Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第124巻第6号

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特集 今日の精神医学の検証―バイオマーカーを持たない精神医学の望ましい航路とは―
純粋精神医学―伝統的精神医学への回帰―
古茶 大樹
聖マリアンナ医科大学神経精神科
精神神経学雑誌 124: 397-404, 2022

 精神医学には心は脳の働きにすぎないという研究志向の生物学的精神医学(脳科学的精神医学)と脳ではなく心の臨床にこだわる純粋精神医学という2つの潮流がある.現代精神医学は生物学的精神医学に大きく傾きバランスを崩しかけているように思われる.純粋精神医学の主張は決して新しいものではなく,伝統的精神医学(ハイデルベルク学派)の思想を礎としている.それは「精神障害には疾患的であるものと疾患的ではないものとがある」ことを前提としており,了解的関連と因果的関連をともに認めかつ使い分けるという考え方である.生物学的精神医学は純粋精神医学の重要な構成成分であるのでこれを否定するものではない.生物学的精神医学と純粋精神医学―どちらの側に立つかによって目の前にいる1人の患者に対する見方がまったく違う.2つの立場からみた世界を描写し比較してみた.生物学的精神医学においては,彼はある精神障害を抱える多くの標本の1つにすぎない.彼だけをみて何かの結論を導き出すことはない.純粋精神医学においては,彼はほかならぬ患者であり,彼のなかに何か普遍的なものを見いだそうとする.2つの思想のアンバランスにより生ずる精神医学教育の問題点と純粋精神医学に基づく正しい方向性についても論じた.

索引用語:純粋精神医学, 生物学的精神医学, 脳科学, 因果的関連, 了解的関連>

はじめに
 かつて精神病理学と生物学的精神医学は車の両輪にたとえられていた.まだ生物学的精神医学という言葉が耳新しく感ずる30年以上も前のことである.精神病理学は社会科学に,そして生物学的精神医学は自然科学に置き換えてもよい.身体医学は本質的に自然科学の営みであるので,そう言い換えることで精神医学と身体医学の違いがより明確になる.両輪のたとえは言いえて妙である.正しい方向に進むには車輪が両方ともしっかりと地についていなければならない.どちらかが浮いてしまうと一輪走行になり方向が定まらない.2つの車輪は平行でなければこれもまたうまく進まない.平行であることとは決して交わらないことでもある.両者は優劣をつけられるものでもなく,またどちらかに還元することもできないことを意味している.著者の主張する純粋精神医学9)はまさにそのような精神医学特有の構造に重きをおいている.この構造が危うくなっているのが近年の精神医学の状況であるように思う.その経緯を歴史的に振り返り,純粋精神医学と生物学的精神医学(脳科学的精神医学)の世界を対比し,この2つの潮流が精神医学教育にどのような影響を及ぼしているかを論ずる.

I.現代精神医学の動向
1.DSM-III誕生
 この半世紀を振り返ってみて現代精神医学にとってエポックメイキングな出来事といえば,やはり1980年の『Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Third Edition(DSM-III)』1)の誕生ということになるだろう.DSM-III誕生までの歴史をかいつまんで紹介する.そこにはいくつかの契機があった.発端は1965年の米国と英国の診断学についての調査研究で,米国の精神医学的診断の問題がクロースアップされた.1970年代に入ると反精神医学運動に火がつき米国精神医学は窮地に立たされる.まさに米国精神医学の信頼回復が迫られる事態に至り,その打開策として客観的な診断分類の確立が急務となった.その任を託されたのがSpitzer, R. L. である.そして彼の目にとまったのが,ワシントンのセントルイス大学の小さなグループが発表した精神障害の分類についての研究論文4)であった.精神分析学が米国精神医学のメインストリームであったその時代に,セントルイス学派は精神障害を医学的疾患としてとらえ,他の医学領域と同じく実証主義をモットーとしてその分類について研究していた.彼らは新クレペリン主義とも呼ばれているが,DSM-IIIにつながるその思想の原点は1970年のRobins, E. とGuze, S. B. の論文12)にある.その後,Spitzerの目にとまったSt Louis Criteria4),さらに対象を拡大したResearch Diagnostic Criteria13)を経て,1980年にDSM-IIIが誕生する.DSM-IIIの特徴を列挙するなら,操作的診断(operational criteria)(診断を操作すること),理論と無関係であること(atheoretical),研究と統計調査のために使うことが主たる目的であること,カテゴリーと診断基準はあくまで作業仮説であること,そしてもう1つ付け加えるなら改訂を繰り返すうちに探し求める疾患単位に到達するだろうという目論見があることである.無理論を謳っているので明言こそされてはいないが,精神症候学で規定される疾患単位の存在が暗黙の前提となっているようにみえる.DSM-IIIの導入がエビデンス重視の精神医学の原動力となり,これによって精神医学は自然科学の仲間入りができた.失墜していた米国精神医学の威信が見事に回復したことはDSM-IIIの最大の功績であるというべきかもしれない.一連の経緯については文献10)が詳しい.一読をお薦めしたい.

