Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第122巻第6号

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討論
精神科における薬物療法の拡大をめぐる心理学的懸念―ニューロエンハンスメントをめぐる議論を参照して―
榊原 英輔
東京大学医学部附属病院精神神経科
精神神経学雑誌 122: 431-440, 2020
受理日:2020年1月28日

 抗うつ薬と精神刺激薬の処方量が増加している.処方量の増加は,正常と病理の境界が曖昧な領域で生じている.これらの領域における薬物療法の拡大に伴う問題を考察するには,「ニューロエンハンスメント」と呼ばれる,健常者の精神機能を向上させる目的で向精神薬などの生物医学的介入を用いることの是非をめぐる倫理学上の議論が参考になる.なぜなら,これらの領域では治療とエンハンスメントは連続的だからである.ニューロエンハンスメントに対する懸念は,生物学的,心理学的,社会学的なものに整理できるが,本論では,このなかでも心理学的な懸念を論じる.心理学的な懸念には,真正さが毀損してしまうのではないか,人間存在が卑小化してしまうのではないか,美徳を失ってしまうのではないか,という3つの論点がある.これらの議論を踏まえて,精神科医療における薬物療法の拡大の問題に立ち戻ると,薬物療法の新たな導入は,「所与の気質を出発点に自己を陶冶し,自然な感情とうまく付き合いながら,自分の行動を律していく」という,すべての人間が行ってきた実践を変容させてしまうという,見落とされがちな論点を指摘することができる.

