Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文全文

第122巻第1号

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特集 健康生成の病跡学―サルトグラフィの試み―
坂口恭平―健康生成としての創造―
斎藤 環
筑波大学医学医療系社会精神保健学
精神神経学雑誌 122: 47-53, 2020

 本稿において著者は,病理的側面から天才の創造性にアプローチする従来の病跡学の手法に対して,健康生成論の視点から創造性を検討するサルトジェニックな病跡学「サルトグラフィ」を提唱する.ついで,この立場から,自らの双極性障害を公表しながら旺盛な創作活動を続けているアーティスト,作家,建築家でもある坂口恭平を取り上げた.坂口の創造性は主に軽躁状態において発揮されるが,うつ期にあっては創造性が低下し,自身の業績も存在も全否定して希死念慮を抱くまでになる.そうした坂口を一貫して支えてきたのがパートナーのフーであり,彼女の姿勢,例えば「聞き流す」といった態度は,坂口の回復にとって望ましいものだった.坂口によれば,思考とは人間が内側に形成した「思考の巣」であり,そこは「現実と対置された空間」なのだという.創造行為とは,個人が作り上げた「思考という巣」同士を,「現実」という意思疎通のための舞台上でつなぐことを意味する.この過程には身体が深く関与している.治療としてのOpen Dialogue(OD)において,意味やナラティブは,複数の身体性が同期するところから生成してくる.このとき他者性とは,固有の身体性の謂であり,同期は融合や同一化(≒シンフォニー)ではなくポリフォニーをもたらす.ODは二者関係を基本とする個人精神療法とは異なり,チーム治療を必須のものとする.チームとネットワークの導入は,生身の身体の複数性(=水平のポリフォニー)のもとで,個人の身体の重層性,複数性(≒垂直のポリフォニー)が賦活され,予測を超えたポリフォニックな同期=意味の生成が生じやすくなり,それが治療的契機となる.坂口とフーの関係性が特異なのは,二者関係でありながらも,こうしたポリフォニーに通ずる契機がいたるところに見てとれる点である.

索引用語:坂口恭平, 健康生成, サルトグラフィ, 思考の巣, ポリフォニー>

はじめに―サルトグラフィとは―
 「病跡学」は本来,天才や傑出人の創造性を精神医学的に解明するための学問である.その典型的な応用としては,例えば夏目漱石の作品や評伝を分析して,かくかくの精神症状を呈していたがゆえに漱石は統合失調症であった,ないし双極性障害であった,等々の診断を試み,その病理が作品中にどのように投影されているかを検討する,といったものである.ただし従来の病跡学は,そのほとんどが「病理性」にのみ焦点化することが多かった.
 近年,さまざまな領域で「レジリエンス」や「首尾一貫感覚(sense of coherence:SOC)」といった発想が注目されつつある.Antonovsky, A. のSOC概念をわが国に精力的に紹介してきた山崎によれば10),医学全体において「キュアからケアへ」「病院・施設からコミュニティへ」「治療から予防へ 医療から保健福祉へ」といった地殻変動が起こりつつあるとのことである.
 従来の医学は「疾病生成論(pathogenesis)」,すなわち病気のリスクファクター(危険因子)に焦点をあて,その軽減と除去をめざす,いわばマイナスをゼロに戻すためのものであった.しかし,現代医学の使命は,単に病気の治療をめざすことばかりではない.ゼロをプラスにすること,すなわち健康の質を高める要因に着眼し,その支援・強化をめざすこと.医学は単に「病気ではない状態」をめざすばかりか,個人の「健康の質」を問題にしつつある.その意味で現代医学は,「健康生成論(salutogenesis)」の時代を迎えつつある.
 こうした視点からさまざまな天才の生涯を眺めてみれば,そこに見えてくるのは必ずしも「病理」の風景ばかりではない.むしろ印象的なのは,彼らが並外れて過酷な環境下においても素晴らしい創造性を発揮し,あるいは偉業を達成し得たという「強靱さ」の側面ではないだろうか.
 確かに彼らは,創造行為の中核的動因として,何らかの病理を抱えていたかもしれない.しかしその一方で,きわめて高いレジリエンスを有していた,とも考えられる.中井久夫が病跡学について述べた「不発病の理論」の可能性は,主としてこちらの側にある.本来であれば何らかの精神疾患を発病していたであろう天才が,創造行為に没頭することで発症を免れるという意味からも.
 病跡学における「健康生成」という視点の導入は,単なる個人病理にとどまらない,関係性やシステム論といった視座をも要請することにつながる.レジリエンスという概念にしても,何らかの病理がそれを安定化させるような「一病息災」的ホメオスタシスや,個体と組織のレジリエンスの対立といった,多くの逆説を含んでいる.
 以上のような発想に基づき,著者は2016年に筑波大学で開催された,第63回日本病跡学会総会の大会長を務めたさい,大会テーマを「サルトジェニック(健康生成的)な病跡学へ向けて」とした.小林聡幸は著者による健康生成的な病跡学に対して,「パトグラフィ」ならぬ「サルトグラフィ」という卓抜な名称を創案し,本特集のタイトルに冠した.サルトグラフィのめざすところは,天才の高いレジリエンスを検証することばかりではない.むしろ,病と健康の境界線上を生きる天才の視点を通じて,「健康」なるものの自明性を疑いつつ,健康の構造をシステム論的に捉え直すことで健康を再定義し,そこから「治療」のヒントを引き出すことも可能になるであろう.とりわけ『治癒の現象学』1)は,この視点において,はじめて可能となるように思われる.
 本稿では,こうしたサルトグラフィの視点から,双極性障害であることを公表しつつ旺盛な創作活動を続けているアーティスト,作家,建築家でもある坂口恭平を取り上げる.自身が通院し治療を受けながらも,病についても積極的に発信を続ける坂口の言葉は,不断に病と健康の葛藤を通じて恒常的なバランスを模索するという意味で,まさに健康生成のリアルな過程の表出となっている.

