Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第124巻第6号

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討論
ヤスパースにおける「高次の了解」と治療的視点―内海論文「精神病理学の基本問題―ヤスパースの了解概念をめぐって―」に触発されて―
加藤 敏
小山富士見台病院精神科
精神神経学雑誌 124: 382-391, 2022
受理日:2022年2月4日

 カール・ヤスパースによる『精神病理学総論』は,現代精神医学において,患者の病態理解を深めるうえでも,治療を行ううえでも,再評価に値する.ヤスパースが説く「実存的交流」においては,個別の精神療法技法を超えたところで,患者と医師それぞれにとっての<了解不能なもの>に定位した精神療法過程が暗黙の裡に作動し,互いにそれぞれ高い質の自由な主体へと生成するという構想をみてとれる.実存的交流は死を前にした癌の患者に取り組む緩和医療の現場でも求められている.ヤスパースにあって,了解と感情移入は同じものではなく,心理学的なレベルに位置する「感情移入」から現象学固有な方法と位置づけられる「了解」を区別する姿勢がみてとれる.ヤスパースが了解を問題にするときの何よりの関心は,通常では感情移入できない了解不能な精神病理現象であり,一貫して彼は了解地平にとどまり,現象学的な方法に基づき高次の了解を導く作業を進めた.ヤスパースが『精神病理学総論』でめざしたのは,了解不能な精神病理事象を肯定的に受けとめる準拠枠を創出して,高次の了解地平を切り拓き,精神病理学に固有なエビデンスを導くことであった.静的了解という点での『精神病理学総論』の何よりの意義は,了解不能な言動や振舞いが際立つ統合失調症の病理現象に対し,記述的エビデンスを導く作業に端緒をつけたことに求められる.

索引用語:カール・ヤスパース, 精神療法, 了解, 感情移入, 記述的エビデンス>

はじめに
 最近,精神神経学雑誌に掲載された内海論文17)を読ませていただき,精神病理学の記念碑的な大著『精神病理学総論』に対する手厳しい批判に接し,遺憾の意を強く感じた.ドイツ,フランス,また日本の精神病理学などは,ヤスパースが切り拓き提示した問題枠を基礎にさまざまな発展を遂げ,今日に至っている.著者自身,カール・ヤスパースから多くを学び,最近でも彼の著作を部分的ながら再読して論文などを発表している12).自身の問題意識から『精神病理学総論』,また『哲学』3部作の意義などについても何度か論じている9-13)
 日本の精神病理学の気鋭の論客である内海氏が,ヤスパースの精神病理学に対して「あまりシンパシーを感じられません.どうしても違和感があるのです」17)(p.546)と感情的な印象を表明していることに驚きを禁じえない.この言葉を借用させていただくと,著者は今回の内海論文に対して,シンパシーを感じられず,違和感を禁じえない.理解があまりに一面的にすぎ,ヤスパースの精神病理学の卓越した側面についてほとんどふれられていない.伝統ある本誌に,『精神病理学総論』をお払い箱にするような論調の批判が,掲載されている以上,その影響力は大きいので,これまで著者が書いたことの焼き直しになることを承知で討論論文を書かせていただく次第である.
 『精神病理学総論』は初版(1913)1)から版を重ね,実に9版(1973)3)を数えた.加筆修正が施され,初版338頁,9版が748頁で,2倍を優に超え,本の厚さがどんどん増していった.
 内容面では,特に第4版(1946)以降,ヤスパースの哲学3部作『哲学的世界定位(哲学I)』4)『実存開明(哲学II)』5)『形而上学(哲学III)』(1932)6)における深い哲学的洞察の成果がもり込まれ,かなり高度なものとなった.
 ヤスパースは約5年あまりの臨床経験の後,精神医学から哲学へと転向したとよく言われるが,『精神病理学総論』の目覚ましい発展をみるなら,哲学教授になってからも一貫して精神病理学者であったことがわかる11)
 『精神病理学総論』初版は精神医学の臨床に定位した事項に焦点があてられコンパクトなことから読みやすい.しかし,著者にはこれから検討すべき問題を残して終わっていると思われるところが散見され,難解である.これに続く『精神病理学総論』第5版(邦訳上・中・下巻)2)は哲学的思索がふんだんにもり込まれ,「厳密な学」としての精神病理学にふさわしい内容となり,すべてを読み通すことはかなり努力を要す.著者自身,通読していないし,理解できていない部分が多々ある.そこでは「実在性意識」や「自我意識」など正常な人間のあり方を初めて提示し,独自の現象学的人間学を補助線にして精神病の病理に光をあてる試みがなされている.
 内海論文では,邦訳のある初版と第5版が引用されているものの,2つの版の大きな違いにはまったく論及されず,議論が進められる.内容からすると,批判はより初版に立脚したものになっているように思われる.件の了解概念を俎上にのせる以上,第4版以降の展開も射程に入れるのが筋だと思うが,なぜかこれがなされていない.いくつかの論点にしぼり,討論をしていきたい.そこで必要に応じ初版と第5版を対比したい.邦訳の引用に際しては,必要に応じ原書の術語を補う.現在見直すと不適切と思われる訳文については一部改訳した.