索引用語:医療倫理, エンハンスメント, 向精神薬, 薬物療法>

はじめに
 抗うつ薬と精神刺激薬の処方量は増加の一途をたどっている.本邦では,抗不安薬と睡眠薬の処方は2008年をピークに減少傾向だが,一般人口中の抗うつ薬の推定内服率は,2005年から2009年にかけて2.02%から2.62%に増加した16).また,methylphenidateの徐放製剤は2007年に薬価収載されたが,2008年から2017年にかけて,納入軒数が約4倍に増加した7).処方量の増加は,世界的な傾向である16)
 処方量が増加している理由の一部は,従来は薬物療法の対象とみなされていなかった人々に,薬物療法が行われるようになった結果であろう.発達障害の有病率が年々上昇していることは,この解釈を支持する間接的な証拠である4)29).McNally, R. J.15)は,疾患概念や診断基準に大きな変更がなくても,徐々にその適用範囲が拡大していく現象を,税制が変わらなくても,物価の上昇によって人々がいつの間にか高い税率で税金を支払わなければならなくなる現象に擬えて「bracket creep」と表現している.
 薬物療法の拡大に関係しているのは,精神障害のなかでも,正常と病理の境界の領域である.具体的には,生まれながらの気質や,その人自身の性格の一部であるような特性不安や神経症傾向に対するSSRIの使用や,生得的な認知機能の障害である不注意や衝動性に対する精神刺激薬の使用である.このような「障害」には明確な発症機転が存在せず,「この状態になれば発病前の状態に戻った」と言いうるような寛解の基準もない場合がある.
 正常と病理の境界領域における薬物療法の拡大によって生じる懸念を分析するには,ニューロエンハンスメント(neuroenhancement:NE)の是非をめぐる倫理学における議論が参考になる18).エンハンスメントとは,健康の維持や病気の治療という医学的目的を超えて,人間の形態や機能を向上させるために,身体への生物医学的な介入を行うことを指す11).NEとは,エンハンスメントのなかでも認知や情動の機能強化にかかわるものであり,その是非について活発な議論が交わされている5)9)10)
 NEをめぐる倫理学的な考察が,精神科医療における薬物療法の拡大の問題に関連しているのは,「精神障害の治療」と「健常者のNE」の区別はしばしば困難だからである12)19).というのも,「治療」であるか「NE」であるかの違いは,受診者の訴える不安や抑うつや不注意が精神障害の「症状」とみなせる閾値以上のものか否か,苦痛や機能障害が「臨床的に意味がある(clinically significant)」かどうかという違いでしかない場合があるからである1).もちろん,「精神障害」と「健常者」の境界の曖昧さは,精神科診断学が進歩すれば,ある程度解消されるかもしれない.しかし,将来両者の境界がより明瞭になったとしても,境界線に近い精神障害のケースに対する薬物療法にまつわる懸念はやはり残り続けるだろう.これは,高血圧には明確な定義があるが,血圧が基準値を跨いだ瞬間に,高血圧の薬物療法に対する懸念が消失するわけではないのと同様である.
 NEの是非をめぐる議論は,生物学的・心理学的・社会学的なものの3つに分類できる.榊原22)は,このうちNEをめぐる生物学的な懸念と社会的な懸念を論じた.
 NEに対する生物学的な懸念とは,向精神薬使用の安全性と有効性の問題である.一般に,健常者を含め,より障害の程度が軽い人に対する薬物療法は慎重でなければならない.なぜなら,薬の副作用は障害の程度によらず一律に生じるのに対し,内服のメリットは障害の程度が軽いほど小さくなると思われるからである.
 これに対し,NEに対する社会的な懸念は3つの観点に整理できる.第一に,強要の問題がある.強要とは,周囲の人間からの直接的・間接的な圧力により,NEを行わざるをえない状況に追い込まれることを指す.第二に,不公平性の問題がある.NEが保険適用とならない場合,NEに手が届くのは富裕層のみとなり,富裕層と貧困層の能力差と貧富の格差が一層拡大してしまうかもしれない.第三に,共謀の問題がある.NEは,その社会に流布している恣意的で時に不正な価値観を強化してしまう可能性がある.例えば,外向性や積極性を重視する米国において,性格を社交的で自己主張的にするためにSSRIを使用することは,米国のそのような価値観を一層先鋭化させてしまうおそれがあるだろう.
 上述の議論を踏まえ,榊原22)は,「歩み寄りモデル」という精神科医療実践のモデルを提唱し,薬物療法によって生じる,問題の原因を個人に帰する傾向を強化してしまうという「副作用」とバランスをとるために,社会の側にも当の個人に歩み寄ってもらう可能性を積極的に探っていくべきだと論じた.
 これに対し,本論で考察したいのは,薬物療法の拡大をめぐる心理学的な懸念である.向精神薬の使用が拡大するということは,これまで自らの生き方や生来の気質の問題とみなされ,自助努力の範疇だとされたり,精神科にかかったとしても精神療法による心への働きかけにとどめられたりしてきたものが,生物学的な問題とみなされ,脳への薬理学的な働きかけに取って代わられることである.このことに対する懸念を精緻化するための視座を提供してくれるのが,NEの心理学的な問題に関する議論である.I節では,NEの使用が人間の真正さを毀損してしまうのではないか,II節では,NEの使用が人間存在を卑小化してしまうのではないか,III節では,NEの使用が美徳の喪失につながるのではないかという議論を紹介したい.そのうえでIV節では,精神科医療における薬物療法の問題に立ち戻り,本論の議論が歩み寄りモデルのなかでどのように位置づけられるかを論じたい.