2.DSM-III以降の展開
 DSM-IIIはその作成にかかわった人も含め誰もが想像する以上の大きな影響を世界の精神医学に与えることになった3).精神医学の主導権はヨーロッパ(独,仏,英)から米国へと移った.そして米国が最先端を走る科学・検査技術の進歩により,レセプター・遺伝子・脳機能画像といった研究が次々と実現し,コンピューター・テクノロジーを駆使した高度な統計学的検討が可能となった.これらの相乗効果が生物学的精神医学(脳科学的精神医学)の台頭を促す一方,これらの恩恵を受けない(自然科学とは相入れない)精神病理学・精神分析学は必然的に衰退を余儀なくされる.そして精神医学におけるエビデンス至上主義というトレンドが大きく推進することになる.
 精神医学には輝かしい未来が約束されていたかにみえたのだが,事はそのようには展開しなかったのである.確かにいくつもの進歩はあったものの期待していた成果がなかなか上がらない.例えば統合失調症の診断に直結するような身体的基盤の追求には一向に近づくことすらできなかった.われわれはなぜだろうと考え始めるようになり,いわば盲点となっていた(棚上げされていた)大きな問題が時とともに明らかになってくる.それがカテゴリーの妥当性問題である.1980年以降この40年間にDSM分類は4回の改訂を繰り返してきたのだが,最先端の科学技術をもってしても主要な精神障害の身体的基盤を明らかにすることはできなかった.実はその結果は歴史的視点からはすでに予測できていたともいえるかもしれない.DSM-III誕生の遥か昔のBonhoeffer, K. の外因反応型,Wieck, H. H. の通過症候群,Bleuler, M. の脳局所症候群・内分泌精神症候群といった歴史的諸研究は「精神症候学で規定される類型が,そのまま疾患単位として確立したことは歴史上一度もない」ことをすでに明らかにしていた.もちろんこれらの諸研究と現代とでは自然科学的な方法論・技術の水準が違うので同一視することはできない.しかし見方を変えれば,われわれはこの半世紀をかけて,最高水準の科学技術をもって世界規模の壮大な社会的実験により改めてその歴史的事実を確認したといえるかもしれない.

