Advertisement第121回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第118巻第12号

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特集 東洋的叡智と心理療法―思想,方途と目的地―
東洋的自然論と森田療法
北西 憲二
森田療法研究所/北西クリニック
精神神経学雑誌 118: 895-902, 2016

 精神療法は密接に文化と関連する.現代では西欧の知,あるいは自然科学的考えが世界を席巻している.その知の代表として,精神分析,行動療法,認知行動療法がある.それらはコントロールモデルであり,自我の強化を通して葛藤や症状をコントロールしようとするものである.森田療法はそれと対極的な考え方に立っている.森田療法では東洋における人間理解,私たちの精神(意識),身体,内的自然が一体であるという心身自然一元論がその基礎をなす.そして自我やそれを裏づける言語に対して限定的に考え,関係論(すべての現象は相互の関係から生じてくる)が森田療法の人間理解の中核となる.本論文では,①森田療法の基本的な考え方を明らかにし,②森田療法における自己の構造とそこでの受容と行動の変容を示す.森田療法における自己の構造は,心身二元論ではなく,精神,身体,内的自然(あるいはいのち)が分かちがたく相互に開かれている.森田療法では精神(意識)は身体/内的自然(無意識)と比べればきわめて限定した存在である.このような点からは,他の精神療法によくみられる言語的な解釈のみの効果については疑問が生じてくる.森田療法は,身体/内的自然への接近を試みる治療法である.それを森田療法では「自然随順」と呼ぶ.そこでは恐怖(自然なもの)は恐怖として受け入れていくことが,その人の生きる欲望(自然なもの)を感じ,発揮していくことにつながっていく.恐怖は私たちの思い通りにならないことを自覚することにより,生きる欲望の自覚と発揮が可能となる.このような状態が“あるがまま”であり,そこでは恐怖と欲望がダイナミックに関連している.あるがままは,恐怖の受容という点でマインドフルネスの考え方と同じである.他方あるがままは,生の欲望という概念から,ダイナミックな回復を想定する.これは現代におけるナルシシズムの解決にもきわめて有用な概念である.

索引用語:森田療法, 東洋的自然論, あるがまま, マインドフルネス>

はじめに
 人間と自然との関係を,科学的思考と自然的思考に分けて考え,そこから森田療法の基本的な考え方や治療論を検討する.
 ここでの自然は人間と連続的で,学ぶ対象であり,科学的思考では,自然は対象化され,分析の対象となる.多くの西欧の精神療法は,この科学的思考の範疇で理解できよう.
 自然的思考から精神療法を考えると,2つの重要な視点がもたらされる.1つは,流動性(無常)という視点である.私たちの心身の状態や現実は常に流動する.その流動,変遷,変化に対して,「そうあってはならない」という自己意識のあり方が,とらわれを生み,それが私たちの苦悩を強めるという理解である.
 そこでは私たちの心身の状態,そして現実をあるがままに認めていく認識のあり方を問うことになる.日本でも注目を浴びているマインドフルネスとの類似を見いだすことができる.
 2つ目は自己のあり方についてである.私たちが,内的自然(おのずからなるもの)を感じ,それを発揮することを妨げているのが,肥大した自己意識(「べき」思考)であると理解する.
 ここから私たちは東洋的自己論を展開することが可能となり,それはそのまま現代社会における自己愛や強迫の病理とその解決を論じることを可能とする.そこでの鍵概念は,「死の恐怖」と「生の欲望」であり,現代社会では,死の恐怖(生病老死)をコントロールしようとして,本来の人間の生き方を見失っている,とも考えられる.

I.自然的思考と科学的思考
 自然的思考に関して,鈴木大拙は本質的な指摘をしている15).鈴木は,芭蕉の俳句の引用からその論を展開する.
  
 「よく見れば薺花咲く垣根かな」
  
 ここでは,自然と一体となって,自然の鼓動を一つ,一つ自分の血管を通じて感得するとする.つまり事実の知り方として,自然に入り込み,そこと一体になって,知る事実があるのである.
 一方,西欧の詩人として,テニスンを挙げる.テニスンは同じ花を愛でることでも異なった態度をとる.
  
