Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第123巻第1号

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特集 刑事責任能力鑑定の方法―裁判員裁判における私の実践―
裁判員裁判の功罪
村松 太郎
慶應義塾大学医学部精神神経科
精神神経学雑誌 123: 32-37, 2021

 2009年に開始された裁判員制度は,わが国の刑事司法を画期的に改革するものであった.しかしそれからの10年間に裁判員至上主義が押し進められた結果,審理も精神鑑定もわかりやすさが正確さに優先されるようになり,裁判の最大の責務である真実追究機能が大いに損なわれつつある.

索引用語:裁判員, 精神鑑定, 刑事責任能力>

はじめに
 2009年8月,わが国の刑事司法の歴史における記念すべき第1回の裁判員裁判が東京地裁で実施された.
 著者はその年の9月以来,10年間で15件の裁判員裁判対象事件の精神鑑定を行い,そのすべてで出廷し証言する機会があり,さらに,意見書の提出などの形で別の複数の裁判員裁判対象事件にかかわってきた.本小論では10年を振り返るとともに,未来への展望を控えめに述べてみたい.

I.進化
1.鑑定書の改革
 「鑑定書は,裁判員制度では,一般人である裁判員にとって読みやすく理解しやすいものでなければならない」(2008年,厚労省研究)6)

 重大な刑事事件を,一般人である裁判員が裁判官と共同で裁く.裁判員制度の導入は,戦後最大の司法改革であり,入念かつ多角的な準備が進められた.その1つが精神鑑定の改革であり,厚生労働省の研究班が作成した『刑事責任能力に関する精神鑑定書作成の手引き』(以下,『手引き』)6)はその記念碑的出版物であった.
 精神鑑定が,人を裁くための重要な基礎資料の1つとして扱われる以上,その手法や結論を導く論法に,鑑定医個人や地域などによってばらつきがあるようでは公平性が保てず不適切である.しかしながらそもそも精神医学の標準化が困難であることも反映して,精神鑑定の標準化は永遠の課題などと呼ばれるままに何の進展もみられない状況が何十年も続いていた.そんな状況を解決するいわば良い意味での外圧として裁判員制度は作用した.一般人である裁判員が最終判断をする制度である以上,鑑定書は彼らに理解できるものでなければならない.この絶対条件を軸とすることで,標準化は司法精神医学における時限付きの必須課題となった.精神医学がいかに専門的に質の高い説明を提示しても,裁判員に理解できなければ鑑定としての役割を果たすことができない.『手引き』6)にはこう記されている.
 鑑定書が短い公判期日のなかで証拠として採用され,さらに法廷で朗読される可能性もある.そして一般人である裁判員にも理解されなければならないので,鑑定書はできるだけ簡潔で理解しやすいものである必要がある.しかし,同時に従来の精神鑑定が大切にしてきた,専門性の高い考察の精緻さなどを失ってはいけない.その両立を求める必要がある.
 かくして,『手引き』6)に標準的な書式が提示された.裁判員制度導入による,司法精神医学にとっての最大の「功」が,精神鑑定の標準化へのこの力強い歩みであった.

