Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第125巻第2号

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連載 21世紀の「精神医学の基本問題」 ― 精神医学古典シリーズ―
Kurt Schneiderの「臨床精神病理学」
古茶 大樹
聖マリアンナ医科大学神経精神科
精神神経学雑誌 125: 158-166, 2023
https://doi.org/10.57369/pnj.23-021

 Schneider, K. の『臨床精神病理学』はハイデルベルク学派の思想の集大成である.本書はSchneiderの教科書と呼ばれることがあるが,Jaspers, K. の『精神病理学原論・総論』のような精神病理学についての網羅的内容ではなく,診断学と分類についての論文集である.科学技術の進歩した今日においてもなお本書に重要な意義を見出すことができるのは,精神医学と身体医学との本質的な違いを見失うことなく,臨床精神病理学を論じているところにある.本論文では,Schneiderの生涯,本書の歴史,ここに含まれる各論文の注目すべきポイント,本書がなぜ米国で浸透しなかったのか,そして今日的な意義の順に論ずる.

索引用語:Kurt Schneider, 臨床精神病理学, 分類, 診断学, ハイデルベルク学派>

はじめに
 Schneider, K. の『臨床精神病理学(Klinische Psychopathologie)』8)(以下,本書,図1は伝統的精神医学・ハイデルベルク学派の思想の集大成である.その思想に基づく精神医学を著者は「純粋精神医学」4)と呼んでいる.本書はかつての大学での輪読会ピースの定番であった.ある世代以上の精神科医ならきっと本棚のどこかにあるはずでわが国に深く浸透していたものである.本書をもっていなくとも「Schneiderの一級症状」というフレーズを耳にしたことのない精神科医はほとんどいないだろう.本書はSchneiderの教科書と呼ばれることがあるが,Jaspers, K. の『精神病理学原論・総論』のような精神病理学についての網羅的内容ではなく,診断学と分類についての論文集である.科学技術の進歩した今日においてもなお本書に重要な意義を見出すことができるのは,精神医学と身体医学との本質的な違いを見失うことなく,臨床精神病理学を論じているところにある.著者は2019年の第115回日本精神神経学会学術総会シンポジウム「精神病理学の古典を再読する」で本書を紹介しているのだが,その内容は第1章「臨床体系と疾患概念」をわかりやすく解説したもので併せてお読みいただきたい5).本論文では,Schneiderの生涯,本書の歴史,ここに含まれる各論文の注目すべきポイント,本書がなぜ米国で浸透しなかったのか,そして今日的な意義の順に論ずる.

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I.Kurt Schneiderの業績とその生涯
 肖像(図2)と自筆(図3)からどれだけのものが読み取れるかはわからないが,本書に心酔している著者にはそこに几帳面さや厳格さが表れているように思える.針間による訳書9)(p.232-241:以下,括弧内の引用ページはすべてここからである)を参考に彼の生涯と主要な業績を表1にまとめた.いくつか注目すべき点がある.最初に師事したGaupp, R. はチュービンゲン学派の祖としてよく知られている人物だが,この時期に同学派を代表するKretschmer, E.(2人は同世代)との接点があったかもしれない.Kretschmerの論考は本書の複数の箇所で引用されているのだが,高い評価を与えながらも批判的でもある.ケルン時代にはすでに本書を構成するいくつかの論文が発表されている.続くミュンヘン時代はナチスの台頭により最も苦しい時代であったことは想像に難くない.彼は一貫してナチズムを拒否し,わが身の危険を顧みず抵抗する医師たちに属していたという.そのためもあってか野戦病院への赴任を命じられるのだが,その当時の経験は本書の「異常体験反応」にいくつかの素材を提供している.第三帝国の終焉とともに彼はJaspersの推薦によりハイデルベルク大学正教授に就任するわけだが,学問的に最も充実していたのはハイデルベルク時代である.そして本書はこの時代を代表する業績の1つであり,彼自身の精神病理学の思想についての集大成となっている.Huber, G. は彼の学問的姿勢を次のように述べている.「Schneiderの研究生活は,資金源を見つけ,できるだけ多くの研究協力者を得て学派を作るといった大掛かりな計画を立てるのではなく,むしろ,漸進的な,瞑想的な,懐疑的な,そして同時に予防措置の取られた方法で,所見や知見を求めることが特徴であった」(p.235).これは本書の随所に見られる厳密さや慎重な表現から醸し出されるイメージと一致するものである.