 壁の割れ目に花咲けり
 割れ目より汝を引き抜きて
 われはここに,汝の根ぐるみすべてを
 わが手のうちにぞ持つ
 おお,小さな花よ
 もしわれ,汝のなんたるかを
 根ぐるみ何もかも,一切すべてを
 知り得る時こそ
 われ神と人のなんたるかを知らん
  
 この詩を読んでもらえば容易に理解できるように,花を引き抜き,それを科学的客観に基づいて分析しようとする.つまり花を対象化し,分析し,それを客観的に知ろうとする.これが西欧での事実の知り方である.この認識論の枠組みの中に,精神分析,行動療法,認知行動療法などが含まれよう.
 それと対照的に,芭蕉は徹頭徹尾「主観的」である.花と芭蕉はそのまま一体となり,そこで花そのものを芭蕉は知ることができるのである.それが自然的思考で,自然論の基盤となるものである.この系譜にマインドフルネスが入ってこよう.

II.自然論と自己のあり方
1.自己のあり方と自然の関係
 森田は次のように自らの精神療法の特徴について述べる5)
  
 「本療法の実質は,心身の自然療法であって,これをまた体験療法とも見ることができる」「患者の実証,体得によって,自然に服従することを会得させようとするものであって,根本的の自然療法である」
 「われわれの身体及び精神の活動は,自然の現象である.人為によりて,これを左右することは出来ない」
  
 森田にとっての事実とは,自然の現象そのもので,治療の着眼点は,自然(事実)に服従し,ありのままに受け入れること,自然(事実)そのものを体験することである.それが事実を知ることである.この発想は私たちの葛藤のあり方を「人為」と「自然(事実)」の相克に見いだしていくことになる.私たち人間が,自然である心身の活動を自分の思うように支配しようとし,それが苦悩を作るという.これが反自然的なあり方で,鴨川の水を上に押し流そうとするような不可能なこと(できないこと)に取り組むようなものである.そこには厳しい人間の思い上がり,肥大した自己への鋭い批判も含まれている.これはそのまま老荘思想につながり,そして現代人の肥大した自己愛の病理の理解とその解決に結びついていく.

2.心身自然一元論と自己の構造
 では自然な身体や精神の活動はどのように知ることができるであろうか.
  
 「精神の研究は,必ずこれを外界と自我との相対の間に求め,その変化流動の内に研めなければならない」5)
  
 私たちの心身の自然な活動は,生活世界と自己(自我)との関係から知ることができるとする.私たちが生活世界にかかわるときに,心身の自然な反応(経験)が起こり,それを人為によって支配することができないとする.
 ではその心身の自然な反応とはどのようなものであろうか.
  
 「私の神経質に対する精神療法の着眼点は,むしろ感情の上にあって,論理,意識などに重きを置かないものであるから,さらに感情のことについて,少し説明を加えておかなければならない」5)
  
 つまり私たちのその時々の心身の自然な反応の中心的なものは感情であり,その感情体験とどのようにかかわるか,について精神療法の着眼点があるのである.
  
 「斯くあるべしといふ,猶ほ虚偽たり.有るがまゝにある,即ち眞實なり」12)
  
 そして反自然なもの,あるいはそのようなあり方に陥りやすいものとして,論理,意識を挙げている.つまり徹底した自然論に基づいた精神療法であり,そこでは常に「かくあるべし」と私たちを縛っている思考のあり方(以後「べき」思考と呼ぶ)を問うのである.
 ではそこでの心身の関係はどのようなものだろうか.
 森田は心身の関係について次のように述べる.
  
 「即ち心身は同一物の両方面であって,只表裏の観方を異にするという迄の事である」4)
  
 つまり生活世界とのかかわりから生じる心身の反応とは,精神的なものと身体的なものを含んでおり,しかもそれらは分かちがたく結びついている.
 森田療法家が患者とともにその自己のあり方を知るための探求手段として,次のようなことが挙げられる.
 ①生活世界とのかかわりから生じる心身の反応やその活動を通してのみわれわれの自己のあり方を知ることができる.そしてその活動を通して,世界,現実を知り,経験することができる.
 ②それらの反応や活動の中心は感情体験であり,それは自然なものである.
 ③この精神療法は,感情体験とそこへのかかわりにその焦点をあてていく.
 ④肥大し,硬直した論理,意識,思想(「べき」思考)のあり方は反自然的で,われわれの苦悩を作り出す.この「べき」思考は,自己愛や強迫の病理を理解する上で重要である.
 ⑤心と体,そして内的自然は同じものの異なった表現形であり,それらは一体のものである.それを心身自然一元論と呼んでおく1)2)
 つまりここから導き出される自己の構造として,精神(意識),身体,そして内的自然が含まれる.森田療法の介入法の基本的枠組みは,①心身の反応(身体,内的自然に近い経験)をそのまま,受け入れ,直接それを経験することを援助する,②そのためには,自己意識,なかでも「べき」思考への介入を必要とする,③生活世界への直接的かかわり,すなわち行動への介入も同時に行う,ということになる2)

III.生の欲望と死の恐怖
1.欲望と恐怖の関係から
 森田は人間の心身の現象を欲望論,すなわち「生の欲望」と「死の恐怖」という2つの対立する事象の拮抗,あるいは抗争から理解しようとした.この欲望論は,常に恐怖を内在し,それは,一方が存在しなければ,他方の存在し得ない関係にある.それらは現象的にしばしば相反し,時に抗争する関係である.これが森田療法の欲望論の本質的特徴となる.
 森田はそれらの関係について,次のように述べる.
  