Ⅰ.「感情の連続性」の喪失
 坂口の小説『家族の哲学』7)には,双極性障害の苦しさが克明に記されている(以下,「」内の引用は本書からのもの).精神医学の教科書や論文からは決してうかがい知ることのできないほどの,絶望的な苦しさがそこにある.彼の記述を読むかぎり,人間の思考や理性などは,感情の変動にひたすら圧倒されるばかりの存在,という印象が否定できない.
 知られるとおり,軽躁状態の坂口はきわめて生産的である.作品のアイディアが次々と浮かび,思いつくままに行動し,語り,歌い,描き,そして書く.好調な時期には1日に10枚の原稿を書くことも苦にならないという.他にも「新政府内閣総理大臣」を名乗ったり,自殺予防のために自身の携帯電話番号を公開して行っている「いのっちの電話」活動など,精神科医からすれば観念奔逸的,誇大妄想的と形容したくなるようなアイディアを発案し,次々に実行に移してきた.
 坂口の名誉のために注釈しておけば,彼はそうしたアイディアを実行する際には,関連法案の確認から関係各所への根回しまで,非常に「現実的」に行動し,多くの関係者を「動員」してきた実績がある.つまり精神医学的な意味での社会適応度を問題とするのであれば,坂口は少なくとも,躁期にあっても大きく逸脱することはほぼなかった.このあたりは,やはり双極性障害で,躁期にのめり込んだ株取引で破産に至った北杜夫などと比べれば,はるかに「軽症」と考えられるであろう.
 しかし,言うまでもなく,躁期は長くは続かない.うつ期がやってくると,坂口は別人のように絶望的になり,希死念慮にさいなまれることになる.彼の言葉をいくつか引用してみよう.
 「元気そうにしているときだって,じつは苦しいんだよ,隠せているだけ」.うつ期に入った坂口はそう考える.家族に対する評価も180度変わる.「本当は内心,両親に対して絶望を感じていて,それによってずっと苦しんでる.だけど,調子がよいときはその苦しみを隠すことができるわけ.(中略)結局はずっとその問題を抱えてるんだ.じつは終始絶望してる」.
 彼はそうした事態に備えて,壁に自分自身へ宛てたメッセージを貼っているという.「調子が悪いときは,ゆっくり寝ること」「かならず,仕事をやめたいと言い出すので,フー(後述)はしっかりと私の行動を止めること」などのように.坂口にはもちろん,それらのメモを書いたのが間違いなく自分であるという記憶はある.しかし,うつ期においては,メモの意味を理解することすら困難になるという.
 もちろんこうした現象は,臨床家にとって耳新しいものではない.双極性障害の患者は,正常気分のときの認識や判断を,うつ期において全否定することがしばしばある.解離性同一性障害のような健忘は生じないが,「感情の連続性」が失われた結果,思考や世界観が180度近く変化してしまうのである.
 それゆえ,うつ期においては,坂口自身が繰り返し記しているように,「じつは苦しかった」「本当は絶望していた」などと口にしながら,正常気分のときの発言や記録をすべてひっくり返すのである.そのさい「本当は」「実は」「最初から」といった,メタ的な言葉がしばしば付加される.うつ期の絶望感の恐ろしさは,それが常に,こうした心のメタレベルに侵入し,速やかに心の全領域を遡行的に占拠してしまうことで,その絶望が永遠に続くかのような認識をもたらす点にあるであろう.
 そうなると,「以前にも絶望したが回復できた」「これは双極性障害の気分変動だから一時的である」といった,こちらもメタ的な認識すらも成立しなくなる.ここから言えることは,重度の抑うつ状態にあっては,感情が常に認識や記憶,論理のメタレベルを支配するため,言葉のみで抵抗するには限界がある,という事実である.もちろん,軽度のうつ気分に対しては,言葉による抵抗が有効な場合もある.憂鬱な気分が続いた場合に,「こういう気分は一過性だから大丈夫」と自分に言い聞かせながら切り抜けた経験は,誰しも覚えがあるであろう.