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II.『臨床精神病理学』の初版から第15版までの歴史
 本書の歴史を簡単に紹介しておきたい.冒頭で述べたようにこれは網羅的な精神病理学の教科書ではなく,精神科診断学と分類に特化した論文集である.初版のタイトルは『精神医学論集』(図4)で3論文が収載され,第3版では補遺も合わせ7論文のすべてが揃い,タイトルも『臨床精神病理学』に改められた.その序文には「本書には,私自身のこと,そして私にとって今日なお妥当なことに基づいて,私が精神病理学的・臨床的に精神医学に対して言いたかったことが全て含まれている」(下線は著者)とある.知見の一部はまさに自己観察に基づいていることを明らかにしている.精神病理学の研鑽に重要な作業の1つは自分自身の心の動きに関心をもつことである(非常に多くのものを自分自身の心の観察から得ることができる)と,著者も若い人に尋ねられるとそう答えている.第4版(1955)の序文には「精神医学が身体的事実自体も取り扱わなければならないのとは反対に,臨床精神病理学が精神的異常と身体的異常の関係の可能性を論じるのは,およそ身体的異常が見出される場合に限られる」とあり精神医学と精神病理学との違いに言及している.そして「ここで精神病理学が行われる方法は分析的記述という方法である.これは了解的方法に限らない」と本書の指針が明確に記されている.第5版までは加筆される一方だったが,第6版からは削除が始まっている.すべてを調べたわけではないが精神分析学への辛辣な批判が削除部分に含まれている.精神分析学が興隆した米国への配慮(敗戦国としの遠慮)なのだろうか.生前最後の改訂は第8版(1967)で,その後本文に修正は加えられていない.Schneiderから改訂を託されたHuberは第13版から本書についての解説を追加し第15版(2007)では増補されている.そのHuberも2012年に亡くなり第15版が最終版となっている.
 本書は各国語(日本語,スペイン語,フランス語,英語,ギリシャ語,ポルトガル語,ロシア語)に翻訳されている.わが国では第4版(1957),第6版(1963),第15版9)と3回訳されているのだが,なぜか英語訳は第5版(1959)のみしかない.本書が英語圏,特に米国で浸透しなかった理由については後で取り上げる.

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III.『臨床精神病理学』で注目すべきポイント
 本書8)9)は以下の7つの論文から構成されている.もともとは独立した論文として書かれたものだが内容は相互に関係している.
 第1章 臨床体系と疾患概念(14)
 第2章 精神病質パーソナリティ(21)
 第3章 異常体験反応(22)
 第4章 精神遅滞者とその精神病(9)
 第5章 身体的基盤の明らかな精神病の構成(10)
 第6章 循環病と統合失調症(49)
 補 遺 感情と欲動の病態心理学概説(17)