 「我々の最も根本的の恐怖は,死の恐怖であって,それは表から見れば,生きたいという欲望であります.これがいわゆる命あっての物種であって,さらにその上に,我々はよりよく生きたい,人に軽蔑されたくない,偉い人になりたい,とかいう向上欲に発展して,非常に複雑極まりなきわれわれの欲望になるのである」6)
  
 つまり恐怖の背後に,生きたいという欲望があり,それらは命あっての物種という生命的レベルからよりよく生きたい,偉くなりたいという社会文化的レベルまでが含まれていることがわかる.しかしここで重要なことは欲望と恐怖のダイナミズムである.
 森田療法における欲望論では,2つの相反すること,象徴的にいえば死と生,死滅と再生が対となっており,それらは生活世界の直接的経験と連動しながら,流動し,変化している.この欲望と恐怖の力動と心身の流動性とは深く結びついている.
 これが森田療法の欲望論の理解であり,それをありのままに経験することが森田療法の治療目標となるのであるが,反自然的な欲望のあり方とはどのようなものであろうか.それがわれわれの苦悩を作り,それを固着させることにもなるのである.つまり「とらわれ」のもとになる欲望のあり方である.
 つまり欲望にも2つのあり方があり,本来のあり方はそれをそのまま経験し,発揮するものであり,他方では,とらわれに奉仕してしまい,空回りしているようなあり方である.

2.欲望の矛盾―思想の矛盾との関係から
 では,この反自然的なあり方とはどのようなものか.
 原始仏教では,われわれの苦しみとは「自己の欲するがままにならないこと」 「自己の希望に副わぬこと」13)と理解する.そして苦しみとはわれわれがとらわれていて,自由にならざる境地にあることを意味する.つまりすべてのものが無常である(自然である)のに,われわれは事物をすべてわがものであると考え,執着している(反自然なあり方).それゆえ,苦しむのである.この人間の苦悩に対する理解は,ほぼ森田療法でも共通するものである.これを著者は我執として捉え,そこに現代人の肥大した自己意識を見て取り,その解決をめざすのが,森田療法であるとした1)
 では原始仏教でつかんだ人間の苦悩を森田療法ではどのように理解するのであろうか.それは当然のことながら,自然-反自然という軸から理解していく.
 森田は森田療法の原理として,思想の矛盾の打破を挙げ,まず思想の矛盾を「かくありたい,かくあらねばならぬと思想する事と,事実即ちこの想像する結果とは反対となり,矛盾することに対して,余が仮に名付けたものである」とした5)
 すなわち,観念(思考)で現実,心身の内的自然を「かくあるべし」と決めつけ,自分自身を縛っているあり方は虚偽であり,あるがままの現実,心身のあり方を事実として知り,それを受け入れていないのだ,と鋭く論破する.そしてこの観念,思考と現実,内的自然,身体などとの抗争こそがわれわれの苦悩の源泉であるとした.
 そしてこの「べき」思考に特徴づけられた自己のあり方を「理想の自己」(かくあるべし自己),われわれの身体,感情,欲望などの自然なものを担う自己を「現実の自己」とし,そこでの葛藤,抗争を森田療法の基本的葛藤の様式として理解する.「理想の自己」が反自然的な自己のあり方となると,「現実の自己」を受け入れられずに葛藤し,苦悩する.
 あるいはこのようにいえる.欲望は恐怖を内包し,それ自体分かちがたいものだが,その恐怖をあってはならないと決めつけ,それをなくそうとすること自体が,欲望の自己矛盾である.あるいはここでいう「べき」思考の奉仕者に欲望がなってしまい,空回りして,苦悩している事態であるともいえる.これが森田のいう「思想の矛盾」で,反自然的な自己のあり方である.この視点は,自己愛や強迫の病理を理解し,そこへの介入を行う上でも重要である1)2)
 そして森田療法において欲望論からは,恐怖に執着しているような欲望のあり方を修正し,本来の欲望と恐怖のあり方をそのまま経験するように,森田療法では介入していく.その焦点は,ここで述べたような反自然的な自己意識を相対化,無力化するとともに,自然な行動,行為(行為論)への介入を必要とする.森田療法の介入法はそこにぴたりと焦点があてられていく.では自然な行動,行為とはどのようなものであろうか.次に森田療法の行為論を検討する.

