Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文全文

第122巻第2号

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総説
精神障害者の刑事責任能力―最近の事例にみる裁判の傾向―
中谷 陽二
筑波大学名誉教授
精神神経学雑誌 122: 105-117, 2020

 刑事事件の被疑者・被告人の刑事責任能力(以下,責任能力)を判断するために行われる精神鑑定のあり方が裁判員制度の施行を契機として変わってきた.鑑定人は弁識能力と制御能力という責任能力の要素には直接言及せず,症状が犯行に及ぼした影響の機序までを説明するように求められている.この指針が実際の裁判にどのように反映されているかを知る目的で,最近の4事例の判決を分析し,責任能力判断の傾向を明らかにした.事例はいずれも複数名が殺害された重大事件であり,一審は,鑑定結果に基づいて,被告人が精神障害(覚せい剤中毒後遺症,妄想性障害,薬剤性精神病,統合失調症)に罹患し,犯行時に幻覚・妄想が存在したことを認定した.一方,それらの症状が犯行に及ぼした影響が間接的もしくは小さいものであったとみて,完全責任能力を有していたと裁定した.判決内容および関連文献の検討から,裁判所の判断に一定の方向性があることを見いだした.①症状と行為の関連性は証明可能であるとする可知論的な観点のもとで,犯行動機を直接把握できない事例では疾病と犯行の関連性が否定され,その結果,責任能力を有すると認定される可能性がある.Schneider, K.が説いた,人間の精神活動を認識することには限界があるという本来の意味での不可知論が排除されている点に問題がある.②提示した事例の「幻聴の命令に従うことを自ら選んだ」という認定が典型的に示すように,幻覚・妄想が犯行動機を形成した場合であっても,行為発動の最後のボタンを押すのは正常な意思であるという,可知論をさらに越えたロジックが登場している.これは,人間を自由な主体とみて,意思決定が精神障害により阻害される場合は責任を減免するという責任主義と矛盾し,心神喪失・心神耗弱の認定の幅を著しく狭める.鑑定の件数が急増する現状において,精神科医が問題意識を共有し,専門性に基づいて主体的に鑑定に関与することが喫緊の課題である.

索引用語:刑事責任能力, 精神鑑定, 不可知論, 裁判員制度>

はじめに
 近年,刑事精神鑑定の実施件数が急増している.報道28)によれば,鑑定留置(被疑者・被告人の鑑定のための病院等への留置)は,年に200件前後であったのが,裁判員制度が始まった2009年を境に増加し,2016年には580件,2017年には633件に達した.それに伴い,多くの精神科医が検察庁や裁判所から鑑定を依頼されるようになっている.
 刑事責任能力(以下,責任能力)は法律と精神医学という異質な領域が重なる課題であり,その評価には法律と精神医学の双方の考え方が反映される.さらに裁判員制度が施行されて以降,一般国民である裁判員の考え方がこれに加わった.著者は,被告人の責任能力が中心的争点となった最近の重大事件の裁判4件について判決に特徴的な方向性があることを見いだした.そこで,判決をもとに事例の概要を報告し,裁判判断の構造を分析するとともに,責任能力問題をめぐる新しい動向を精神医学と法律の関連文献を参照しながら批判的に検討したい.

I.機序と8ステップ
 現在,精神鑑定のあり方をめぐって焦点となっているのは,責任能力判断の「8ステップ」というモデル,およびそのなかの「機序」という概念である.まず,その背景にある流れを説明する.周知のように責任能力は日本の刑法では39条の「心神喪失者の行為は,罰しない.心神耗弱者の行為は,その刑を減軽する」によって定められている.心神喪失,心神耗弱という抽象的な概念に対して1931年の大審院判決が次のような定義を与えた1)

 心神喪失と心神耗弱とは(中略)前者は精神の障礙に因り事物の理非善悪を弁識するの能力なく又は此の弁識に従て行動する能力なき状態を指称し後者は(中略)其の能力著しく減退せる状態を指称するものなりとす.(原文片仮名)