I.真正さの毀損
 本節では,NEの使用者は真正さ(authenticity)を損なってしまうのではないか,という懸念を検討する.
 Taylor, C.28)によると,真正さは,個人主義的な社会において,生き方の指針を与える価値規範である.個人主義は,神,伝統,共同体などの,個人の外部にあって人生の意味や従うべき規範を供給する存在を否定し,人生の意味は自分自身で紡ぎ出していくものだと捉える.真正さとは,他者に迎合せず,自分自身の「内なる声」に従って人生を歩むこと,すなわち「自分自身に忠実であること(true to oneself)」なのである28).本邦においても,「周囲に流されない生き方」「ありのままの自分」といった表現で,類似の価値観が広く支持されているように見受けられる.
 Elliott, C.8)は,「もしプロザック(本邦未承認のSSRIの一種であるfluoxetineの商標名)が私の人格を変容させるのだとしたら,それは憂慮すべき事態である.なぜなら,たとえ薬によってより良い人格になったとしても,それはもはや私の人格ではないからである.この種の人格の改変は,真正さの倫理に反するものであるようにみえる」と述べた.われわれは,薬物の影響下で生じた感情や行動を,その人の本当の感情や行動ではないと考える傾向にある.例えば,エクスタシー(MDMA)を服用した状態で女性に愛を告白した男性がいたとしよう.このような場合,愛の告白はその男性の本心から生じたものではなく,エクスタシーの薬理作用のせいだとわれわれは考えるだろう12)
 そうだとすると,次の例はどうだろうか.Kramer, P. D.13)は,内気で恋愛関係の乏しかったサリーという女性が,SSRIの内服後から社交的になり,頻回にデートするようになったことを報告した.もし,SSRIの内服がサリーの感情や行動を変化させたのだとしたら,サリーの恋愛感情や行動は「本物」ではないことにならないだろうか?
 しかし,性格を変えるためにSSRIを内服することを,エクスタシーの使用に擬えるのはミスリーディングである.なぜなら,両者は薬物の作用で生じた感情や行動の変化に対する本人の態度が異なるからである.エクスタシーの例の場合,しらふに戻った男性は,ハイになっていたときに行ってしまった愛の告白を,「本心ではなかった」と否定しようとするだろう.一方,SSRIを用いたNEが成功した場合,服用者は薬による変化を受け入れて,SSRI服用中の感情や行動を,自らの感情や行動として認証する(authenticate)のである.娯楽目的に向精神薬を使用する者は,服用によって生じた感覚の変化が,日常生活に影響を及ぼさないことを望んでいるのに対し,NEのために向精神薬を使用する者は,薬が日常生活上の行動や判断に変化をもたらすことを欲しているのである.
 NEがうまくいった場合は,向精神薬によって生じた性格や行動や判断や感情の変化を本人が認証する.本人が認証したものを,なお「本当のその人ではない」と言うためには,「本当の」を,「自然のままの」とか「本来の」という意味で理解しなければならないだろう.
 Parens, E.20)は,対照的な2つの人間観が世のなかには存在し,何が「真正」な生き方とされるかは,どちらの人間観に依拠するかによって大きく異なることを指摘した.第一の人間観は,人間を神や母なる自然によって生み出された被造物と捉え,人は所与のあり方に感謝し,大切に守っていくべきだと考える.自然のままのあり方を尊ぶこの価値観を,Parensは「感謝(gratitude)のフレームワーク」と呼んだ.この人間観のもとでは,真正な生き方とは,心の奥深くに隠された自分の本質を自己発見(self-discovery)していく過程だとみなされる.
 だがParensは,「創造性(creativity)のフレームワーク」という,これと対照的な人間観が存在していると指摘する.創造性のフレームワークは,プロメテウスの神話に象徴されているように,人間が,自然のままのあり方には満足せず,快適さや発展を求め,飽くことなく周囲の環境や自分自身を変容させていく存在であることを強調する.このような人間観においては,真正な生き方とは,自分の掲げる理想に向かって自己創造(self-creation)し続けていくことなのである.
 創造性のフレームワークからみると,NEは,人間の真正さを損なうどころか,真正さに至るための手段の1つになりうる.Kramer13)は,身体的,性的虐待を受けながらも弟や妹を世話しながら成長し,仕事においても成功したが,その陰で他者献身的で自己破滅的な私生活を送ってきたテスという女性が,SSRIによって社交的で積極的な性格に変容したことを報告している.このケースを印象的なものにしているのは,テスがSSRIの内服を一時的にやめたときに,「私が私らしくなくなってしまった」と語り,服薬の再開を求めたことである.NEによって,「本当の自分」になることが可能になる場合があるのである.
 2つの人間観は,どちらも広く受け入れられているものであろう.それゆえ,感謝のフレームワークを絶対視し,向精神薬が真正さを毀損すると主張するのは,価値観の不当な押し付けと言わざるをえない.「真正さ」の観点からは,NEに関する危惧を適切には捉えられないのである.