2.審理の改革
 「裁判官,検察官及び弁護人は,裁判員の負担が過重なものとならないようにしつつ,裁判員がその職責を十分に果たすことができるよう,審理を迅速で分かりやすいものとすることに努めなければならない」(2004年,裁判員の参加する刑事裁判に関する法律51条)(下線は著者による)
 「わかりやすい」が裁判員制度最強のキーワードであった.
 裁判員にわかりやすい裁判という目標に向けて,司法界ではあらゆる努力が実践された.精神鑑定との関係では,裁判員制度導入前に実戦さながらの模擬裁判が繰り返され,よりわかりやすい精神鑑定のあり方についての議論が熱心に行われた.制度施行開始後も改善が重ねられ,精神鑑定については2つの手法が発展し,間もなく定着した.
 第一はカンファレンスである.
 裁判には,公判すなわち公開の法廷で行われる審理の前に,公判前整理手続と呼ばれる準備段階がある.精神鑑定が行われた事件では,この段階に,鑑定医,検察官,弁護士,そして場合によっては裁判官も一堂に会したカンファレンスが実施されるのが定法になった.このカンファレンスは,法曹が鑑定書を,そして精神医学を,どのように理解しているかを知る貴重な機会となった.精神医学についての大きな誤解があることが明らかになることも少なくなかった.だが彼らの「誤解」は,本当に誤解なのか? 現代の精神医学のうち,科学的とされている部分はいわゆるエビデンスに基づいているが,それは統計的な事実にすぎず,目の前の特定の一人の個人について正しいとは限らない.一方,科学的でない部分はほぼ伝統芸能であり,先人からの継承知識にすぎないから,迷信に近いこともあるが,逆に信頼度の高い臨床知であることもある.すると,今このケースに適用できる真に正しい精神医学的知見は何か.鑑定結果を真摯に説明しようとすれば,鑑定医はこの問いに直面し,異分野の叡智である法曹からの鋭い批判に応えなければならない.カンファレンスは刑事裁判をより良くしたばかりでなく,精神医学を根本から見直しうる稀有な場にもなった.
 第二はプレゼンテーションである.
 裁判員裁判では,法廷で鑑定医がパワーポイントを用いて,鑑定結果を説明するのが定法となった.
 従来は,鑑定結果を正式に(公判記録に残る形で)鑑定医が説明する機会は,一問一答の形でなされる尋問に限られていた.裁判には真実発見と当事者双方の争いという2つの側面がある.争ってこそ真実が発見できるという基本思想はおそらく正しいと思われるが,尋問は争いという色彩があまりに強く,真実発見からは遠ざかるばかりで,鑑定内容が誤解され,時には歪曲されることも少なくなかった.それに対しプレゼンテーションは,鑑定医が主導権をとり,精神医学的な説明を順序立てて行うことができるから,鑑定結果の伝達という目的のためには尋問方式よりはるかに優れた形式である.プレゼンテーションの後には従来と同様に尋問が行われるのであるが,論点が逸脱する尋問は話をわかりにくくするばかりで利がないこともあり,不毛な尋問は激減した.前述の『手引き』6)には,鑑定書が朗読される可能性にも言及されていたが,蓋をあけてみるとそのような事態にはならず,鑑定書そのものは証拠として裁判所には提出されず,プレゼンテーションのみが鑑定結果として扱われるようになった.すると「わかりやすい」プレゼンテーションが説得力をもつのは当然であって,精神鑑定の価値としてもわかりやすさが占めるウエイトが非常に大きなものになっていった.

3.進化への期待
 「淘汰なくして進化なし,排斥なくして正確さなし」(2014年,著者)4)
 鑑定結果が理解されやすく説得力をもつようになったことは,しかし,裁判として望ましいことであるとは限らない.なぜなら,あらゆる医学的判断と同じように,精神鑑定は誤っていることがあるからである.精神鑑定は被告人の運命を大きく左右する力をもっているのであるから,誤った精神鑑定が裁判で採用されてしまうようなことがあれば社会への害悪になる.すると,精神鑑定で最も重要なことは,誤っていたら排斥されることであり,最悪な精神鑑定とは,複雑でわかりにくい精神鑑定ではなく,「誤っているが,簡明で,わかりやすく,素人にとっては説得力がある鑑定」ということになる.わかりやすいことは必要である.だがわかりやすさとは,正確さが担保されてはじめて意味を有する.正確さの担保のためには,誤った精神鑑定が排斥されるシステムがなければならない.
 『手引き』6)で推奨された簡潔な鑑定書は,裁判員が読む,あるいは法廷で朗読されることを視野に入れてのものであった.だが実際の裁判員裁判の法廷ではプレゼンテーションがすべてになり,鑑定書は公判前に検察官と弁護人が,そして時には裁判官が読むための文書になった.鑑定書が鋭く批判を受けられるのはこの段階であり,すると簡潔であることは不要で,むしろ不適切である.十分に厳しい評価を受けるためには,鑑定書は簡潔なものであってはならない.簡潔では正確か否か判断のしようがなく,誤った精神鑑定が淘汰されない.「淘汰なくして進化なし,排斥なくして正確さなし」は,2014年,「裁判員裁判と精神鑑定―施行後4年を振り返って」と題された日本司法精神医学会大会のシンポジウムでの著者の演題名である4).『手引き』を第一歩として,実際の裁判員裁判が重ねられるにつれて,精神鑑定のあり方は徐々に変化していった.詳細かつ精緻な鑑定書への回帰.それは鑑定書の質の向上や,精神科医が鑑定を行う意義という点からも望ましいと考えられた.