 このように,責任能力は「精神の障害」と「理非善悪を弁識する能力(弁識能力)および弁識に従って行動する能力(制御能力)」の二段からなっている.責任能力の規定の仕方には,能力が失われるもととなった精神的欠陥の原因に着目する生物学的方法と,精神的欠陥それ自体に着目する心理学的方法,両者を合わせた混合的方法があり,立法例は国によってさまざまである29).日本の場合は混合的方法で,責任能力は生物学的要素(精神の障害)と心理学的要素(弁識能力および制御能力)から構成される(生物学的,心理学的という言葉は現代の精神医学にそぐわないが,伝統的に用いられている).
 心神喪失と心神耗弱は医学概念ではなく法律概念であるが,精神医学の専門的知見を抜きにしては評価できない.そのため鑑定人がどこまで意見を述べるのかという線引き問題が古くから議論されてきた.1983年の最高裁決定は「被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失又は心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であって専ら裁判所に委ねられるべき問題であることはもとより,その前提となる生物学的,心理学的要素についても,右法律判断との関係で究極的には裁判所の評価に委ねられるべき問題である」20)という指針を示した.裁判所の見解は裁判員制度の施行を契機としてより明確にされた.すなわち,非専門家である裁判員の誤解を招かないために,鑑定人は,「責任能力の結論に直結するような形で弁識能力及び制御能力の有無・程度に関して意見を示すことはできるだけ避けるのが望ましいし,少なくとも心神喪失等の用語を用いた法律判断を結論として明示することは避けるべき」であり,鑑定人が意見として報告すべき事項は「犯行時の被告人の精神障害の有無・程度といった医学的所見」と「精神障害が犯行に与えた影響の有無・程度について精神医学の見地から推認できる事実」でおおむね足りるとした24)
 裁判所の新しい指針を受けるかたちで,精神医学の側から岡田17)が,法律家と鑑定人の役割を明確化することを意図した責任能力判断の「8ステップ」を提唱し,次のように構成されるとした.①精神機能や症状に関する情報収集,②精神機能や症状の認定,③疾病診断,④精神症状や病理と事件の関連性の描出,⑤善悪の判断や行動の制御への焦点化,⑥法的文脈における弁識能力,制御能力としてみるべき具体的な要素の特定,⑦弁識能力,制御能力の程度の評価,⑧法的な結論.このうち④までが精神医学の専門領域であり,⑤以降は法学的視点からの作業となる.鑑定意見の核をなすのはステップ④であり,精神障害が犯行に与えた影響について述べる.その場合,「影響の有無および程度」という表現は法的評価の意味に受け取られやすいため,「影響の仕方(機序)」について述べる.すなわち「症状,病理,病態,健常部分と事件との関連性」を具体的に描き出す.一方,法律の側から稗田3)は,責任能力の心理学的要素(弁識能力・制御能力)の有無および程度は法律判断であるが,それは症状がどのように犯行に影響を与えたかという心理学的事実を前提とし,この事実の認定では専門的知識・経験に基づく精神鑑定が尊重されると述べている.要するに,裁判所が弁識能力・制御能力の有無と程度を判断する際に直接参照する精神医学的な知見が機序と考えられているようである.
 弁護士の田岡27)によれば,岡田のモデルは発表されると瞬く間に全国各地の裁判所に広がり,検察官および弁護士はこれに沿って鑑定請求などを行うことを求められるようになった.元裁判官の稗田3)も,刑事裁判では「精神障害の診断名ではなく,精神症状等がそれぞれ犯行に及ぼした影響の仕方(機序)が責任能力判断のベース」になっているという.8ステップが歓迎された理由は裁判官の期待に合致したからであろう.

II.事例
 以上,責任能力判断の新しい方向性について述べたが,裁判所の認識を知る一助として最近の4つの判決を検討する.いずれも複数名が殺害された重大事件で,事例Aは一審で死刑,二審で無期懲役,事例Bは一審,二審で死刑,最高裁で上告棄却,事例Cと事例Dは本稿執筆時点において一審で死刑判決を受けていた.全例とも裁判員裁判の対象であった.ここでは一審判決を取り上げ,精神鑑定の結果は判決で引用された範囲で言及する.各判決を登載した判例雑誌・データベースは文献に挙げた.記載にあたり匿名化を施した.判決の文の引用は鉤括弧に入れ,重要と思われる箇所に下線を施した.

1.事例A19)
 犯行時30歳代の男性.事件17日前に覚せい剤取締法違反罪で服役していた刑務所を出所した.服役中も幻聴が続いていた.地元のX県に帰ったが職が見つからず,入所した施設でも待遇に不満があり,事件2日前の午前に退所した.その時点で向精神薬の服用を中断した.刑務所仲間の伝手を頼って事件前日の朝にY市に向かった.しかし胡散臭い仕事に誘われ,気が進まなかった.その夜,仲間らと飲食するうちに「どうするんだ」などの幻聴が聞こえ始めた.深夜から「刺せ刺せ」という幻聴が断続的に続いた.一睡もできず朝を迎えた.「包丁を買え」という幻聴も聞こえ始めた.X県に帰って生活保護で暮らそうという気になり,午後0時過ぎ,ATMで預金を下ろした.自殺したいという気持ちが大きくなり,包丁を購入した.人目を避けて包丁を腹に向けたが刺すことができなかった.再び歩き始めたとき,「刺せ刺せ」という幻聴が次第に激しく連続的に聞こえるようになった.路上で通行人2名をいきなり多数回突き刺して出血性ショックで死亡させた.警察官の姿を認めながらも被害者に包丁を突きたて,一喝されると逮捕に応じた.質問に「とんでもないことをした」「自殺しようとして死にきれなかった」などと答えた.逮捕後,幻聴は「やっちまったな」というものに変わり,消失した.
 捜査段階での鑑定と裁判所選任による鑑定が施行された.前者では「覚せい剤中毒後遺症の遷延・持続型」,後者では「覚せい剤精神病及び覚せい剤依存症」と診断された.前者では「犯行は幻聴に強く影響された行動」であり,長年の覚せい剤使用により攻撃性等が強まりやすくなっていたとした.後者は幻聴は「被告人自身が決めた行為を後押しし又は強化する程度」にすぎず,被告人の考えを支配し,無批判に犯行を行わせるほどの影響力はなかったとした.判決は後者の鑑定を尊重するとしたうえで,以下の理由で完全責任能力を有していたことに疑いないとした.
 「被告人は,犯行時,本件精神障害(覚せい剤中毒後遺症)にり患していたものの,本件犯行は,これによる幻聴の影響が大きくない状況下で,自殺をする,X県に帰る,幻聴に従い人を刺すという三つの選択から自ら選び,周囲の状態を理解し,目的に沿った行動を取りながら実行されたもので,犯行時の被告人の善悪を判断する能力又はこれに従って自己の行動をコントロールする能力はいずれも,幻聴のほか,服薬の中断や犯行までの不眠,不安等により若干低下していた可能性は認められるものの,著しく失われていなかったことは明らかというべきである.」