II.人間存在の卑小化
 原始人類は,身近な自然と直接対峙し,あるときはそれに従い,あるときはそれに生身で抗って生きてきた.だが文明が発展するほど,人間と自然の間にテクノロジーが介在するようになり,人間は自然と直接対峙する必要がなくなっていった.衣服は,肌が直接外気にふれることを防ぎ,体温調節を容易にした.空調設備の整った家に住めば,体温調節をすることすら不要となる.工業的なテクノロジーが「外なる自然」との直接的な対峙を不要にするのだとしたら,NEなどのバイオテクノロジーは,感情や気質という「内なる自然」との直接的なかかわりを減少させる役割を果たす.
 Borgmann, A.3)は,科学技術の発展により,人々が電子レンジ,自動車,パソコンなど,内部の機構(machinery)を知らなくても広告に謳われた機能を享受できる諸々の製品に囲まれて暮らすようになったことで,現代人の精神性は,素朴な道具を用い,身近な人々とのつながりのなかで生きた昔の人々とは大きく様変わりしたことを指摘した.作用機序(mechanism of action)を知らなくても望んだ効能が得られるのは,向精神薬も同様である.
 ルソー21)は,『人間不平等起源論』のなかで,文明が発展するほど,人間が文明に依存するようになり,人間自身の能力が衰えることを指摘した.ここでいう依存は,身体依存や精神依存とは別種のものであり,「現代人は水道や電気に依存した生活をしている」というときの「依存」である.このような依存のことを,ここでは「テクノロジーへの依存」と呼ぶことにしよう.
 テクノロジーへの依存は,人間を脆弱にする.電気や水道に依存した生活を送るということは,それらがなくなってしまったら困窮し,生活が立ちゆかなくなるということである.その一方で,テクノロジーへの依存は,人間の可能性を拡張する.例えば,自動車に依存した生活は,徒歩であったら不可能な行動範囲の拡大をもたらしたのである.脆弱性と能力の増大は,NEにもあてはまる.向精神薬を定期的に内服している人は,例えば大災害などによって向精神薬が入手できなくなると,困った状況に陥るだろう.一方で,向精神薬によって本人の精神機能が高まれば,可能性の幅が広がるだろう.
 われわれは,文明の利器に頼らず,祖先から受け継いだ素朴な生活様式を守り続ける少数民族に憧憬を抱くことがある.なぜなら,そのような生活では,人間が諸活動の中心に位置し,人間が主人公として活躍しているからである.文明の発展とテクノロジーの進歩は人間の可能性を広げてくれるが,それに伴って,人間の諸活動における人間自身の貢献が占める割合が小さくなっていく.例えば,ある場所まで徒歩で移動した場合は,「自分の力で移動した」と主張できる.しかし,自動車で移動した場合は,「長距離を移動できたのは自動車のおかげだった」と言わなければならないだろう.
 向精神薬を使用する場面でも,人間存在の卑小化はすでに生じている.例えば,精神刺激薬を服薬中のADHDの子どもがいる家庭では,養育者や子ども自身が,子どもの良い行動を「薬のおかげ」と解釈し,悪い行動を「薬を飲み忘れたせいだ」と解釈しがちであることが報告されている27).子どもが学校で良い成績を上げたときに,子どもではなく薬を褒めるということは,すでに現実のものとなっているのである.服用者が成人の場合,周囲の人間がこれほど露骨に本人よりも薬を褒めることはないかもしれない.だが服用者自身は,テクノロジーへの依存と人間存在の卑小化を実感するだろう.なぜなら,向精神薬は連日の服用が必要であり,服用のたびに薬が不可欠であることを意識せざるをえないからである.
 とはいえ,成果に対する人間自身の貢献度が下がるということは,同じ努力でより大きな成果が上げられるようになるということでもある.現代人が原始人よりも豊かな生活を送れるのは,資本と知識の蓄積によって生産性が高まり,同じ労力で何倍もの成果を上げられるようになったからにほかならない.人間の基本的な身体的・精神的能力は太古の昔から変わっていないことを考えると,成果に対する人間の寄与率が下がることは,生活が便利で豊かになることと同義なのである.
 われわれが便利さや豊かさを志向することを断念できないのだとしたら,テクノロジーへの依存と人間存在の卑小化は,われわれがアイロニーとともに受け入れなければならないものであろう.しかしテクノロジーの一種であるNEには,新しいテクノロジーを受け入れる際に必ず生じる上述のような懸念以上の何かがあるように思われる.次節では,この懸念を人間の美徳という観点から考察してみたい.