II.退化
1.証拠の退化
 「裁判実務の専門家でない国民の皆さんが刑事裁判に参加するのですから,争点の判断に必要な証拠を厳選して証拠調べを行い,…」(裁判所ホームページ;裁判員制度Q & A)7)(下線は著者による)
 鑑定書そのものは詳しく,そしてプレゼンテーションはそのエッセンスをわかりやすく.この理想は,しかし,稀にしか実現できないことが明らかになってきた.理由はに視覚化される通り,裁判員裁判が2段ロケット方式のシステムであることによる.真実に到達するためには,科学ならローデータから,事件なら膨大かつ複雑な事実のなかから重要な証拠を選別していくことが必要で,この選別自体が広く深い洞察を要する作業である.そして時には,いったん選別した後にも,ローデータに立ち返ることも必要になる.こうした作業なしには真実に到達することは不可能である.すなわち,図aのように,裁判官裁判の法廷での公判とは,膨大かつ複雑な事実と連続的に存在するものである.
 それに対し裁判員裁判では(図b),法廷外の公判前整理手続において証拠の多くは削除され,裁判員はそうした証拠の存在を知らされず,公判は膨大かつ複雑な事実からは切り離された空間で進行する.そこでは簡潔でわかりやすい議論が可能になるが,その簡潔さ・わかりやすさはいわばお膳立てされて裁判員に与えられたものにすぎない.
 裁判員の負担を軽減し,裁判員にわかりやすい審理にするために,公判前の段階で,証拠は「厳選」されるのである.上記裁判所ホームページの主旨は,「証拠は厳選されるから,裁判員は多くの書類を読む必要はない」というメッセージで,このメッセージの内容は確かに事実である.だが厳選とは裏を返せば削除である.図bに示した通り,公判すなわち2段目のロケットをわかりやすいものにするために,裁判員裁判では膨大で複雑な事実が厳選の名のもとに削除される.そうなれば公判が「わかりやすい」のは当然である.しかし複雑でわかりにくい事実のなかに,真に重要な証拠が含まれていることは往々にしてありうるが,2段ロケット方式を採っている以上,公判が始まってしまえば,それらにアクセスすることはもはやできない.わかりにくいという理由で膨大な事実を切り離してしまっては,真に正しい判断は不可能である.
 この状況は精神鑑定のあり方にも影を落としている.例えば,幻聴を「声」,妄想を「思い込み」と言い換えて説明すれば,裁判員にはわかりやすく,裁判官からは歓迎される.だがその説明には,自我障害という統合失調症の本質部分が削除されている.すると内因性精神病の深い精神病理が軽視されるという,かねてから指摘されていた深刻な問題5)がさらに顕著になるが,そんな「わかりにくい」病理は切り離して進行するのが裁判員裁判の法廷なのである.「わかりやすい」ことは裁判において必要であるとしても,それ自体が裁判の目的ではありえないはずだが,裁判員制度が進行するに従って,「わかりやすい」がキーワードからドグマに昇進していったのである.