2.事例B31)
 犯行時60歳代の男性.独身で,事件の17年前から両親の介護をして暮らしていた.事件の11年前に母親,9年前に父親が死亡した.その頃から,村落の住民から噂をされる,挑発や嫌がらせをされるという妄想を抱くようになった.それらの行為を告発する趣旨の貼り紙をし,嫌がらせをする人間を捕まえて白状させたいと考えた.自宅のカレーに毒を入れられるという妄想もあった.某日午後6時半頃から翌日午前6時頃までの間に近隣の5名を次々と殴打するなどして殺害し,被害者が居住する建物の2軒に放火して全焼させた.判決では裁判所選任による医師の鑑定結果を前提として責任能力を以下のように判断した.
 被告人は,本件妄想により,各被害者および他の1名に対して報復をすることを考えていたが,各犯行はそのような考えに従って実行された.妄想により生じていた「被害感」は「自らの生命に対する差し迫った危機感」とは異なっており,自己の行為が犯罪で,社会のルールに合わない行為であることを認識する能力を十分に有していた.また妄想により抱いていた怒りの感情が積み重なり,正常心理に基づくブレーキをはね飛ばすほど大きなエネルギーを有するものになっていたという弁護人の主張には次のような反論がされている.鑑定人は「本件妄想により生じた感情のエネルギーの大きさが,被告人が粗暴になる一因とはなっていたにしても,自らの行為の選択肢を狭める構造となることは考え難い,どのような行動をするか,報復をするとしてもどのような方法で行うかについては,被告人の病気ではなくて被告人の価値観により決せられるものである」と供述している.したがって,妄想は「本件各被害者に対する報復という犯行の動機を形成する過程に影響した」とはいえるが,「報復をするか,報復をするとしてどのような方法で報復するかは,被告人が元来の人格に基づいて選択したことである」.

3.事例C10)
 犯行時30歳代の男性.メチルフェニデートを長期間,大量に使用したことにより薬剤性精神病に罹患し,その症状として体感幻覚,妄想着想,妄想知覚などがあった.インターネットや書籍でその原因を調べるうちに,「日本国政府やそれに同調する工作員らは一体となって,電磁波兵器・精神工学兵器を使用し個人に攻撃を加えるという行為,すなわち『精神工学戦争』を行っているという思想」をもつに至った.そのような思想を前提として「自分やその家族も精神工学戦争の被害者であり,近隣住民のE家やF家は自分たちを攻撃する工作員であるとの妄想を抱くようになった」.そこで「被害者一家らへの報復及び国家ぐるみで隠蔽されている精神工学戦争の存在を裁判の場で明らかにすること」を目的として被害者一家らの殺害を決意した.某日早朝,E方でEと妻を,その約3時間後,F方でFと妻および母を刃物で多数回突き刺して死亡させた.
 判決は,薬剤性精神病は明らかであるとしたうえで,犯行動機は「妄想を前提とするものであり,そこには薬剤性精神病の影響がある」が,以下の理由で完全責任能力を有するとした.各犯行時,切迫した恐怖を感じていなかった.直接的に殺害を促すような幻覚,妄想などの症状はなかった.自分の行為が殺人として犯罪になり,逮捕されると認識していた.行動は合理的で一貫し,ある程度の計画性もあった.「妄想を前提としながらも,被害者らの殺害を決意し,実行した被告人の意思決定と行動の過程には,病気の症状は大きな影響を与えていない」と認められる.他にも選択可能な手段があるのに殺害という手段を選択した理由は,自分が精神工学戦争と対峙する偉大な人間と考え,工作員の殺害は正義であると考えるに至ったからである.「誤った正義感に基づくものではあるけれども,病気の症状に大きく影響されたものではなく,正しく被告人自身の正常な心理による判断」で,「犯行の動機の前提となる被害者一家らが工作員であり,被告人が攻撃を受けているという認識は妄想であり,そこには薬剤性精神病の影響があるが,そこから殺害という手段に出ることを決意した思考過程においては,被告人の世界観を前提とする誇大感,正義感,被害者一家らに対する悪感情など被告人自身の正常な心理が作用しており,病気の影響は小さい」とした.