III.美徳の喪失
 Chatterjee, A.6)は,「ある種の状況で苦闘すること,苦痛や失敗の経験をすることは,人間の経験の欠くべからざる側面である.認知機能を増進することや,苦痛を回避することは,いかさまである.これらの経験は,人間に望ましい特質をもたらしてくれる」と述べた.この意見は,NEによって,忍耐力,勤勉さ,勇気,克己心といった美徳(virtue)が損なわれてしまうという危惧を表している.この危惧を理解するためには,プロスポーツにおけるエンハンスメントの位置づけを参照するのが近道である.
 プロスポーツは,人間の美徳と卓越性がいかんなく発揮されるべく設えられた場である.競技場では,選手は全力をふり絞って勝利をめざし,観客は選手の鍛え抜かれた身体と妙技に熱狂し,勝者を讃える.プロスポーツでは,蛋白同化ステロイド,成長ホルモン,エリスロポエチン,精神刺激薬などを用いたエンハンスメントは「ドーピング」と呼ばれ,厳格に禁止されている17).エンハンスメントが「安易」で「いかさま」であるという批判は,プロスポーツにおいては文字通りあてはまる.
 これに対し,日常生活はプロスポーツの世界とはまったく異なるようにみえる.日常生活には,スポーツのような明確なルールは存在せず,人々は常に勝敗や優劣を争っているわけではない.さらに,人々は日々の生活を自分達のために営んでいるのであって,観客を感動させるために営んでいるわけではない.また,日々の仕事や作業は,望んだ結果を得ることが重要であり,結果を得るための手段にスポーツのような制約は存在しない.
 だが,日常生活にもスポーツ競技に類似した側面がある.人は,日常生活のなかでも,他者の仕事ぶりや生き様を自分のそれと比較し,その巧みさを絶えず推し量っているのである.外科手術を例にとろう.手術を受ける患者の立場からすれば,大事なのは手術の成否だけかもしれない.だが外科医仲間は,他の外科医がどのような腕前で,どのようにメスを振るうかに大きな関心を抱くだろう.術者は,腕前を人に見せつけるために手術をしているわけではないかもしれない.しかしながら,周囲の人間がこのような関心を向けるのは,他者を単に便利な道具としてではなく,一人の人格とみなしていることの証でもあるのだ.
 MacIntyre, A.14)は,人間の美徳や卓越性が発揮される場となる人間の活動を「実践(practice)」と呼んだ.実践とは,習熟に年月を要し,伝統の蓄積があり,同じことに従事する仲間がいるような,一定の複雑性を備えた活動である.外科手術は実践の典型例であるが,自動車の運転や料理といったありふれた活動も,実践に含めることができるだろう.
 スポーツに類似しているのは,日常生活のなかにちりばめられたこの諸実践である.それぞれの実践には「勘所」や「難所」や「見せ場」があり,経験を重ねて上達し,それをうまくやり遂げられた際には歓びや達成感が伴う.さらに,同じ実践に従事する人々は,どこが実践の勘所や見せ場であるかの認識を共有しており,それを参照しながら自他を比較することができる.つまり実践は,スポーツと同様に,美徳や卓越性を発揮し,それを仲間に示す場となるのである.
 NEと関連が特に深いのは,諸実践のなかでも,自らの感情と折り合いをつけ行動を律していくという,自分の内面にかかわる実践である.以下ではこれを,「修身の実践」と呼ぶことにしたい.修身の実践は,他のすべての実践の基盤である.修身の実践では,限られた時間を活用することや,感情を言語化することにおける卓越性や,恐れていることに向き合う勇敢さ,短期的な欲望に流されない自制心などの美徳が発揮されうる.修身の実践の特別な点は,すべての人が毎日行っていることであるがゆえに,すべての人が関心を抱くということである.人は,自らの感情と折り合いをつけ行動を律していかなければならない存在だからこそ,他者がどのように感情と付き合い,どのように行動を律しているのかに強い関心を抱くのである.
 修身の実践の観点からすると,NEに対する懸念は次のように表せるだろう.これまでは所与の境遇を受け入れて耐え忍んだり,長い時間をかけ自己を鍛錬したり,自己洞察を経て考えや行動を改めたりすることによってしか達成できなかった心の状態が,薬の力で安易に得られるようになってしまうことで,自分の心と向き合う技が失われ,忍耐力,自制心,知恵といった美徳が身につかなくなってしまうのではないだろうか?
 これに対する応答は,NEによって人間の美徳が失われるという懸念は杞憂だというものである.なぜなら,人生のなかで取り組まなければならない課題は山積しており,向精神薬を使うようになっても,美徳や卓越性の発揮を要する「難所」や「見せ場」がなくなってしまうとは思えないからである24).例えばある人は,SSRIを内服することで,不安と緊張を覚えながら他者と交流するために忍耐力を発揮する必要がなくなったとしよう.だがそのような人も,試験勉強などの別の場面では,依然として忍耐力を必要とし続けるだろう.
 さらに,新しいテクノロジーが普及することには,古い実践が廃れ,卓越性や美徳を発揮できる場面が減るというマイナスの側面だけでなく,新たな実践が始まるというプラスの側面がある24).自動車の普及によって,健脚はスポーツ以外ではとりわけ讃えられる美徳ではなくなってしまったが,そのかわりに自動車を運転するという実践が生まれた.同様に,NEの普及は,NEという技術と巧みに付き合っていく,という新たな実践を生み出す.瞑想,感覚遮断に加え,さまざまな向精神薬や催幻覚薬を用いて,意識変容と深層心理の探究を行う実践は,ヒッピー文化が栄えていた1970年代に「心の航海術(psychonautics)」と呼ばれ,関連する著作が何冊も著された2).このことは,向精神薬と上手に付き合うこと自体が,多くの知恵や忍耐力や自制心を要する1つの実践であることを示している.
 加えて,航海が移動の手段であるように,新しいテクノロジーは,それなしでは到達できなかった場所や境地へと,われわれを連れて行ってくれる.例えば,酸素ボンベの登場によって,登山家は酸素なしでは到達が難しかった高峰にも挑戦できるようになった24).酸素ボンベの使用は登山家の負担を軽減するが,登山家は負担の軽減によって生じた余力を,さらなる高みをめざすために投じるのである.酸素ボンベを用いない登山と,酸素ボンベを用いた登山は異なる実践かもしれないが,後者のほうが安楽であるとは限らないのである.
 NEの使用は,酸素ボンベを用いた登山に似ている.NEの使用によって,ある点では服用者の負担が軽減されるとしても,服用者がそれによって生じた余力を自分が本来めざしていた一歩先の目標のために投じるのであれば,「安易」であるとして軽蔑されるいわれはないのである.NEによって生じる修身の実践の変化は,人間が卓越性や美徳を発揮する場所をなくしてしまうのではなく,これまでよりも一歩先の局面に,それを移し替えるのである.