 括弧内の数字は訳書9)に割かれたページ数を示している.一つ一つの論文の要旨をまとめることは,何回も慎重に改訂を重ねてできあがった本書には馴染まない.すでによく知られていることについてはあえて取り上げない.ここでは繰り返し本書を読んできた著者が注目していることや見落とされがちなことを取り上げてみたい.
1.第1章 臨床体系と疾患概念
 7つの論文のうち現代精神医学に最も示唆に富むのはこの章だろう.現代精神医学は精神医学を身体医学(自然科学)に近づけることに躍起になっているように思えて仕方ない.それを自覚しているのならまだしも,時に無頓着に同一視してしまっているのではないかと心配になることもある.この第1章は精神医学と身体医学との本質的な違い,精神医学における疾患の定義の問題,生活発展の意味連続性,精神障害は性質の異なる3つのグループに分けられることといった重要な知見が述べられている.その出発点が臨床精神病理学の理解に欠かせない次の大前提である.それは心的異常には,心的あり方の異常変種としてのもの(著者注:疾患的ではないもの)と,疾患(および奇形)の結果としてのもの(著者注:疾患的なもの)があるというもので,本書のすべてがこの大前提とつながっている.個々の精神障害を取り扱う際,その精神障害が「疾患的なものなのか,そうでないのか」の判断は重要である.それによって,診断にしても治療にしてもあるいは研究にしてもその理解の仕方に影響を与えるだろう.この大前提がICD-11とDSM-5には記されていないのである(両者は精神医学における疾患を定義することを棚上げにしている).その理由は疾患定義の難しさにあるのではないかと思う.彼は「精神医学における疾患とは」という疾患定義の問題を慎重に論じている.身体医学では身体に原因があり器官変化があるもの(存在概念と呼ぶ)をこれにあてており,器質性・症状性・中毒性精神病については文句なくこれがあてはまる.ところが誰もが疾患と認める内因性精神病はこの存在概念をあてはめることができずに未解決の問題として残ってしまう.そこで彼は内因性精神病を「疾患である」と見なすことのできる根拠として生活発展の意味連続性の中断という概念を提唱するわけである.つまり精神医学における疾患とは,1つは身体医学に共通する存在概念でありこれがあてはまらない場合に精神医学固有の疾患定義である生活発展の意味連続性の中断を使っていることになる.
 これを基にした精神障害の分類が表2である.第二の群において用いられる診断学上の概念と名称は,身体医学的なものと心理学(精神病理学)的なものの2本立てになっている.循環病と統合失調症の身体医学的系列の該当部分には疑問符(?)が付されているのだが,これが意味するところは「あるかどうかわからない」ではなく「あるはずだが,それが何であるのかわからない」という意味である(身体的基盤が要請・仮定される).この第1章は非常に重要なのだが,文献5で詳しく論じているので参照してほしい.
2.第2章 精神病質パーソナリティ
 第2章は今日でいうパーソナリティ障害について述べているが,強調されているのは疾患ではなく正常との連続性のある偏り(より広い異常パーソナリティの一部に精神病質パーソナリティがある)をみているということ,体系的な分類ができない(非体系的な類型化で我慢するしかないしかない)こと,その類型化に誰も成功していないこと,個々のパーソナリティの内部に多くの変動する要因があることなどである.あたかもDSM-III(1980)以降,今日まで続くパーソナリティ障害の分類をめぐる混乱を予見しているようである.「精神病では,内容・主題・個人の症状形成を考慮に入れず形式へと突き進もうとするが,ほとんどの精神病質者では内容的なものが本質である」(p.29)と体験の形式〔Form(独)〕と内容〔Inhalt(独)〕という2つの側面からみて診断の着眼点が違うことに言及している.
3.第3章 異常体験反応
 初出(初版に収載)は戦後まもない1946年で,素材に戦時の経験や観察が含まれている.皮肉なことだが戦争という過酷な状況はまさに異常体験反応の観察にはもってこいだったのかもしれない.体験反応を「有意味に動機付けられた,体験に対する感情的応答」と定義して類型化を試みているのだが,今日,特に役立つ概念が目的反応だろう.「状況を理解して合理的に反応する」目的反応は,打てば響くような感情的応答ではなくそこには熟慮が介在している.その意味では狭義の体験反応と呼ぶことはできないのだが,体験反応そのものに多かれ少なかれ目的という要素が混入していることも見逃せない.それが明確に意識されてある障害が固定するのが目的反応の典型例である.慢性化した解離・転換性障害の患者や,休養や年金申請のための診断書を希望する患者,そして(詐病に通ずる)拘禁反応もまたこれにあてはまる.「我々にとって体験反応と精神病は相反する」(p.56)と述べ,体験反応や目的反応はどんな外観を呈しても「精神病」と呼ぶべきではないと強調している.周囲の注意を惹く訴えや行動異常の派手さは「精神病」を疑わせる契機になったとしても,それを診断根拠にすることはできない.両者の鑑別と同時に体験が精神病を誘発し得ることや混合した状態が存在することにも念入りに言及している.体験反応なのか,精神病なのかの鑑別は理論的に重要であっても,実際の臨床ではしばしば困難となることは多くの臨床家が感じていることだろう.
 こだわって論じられているのが,基底(平井・鹿子木訳)ないし地下(針間訳,p.37~39)という難しい訳語が与えられているUntergrund(独)である.個々の体験反応は「何か」の上で生じているもので,その人に固有で通奏低音のように体験反応に影響を与えている「何か」というイメージである.ただそれは限界概念でそれ以上論ずることができないものとしている.これは内因性の要因ではあるが,彼の論述をみる限りUntergrundはあくまで正常ないしその延長線上にある疾患的ではない精神障害に関連するもので内因性精神病の身体的基盤とは切り離して考えるべきであるように思える.ちなみに研究領域基準(Research Domain Criteria)に代表される今日の脳科学的アプローチはこの区別をまったく顧慮していない.
4.第4章 精神遅滞者とその精神病
 彼はまず知能をどのように定義するのかを論ずるところから始めている.個人の心的存在の三大構成要素として,知能・パーソナリティ・身体的感情と欲動生活を区別する(第2章の冒頭で最初に言及)のだが,他にも記憶や領識がありこれらを知能には含めることができないという説明が続く.彼の論述をみるにつけ,当たり前のように使われている用語について,われわれがその定義をよく知らないまま使っていることに気付かされる.