4.事例D22)
 犯行時30歳代の外国人男性.事件の10年前に来日後,稼働先を転々とした.事件の2日前に会社を欠勤し,寮から姿を消した.午前中に同僚に電話し,「俺の話したことが職場にばれている,日本人が殺しに来た,仕事を辞める」などと話した.事件前日の午前中,職場関係者に「給料を早めに振り込んでほしい」,知人に「スーツを着た日本人たちが監視している,追っている」などと電話で話した.同日午後1時頃,民家の住人に声をかけ,消防署に連絡された.「電車の中に悪い人がいる」「おかねない」「聞いたことがない声がする」と発言した.警察署での事情聴取の際,実姉に電話して,電話口から子どもの騒ぐ声を聞き,「彼らはもう着いたのか,殺されるぞ」と発言して電話を切り,泣き出した.突然走りだし,所持金などを置いたまま逃走した(起訴前鑑定では「警察官たちもグルなのかなと思った,色々なことがつながって,一つにまとまったように思えたので逃げ出した」と説明した).翌日午後から3日間で民家3軒に侵入し,計6名の住人を包丁で刺殺し,死体を浴槽に入れるなどして隠匿した.1件目では自動車,自動車の鍵,現金,スマートフォン,包丁を,2件目では包丁を,3件目では自動車の鍵を強取した.警察官に発見されると,「ポリス,やくざ」と発言し,包丁で自分の腕を切り,窓から転落して頭部外傷などの重傷を負った.
 公判段階での鑑定は,「各犯行は統合失調症の症状としての自分と親族の命が狙われているといった被害妄想と精神的な不穏状態での逃避行と親族の元への急行という一連の行動の中で発生したもの」で,「このような被害妄想や精神的な不穏が住居侵入と殺害の行動の全般にわたって影響を与えた蓋然性が高い」とし,行動への影響に関しては「当時の状況に関する被告人の供述が得られていない限界がある」との留保を付して,鑑定人としては「被告人がどのような心理で各犯行に及んだかは分からない」と説明した.これに対して判決は,「被告人が有していた精神症状としての本件各妄想が各犯行の犯意形成に影響を与えたとの見方は可能ではあるものの,一方で,具体的な各犯行の動機という観点でみると,正常な精神機能の働きに基づく現実的なものとして説明することがいずれも可能であって,精神障害による病的体験の存在を介さずとも十分に了解可能なものである」とした.また鑑定面接で語られた「悪魔,猫及びテロリストに関する妄想」は,内容に一貫性がないことなどから,犯行当時に存在したものではなく,犯行当時に「命令性の幻聴のような自らの行動を支配する精神症状」はなかったと認定した.そして「被告人は精神障害の圧倒的な影響により各犯行に及んだものではなく,精神障害の影響はあったにせよ,個々の具体的な犯行の決意,実行場面においては,残された正常な精神機能に基づく自己の判断として,他にも選択可能な手段があったのに,犯罪になると分かっていながらあえて各犯行に及んだものと認められる」という理由で完全責任能力を有すると判断した.弁護人は,現場に残した判読不明の血文字,壁にナイフを刺したこと,携帯電話機を靴下に入れて結んだ状態にしたことなどを異常な行動の例として挙げたが,判決は,これらは病的体験を前提としなくてもありうる行動で,そのような「周辺事情」が直ちに精神障害の影響の大きさに結び付くものではないとした.

III.判決の共通点
 4事例の判決は鑑定結果をもとに被告人の精神障害の罹患を認めた.事例Aは覚せい剤中毒後遺症,事例Bは妄想性障害,事例Cは薬剤性精神病,事例Dは統合失調症である.そして全例とも,犯行時に幻覚・妄想が存在したことを認めつつ,心神喪失もしくは心神耗弱とする弁護側の主張を排斥し,完全責任能力を有していたと判断した.
 判決の核心には一定の方向性が見いだされる.事例Aでは,犯行を唆す命令性の幻聴が出現していたことを認める一方で,「自殺をする,郷里に帰る,幻聴に従い人を刺す」という「三つの選択から自ら選んで」実行したとする.事例Bでは,妄想は「犯行の動機を形成する過程に影響したとはいえるが,報復をするか,報復をするとしてどのような方法で報復するかは,被告人が元来の人格に基づいて選択した」とする.事例Cでは,被害者らから攻撃を受けているという認識は妄想であるが,「そこから殺害という手段に出ることを決意した思考過程においては,被告人の世界観を前提とする誇大感,正義感,被害者一家らに対する悪感情など被告人自身の正常な心理が作用しており,病気の影響は小さい」とする.事例Dでは,「精神障害の圧倒的な影響により各犯行に及んだものではなく」,個々の犯行の決意と実行場面においては「残された正常な精神機能に基づく自己の判断として」各犯行に及んだとみなす.