IV.歩み寄りモデルと薬物療法の心理学的懸念
 「はじめに」で論じたように,精神科において薬物療法が拡大しているのは正常と病理の境界領域であり,そこでは「精神障害の治療」と「健常者のNE」は地続きである.そのため,NEの是非をめぐる議論は,精神科の薬物療法の拡大に伴う懸念を概念化するために役立てることができる.具体的には,前節までに記した懸念について,向精神薬を開始する前に患者と話し合ってみることが重要である.薬物療法によって「自然のまま」の状態から離反し,テクノロジーへの依存が深まることは,すでに認識されていることが多いだろう.これに対し,修身の実践に変化が生じることは,意識されていない可能性が高いのではないだろうか.
 向精神薬を開始すると,多くの場合は,薬物療法を最適化するために,向精神薬の量や種類を何度も変更することになる.薬物療法を始めるということは,困りごとに直面したときに,自分がおかれた状況を変えるように試みたり,物事の受け止め方を吟味したりすることに加えて,内服薬を変更するという選択肢が生じるようになり,修身の実践における自由度が増大するということである.自由度の増大は,今まで得られなかったような良い結果をもたらすかもしれないが,その一方で,問題が生じた際に,最善の対処法を決定することをより難しくする.
 さらに,向精神薬の効果は限定的であり,個人差も大きい.向精神薬を用いても期待したような効果が得られなかった際には,「なぜ望んだように変われないのだろう」と自分自身や他者を責めるようになるかもしれない.人間は,変える余地のない事柄を受容することや,自由に変えられるものを最適の状態に保つことに比べて,中途半端にしか変えられないものについて,ほどほどに改善をめざしつつもある程度のところで諦める,ということをより苦手としているのである.
 榊原22)は,向精神薬使用の拡大に伴う社会学的な懸念を踏まえ,正常と病理の境界領域に精神医療が関与する際には,個人に変化を一方的に求めるのではなく,社会の側にも変化を求めることが重要であると主張し,歩み寄りモデルを提唱した.最後に,本論における議論から歩み寄りモデルに何が付け加えられるかを論じたい.
 薬物療法は,個人と社会という対比でいえば,個人の側に働きかけることである.個人に働きかけるという点では,本論では薬物療法と対照的に扱ってきた精神療法も同様である.近年では,精神療法の技法を,健康の維持や病気の治療という医学的目的を超えて,人間の機能や幸福度を向上させるために用いる研究が活発化している.その代表格が,Seligman, M. E. P.26)が提唱したポジティブ心理学である.このなかでは,広義の意味において認知行動療法的な介入の技法が,個人の幸福や一層の繁栄のために応用されている25).慢性疼痛の治療やうつ病の再発予防において着目されてきたマインドフルネス瞑想が,企業の生産性向上のために取り入れられているという報道にふれたときに,心にざわつきを覚えた者は少なくないだろう23).精神療法的な介入も,薬物療法的な介入も,個人に対する働きかけであり,個人の力を高められる反面,専ら個人の側に変化を求め,社会の側にある問題を見落としがちになるという副作用がある点は共通しているのである.
 これに対し,薬物療法的な介入が精神療法的な介入と大きく違う点は,前者がテクノロジーへの依存を強めることである.それゆえ,薬物療法を開始するか,周囲の人々に歩み寄ってもらうかという選択肢は,どちらをとっても「依存する」という選択になる.なぜなら,周囲の人々に歩み寄りを求めることは,「他者に依存する」ことだと言い換えられるからである.したがって,薬物療法の開始を検討する際は,適切な依存の対象について話し合っていくことが重要になるだろう.テクノロジーへの依存と他者への依存は,どちらか一方が常に優れているというものではなく,そのときの状況と本人の価値観に基づいてそのつど選択すべきものである.それゆえ,いずれか一方への依存を極端に恐れている人がいたとしたら,その恐れの妥当性を吟味するように促していく必要があるだろう.