 タイトルにもあるように彼は精神遅滞者にみられる精神病状態について論じているのだが,その多くは「並外れて見える体験反応」であるという.それとは別に精神遅滞者に発症する統合失調症(いわゆる接枝統合失調症)に注目し,精神病の原因について深い考察がなされている.いくつかの要因が原因の束となって関係しているようにみえることがあるが,重要なことは「それがなければその状態が存在し得なかった要因であり,それがなければその状態が存在しなかった要因ではない」(p.64,下線著者).言い回しの微妙な違いなのだが,後者の考え方をするとあらゆる要因が状態の発生にとって同じように重要になってしまう.ここで精神病の現存在〔Dasein(独)〕(精神病が存在すること)とかくある存在〔Sosein(独)〕(精神病の外観)という概念に触れ,内因性精神病と精神遅滞との関連についてさらに考察を進めている.内因性精神病においてはそもそも病像成因的〔pathogenetisch(独)〕(病機序的)なもの(つまりDaseinに直接かかわるもの)に関する根拠はいまだ得られていないから,病像形成を構造分析的に検討することしかできないという.そこで引用されているのが,Birnbaum, K. の構造分析〔Strukturanalyse(独)〕2)である.病像形成を評価する際,無視可能なあるいは取り換え可能な諸現象を,その精神病にとって多少とも特徴的であるとみなされる諸現象から区別するのである.そして診断は後者(病像成因的要因)から生まれる.精神遅滞はここではもっぱら病像形成的〔pathoplastisch(病賦形的)〕に作用する.統合失調症性精神病の発生において病像成因的に重要なのは,精神遅滞の基盤ではなく,統合失調症に対する体質的素質である.だがこのような考え方は全く思弁的で,病像成因的であれ,病像形成的であれ,「体質」をもち出して論じれば論じるほど構造分析は不確かで作り上げられたものとなるともいう.構造分析は重要な手法だが,内因性精神病においては体質に負わせる部分が多くそこにジレンマがあるといえるかもしれない.構造分析が提唱されたのは1920年前後のことなのだが,彼が最終版までこの部分を削除していないのはなぜだろうか.著者はそこが気になっていて,病像から病像成因的要因と病像形成的要因をどうやって見分けたら良いのかという臨床精神病理学の重要な課題を提示しているように思える.構造分析は内村10)が紹介しているように非常に難解だが,改めて吟味してみる価値がある.
5.第5章 身体的基盤の明らかな精神病の構成
 ここでは今日の器質性・症状性・中毒性精神病について論じられている.身体的基盤を有する精神病を推定するための必要条件として以下の4つを挙げている.
 (i)重要な身体所見
 (ii)身体所見と精神病の明らかな時間的関連
 (iii)両者の経過における特定の平行性
 (iv)把握可能な身体的損傷においてふだんも見慣れている精神的病像,つまり「外因性」ないし「器質性」の病像
 彼はここでも統合失調症の外観を呈する病像に注目している.これはもはや「外因性」の病像ではなく,統合失調症性の層が「打ち鳴らされた」かのようにみえる(p.70).精神病が基礎疾患と共に,あるいはその後速やかに治癒しない場合,統合失調症の誘発であったと想定される.また身体的基盤が明らかなあらゆる精神病には,罹患という体験とその結果に対して人が示す心的反応も常に重なって観察されることから,「身体的基盤の明らかな精神病における多くのしばしば目立つ特徴は,体験反応性のものである」(p.76)という.この指摘は著者の臨床経験ともよく合致している.
6.第6章 循環病と統合失調症
 もともとは「精神所見と精神医学的診断」と題されていたもので,「循環病と統合失調症」について各論的に論じたものではない.したがって「統合失調症とは何か」とか「循環病とは何か」を知ろうとして読むと期待外れとなる.元タイトルが示す通り,論じられているのはさまざまな所見と診断との関係についてである.全体は3部構成になっている.
 第1部では「内因性精神病」の診断が医学的意味での診断ではないことが述べられている.(内因性精神病領域における)医学としての精神医学の目標は明らかな身体所見に到達することなのだが,それは見通しのきかない彼方にあるという.循環病と統合失調症の診断は純粋に精神病理学的になされるものであるから,医学的意味での診断(疾患の身体的基盤を明らかにすること)ではない.ここでの診断は鑑別類型学に過ぎない.精神医学的診断は根本的には経過ではなく状態像に基づくという指針もまた身体医学的診断に倣ったものである.ここは経過と転帰を重視したKraepelin, E. との違いでもある.
 第2部では個々の心的機能の異常性から,循環病と統合失調症そして疾患的ではない精神障害との鑑別について詳しく論じている.示唆に富む印象的なフレーズを1つ挙げておきたい.「1つの精神病現象は,それ以外は無傷であるモザイクのなかの,一個の欠けた小石のようなものではない」(p.83)―精神病は常に全体的な変化として把握されるべきで,個々の症状に囚われるのではなく全体的変化を捉えようとすることの重要性を指摘している.この第2部で数多くの精神病理学的用語の解説と鑑別が論じられている.
 第3部は精神医学における「症状」の意味と内因性精神病の鑑別類型学がテーマである.彼は「疾患」同様に「症状」という言葉についても用心深く,これを疾患的な精神障害に対してしか使っていない.異常体験反応や精神病質で述べられてきたものは特徴であって決して(疾患ではないのだから)症状ではないのである.そのうえで精神医学の大前提と特有のアプローチ(生活発展の意味連続性の吟味)から抽出されてきた内因性精神病の領域,つまり統合失調症および循環病は,その身体的基盤がいまだ明らかではないとしても,その状態像は(身体疾患の)症状であると断言している.その身体的基盤を明らかにすることこそが医学としての精神医学の重要なミッションであると,精神医学の進むべき方向性を明らかにしているように思える.統合失調症の一級症状は第3部で紹介されているのだが,循環病ではそのような明らかな形式的異常を抽出することができないため診断学上重視すべき一級症状を提唱することができないことにも言及されている.
7.補遺 感情と欲動の病態心理学概説
 「感情と欲動の病態心理学」は初版の第1論文として収載されていたものだが途中から非臨床的という理由で補遺として本論から外されている.その内容は感情と欲動の総論的なものであるが,補遺として残されていることは臨床に役立つからであると思う.感情とは「直接に体験される自我の性質ないし自我の状態性」で「快・不快という特性によって特徴づけられるもの」という.このように考えると,すぐ気がつくことは感覚・欲動・志向もまた感情成分を備えており,本来これらは分かち難く一体化しているものだということである.異常体験反応,異常パーソナリティにも感情は深くかかわっている.日常生活用語として使われている感情は心的感情と呼ばれているもので,その他に身体に感ずる快・不快を身体感情と呼んでいるところが新鮮である.その分類を整理したものが図5である.著者は患者の感情の状態を評価する際にこれをよく使い重宝している.身体的愁訴が前景となるいわゆる仮面うつ病は不快な身体感情が優勢なものであるとか,習慣的となっている否定的な自己価値感情は生育歴と大いに関係があるとか,感情の状態から臨床的に学べることは少なくない.