IV.可知論と不可知論
 いずれの事例でも,裁判所は犯行当時に存在した幻覚・妄想が犯行に及ぼした影響は間接的もしくは小さいものでしかなかったと判断した.このように,症状が行為にどのように影響したかという点は可知論と不可知論の問題にかかわり,これらの用語は司法精神医学文献でたびたび目にする.たとえば岡田16)は,「疾病が個人の考えや行為にどのような影響を与えているのかをわれわれは正確に知ることができないから,例えばひとたび統合失調症と診断されれば,その者による行為は原則として責任無能力であるとせざるを得ない」とする考え方を不可知論とみなしたうえで,「現在は確実に可知論的な考え方が主流である」という.五十嵐6)は,精神科医療の進歩や障害者観の変化,病因論に基づかない操作的診断基準の普及などから,「今日の精神科医は,好むと好まざるとにかかわらず可知論の立場に立って責任能力の判定を行う必要がある」と述べている.法律側から稗田3)は,刑事裁判では「診断名から責任能力を判断する慣例(コンベンション)に従って判断すべきとする不可知論ではなく(略)基本的には可知論の立場から」弁識能力・制御能力が判断されなければならないとする.この問題は掘り下げた検討を要すると思われるので,以下論じてみたい.
 不可知論(agnosticism)はa(without)とgnosis(knowledge)から合成された言葉である.一般に「事物の本質や実在の真の姿は認識できないと主張して,すべてわれわれの経験を越える問題を拒否しようとする立場」9)である.人間の知は神の存在・非存在を説明できないとする古代ギリシャやインドの哲学・神学に遡る.この言葉を初めて用いたのは19世紀後半という科学万能の時代に活躍したイギリスの生理学者Huxley, T. H. であり,「知っていると明言できるだけの科学的根拠をもたないものについて知っていると言うべきではない」5)と,科学的認識の限界について語った.
 第二次世界大戦後,ドイツでは刑法学と精神医学の領域で不可知論と可知論をめぐる議論が展開された.Janzarik, W. 8)によると,この議論はSchneider, K. の1948年の講演23)を発端とし,Haddenbrock, S. が不可知論論争(Agnostizismusstreife)と名づけたものである.以来,Schneider説を支持する人々が不可知論者,批判する人々が可知論者と呼ばれるようになった.Schneider自身が不可知論の語を用いているわけではなく,彼を“不可知論の提唱者”というと不正確となる.ドイツにおける刑法改正のなかでの責任能力規定をめぐる議論の文脈で起きたもので,1987年のWitter, H. の著書30)で「今や歴史的となった」と評されているように,本場のドイツでも過去のものとなって久しい.
 Schneider説を1953年の著書『責任能力の判断』23)から要約してみたい.当時,議論の的となっていたドイツの旧刑法51条は「行為者が,行為の当時,意識障害のため,精神活動の病的障害のため,または精神薄弱のため,その行為の許されないことを洞察し,またはこの洞察に従って行動することができない場合,可罰的行為は存在しない」と定めた〔洞察(Einsicht)は日本語の弁識と同義〕.責任無能力と判断されるには,臨床的・精神病理学的要件である意識障害,精神活動の病的障害,精神薄弱が存在し,そしてこれらが洞察の能力およびこの洞察に従って行動する能力を喪失させる性質のものでなくてはならない.鑑定人は,臨床的要件については答えられるが,洞察および洞察に従った行動の能力については答えを出せない.そのため,法に規定された臨床的要件が存在するならば,これらの能力がなかったことを暗黙のうちに(stillschweigend)認めるにとどめる.法廷では,例えば「誰々は,われわれの論述によれば行為当時統合失調症に罹患していた.したがって,結果として,51条1項(責任無能力)を適用すべき精神活動の病的障害があったのである」という答え方をする.上記の能力について鑑定人が直接言及しない理由は,何びともそれに答えることができないからである.なぜなら,自分の行為が正しいかまちがっているか,許されているか禁じられているかを熟考し,それに基づいて行動への決心を起こす人は実際上ほとんどいない.そのように行動する人は強迫人と同じである.暗黙のうちにであれ,能力の欠如を示唆する理由は,循環病(躁うつ病)や統合失調症では「心的生命発展の一貫した意味連続性」が断たれるからである.これはSchneiderを筆頭としたハイデルベルク学派の公理であり,さまざまな異論がありえよう.しかし,精神医学の認識の限界を指摘したSchneiderの見解は,Huxleyに遡る,語の本来の意味での不可知論に沿うもので,今なお参照される価値がある.
 一方,可知論と呼ばれたものは,特定のまとまりのある学説というよりも,Schneider説に対する批判的見解を総称したもののようである.Janzarik8)によると,可知論者は主として鑑定の実務に適合する実際的なアプローチを主張した.鑑定人に求められているのは,人間にどこまで自由な判断や意思決定が可能かという原理的問題に関する態度表明ではなく,専門知識をもたない裁判官に対して当該行為時に洞察と制御の能力を低下させたかもしれない具体的な諸条件を示すことにある.そしてこれらの条件は経験科学的に相当程度知りうるとする.実際,不可知論論争が裁判と鑑定の実務に与えた影響はわずかであったという.また仲宗根12)によると,ドイツ精神神経学会の公式見解は,大多数の精神科医はSchneider説に賛成していないというものであった.その理由は,精神病理学的分析によって洞察能力の障害の程度を知り,心理学的要素について答えられる場合が稀ではないからである.少なくとも立法・判例においては可知論者が勝利したが「可知論の正当性が証明されたわけでもない,と思う」と仲宗根は私見を付け加えている.学説と実務の乖離について著者は十分知りえていないが,Schneiderの明快な主張に触発された不可知論論争は黒白をつけがたい“机上の議論”の色彩が濃かったように思われる.
 一方,Schneiderと同時代のGruhle, H. W. 2)の以下のような主張も不可知論との関連でみておく必要がある.「躁うつ病の病相期,白痴,精神分裂病,進行麻痺,精神症状を伴う脳梅毒」などでは全般的責任無能力が認められる.これらの障害では「診断が鑑定人によって確定されるならば,直ちに51条1項の前提が存在することになる.特定の行為が特定の異常動機から発生したとか,まして,行為の動機が精神障害の内容と有意味な関連性をもつとかの証明は必要ではない」.著明に寛解した場合でも,症状がまだ明らかに存在するかぎり責任能力は疑問に付される.その理由は,それらの疾患は「病者の全人格に直ちに重篤な障害を与え,その結果として責任能力を全般的に奪う,重大な脳疾患」だからである.Gruhleの紹介者である中田は1976年の論考13)でドイツにおける責任能力判定の大綱を次のように要約した.専門家の立場は1920年以後30年のあいだに非常に確固としたものになった.圧倒的大多数の精神医学者は,すべての「真に大きな」精神病の患者は,すべての行為に対して責任無能力であり,このような器質的精神病の証明さえあれば,特定の行為と個人との関連性を明示する必要はないとみなしているという.
 Gruhle説は,重大な脳疾患(統合失調症を含む)→全人格の重篤な障害→責任能力の全般的否定という図式にまとめられる.これは全般的免責(generelle Exkulpation)とも呼ばれる4).Schneiderも,循環病(躁うつ病)と統合失調症では軽症の場合でも人間の本性に対する見通せない侵襲のため51条1項(責任無能力)を適用する十分な根拠があると記している.ただしSchneider説はあくまで認識の限界に力点をおいており,全般的免責はその延長上にある,あるいはそれと表裏の関係にある概念と考えるべきである.
 Huber, G. 4)は,宿命的な疾病観に基づく全般的免責は1960年代以降の薬物療法と開放的治療のもとで時代遅れになり,長期追跡調査が示すように統合失調症の予後は考えられたほど悲観的ではなく,経過と症状に基づく類型に対応して責任能力が異なって判定されるとした.ただしその場合も「急性増悪および統合失調症特異的な体験・表出症状を伴う特徴的残遺」については「無条件に免責」である.この基本線は最近のNedopil, N. の司法精神医学書15)でも受け継がれている.「顕在的な精神病症状を示す急性期」では責任無能力の要件が存在することに疑いはなく,他方,軽度の残遺状態あるいは完全寛解の患者などでは責任能力の見極めは動機や性格の個別的分析に基づくという.要するに,近年,“全般的”免責は確かに否定されたが,重度の精神病に関しては不可知論的な観点が維持されているのである.
 英語圏では責任能力の判断基準としてマクノートン・ルール(1843年)が伝統的に用いられた.行為者が自己の行為の性質もしくは邪悪性を認識していたかを問うもので,意思の側面を含まない適用範囲の狭い基準であった.第二次世界大戦後のアメリカでは,犯罪者のパーソナリティーに関心を向けた力動精神医学の影響のもとでインサニティ(日本の心神喪失に相当)の範囲を認知面に限らず意思面の障害にも拡張する動きが起きた.この幅は社会の精神障害者の犯罪に対する寛容さの度合いにも応じて変動している.精神医学が犯罪行動をどこまで説明できるかによって責任能力判断のあり方が変わるという意味ではドイツの不可知論論争とも通じるところがある.ただし,著者の知る限り,英米では責任能力の文脈で可知論あるいは不可知論という言葉は使われていない.