2.真実発見機能の退化
 「責任能力の結論に直結するような形で弁識能力及び統御能力の有無・程度に関して(鑑定人が)意見を示すことはできるだけ避けることが望ましい」(2009年,司法研修所)10)
 鑑定医と責任能力については,微妙な関係が長年にわたって維持され続けている.鑑定を行う目的が責任能力判断であることは言うまでもないが,責任能力が法的事項である以上,医学者である鑑定医には決して到達できない.しかし刑事裁判の実務では,鑑定医による責任能力判断が明に暗に強く要請されるのが現状である.
 司法研修所が「責任能力について鑑定人が意見を示すことはできるだけ避けることが望ましい」と明言した10)のは,鑑定医と責任能力の微妙な関係を不健全であると断じた正義の忠告であるかのように響く.だがこの忠告は,少なくとも2つの理由で受け入れ難い.
 第一の理由は昭和58年の最高裁の決定のなかにある.責任能力とは「究極的には裁判所の評価に委ねられるべき問題である」という有名な最高裁判所第三小法廷決定は8),鑑定医に責任能力についての意見を示すことを禁ずる根拠として引用されることがしばしばあるが,それは「究極」という言葉の解釈を誤っている.「究極的評価」とは,判断のために必要な意見を広く聴取したうえで下す評価であって,専門的な事項について専門家の意見を制限して下す評価は「究極」ではなく「独善」である.
 第二の理由は,司法研修所自身の言葉のなかにある10).鑑定医が責任能力についての意見を示すことを避けるべき理由としてそこに述べられているのは,「専門家の意見が裁判員の判断に影響を及ぼすことが懸念されること」である.実に面妖かつ無礼な物言いである.誘惑の危険がある情報からは遮断するという意味で裁判員を子ども扱いしており,専門的意見を求めておきながら発言を制限するという意味で鑑定医を道具扱いしている.
 現在のわが国の責任能力概念は,20世紀前半に定められたもので,当時は脳波さえまだ一般化していない時代である.脳は完全なブラックボックスであった.それから100年近くが経過した今,ニューロサイエンスが飛躍的に進歩し,「弁識能力」 「行動制御能力」,さらには倫理道徳を脳の機能と切り離して論ずることは不可能な時代がすぐそこまで来ている2).裁判所の究極的な評価が時代から取り残されたものにならないためにも,責任能力については脳機能を視野に入れて十分に議論することが必要で,その絶好の場である公判廷において専門家の意見を遮断するのは鎖国政策と同等の愚行である.
に示した2段ロケット方式の致命的とも言える弊害.それは,真に重要な情報が切り離されていることである.裁判員裁判というシステムそのものに内在するこの弊害が,責任能力判断という局面に象徴的に立ち現れている.2段ロケット方式を採れば,公判での審理は必然的にわかりやすくすることができるが,真実の発見からは遠ざかるばかりである.

3.刑事司法の退化
 「裁判員として参加したことにつき,「非常によい経験」又は「よい経験」と感じたと回答した裁判員経験者の割合は,…95%を超えている」(2019年,最高裁)9)
 そして2019年,『裁判員制度10年の総括報告書』が最高裁から出された9).その冒頭に紹介されているのは,裁判員経験者の満足度である.裁判員経験者が制度を肯定的にとらえることが,制度評価の重要な一項目であることは理解できる.しかしそこには,裁判員は,裁判員制度の当事者ではないことが無視されている.裁判の当事者は原告と被告であり,裁判員は本来的には脇役である.裁判の成功の指標は裁判員の満足度ではなく,一般国民からの評価でなければならない.その観点からすれば最も重要視しなければならないのは,裁判員候補者の辞退率が上昇中であるという事実である.今や辞退者は3人に2人である.『裁判員制度10年の総括報告書』9)には,一般人に対するアンケート結果もあり,そこには裁判員制度導入後に刑事裁判の印象についての「身近である」「手続きや内容がわかりやすい」などの項目が大きく好転したことが強調されているが,現に辞退率が上昇しているのであるから,知名度は上がったが受け入れは不良であるというのが厳然たる事実である.裁判員という新奇な制度導入直後の時点では,裁判員を主役にしたキャンペーンをすることも許されよう.しかし施行後10年でまだキャンペーンをし続けているのは,社会の常識からは大きく逸脱している.もしこれが国民を対象にした何らかの商品にかかわる事項であれば,もはや発売中止が相当である.
 しかも裁判員は主役に祭り上げられているだけで,決して主役として尊重されているわけではなく,子ども扱いされている.難しい事実は切り離し,わかりやすい事実だけを裁判員に見せ,議論をさせる.そして裁判官は裁判員にほほえむ.よい議論ができたと称賛する.これは学級会の評価であって,大人の議論の評価ではない.