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IV.なぜSchneiderの『臨床精神病理学』は米国に浸透しなかったのか
 本書はドイツ本国だけでなく,ヨーロッパ各国そして日本の精神医学に多大な影響をもたらしたのだが,米国にはほとんど浸透しなかったのはなぜだろうか.その答えのヒントは英語版の序文1)に詳しく述べられている.
 序文を記した英国マンチェスター大学のAnderson, E. W. 教授の指摘によれば,内容よりも形式を重視する姿勢が精神分析学から批判を受けていたという.「この方法は,病人について生命を持たない静的な見解へと導くもので,患者の全体的な変わりゆく状況を博物館の展示物に変えてしまう.むしろ必要とされているのは,患者の問題を『理解』すること,そして心理学的な『なぜ』に遡ることで,心理学的な『どのように』を越えることなのである.これは,いうまでもなく精神分析学および関連する『力動』学派の目的である.しかし,多くの精神医学的症状には,なお一層の心理学的分析でも到達することのできない,簡潔に言えば,純粋に心理学的用語ではその全体性において患者の行動を『理解』することのできないレベルが存在するというのが,現象学派の基本的な教義なのである」.Andersonは精神分析学が精神医学に重要な貢献をしていることを認めつつも,精神分析の教義が基づいているものは,実際に検証されていない,それどころか実証不可能な仮説であって,単刀直入にいえばどんなに素晴らしく洞察的であったとしても憶測に過ぎないと批判している.そして次のように現象学的方法論を擁護するのである.「憶測を認めてしまう前に,基本的な臨床的事実がしっかりと確立されなければならない.そして注意深く勤勉に慎重にいわゆる『意識』の水準で解析されなければならない」とSchneiderの意図をよく汲んでいる.さらに力動学派と現象学派の基本的な前提が相反することを認めつつ,両者が実際に歩み寄ることは必ずしも不可能ではないと述べ,晩年のBleuler, E. とKretschmerの名を挙げている.そして敏感関係妄想に言及しているのだが,ここでもSchneiderが述べていたようにKretschmerの素晴らしい描写を讃えながらも,この臨床的一群は統合失調症の弱められた形のものであるという見解を強調している.仮説的な身体的「過程」が比較的軽度であるがゆえに,了解可能な心理的連関と心因の役割が異常に明瞭で一貫しているのであるという.そしてSchneiderの精神医学的なものの見方はKretschmerのそれとは実質的に違うこともまたAndersonはよく理解している.そして米国では「ドイツ精神医学は1つの学派からなり,この学派は厳格で時代遅れで『現代的な』思想と接点のないものであると思われていて,かつての米国の論文に『古い帝国ドイツ精神医学』という表現に遭遇する」という.おそらくKraepelinの初期の論考を指しているのだが,それは確かに厳格であり今や歴史的価値となっていることを否定するものはいないだろう.そのうえで,ここで紹介している現象学は,この厳格性を突破しようとする試みで精神医学における最も重要で革新的な進展の1つをなすものであると主張している.Andersonは,ドイツにはもう1つ重要な学派があることにも言及している.それはMeynert, T. H. に端を発しWernicke, C. を経てKleist, K. そしてLeonhard, K. へと受け継がれた,主に神経学に根ざしているものである.この学派は精神医学の神経学との関係を特に密接なものとみていて精神障害においても局在する脳病変があることを想定している.Andersonのコメントは米国精神医学の当時の状況とドイツ精神医学に対する偏ったイメージをよく伝えており,本書が受け入れられなかった理由の一端がよくわかるものである.
 その後のストーリーを少しだけ補足しておきたい.精神分析学がメインストリームを形成していた米国精神医学は1970年代に軌道修正を余儀なくされる事態に陥る.診断学が疎かになっていたこと(統合失調症の過剰診断)が国際的に明るみに出たことと反精神医学運動は精神医学の信用を失墜させ,精神科医と臨床心理士との職業的ライバル関係が米国精神医学を貫く屋台骨を揺るがし始めたのである7).そのような米国の苦境を救い,革新的診断分類体系として登場することになるDSM-IIIに大きく貢献したのが,当時の米国では少数派の,厳密な現象学に根ざすセントルイス学派(新クレペリン学派)であった6).彼らによってSchneiderの業績の一部が突如表舞台に現れることになる.他でもないSchneiderの一級症状だが,本書の最も重要な第1章の内容はDSM-IIIに反映されることはなかった.精神医学的診断の信頼性を高めるために導入された操作的診断は,現象学の基本である感情移入により記述する方法をあらかじめ排除してしまっていたのである3)