V.最高裁決定に関する疑問
 日本ではどうであろうか.可知論・不可知論の文脈でたびたび引用される司法判断は1984年の最高裁第三小法廷決定26)である.統合失調症の被告人について計5回の鑑定が施行され,最高裁は心神喪失ではなく心神耗弱を認定した原審の判決を正当とした.決定要旨は次の通りである.

 被告人が犯行当時精神分裂病に罹患していたからといって,そのことだけで直ちに被告人が心神喪失の状態にあったとされるものではなく,その責任能力の有無・程度は,被告人の犯行当時の病状,犯行前の生活状態,犯行の動機・態様等を総合して判定すべきである.

 著者はこの決定にいくつかの疑問を感じる.もとになった原審の判決は,鑑定人による心神喪失の主張を「分裂病者は原則として責任無能力であるとする精神医学上の学説の立場からのものであって,必ずしも裁判実務上承認された考え方とはいえない」ことを理由に否定した.一方,判決に引用された鑑定書の記載は次のようなものである21)

 緊張病の一旦寛解した状態であったが,本件犯行の動機が妄想の基盤の上に形成された了解不能のものであること,犯行が衝動的に着手され,その経過中,精神活動停止と精神運動興奮が現われたと推測され,犯行後無感動状態であったとみられること,逮捕後の取調べ中に供述の無意味な変動が認められたことからみて,本件犯行には分裂病の強い影響の存在を認めるべきであり,従って行為の不法性を認識し,この認識に従って意思を統禦することは,まったく不可能であったと認められる.

 このように犯行様態と状態推移を踏まえて結論を出しており,統合失調症と診断されたから心神喪失である,とやみくもに断定しているわけではない.また,判決のいう「裁判実務上承認された考え方」についても疑問がある.著者が責任能力判断の変遷を時系列的に分析した結果では,この決定と同じ年に逆方向の判断を下した2事例が見いだされた14).詳細は省略するが,「全人格が病的変化の力の支配下にあった」ことなどをもって心神喪失が認定された.この時期は,犯行の合目的性,計画性,ある程度の社会生活能力の保持が認められる統合失調症事例に関して,“それにもかかわらず責任能力なし”から“それゆえ責任能力あり”へと舵が切られる転換期とみるのが実情に即している.このように疑問を指摘しうるにもかかわらず,「疾患分類が一義的に責任能力を決定する不可知論に基づく慣例を否定した」16)というように,最高裁決定が不動のスタンダードとして位置づけられることには違和感を覚える.この決定はあくまで全般的免責を否定したものであり,不可知論を無効にする趣旨ではない.