3.精神医学の歴史の1つの分岐点―2013年―
 1980年のDSM-IIIのときと同じように,まだその渦中にいるわれわれは実感していないのだが,大きな変革は時としてその只中には気づかれないものである.しかし50年後あるいは100年後の未来から振り返ってみたとき,2013年は精神医学の歴史の1つの分岐点として記憶されるのではないか.それは『Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition(DSM-5)』2)発表を中心に展開した一連の事実によって示されている.DSM-5はその発表を前後して批判が起こった.DSM-5は臨床実践,統計,研究(身体的基盤の追求を含む)だけでなく,保険,司法などのあらゆる要求に応えなければならない,1つの分類体系として作成されている.自然科学的な要請と社会的価値を含む非科学的な要請をともに満たさなければならないのである.それはどちらの側からみても妥協の産物であるともいえるかもしれない.Frances, A.5)やParis, J.11)といった重鎮からの批判が話題を呼んだ.さらに大きな混乱を引き起こしたのが,生物学的精神医学のトップ機関である米国国立精神衛生研究所(National Institute of Mental Health:NIMH)の当時のディレクターInsel, T. の脱DSM宣言であった7).彼は「DSM分類は単なるレッテルにすぎず疾患の原因追求には役立たない」と明言した.これはFrancesやParisと同じ水準のDSM-5に対する批判にはとどまらない.Kraepelin, E. 以来のカテゴリー分類に基づいて展開してきた精神医学100年の歴史への挑戦とみるべきものである.そして彼らは,Research Domain Criteria(RDoC)という診断カテゴリー不在の世界に駒を進め始めた6)
 おそらく脳科学を中心に使われるだろうRDoCと,それ以外の幅広い用途をカバーするDSM-5というパラダイム(認識の枠組み)のまったく異なる2つの分類体系が併存する時代へと突入した-それが2013年というわけである.

II.精神医学の2つの潮流
 かつて脳病学・神経病学が精神医学と神経内科学とに分岐したのと同じように,いつか精神医学は再度2つの流れに分かれるのではないだろうか.心は脳の働きにすぎないという研究志向の脳科学的精神医学(brain science)と脳ではなく心の臨床にこだわる純粋精神医学(pure psychiatry)という2つの潮流である.RDoCが将来どのような成果をもたらすのかはまったくわからないが,彼らも認めているように当分の間は臨床に寄与する成果は期待することができない6).かといって,実地臨床において残るDSM-5が最も優れた診断分類体系なのだろうかという疑問が頭をよぎる.純粋精神医学は伝統的精神医学の思想9)を礎とすべきであると思う.
 脳科学的精神医学と純粋精神医学―どちらの側に立つかによって目の前に広がる世界がまるで違う.2つの立場からみた世界を描写し比較してみたい.

1.脳科学的精神医学の世界
 脳科学的精神医学は「心は脳の作用にすぎない,あらゆる精神障害は脳の疾患である」という信念(自然科学的発想)をその立ち位置(基本的な姿勢)としている.この立場は精神障害を定義すれば十分で「精神医学にとって疾患とは何か」という難問にあえて答える必要はない.米国ではDecade of the BrainからDecade of the Mindへというフレーズが発せられるが,その言わんとするところは心と脳との関連を知ること,脳科学的理解をより深めることをモットーとしている.まさに脳科学的精神医学の推進を謳っているわけである.この立場は「心の異常は脳の異常であり,それはわれわれが知覚的に把握できる形で把握可能である」という暗黙の前提が必要になる.ここでいう「知覚的に把握できること」とは多くの場合はさまざまな水準での局在化を意味するもので,この考え方が問題なくあてはまるのが器質性・症状性・中毒性精神病の領域である.しかし脳科学はそこで歩みを止めることはない.あらゆる心の問題を個人,特にその脳の問題に還元しようとする.脆弱性(vulnerability)という彼らお気に入りの便利な言葉もある.例えば適応障害はストレスによるもっともな反応とみるのではなく,その個人に脆弱性があってそれは脳に起因するとみるわけである.
 ほかにも純粋精神医学と対比すると際立ついくつかの特徴がある.脳科学的精神医学は自然科学であるがゆえに実証主義を貫くだろう.エビデンスを重視するのでたった1例だけでは何もいうことができない.仮説を立てて多数例を集め統計学的に検証し結論を導き出す方法論を採用する.彼らにとって目の前の1人の患者は「ほかならぬこの患者」ではなく,何らかの障害を抱える多くの標本の1つにすぎない.彼らの視点は将来わかるかもしれない何かに向けられているともいえそうである.脳科学の世界では正常心理の延長線上にあるような苦悩・苦痛も容易に治療対象化されやすい.そして欠点を見つけ出しそれを矯正しようとする姿勢につながりやすく,その治療実践は脳の状態を変化させることによって心の状態の改善を図ろうとする発想につながりやすい.このような考え方を美容精神医学(cosmetic psychiatry)と揶揄する意見もある一方,画像を使うことで結果を知覚化できるので,その成果はわかりやすくメディアでも取り上げられやすいともいえそうである.

