),台湾の2番目の精神病患者収容施設となった.
 中村讓は2年の留学を経て1927年に帰国し,基隆病院院長の職や本校精神病科教職に復帰し,1929年4月に台北市宮前町に病床数41の私立の養浩堂病院を設立した*3.同時に本校の精神科の教職を辞退し,委託講師となった.精神科における教職は竹内八和太が引き継いだ.しかしながら,私立養浩堂病院は不幸にも1930年3月,開業1年間足らずで患者の院内放火により閉院を余儀なくされた.この火事は数名の死者を出す惨劇となり,社会世論の焦点となった.それをきっかけに,精神病患者の入院医療施設を含む医療資源が不足していることが明らかになった.1932年,私立養浩堂病院は台北市内の内埔に建て直され,37名の患者を受け入れられる入院施設となった.その後,数ヵ所の精神病診療所が設立されたが,1935年以前の台湾では私立養浩堂病院が代表的な施設であった.当時の精神病患者は,梅毒の第3期である神経梅毒の患者であることも少なくなく,治療が難渋することが多かった.
 1932年,3ヵ年計画として27万円(現在の額で約8億円相当)の予算を台湾総督府が計上し,精神疾患を専門とする公立の病院「府立養神院」(病床数100)を開設し,1935年2月から外来診療が開始された.府立養神院は当時の台湾において,最大規模の精神病院となり,1936年には高木秀人が院長職に就き,1937年には加藤重喜がそのあとを引き継いだ.府立養神院は創立以来,台北医学専門学校精神科指定の実習病院となり,臺北帝國大学附属医学専門部精神科時代(1936年),臺北帝國大学医学部精神病科時代(1938年)を経て,光復(台湾における日本統治の終了)に至る歴史をたどった.
 府立養神院以外に社会事業団体も精神病院の設立に携わるようになり,1936年11月には台中に病床数40の静和病院が,1938年には台南近郊に病床数14の私立永康荘病院が開院した.
 1936年2月に精神病監護法および精神病院法が公布されてから,翌年に私立養浩堂病院および永康荘病院は指定精神病院となり,静和病院は指定代用精神病院となった.1937年に中日戦争が,1941年に太平洋戦争が始まり,病院を建設する経済的な余裕がなくなった.そのため,終戦まで,台湾全島における9ヵ所の精神病診療所の病床総数はわずか387であった.

2.竹内八和太教授時代
 1929年,竹内八和太(図3)が台北医専精神科教授に就任し,精神病学実習では中村讓と同じく鑑定報告を題材にしていた.例えば,<致傷被告人の精神状態鑑定例>の一文が,台北医専校友会雑誌(1929年9月第70号)に発表されているが,それ以降の文章は見あたらない.また,台北仁濟病院内で撮影された竹内八和太と学生の写真のなかに,当時の隔離室の設備が映っていたが,それは刑務所レベル以下のものであり,その光景からも当時の精神病患者が受けた待遇が想像できるだろう(図4).
 台湾総督府は,精神病患者がおかれている社会的な問題を認識し,1923年から1934年にかけて計4回(1923,1926,1931,1934年)の大規模な疫学的調査を行った.その結果,精神病の罹病率は1万人あたり,5.74→5.81→6.22→6.54人と,増加傾向を示していた.
 1935年2月1日から府立養神院の外来診療が始まり,同年5月に第5回目の疫学調査が行われ,警察によって経過観察と認めたのは3,841人であった.そのうち隔離を要する患者は327人,保護観察を要する患者は528人であった.罹病率は1万人あたり6.9人に上昇した.