VI.機序の証明について
 ここで整理すると,症状と行為の具体的関連が機序と呼ばれ,可知論の立場では,機序は精神医学的に解明可能であり,それによって弁識能力および制御能力の有無・程度が判断されるとする.突き詰めると,症状と行為の関連が目に見えるかたちで証明されない場合,関連は存在しなかったという結論となる.ここに陥穽が潜んでいるように思われる.五十嵐7)が指摘するように,すべての事例で「機序」が解明されるわけではない.可知論を擁護する岡田16)も,「個々の鑑定人が行っていることは,不可知論と可知論とで両極にあるわけではない」,そして裁判員裁判では「不可知論的な見方に立ち返って精神病理の深遠さを示すことが必要になる状況」もありうると述べて,不可知論的な捉え方に一定の意義を認めている.しかしこの点は法律家には容易に理解されない.次のような例を想定してみよう.障害児をもつ母親がうつ病の昏迷状態でわが子を殺害した.法廷で裁判官から「お子さんの将来を悲観して一緒に死のうとしたのですね」と問われて,「言われてみればそうかもしれません.だけど,私には自分がなぜこんなことをしたのか,わからないのです」と答えたとする.可知論の立場では,うつ症状と行為の関連性は言語などを通して把握されない以上は存在しなかったとされ,その空白に「障害児を抱えた母親の絶望」という正常心理による説明が挿入される.
 事例Dに注目してみたい.妄想などの症状が犯行の「全般にわたって影響を与えた蓋然性が高い」という鑑定人の証言を引用し,「各妄想が各犯行の犯意形成に影響を与えたとの見方は可能」とする一方で,犯行の動機は「正常な精神機能の働きに基づく現実的なものとして説明することがいずれも可能」で,「病的体験の存在を介さずとも十分に了解可能なもの」であると結論づけている.この論理の組み立ては正しいであろうか.ある設問に対してA,Bという2つの解答案が出され,Bが正解と思われた.だからといって,それが直ちに「Aは正解ではない」ことを指示するわけではなく,Aも正解である可能性が残る.事例Dの判決は数々の外形的な証拠を挙げて一連の犯行を強盗目的の故意によるものとする.しかし,判決の文面をみる限りにおいてであるが,3日間にわたる3件の犯行すべてを強盗目的の一貫した行動としてみることに疑問の余地がある.金目のものを奪ったのは1件目だけである.壁に残した血文字,「悪魔,テロリスト」という語句など,病理性を示唆する徴候を「周辺事情」として片づけてよいのであろうか.他の事例の判決でも,裁判官は鑑定人の証言を取捨選択しながら機序の核心を価値観(事例B)あるいは世界観(事例C)などで説明する論法,いわば“精神病理抜きの正常心理学”を展開している印象を否めない.

VII.意思と責任能力―可知論を超えて―
 4事例とも,症状が犯行に与えた影響は間接的でしかなかったことが完全責任能力の認定の論拠とされた.それでは,行為の直接的な動因,つまり行為発動のボタンを押したものは何であったのか.事例Aでは選択肢から自ら選んで実行したこと,事例Bでは価値観などに基づいて選択して実行したこと,事例Cでは誇大感などの正常な心理が殺害を決意させたこと,事例Dでは正常な精神機能に基づく自己の判断として決意,実行したことである.端的にいうならば行為発動のボタンを押したのは“正常な意思”である.
 日常的な行動と比較してみよう.デパートに入り,3階の売り場に行くとする.この客には,エレベーター,エスカレーター,階段という行き方の3つの選択肢が与えられている.健康のために階段を選ぶという思慮が働く場合もあれば,無意識にエレベーターに向かう場合もある.いずれにしても,これらの選択肢は同じ平面上にある.他方,“自殺する”“郷里に帰る”と“幻聴の命令に従う”は同じ平面上にあるだろうか.幻覚の古典的定義は「対象なき知覚」である.存在しない対象につられて行動すること自体,明らかに病理的である.臨床経験から知られるように,幻覚体験に対する批判的な距離が保持されなくなると,幻覚にいわば呑み込まれてしまう.この状態の精神内界は追体験不能である.事例Aでの「三つの選択」という語句は本人自ら発した言葉だろうか.非常に疑わしい.理性的判断が可能な状態でありながら突発的に通行人を多数回刺すという事態は想像しがたいからである.
 この問題は司法精神医学,ひいては近代刑法の根幹にかかわる.1871年のドイツ刑法は51条で次のように規定した.

 行為の当時において,意識喪失または精神活動の病的障害の状態にあり,自由な意思決定(freie Willensbestimmung)が阻却されるとき,罪となるべき行為は存在しない.