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おわりに
 10年が経過し,「わかりやすさ」はドグマからさらに簒奪し,裁判員制度が到達したのは裁判員至上主義であった.「わかりやすさ」を前面に出しての裁判員誘致キャンペーンは今も続けられている.法廷の風景だけをみれば,それは成功を収めているようにみえる.裁判員は,良い経験だったと満足し笑顔で法廷をあとにしている.だがその陰で当事者は泣き寝入りしている.「あまりにも裁判員が主役になっているのでは…全ての事実が明らかにならないと,遺族の後悔はなくならない」.被害者ご遺族の悲痛な声である1).「証拠をむやみに削ることは,確信に至る判断に困難を生じさせ,かえってもやもや感を与えることになる」.達見に溢れた検察官の指摘である3).いずれも,真実発見という裁判の重要な機能の弱体化を的確にとらえ,本来の機能の回復を切に求めている.
 そんな制度を主宰者は自画自賛している.『裁判員制度10年の総括報告書』9)には,裁判員制度の導入によって,「核心司法」「公判中心主義」に向けて裁判は進化しつつあると記されている.公判廷で事件の核心に絞って審理するという刑事裁判本来のあり方が達成されつつあるというのだ.だがそれは図に示した2段ロケットの先端部だけを拡大鏡でみての話にすぎない.膨大で複雑な事実を切り離すことによって,「公判中心」の「核心司法」なるものは成り立っている.何を切り離し何を残すかは裁判の結論に直結する重要な判断であるが,その過程は裁判員に知らされることはない.裁判員は法曹三者の手のひらの上で踊らされていることを知らぬままに,良い経験だったと満足している.
 裁判員法第1条には,「司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上」がうたわれている.確かに裁判員制度によって,司法と国民の距離は近づいた.鑑定医と法曹が交流する機会も格段に増えた.大部分の国民にとって別世界であった刑事裁判について真剣に考える機会をもつ人々が増えた.国民の理解の増進という局面において,裁判員制度は大成功を収めたと言ってよいであろう.しかし理解の増進と信頼の向上はパラレルに進むものではない.政治でも,会社でも,医療でも,人々の理解がまったく不十分な段階では,非現実的な美化や信頼が維持されていることはしばしばある.そして理解が進むと,どんな制度にも内在する欠陥や醜い面がみえてきて,信頼はいったんは下落する.真の信頼はそうしたネガティブを乗り越えた先にある.裁判員制度は10年を経過し,欠陥が露わになり,信頼下落のステージに入っている.ところが主宰者は欠陥から国民の目をそらすキャンペーンを続行している.それは裁判員制度そのものだけでなく,司法を誤った方向に進めている感さえある.『裁判員制度10年の総括報告書』9)には,裁判員裁判に限らず判決文の理想は簡潔であることが当然であるかのように述べられ,逆に詳細化することの回避が強く示唆されており,目を疑う.司法の理解と真の信頼をめざすのであれば,裁判の結論として公開される判決文は,批判可能なものでなければならない.すると簡潔であることは不要で,むしろ不適切である.十分に厳しい評価を受けるためには,判決は簡潔なものであってはならない.簡潔では正確か否か判断のしようがなく,誤った判決が淘汰されない.判決文も精神鑑定も,十分に詳細で,厳しい批判を受けられるものでなければ,正しい進化はありえない.いま,裁判員制度は,精神鑑定を,そして刑事裁判を,退化に向けて突き進めている.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 中日新聞2019年5月19日.

2) Glenn, A. L., Raine, A.: Neurocriminology: implications for the punishment, prediction and prevention of criminal behaviour. Nat Rev Neurosci, 15 (1); 54-63, 2014
Medline

3) 毎日新聞2019年6月22日.

4) 村松太郎: 淘汰なくして進化なし, 排斥なくして正確さなし. 司法精神医学, 9 (1); 85-89, 2014

5) 中島 直: 内因性概念と司法精神医学. 臨床精神医学, 40 (8); 1097-1103, 2011

6) 岡田幸之ほか: 刑事責任能力に関する精神鑑定書作成の手引き 平成18年~20年度総括版(ver. 4.0). 平成18年~20年度厚生労働省科学研究費補助金(こころの健康科学研究事業)他害行為を行った精神障害者の診断, 治療および社会復帰支援に関する研究 分担研究 他害行為を行った者の責任能力鑑定に関する研究.

7) 最高裁判所: 裁判員制度 裁判員になったらどのくらいの資料を見なくてはならないのですか. (http://www.saibanin.courts.go.jp/qa/c4_10.html) (参照2019-12-18)

8) 最高裁判所第三小法廷決定. 1983年9月13日

9) 最高裁判所事務総局: 裁判員制度10年の総括報告書. 2019年5月

10) 司法研修所編: 難解な法律概念と裁判員裁判 法曹会, 東京, p.42, 2009

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