3.中脩三教授時代
 1934年に中脩三が竹内八和太教授のあとを引き継ぎ,九州大学医学部精神科講師から台北帝国大学医学部精神科初代教授に就任し,併せて総督府精神病院医長の職も兼任することになった(図5).中脩三は教授就任後半年ではじめて同院で入院病室を開設したことになる*4
 一方,台湾の精神科領域をリードし,20年近く活躍していた中村讓は,府立養神院が創立されて以降,徐々に台湾の精神病理領域の表舞台から去り,学校改革に伴い,1938年中村讓と中脩三はそれぞれ,台北帝国大学医学専門部精神科講師と教授となった.中村讓が最後に台北帝国大学医学部学友会雑誌に投稿した論文は「心神喪失者の精神状態鑑定例」で,それ以降精神病学に関する論文は台湾医学会雑誌で発表するようになった.
 中脩三教授の研究は主に,①脳の生化学的研究,②電気けいれん療法的研究,③熱帯地域における精神医学的研究であった*5.中脩三教授による指導のもと,宗本尚徳(旧名宋尚徳)と分島俊(養神院院長),および奥村二吉らは台湾医学会雑誌に論文を発表し,当時の台湾精神神経病治療の発展に大きく貢献した*6.その後,1939年に奥村二吉と米山達雄が精神科教職に加わり,精神病理学を専門とする医学教員は6人となった*7
 1943年1月,奥村二吉助教授は九州帝国大学医学部精神科の講師に転任し,同年2月に京都帝国大学医学部精神科の黒澤良介がそのあとを継ぎ,台北帝国大学医学部精神科助教授となった.同年,助手であった新福尚武,小林正道,八木俊一ならびに井上素の4名が軍医として召集されて職を離れた.その結果,当時の精神科における治療従事者は残った日本人2名のみとなり,人手不足は日常の診療に支障をきたしていた*8
 1945年8月15日の終戦とともに,中脩三教授は8月に日本に帰国し*9,精神科診療を黒澤良介助教授と2名の助手で支える形となった.その後黒澤良介助教授*10は仕事を後任の林宗義*11図6)に引き継ぎ,1946年12月26日に帰国した.日治時代は1916年から1945年にわたっての30年間であった.日治時代の台湾の精神医学の発展は終戦をもって一区切りがついたことになる.

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おわりに
 巨人の肩の上に立つことでしか見えない景色があるとするならば,日本の精神医学において見渡すことができる今の広大な景色は,ここに登場した偉人達の血の滲むような努力の賜である.現代の台湾の精神医学者の視点で書かれた貴重な本資料が,日本ならびに台湾の間に複雑に織り込まれた精神医学史を紐解く際の一助となり,さらには両国現代精神医学の発展の礎を考察する際の参考になれば幸甚である.本論文に記載した病名は当時のものである.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

 謝 辞 本資料を提供していただいた,国立台湾大学精神医学部の黃宗正教授と謝明憲助教には,この場を借りて改めて深謝したい.

文献

1) 橋本 明: 帝国と精神医療―旧日本植民地における精神病関連法制の比較研究―. 愛知県立大学教育福祉学部論集, 64; 101-109, 2016

2) 風祭 元: 太平洋戦争終結以前の台湾の精神医学・医療. 精神医学史研究, 10 (1); 57-66, 2006

3) 林 憲: 文化精神医学の贈物―台湾から日本へ―. 海鳴社, 東京, 2004

4) 台湾大学醫学院附設醫院精神部: 五十載浮沈: 台大醫院精神部五十年紀要―日治時代精神病學史― (発行人: 林信男). 柏榮美術印刷, 台北, 1996

注釈

*1 台湾総督府医学校時代に,精神医学教室を設立した初代教授.森田正馬の神経質概念の確立に先駆けて,「神経質と其療法」という本を著し,森田正馬に大きな影響を与えたとされる.また彼は,長年,警察官訓練所で,犯罪精神医学の講義を行い,犯罪精神医学分野や精神鑑定に重大な影響を与えたといわれる.