 この規定は決定論か非決定論かという哲学的アポリアに入り込まざるを得ない.決定論を徹底すると,人間は機械と同様に物理法則によって動かされ,自由意思が存在する余地はなくなる.前述した1933年のドイツ刑法では,意識障害などのために「行為が許されないことを洞察し,またはこの洞察に従って行為することができないとき」という,より抽象度の低い規定に変更された.法律上の文言からは消えたが,自由な意思決定という理念が根本にあることは変わらない.ドイツの刑法改正案を参考にしたとされる日本の1931年の大審院判決も基本的な構造は同じである.
 刑法学者の小野18)が述べるように,責任能力とは「自己の行為について刑法上の責任を負うに堪える自由な意思決定の能力」であり,自由のないところに責任はありえない(いわゆる新派の刑法学者は別の立場をとるが,ここではふれない).人は自由意思に基づいて行為したからこそ非難され,罰せられるのである.逆にいうと,自由意思が何らかの事情によって働かないときは,行為それ自体は違法であっても罪を減免される.1871年ドイツ刑法にいう「自由な意思決定の阻却」がその意味である.
 4事例の判決は,意思あるいはその主体としての人格は疾病によって損なわれないことを前提としているようにみえる.自由な意思決定が阻却される可能性が排除されているのである.どれほど幻覚や妄想が活発であっても,どこからか無傷な意思決定の主体が現われて行為発動のボタンを押す.しかし,「対象なき知覚」である幻覚,「訂正不能の誤った観念」である妄想に支配された行為が“正常な意思”によるものでありえようか.
 可知論では症状と行為の関連性のポジティブな証明が求められる.そのうえさらに疾病に侵されることのない“意思”が持ち込まれると,かりに幻聴による命令が確認されたような場合でも,例外なく完全責任能力が認定される.
 法曹界の反応についてふれると,事例Cを除いて判例雑誌に判決の解説が掲載されている.事例A19)では,過去の最高裁決定などによって示された責任能力の判断枠組みを前提として2件の鑑定を比較し,事実関係などに問題のない鑑定を尊重しつつ他の認定事実を総合して完全責任能力を認めたもので,判断の枠組みを複数の鑑定につき適用した事例として参考になるという.事例B31)では,判決が「鑑定人による記述的な意見」と「裁判所による法的評価」の関係を明確にしたとする.事例D22)では,精神鑑定の結果を尊重して妄想と犯行の因果関係を認めながら,行動を具体的にみて精神障害の影響が限定的とした点が注目されるという.これからみる限り,法曹界の関心は責任能力判断の法的枠組みおよび過去の最高裁決定などとの整合性という外枠に向けられ,判決内容については違和感がもたれていないようである.

おわりに
 責任能力に関する裁判判断は多様であり,限られた事例をもとにした本稿の考察は一面を切り取ったにすぎない.とはいえ,精神障害が疑われる加害者による同様の重大事件が発生した場合,これらの事例の判決がリーディングケースとして踏襲されることが予想され,十分に検討される価値がある.冒頭でふれたように,裁判所は鑑定人に対して「症状による影響の機序」に的を絞った証言を要求している.それに対して田口25)は,症状から機序を説明することの重視が精神医学における疾病診断の重要性を軽視することにつながると指摘する.また中島11)は,裁判での不可知論の排除が病態の重さの軽視につながると批判している.著者はこれらの見解に賛同するが,私見を付け加えるなら,不可知論を“全般的免責”という意味で一面的に解釈したうえで排除し,可知論のみを真とする立場で機序が論じられることに危うさがある.可知論と不可知論は二者択一ではない.十分な臨床的知識をもって鑑定を行う医師は,常に何ほどかは可知論者であり,何ほどかは不可知論者である.“日本の刑事裁判ではかつては不可知論が支配的であったが現在は可知論が優勢である”という認識は事実にそぐわない.さらに,可知論の立場からも弁識能力・制御能力が疑問に付されるような事例においてさえ,“正常な意思”を切り札にして完全責任能力を認定する方向性がみえている.この流れの行き着く先は刑法39条の空洞化ではないだろうか.

 編注:編集委員会からの依頼による総説論文である.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 大審院判決昭和6年12月3日. 大審院刑事判例集10巻 (法曹会編). 法曹会, 東京, 1937

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10) 神戸地判平成29年3月22日 (LEX/DB文献番号25448600)

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16) 岡田幸之: 刑事責任能力再考―操作的診断と可知論的判断の適用の実際―. 精神経誌, 107 (9); 920-935, 2005

17) 岡田幸之: 責任能力判断の構造と着眼点―8ステップと7つの着眼点―. 精神経誌, 115 (10); 1064-1070, 2013

18) 小野清一郎: 責任能力の人間学的解明 (一). ジュリスト, 367; 87-95, 1967

19) 大阪地裁判平成27年6月26日判決. 判例タイムズ, 1421; 377, 2016

20) 最決昭和58年9月13日. 判例時報, 1100; 156, 1983

21) 最高裁判所事務総局編: 責任能力に関する刑事裁判例集 法曹会, 東京, 1990

22) さいたま地判平成30年3月9日. 判例時報, 2416; 98, 2019

23) Schneider, K.: Die Beurteilung der Zurechnungsfähigkeit. Ein Vortrag. Georg Thieme, Stuttgart, 1948. 2 Aufl., 1953

24) 司法研修所編: 難解な法律概念と裁判員裁判 法曹会, 東京, 2009

25) 田口寿子: 精神鑑定の精神医学的意義を守るために. 臨床精神医学, 47 (11); 1213-1218, 2018

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27) 田岡直博: 本特集の趣旨. 季刊刑事弁護, 93; 27-28, 2018

28) 東京新聞2018年8月31日朝刊

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30) Witter, H.: Zur gegenwärtigen Lage der forensischen Psychiatrie. Der psychiatrische Sachverständige im Strafrecht (ed by Witter, H.). Springer, Berlin, p.1-34, 1987

31) 山口地判平成27年7月28日. 判例時報, 2285; 137, 2016

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