おわりに
 本論では,NEをめぐる倫理学の議論を参照することで,精神科における薬物療法の拡大に際して考慮するべき心理学的な懸念を整理した.そこで明らかになったのは,薬物療法の新たな導入は,人間を自然のままの状態から離反させ,テクノロジーへの依存を一層深めるだけでなく,修身の実践を変容させてしまうということである.向精神薬の服用者は,これまで慣れ親しんでいた「所与の気質を出発点に自己を陶冶し,自然な感情とうまく付き合いながら,自分の行動を律していく」という実践から離れ,向精神薬とともに人生を切り拓いていくという新たな実践に取り組んでいくことになる.正常と病理の境界領域において薬物療法を導入しようとする精神科医は,薬物療法をめぐる生物学的,社会学的な懸念に加えて,この心理学的な懸念にも注意を払い,その是非を患者と話し合っていく必要があるだろう.

利益相反
 本研究は,上廣倫理財団の研究助成(研究題目「精神科におけるエンハンスメントの倫理:臨床実践の観点から」)を受けたものである.

文献

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21) ルソー (本田喜代治, 平岡 昇訳) : 人間不平等起源論. 岩波書店, 東京, 1972

22) 榊原英輔: 精神科臨床におけるニューロエンハンスメント. 精神経誌, 120 (9); 782-789, 2018

23) サンガ編集部: グーグルのマインドフルネス革命―グーグル社員5万人の「10人に1人」が実践する最先端のプラクティス―. サンガ, 仙台, 2015

24) Schermer, M.: Enhancements, easy shortcuts, and the richness of human activities. Bioethics, 22 (7); 355-363, 2008
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25) Seligman, M. E. P., Rashid, T., Parks, A. C.: Positive psychotherapy. Am Psychol, 61 (8); 774-788, 2006
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26) Seligman, M. E. P.: Flourish: A Visionary New Understanding of Happiness and Well-being. Free Press, New York, 2012

27) Singh, I., Kelleher, K. J.: Neuroenhancement in young people: Proposal for research, policy, and clinical management. AJOB Neurosci, 1 (1); 3-16, 2010

28) Taylor, C.: The Ethics of Authenticity. Harvard University Press, London, 1992

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