2.純粋精神医学の世界
 対する純粋精神医学の世界はどのようなものだろうか.著者にとっての純粋精神医学は伝統的精神医学(ハイデルベルク学派)の思想を礎としている.最初に強調しておきたいことは,伝統的精神医学は脳科学を否定するものではないということである.脳科学的に理解すべきものと,(脳とは切り離して)心のあり方やその反応・発展として理解すべきものとを区別するという思想である.端的に表現するなら因果的関連と了解的関連をともに認め両者を使い分ける立場ということもできる.この思想は「精神障害には疾患的であるものと,疾患的ではないものとがある」ということを前提としている.「疾患的ではないもの」を積極的に扱っていることは,身体医学と比較して精神医学の大きな特徴といえるだろう.同時にここには人生・運命の問題,個人に還元することのできない社会の問題を含み,精神医療の枠組みだけで解決できるとは限らないという含みをもたせることもできる.純粋精神医学において疾患とは,身体医学に共通する存在概念とそれがあてはまらない場合には精神医学固有の了解概念(生活発展の意味連続性)を適用していることが非常に重要である.ここは重要なところであるが紙幅の都合もあり詳しく解説することは控えておく.詳しくは文献8)9)を参照してほしい.表1に伝統的精神医学の思想の要点,表2に「疾患単位」と「類型」の違い,表3に3群の疾病分類を示す.
 ちなみに統合失調症や躁うつ病に代表される内因性精神病のさまざまな類型は,その背景にある疾患単位(身体的基盤)との関係が不明なまま提唱されたものである.精神症候学によって規定された類型がそのまま1つの疾患単位として成立したことがないという歴史的事実を突きつけられながら,その類型から出発して身体的基盤を追求するというミッションをわれわれはこの百年ずっと諦めずに続けてきているのである.ここに現代精神医学の大きなジレンマがある.
 純粋精神医学の世界では目の前の1人の患者は「ほかならぬこの患者」であり,1つの症例の観察のなかに何か普遍的なものを見いだそうとする.そしてわれわれの視点は未来ではなく現実的な治療や援助に向いている.欠点を矯正するというよりも,その欠点を含めてまず「人間的である」と共感するところをその出発点としている.そのめざすところは,より深く人間の(脳ではなく)心を理解することと患者ひとりひとりの自己価値の回復にあるといえるかもしれない.

表1画像拡大表2画像拡大表3画像拡大

III.大学精神医学講座の変化
1.エビデンス至上主義
 精神医学の2つの潮流の分岐は,知らず知らずのうちに身近なところまで影響を及ぼしている.ここでは大学精神医学講座の変化を取り上げたい.ご存知のとおり大学精神医学講座は,現時点では脳科学的精神医学が多数派で,純粋精神医学の実践を明確に表明しているのはごく少数派である.臨床教育面ではエビデンス至上主義が依然として優勢である.精神医学のエビデンス志向は1970年のRobinsとGuzeの論12)に始まり,DSM分類のグローバル・スタンダード化と症状評価尺度に代表される客観的指標・方法論の積極的導入により著しく推進した.精神医学の「外観」は身体医学のそれに近づき,やっとのことで身体医学と対等に扱われるようになった.しかしその一方で,精神医学は大きな代償を払うことになる.精神病理学と精神分析学のようにエビデンス化しにくい領域は衰退し,すべてが形而下にある身体医学と,形而上(心の描写)から形而下(脳の描写)への関心の移動を含む精神医学との本質的な違いは見過ごされたままである.先に述べたように精神医学におけるエビデンスには,カテゴリーの妥当性問題という大きな不安が常に影を落としている.カテゴリーそのものに妥当性がなければ,それに基づくエビデンスはたちまちその価値を失うことになるだろう.