Ⅱ.エピ・サルトグラフィ
 うつ期には希死念慮にさいなまれる坂口を生につなぎ止めてきた言葉の1つが,彼のパートナーであるフーの「死ななきゃ何でもいい」である.
 彼とフーとの関係や会話は,サルトグラフィという視点からみても,きわめて興味深い.作者に対してパートナーの「狂気」が影響を及ぼし,創造を促すとした宮本忠雄の「エピ・パトグラフィ」にならい,著者はここでエピ・サルトグラフィという視点を控えめに提唱しておきたい.
 例えば坂口の愚痴に対するフーの言葉に,次のようなものがある.「そのようなときもある.それは仕方がない.そんな体なんだから仕方がない.しかし,忘れてはいけない.そうじゃないときもある.それを忘れてはいけない」.
 このとき坂口に必要なのは,こうした「フーの視点」である.その視点から世界を見ることで,彼は「私が調子が悪いときに感じてしまう,あの絶望以外にも世界があること」を知覚することが可能になるという.
 坂口に対するフーの接し方の1つに「聞き流す」というものがある.それは無視することではなく,言葉を「意味ではなく,音楽として受けとるということ」であり,「判断せず,決断せず,ただ受け入れる」ことである.坂口によれば,絶望している人間の前でこれを実践すると,その人間は「名もなき人間」になり,周囲が「未知の風景」となって「体がふっと軽くなる」という.そればかりか,聞き流されることで爽快さや感謝すらも生まれてくるのだという.
 『家族の哲学』の最終章で,坂口がうつ期を抜け出すきっかけとなったのは,フーの言葉であった.自分を否定する言葉を語り続ける坂口に,フーは次のように告げたのである.「よく,そこまでいろんな角度から自分を否定する言葉を見つけ出してくるね.たいしたもんだよ.創造活動にすら見えるもん」と.彼女の言葉を1つの契機として,坂口の気持ちは軽くなり,うつ期からの回復が起こる.

Ⅲ.「思考という巣」をつなぐ「創造」
 坂口は『現実脱出論』6)において,「現実」に対するきわめて興味深い視点を提供している(以下,「」内の引用は本書から).彼は,この現実もまた1つの幻想空間にすぎないことを強調する.その根拠として坂口は,自身の気分状態いかんで,現実ががらりと相貌を変えることを指摘している.例えば坂口には,好調なときとうつのときとでは空間の見え方,奥行き,色彩までもが変わって見える.「F1車」と「おんぼろトラック」くらい違うのだ,というのである.もちろんこれは「主観」と「客観」の対立などではないし,認知心理学的に解釈すべきエピソードでもない.
 本書で坂口は「思考という巣」という興味深い概念を提唱している.坂口によれば,思考とは考える行為ではなく,人間が内側に形成した「巣」であり「現実と対置された空間」なのだ,という.人間の感覚も振る舞いも,この巣を作るための素材となる.このとき創造行為とは,個人が現実から脱出して作り上げた「思考という巣」どうしを,現実という意思疎通のための舞台の上でつなぐことを意味する.
 例えば,坂口が語る「ものがたり」(≒思考の巣)を,フーがどのように聞くのかをみてみよう.ここで「ものがたり」とは,感覚器官という扉の向こうにしっかりと存在している空間を,現実のもとにおびきよせる行為である.そのような「ものがたり」,精神医学的には「妄想様観念」を,彼は家事に勤しむフーに語り伝える.フーは彼の荒唐無稽な話を,けっして批判しない.ただし坂口のほうも,話したことを「現実」の中ではけっして実践しない,という約束をフーと交わしている.
 ここで再び,先ほど述べた「聞き流す」という身振りが出てくる.「町に流れるBGM」のように,妻は意識せずに「ものがたり」を聞く.「右から左へ聞き流す.頭の中にはできるだけ入れない.一つ一つ吟味しない.それに対して,対応しない.批判しない.同意もしない.かといって無視はしない.必ず一度,耳には入れる」という姿勢で.
 妄想も幻覚も,すべて事実として受け入れ,しかし現実世界では実践しないこと.その理由について,坂口は次のように述べる.「『現実さん』は他者だからだ.他者の耳元で,僕にとっての事実を一生懸命伝えても,妄想としか言われない./『現実さん』にも通じる言葉で伝える必要があるのだ」と.坂口によれば「『現実さん』を歓待し,落ちついて他者として付き合ってみることで,自らの思考が,独自の知覚・認識によって形成された空間であると理解」できるという.
 このとき「現実」とは,「他者と意思疎通するための舞台」である.他者の思考は完全には認識できない.他者との意思疎通は,現実という場でのみ可能となる.ただし,現実の空間では集団のためのルールや規則が優位になりがちで,個々の思考はすぐ窒息させられてしまう.だからこそ,個人同士の「思考の巣」を安全に接続するための回路が必要となる.この「他者の思考との邂逅,対話を直接的ではないにせよ,可能なかぎり滑らかに実現するための方法」を,坂口は「創造」と呼んでいる.
 この「創造」の明快な定義には,アウトサイダー・アートやエイブル・アート,芸術療法の真の意義,病跡学の向かうべき方向,そればかりか,ありとあらゆる表現行為がなぜこの世界に必要なのかという問いに対する,きわめて説得的な答えがあると著者は考える.