IV.行動論
 森田が好んで述べる森田療法の行動のあり方,生活世界へのかかわり方である「無所住心」5)「物の性を尽くす」9)「感じから出発する」10)とはどのようなことなのであろうか.

 「本当の大悟徹底は,恐るべきを恐れ,逃げるべきを逃げ,落ち着くべきを落ち着くので,臨機応変ピッタリと人生に適応し・あてはまって行くのをいい,人間そのものになりきった有様をいうのである.
 心悸亢進でも,梅毒恐怖でも,当然恐るべきを恐れ,注意し用心すべきを用心するのが,『事実唯真』である.恐るべきを恐れてならないというのを『思想の矛盾』といい,悪知といい,それは決して人間の心情の事実ではないのである」7)
 「一度自覚ができた時は,初めて我々は,自分を主義や型にあてはめる事は,全く不可能であるという事が,明らかにわかり,クラゲの生活のように,自然のままにある時は,大安楽であるという事がわかる.それで私の『自然に服従し,境遇に柔順なれ』と文句ができる.それは例えば,いま私が腹がへった,それを『苦しいと感じ,食べたいと思ってはならぬ』といわずに,その感じ考えのままに従っているのを,『自然に服従』といい,しかし,いま私は腹を悪くしているから,食べ過ぎてはならぬと,その通りに我慢している事を,『境遇に柔順』というのである.これが感じと理知との自然の状態であって,最も安易な心の態度であるという事を,体験によって,豁然と大悟する事があるのである」8)
  
 森田の行動論は「自然に服従し,環境に従順なれ」から始まる.それは自分を型や主義にあてはめず,クラゲのように環境に対して自然のままの自在な行動の重要性を指摘する.そこでは「恐れるべきを恐れ,逃げるべきを逃げ」という生活世界と密接に関連した行動であり,それ自体は思考,認識から行動を規定するのでもなく,刺激に対する反応として行動を理解するわけでもない.
 森田のいう「純なる心」11)「無所住心」は,自然な私たちの本能,無意識(身体,内的自然なレベル)がいかに環境と密接な関係をもって,驚くべき微妙さをもって,そこに適応しているか,を示している.そこでは私たち自身の活動が活発で,常に生活世界と連動する自由自在の動きである.

V.とらわれ(悪循環)とあるがまま
1.とらわれ
 森田療法では苦悩の原因を探求するのではなく,さまざまな心的現象の関係のあり方に焦点をあてる.関係論である.その代表としてとらわれ(悪循環)がある.
 そのとらわれの心理を新福は「不安になった自己が自己自身を観察し,意識し,それを承認できないでもだえているような内向的,非行動的なありかた」として,見事に描き出した14)
 とらわれとは,2つの要因から構成される.1つは不快な心身の状態に自己の注意が引きつけられ,いわば視野狭窄という様相を呈している.それとともに,それを承認できない(「べき」思考)とそれを何とかしたい,という力動が働いている.それが視野狭窄をさらに強めるのである.
 その何とかしたいという方向に本来生きることの原動力となる生の欲望が向かって空回りしている事態と理解できる.その解決が「あるがまま」である.

2.あるがままの経験とは
 森田療法では「あるがまま」が重要なキーワードであることは論を待たない.その「あるがまま」とは森田のいう心的事実をありのままに経験することであり,まず問われるのは,その心的事実であり,次にそれに到達する介入法,技法である.
 その心的事実をまとめると次のようになる2)
 ①恐ろしいものは恐ろしい,それはどうにも仕方がない心の事実であり,それをそのままに受け入れ,経験することがあるがままの1つの側面である.
 これがマインドフルネスの経験であろう.あるがままには,②に述べるもう1つ重要な経験が含まれている.それが生活場面で発揮されるときに,その2つが連動して悩みからの回復へと導くのである.
 ②その苦悩になりきったときに,それと連動して生きる欲望が自覚され,生活世界での行動として発揮されるようになる.
 ③それは常に変化し,流動する経験であり,それ自体が全体的で,創造的な変化である.このように生の欲望と死の恐怖をあるがままに受け入れ,感じ取ったときに,この2つが密接に関連しながら,私たちの生きるダイナミズムを作っていくのである.