おわりに
 Schneiderの生涯と本書の歴史と注目すべきポイントを紹介した.最後に現代精神医学を担うわれわれは彼の思想をどのように活かしたらよいのか触れておきたい.すでに文献5)で詳しく論じているので,重複を避けるため要点だけを挙げ本論文を終わりにしたい.
 ・身体医学の病名・分類と精神医学のそれとの違いを理解できる.
 ・精神医学における鑑別診断,鑑別「診断」,鑑別類型学,類型学の違いと重み付けをよく理解し患者に説明することができる.
 ・精神障害の3群について,それぞれの研究や治療の進むべき方向性や注意点を認識することができる.
 ・新たなカテゴリー・病名が提唱されたら,それが3群のうちのどれに相当するのか,その参照枠の役割を果たしている.
 ・了解的関連・生活発展の意味連続性を吟味するための感情移入に基づく日々の診療行為は副次的に患者の傷ついた自己価値の回復を促す(精神療法的効果をもつ).
 ・刑事責任能力判定はこの分類体系と親和性が高く,その判断に活かされている.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) Anderson, E. W.: Preface. Schneider K: Clinical Psychopathology, 5th ed. Grune & Stratton, New York, p.v-xiii, 1959

2) Birnbaum, K.: Der Aufbau der Psychose. Verlag von Julius Springer, Berlin, 1923