Ⅳ.オープンダイアローグ
 こうした坂口の「創造」の定義が,ほぼそのまま「治療」に結びつく可能性について検討してみたい.著者は近年,「開かれた対話(Open Dialogue:OD)」という対話によるケアの手法/思想の啓発活動に取り組んでいるが,ODにおける対話の考え方は,坂口による創造の定義と共通部分が大きい.
 ODとは,FinlandのWestern LaplandにあるKelopudas病院のスタッフたちを中心に,1980年代から開発と実践が続けられてきた精神病に対する治療的介入の技法である.薬物療法や入院をほとんど必要とせず,きわめて良好な治療成績を上げており,近年国際的な注目も集めている.詳細については成書,文献にあたるか3)8)9),Open Dialogue Network Japan(ODNJP)が作成した「オープンダイアローグ対話実践のためのガイドライン」2)を参照されたい.
 ODでは,患者や家族からの依頼を受けてすぐ「専門家チーム」が結成され,患者の自宅を訪問する.患者や家族,そのほか関係者が車座になって座り,家族療法などの技法を応用した「開かれた対話」を行う.
 ODの主要な柱の1つである「対話主義」は「言語とコミュニケーションが現実を構成する」という社会構成主義的な考え方に基づいている.先述した坂口の発想(「思考の巣」や「現実さん」)もこれに近い.
 患者が妄想を語り出した場合,治療チームは,患者の語りを否定したり批判したりすることはしない.ただ,患者の経験したことについて,さらに質問を重ねていく.「私にはそういう経験はありません.もしよかったら,私にもよくわかるように,あなたの経験についてお話ししてもらえますか?」などのように.このように問いかけを重ねながら,さらに詳しく「妄想」を語ってもらうのである.妄想はモノローグ,つまり独語のなかで強化され,ダイアローグに開くことで解放される.ならば,妄想に対して関心と好奇心をもってダイアローグに開いていけば,妄想は改善されうるであろう.少なくともODは,こうした発想に支えられた実践によって,目覚ましい成果を上げてきた.
 そのためにはまず「治す」という発想から自由になる必要がある.治す,すなわち「妄想を取り除く」という目標に固執すると,やりとりは「議論」や「説得」に傾きがちになるであろう.ここで重要なことは,妄想の語りを核として,その周囲に複数の「声」が生成繁茂していくような,ポリフォニックな空間を拓くことなのである.
 これをODでは「社交ネットワークのポリフォニー」と呼んでいる.それゆえ,単純な合意や結論に至ることは重要ではない.対話をする目的は,患者の苦しみの意味がよりはっきりするような共有言語を創り出すことであり,安全な空気のなかで,参加するメンバーの異なった視点が接続されることだ.合意や結論は,いわばその過程の「副産物」として派生することになる.