2.大学精神医学講座の教授選について
 精神医学教育(学生だけでなく研修医や専修医を含む)に大きな影響力をもつのが講座の主宰者である教授である.俗っぽい話題になるが,大学精神医学講座の教授選で重視されるものはインパクト・ファクターと科研費のように数値化できるもの,まさにエビデンスに裏づけられた実績である.これらの数値に比べると,臨床や教育に発揮される能力は簡単には評価することができず二の次となりがちである.教授選は臨床家よりも研究者,臨床研究よりも基礎研究のほうが有利であるように思える.精神医学ならではの深刻な問題が論文の価値である.英語論文にはより高い価値がありインパクト・ファクターのつかない日本語論文はどれだけ内容的に優れていても,教授選における業績という視点からはその価値をなかなか認めてもらえない.臨床能力は優れていても業績が上がらない医師は努力が報われず大学を去る傾向にある.かつては教授の大半が精神病理学の専門家だった時代もあったが,その学問領域は今や絶滅危惧種となってしまった.現在は臨床薬理や脳科学,あるいは統計学や基礎研究に実績のある人が教授職に就きやすいように思われる.そのような傾向そのものを批判するつもりはない.非常に業績の高い研究者が同時に優れた臨床家であることも稀にはあるからである.これらの複合的な要因で生ずる大きな問題の1つに,大学における臨床教育能力の著しい低下がある.

3.懸念すべき問題点
 大学精神医学講座の最も重要な役割は有能な臨床医の育成にあるはずである.医学生の多くは良き臨床医になりたいと望み,社会からの最も大きな期待もそれに尽きるのではないかと思う.現在の精神医学教育について,いくつかの懸念すべき問題点を挙げてみる.
 ・心の医学である精神医学の,エビデンスでは評価しようのない部分がないがしろにされる傾向
 ・患者の欠点ばかりをクロースアップし,それを矯正することを目的とする「心理療法」がもてはやされる傾向
 ・手本になるような優れた臨床医が大学に見あたらないこと
 ・上級医の診療に陪席する若い医師が少ないこと
 ・「実際に体験して学ぶ」ことの価値が軽んじられていること
 ・患者不在のペーパー症例検討会

IV.有能な精神科医の育成に必要なこと
1.有能な精神科医が身につけている能力
 現在の大学精神医学講座は,有能な臨床医の育成には十分ではないように思われる.それでは有能な臨床精神科医の育成に必要なことは何か.それは「有能な臨床精神科医が身につけている能力は何か」ということから自然に導かれるものである.臨床精神薬理学や脳科学の十分な学問的知識を身につけていることはもちろん必要不可欠である.しかし,有能な臨床精神科医は以下に述べる優れた能力を身につけているものである.このうちのいくつかは「学問以外の」能力ともいえそうである.
 ・対話を通じて患者の心理・状態をよく把握する能力
 ・家族構成,職業,学歴,生活史全般(了解的関連の材料となるもの)を要領よく聞き出す能力
 ・「精神障害かどうか」「それが疾患的であるか,疾患的でないか」「治療が必要かどうか」を見極める能力
 ・「自分の話をよく聞いてもらえた」と患者が思えるような感情移入と共感する能力
 ・自己価値を少しでも回復させるような(患者が希望をもてるような)温かい言葉をかける能力
 ・看護師,保健師,ケースワーカーとのチームワーク能力

2.因果的関連よりもまずは了解的関連
 われわれは目の前にいる一人の患者をどのように理解しようとするだろうか.脳から心を因果的関連で理解しようとするのではなくまずは了解的関連から理解しようとする姿勢が重要である.そして了解による理解が壁にぶつかったとき,必要に迫られたときに因果的関連へと視点を移す,つまり脳科学による説明に切り替えるわけである.感情移入し了解的関連を追っていく作業プロセスそれ自体が,患者の自己価値の回復を促すことも見逃せない.それこそが精神療法のエッセンスであるように思う.患者だけでなくその家族,患者のおかれている状況についての理解の仕方は,個人の脳によって理解されるものではなく,やはり了解的関連で理解すべきものであることは言うまでもない.こうしてみると脳科学的精神医学は,少なくとも現時点では有能な臨床精神科医の育成にはあまり役に立っていないように思える.有能な臨床精神科医となるためには,純粋精神医学のもつさまざまな視点を習得することが大切で,精神医学教育の導入部分としてもっと力を入れるべきであると思う.