3) Hempel, C. G.: Problems of taxonomy and their application to nosology and nomenclature in the mental disorders. Introduction to problems of taxonomy. Field Studies in the Mental Disorders (ed by Zubin, J.). Grune & Stratton, New York, p.3-22, 1961

4) 古茶大樹: 臨床精神病理学―精神医学における疾患と診断―. 日本評論社, 東京, 2019

5) 古茶大樹: 精神医学における疾患とは何か―Kurt Schneiderに学ぶ臨床精神病理学―. 精神経誌, 122 (9); 683-690, 2020

6) 古茶大樹: DSM分類の背景にある精神疾患論―セントルイス学派の思想―. 精神医学, 62 (6); 837-845, 2020

7) Mayes, R., Horwitz, A.: DSM-III and the revolution in the classification of mental illness. J Hist Behav Sci, 41 (3); 249-267, 2005
Medline

8) Schneider, K.: Klinische Psychopathologie. Mit einem aktualisierten und erweiterten Kommentar von Gerd Huber und Gisela Gross. 15. Auflage. Georg Thieme Verlag, Stuttgart, 2007

9) SchneiderK. (針間博彦訳) : 新版臨床精神病理学, 原著第15版. 文光堂, 東京, 2007

10) 内村祐之: ビルンバウムの「構造分析」. 精神医学の基本問題―精神病と神経症の構造論の展望―. 医学書院, 東京, p.119-138, 1972

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