3.あるがままに至る方法―事実を知る方法2)
1)「べき」思考への介入
 あるがままに至るには,2つの領域への介入を通して行われる.まず「べき」思考を修正し,心の事実をありのままに受け入れることが,心の事実を知り,経験できる方法となる.それは自己意識を「削ること」であり,「べき」思考の相対化,すなわち受容の促進である.他は,生の欲望と関連した行動への介入である.
2)行動への介入―世界に直接かかわること
 ○○したい気持ち(生の欲望)を感じたら,それにすーっと乗って,現実世界に踏み出すことを助言する.行動論のところですでに述べたが,直接,判断なしに生活世界に踏み出し,そこでの直接経験を何よりも重視するからである.それが森田療法の「あるがまま」に至るもう1つの方法であり,それを著者は「ふくらますこと」と呼び,そのためには「行動の変容」への介入が必要であるとした2).そして「べき」思考の相対化(「削ること」)なしには,このような自在な行動は困難で,またこの「行動の変容」を通して「べき」思考の相対化がなされるのである.

4.あるがままとマインドフルネス
 悩みをあるがままに受け入れていくことは,マインドフルネスそのものであろう.しかしこの受容がある程度なされたときに,次に何が起こるのかが精神療法としてはきわめて重要である.この点をマインドフルネスは明らかにしていない3)
 そしてマインドフルネスを技法の一部として取り入れたときに,そのマインドフルネスの経験と行動の連続性はどうなっているのだろうかという点がある.そこでは治療の一貫性はどうなっているのだろうかというのが著者の素朴な疑問である.森田療法では,「べき」思考への介入をしながら,その人のもつ生きる力を行動に結びつけようとする.

おわりに
 自然論に基づく自己の構造,欲望と恐怖,思想の矛盾(「べき」思考),行為論,あるがままについて述べた.これらが森田療法の基本的枠組みであり,それらは東洋における自然的思考に基づいて組み立てられている.
 最後に森田療法の介入の原則として,対性を挙げる.治療的介入は必ず,「受容の促進」と「行動の変容」の対として行われ,そこから患者に変化をもたらすように援助する.患者の経験に対しても,恐怖と欲望の対性に焦点をあてて介入する.
 さてここまでの検討から,森田療法の基本的特徴をまとめておく.森田がいわんとしていることは,苦悩,さらには自分自身を対象化し,それを操作の対象としようとする西欧の精神療法からみるとパラダイム転換である.それは人間中心主義から自然中心主義への転換といえる.この流れの中に,マインドフルネスは位置づけられよう.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 北西憲二: 我執の病理―森田療法による「生きること」の探究. 白揚社, 東京, 2001

2) 北西憲二: 回復の人間学―森田療法による「生きること」の転換. 白揚社, 東京, 2012

3) 北西憲二: マインドフルネスとあるがまま. 精神療法, 42; 476-482, 2016

4) 森田正馬: 神経質及神経衰弱症の療法. 森田正馬全集, 第1巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.239-508, 1922/1974

5) 森田正馬: 神経質の本態と療法. 白揚社, 東京, 1928/2004

6) 森田正馬: 第十二回形外会. 森田正馬全集, 第5巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.110-119, 1931/1975

7) 森田正馬: 第二十二回形外会. 森田正馬全集, 第5巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.220-232, 1932/1975

8) 森田正馬: 第三十七回形外会. 森田正馬全集, 第5巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.402-413, 1933/1975

9) 森田正馬: 第四十回形外会. 森田正馬全集, 第5巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.430-449, 1933/1975

10) 森田正馬: 第五十回形外会. 森田正馬全集, 第5巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.573-590, 1934/1975

11) 森田正馬: 第五十六回形外会. 森田正馬全集, 第5巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.638-662, 1936/1975

12) 森田正馬: 生の慾望 一六四, 虚偽と眞實. 森田正馬全集, 第七巻 (高良武久編集代表). 白揚社, 東京, p.424, 1934/1975

13) 中村 元: 原始仏教 その思想と生活. NHKブックス, 東京, 1970

14) 新福尚武: 神経症説としての森田説と分析説の関係. 精神医学, 1; 475-488, 1959

15) Suzuki, D. T.: Zen Buddhism and Psychoanalysis. Zen Buddhism and Psychoanalysis (ed. by Fromm, E., Suzuki, D. T., et al.). Harper & Brotners, New York, 1960 (小堀宗柏, 佐藤孝治, 豊村佐知ほか訳: 禅仏教に関する講演. 禅と精神分析(鈴木大拙, フロム. E. ほか編). 創元社, 東京, 1960)

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