おわりに
 冒頭で精神医学特有の構造を車の両輪にたとえたが最後に少し補足したい.繰り返しになるが純粋精神医学の思想は生物学的精神医学(脳科学的精神医学)を否定するものでは毛頭ない.純粋精神医学の車輪の1つ・重要な構成部分が生物学的精神医学なのである.その役割は精神医学の自然科学的側面を担うもの,推進力を宿すものである.そのエネルギーはどのように使うこともできるもので進むべき方向性は定められていない.時にその方向性が規範学的にあるべき筋から外れることすらある.一方の純粋精神医学の(特に精神病理学を含む)社会科学的構成部分は堅牢な構築物のようなものでその本質は歴史であると思う.それ自体に推進力はないが,精神医学の進むべき方向性を定めるという重要な役割を担っている.だからこそ精神医学教育の基礎として純粋精神医学の思想が重要であると主張したいのである.そろそろ紙幅も尽きた.純粋精神医学の思想について,もっと詳しく知りたい方は文献9)を参照してほしい.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 3rd ed (DSM-III). American Psychiatric Association, Washington, D. C., 1980 (髙橋三郎, 花田耕一, 藤縄 昭訳: DSM-III精神障害の分類と診断の手引き. 医学書院, 東京, 1982)

2) American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed (DSM-5). American Psychiatric Publishing, Arlington, 2013 (日本精神神経学会 日本語版用語監修, 髙橋三郎, 大野 裕監訳: DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院, 東京, 2014)

3) Andreasen, N. C.: DSM and the death of phenomenology in America: an example of unintended consequences. Schizophr Bull, 33 (1); 108-112, 2007
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4) Feighner, J. P., Robins, E., Guze, S. B., et al.: Diagnostic criteria for use in psychiatric research. Arch Gen Psychiatry, 26 (1); 57-63, 1972
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5) Frances, A.: Saving Normal: An Insider's Revolt against Out-of-Control Psychiatric Diagnosis, DSM-5, Big Pharma, and the Medicalization of Ordinary Life. Harper Collins, New York, 2013

6) Insel, T., Cuthbert, B., Garvey, M., et al.: Research domain criteria (RDoC): toward a new classification framework for research on mental disorders. Am J Psychiatry, 167 (7); 748-751, 2010
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7) Insel, T: Transforming Diagnosis. 2013 (http://www.nimh.nih.gov/about/directors/thomas-insel/blog/2013/transforming-diagnosis.shtml) (参照2020-05-04)

8) 古茶大樹, 針間博彦: 病の「種」と「類型」, 「階層原則」―精神障害の分類の原則について―. 臨床精神病理, 31 (1); 7-17, 2010

9) 古茶大樹: 臨床精神病理学―精神医学における疾患と診断―. 日本評論社, 東京, 2019

10) Lieberman, J. A.: Shrinks: The Untold Story of Psychiatry. Little, Brown and Company, New York, 2015 (宮本聖也監訳, 柳沢圭子訳: シュリンクス―誰も語らなかった精神医学の真実―. 金剛出版, 東京, 2018)

11) Paris, J.: Fads and Fallacies in Psychiatry. RCPsych Publications, London, 2013

12) Robins, E., Guze, S. B.: Establishment of diagnostic validity in psychiatric illness: its application to schizophrenia. Am J Psychiat, 126 (7); 983-987, 1970
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13) Spitzer, R. L., Endicott, J., Robins, E.: Research diagnostic criteria: rationale and reliability. Arch Gen Psychiatry, 35 (6); 773-782, 1978
Medline

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