*2 1895年に台湾の日本統治が始まり,1899年に創設された「台北仁濟病院」が台湾における精神病患者収容にかかわる最初の施設であるが,この施設は,日本統治以前に存在した救恤(きゅうじゅつ)施設の養済院などを引き継いで発足した.当初は,いわば救貧施設のなかに,精神病患者も混在する形で収容されており,1922年に正式に精神病患者収容施設(台北仁濟病院)を設置したことになる.

*3 1925年に台北仁濟病院に次ぐ2番目の精神病患者収容施設として,台湾北部の基隆に基隆養命堂が発足した後,台北医学専門学校の精神科教授を辞した中村讓が1929年に台北に養浩堂病院を開設した.この養浩堂病院が台湾最初の精神病院であったといわれている1)

*4 中脩三はその後,1937年に医専正教授となり,同年台湾総督府在外研究員の身分でドイツ,イギリス,アメリカ,フランスの各国に留学し,その間の1年半は米山達雄が科の主任代行を務めた.なお,設立当時の台北帝国大学教授は勅任官で,海軍士官に準じたサーベルを吊った制服をもち,その待遇も内地に比べ格段によく,研究費も潤沢であったという2)

*5 さらに中脩三は,社会精神医学,精神衛生学,高砂漠族(台湾原住民)の精神医学研究,臨床研究と幅広い研究に従事し,台湾の精神医学の発展に大きく貢献した.

*6 戦前の中脩三教授の医局には,博士論文作成目的でかなりの数の研究員がいたようであるが,その実情はさだかではない(図7).

*7 1941年5月には,渡辺元が助手として赴任した.彼の手記によると「当初病室は半地下室で,全室ベッド付きの大部屋であった.その後鉄筋コンクリートの高層建築ができ,病室は二階となったが,鉄格子がないので5~6名の患者が飛び降り,うち1名が死亡した.電気けいれん療法を多数行い,1942年東京で行われた日本精神神経学会総会に発表した.戦時中には一部薬品が不足し,特にキニーネが不足していたが,インスリンも不足し,インスリンショック療法を行うことができなかった」と書かれており3),当時の病棟の様子がうかがえる(図8).

*8 1939年から1945年に至る7年間に入院治療を受けた780人の患者集計表(退院時診断名,日台籍別,性別)を図9に示す.分裂病(原記載のまま)は緊張型と破瓜型が大部分を占めており,精神分裂病反応と合わせて161人(21%)で案外少なく,特に目立つのは進行麻痺86人(11%)である.表中に日本籍患者が多いのは,当時,台北市居住人口のうち日本人が半数以上を占めていたためであり,女性に比べ圧倒的に男性の比率が高い.日本人男性が338人(43%)で最も多く,台湾籍女性が78人(10%)で最も少ない.酒精中毒(アルコール中毒)のほとんどが日本人男性であったことは特筆に値する.

*9 公式の記録(九大人事記録)や文献では,中脩三は1945年8月30日に戦闘機で福岡市の雁ノ巣飛行場に帰国したということになっているが,実はその1ヵ月以上前に海路にて密かに徳島の実家に帰っていたことを後日遺族が証言している.

*10 黒澤良介はその後,中国に徴用され,国立台湾大学副教授としてしばらく台北に残り,1946年12月まで旧台北帝国大学医学部の学生に精神病学を講義した.帰国後,三重県立医専(現三重大学)精神科教授に就任した.

*11 林宗義は台湾で初の精神科医であり,台湾の精神医学の父といわれている.旧制台北高校を卒業後,東京帝国大学医学部を1943年に卒業し,同精神科に入局し研鑽を積んだ.太平洋戦争終結後,すべての精神科施設は中華民国に引き渡され,林宗義が1947年に国立台湾大学医学院精神科の講師,次いで初代主任教授となり,アメリカやイギリスに留学した後,後進の育成に尽力し,台湾の精神医学は,彼の指導のもとに大きく発展した.後に彼は,WHO顧問,ミシガン大学教授,ブリティッシュコロンビア大学教授を歴任している2)

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