Ⅴ.多重レイヤーのポリフォニー
 ここで坂口の記述に戻るなら,「聞き流す」とは,相手の声を,その言葉の意味や内容にとらわれず,あたかもポリフォニックな音楽であるかのように聴くこと,ともいえるのではないか.一人なのにポリフォニーとは奇妙な表現だが,ここでは坂口が,「体の動き」の大切さを述べていたことが重要となる.人は声のみならず表情や仕草といった身体表現を用いて,おのれの「思考の巣」を開示しようとする.ODにおいても重視されるのは「沈黙を含む非言語的なメッセージに波長を合わせる」ことだ.ここには,しぐさや行動,息づかいや声のトーン,表情,会話のリズムなどが含まれる.
 そのように考えるなら,坂口の言う「思考の巣」そのものが,本来ポリフォニックなものである可能性がみえてくる.対話の空間とは,患者がみずからの妄想へのモノロジカルな固執から解放され,「思考の巣」が本来もっているポリフォニックな構造を回復するための場所なのではないだろうか.
 「思考の巣」と同様に,「現実」もまたポリフォニーである.坂口はデビュー作である『0円ハウス』4)以降,一貫してこの「現実」の多重性を主張してきた.路上生活者の視点に立てば,都市が豊かな「都市の幸」に満ちた狩猟フィールドになるように.あるいは彼の「独立国家」もまた,日本全国に点在する,法律上「誰のものでもない土地」を領土として成り立っている5).現実とは常にすでに,いくつものレイヤーが重なり合った重層的空間なのだ.「思考の巣」と「現実」は,ともにポリフォニックな構造を共有するがゆえに,接続が可能なのである.
 うつ期における「実は」「本当は」といったメタレベルの介入は,こうしたポリフォニーを抑圧するモノローグという意味で,すでに妄想的なエレメントをはらんでいる.一般的に,抽象的な理論や概念は身体性を排除しつつ,同一化もしくは対立のみをもたらし,ポリフォニックな同期を阻害してしまう.対話も創造もつまるところ,自らと他者の身体性を媒介として,こうしたポリフォニーに気づく契機として重要な意味をもつのである.
 意味やナラティブ,あるいは「関係性」は,複数の身体性が同期するところから生成してくる.このとき他者性とは,固有の身体性の謂であり,その限りにおいて同期は,融合や同一化のようなシンフォニーではなく,ポリフォニーなのである.
 ODが二者関係を基本とする個人精神療法の設定ではなく,チーム治療を必須としていたことを想起しておこう.二者関係の空間では,同一化に向かう圧力が強く作動するため,身体はしばしば単数化し,「他者」を疎外する空間になりやすい.チームとネットワークの導入は,生身の身体の複数性(=水平のポリフォニー)のもとで,個人の身体の重層性,複数性(≒垂直のポリフォニー)が賦活され,予測を超えたポリフォニックな同期=意味の生成が生じやすくなる.これがODにおいて,重要な治療的契機となる.

おわりに
 ポリフォニーという視点から見るとき,坂口とフーの関係性は,きわめて特異なものである.二者の関係であるにもかかわらず,治療的なポリフォニーに通ずる契機がいたるところに見てとれるためである.なぜこうしたことが可能となったのか.現時点でいえることは,彼らの特異な関係性が「現実さん」という第三項によって支えられており,安易な融合や調和が慎重に回避されていた可能性である.ここにはおそらく,チームによらずにポリフォニーを生成するためのヒントが潜在していると考えられるが,その検討については機会を改めて継続することとしたい.

 本研究は,JSPS科研費(16H03091)の助成を受けた.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 村上靖彦: 治癒の現象学. 講談社, 東京, 2011

2) ODNJPガイドライン作成委員会編著: オープンダイアローグ 対話実践のガイドライン2018年版. 精神看護, 21 (2); 105-132, 2018

3) 斎藤 環: オープンダイアローグとは何か. 医学書院, 東京, 2015

4) 坂口恭平: 0円ハウス. リトルモア. 東京, 2004

5) 坂口恭平: 独立国家のつくりかた. 講談社, 東京, 2012

6) 坂口恭平: 現実脱出論. 講談社, 東京, 2014

7) 坂口恭平: 家族の哲学. 毎日新聞出版, 東京, 2015

8) Seikkula, J., Olson, M. E.: The open dialogue approach to acute psychosis: its poetics and micropolitics. Fam Process, 42 (3); 403-418, 2003
Medline

9) Seikkula, J., Arnkil, T. E.: Dialogical Meetings in Social Networks. Karnac Books, London, 2006 (高木俊介, 岡田 愛訳: オープンダイアローグ. 日本評論社, 東京, 2016)

10) 山崎喜比古: 健康と医療の社会学. 東京大学出版会, 東京, 2001

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