I.ヤスパースにおける治療的視点と他者
 内海論文の最終的な主張を知るうえで,後半のしめくくりの部分を引用する.

 「本稿で,私はヤスパースの了解概念を換骨奪胎しようと試みました.それには理由があります.というのも,ヤスパースは精神病理学を学ぶうえにおいて,大きな障壁となっていると私自身が感じているからです.…(中略)…ただ,より重要なことは,それが臨床において,経験の可能性を広げるものとしては機能していないのではないかということです.」17)(p.552)

 著者が理解できる範囲では,批判の最終的な矛先はヤスパースには「エンパシー」の観点が欠如し,適切な治療的視点あるいは展望がないという点に向けられているようである.従来から全般的に哲学的言説が多く,精神病理学は難解なことばかり論じ,治療的視点が欠けているという批判があった.かつてドイツの精神病理学者キスカーは,患者との出会い(Begegnung)において患者を理解することを要請されるなかで人間知を育むという問題意識から「精神科医は哲学する」と述べた15).この言葉は,まずもってヤスパースにあてはまる.一連の著作を一瞥すると,患者に見合った人間知を深め,治療に資するという問題意識がみてとれるように思う.
 『精神病理学総論』初版では確かに病態の理解に力点がおかれ,正面からの治療的視点は提示されていない.それに引き換え,第4版以降は哲学的思索もふまえ,治療的視点が明確に打ち出されている.
 ヤスパースの治療論において,あらかじめ指摘しておきたいのは,「抵抗」の概念である.『精神病理学総論』第5版第1章「病的精神生活の主観的現象(現象学)」のなかの「実在性の意識と妄想」の項で,最初に「抵抗(Widerstand)」の概念が提出される.初版にはない観点で,現象学の見地から,人間に自分の外部にある事物・事象に現実性を賦与するのが抵抗(Widerstand)であるとする優れた指摘で,幅広い射程をもつ.何よりも他者理解という点で重要で,他者をまずもって自己にとり「抵抗」としてとらえる姿勢が示され,この際の他者は,患者も念頭におかれていることは間違いない.一部引用する.

 「現実的なるもの(Wirklichkeit)は我々に抵抗を及ぼすものである.」2)(上巻p.143,原書p.79)
 「抵抗とは,我々の身体の運動を阻止するものであり,努力と願望の直接現実を妨げるものすべてである.」2)(上巻p.143,原書p.79)
 「抵抗に抗して目的を遂げることや,抵抗に面して挫折することは,即ち現実の経験を意味する.」2)(上巻p.143,原書p.79)

 こうした洞察は以下のように理解できると思われる.
 われわれの身体の運動を阻止するものとは,石や山など周囲の事物,また他者一般,そして医師にとっての「抵抗」として患者が挙げられることだろう.それらの事物,他者を前に自分の思うようにならないと思い知らされ,当人が外界の現実を知ることは確かに大切な経験である.そうした抵抗体験(著者仮称)は,同時に自己自身の現実性を自覚することにもつながるはずである.
 子どもの成長について思いをめぐらせれば,例えば机に頭をぶつけて痛い思いをして泣く,親にねだりものをして親から注意され自分の欲求が通らず泣くなど,数々の挫折を通して,子どもは現実を学んでいき,主体としての自我意識の成長が進んでいくのではないか.親にしても自分の思うように振舞わない子どもに接し,何度も怒り疲れることもしばしばで,こうして親は母親,父親としての成長を遂げていくのではないか.
 ただし,抵抗体験は,「病的精神生活の主観的現象(現象学)」のなかの「実在性の意識と妄想」の項で論じられていることからして,その際の主眼は,実は患者の一次的妄想体験にあると考えられる.患者の混乱した語りや振舞いを前に,医師(まずはヤスパース)は最初,了解しようと思っても了解できないという,いかんともしがたい「抵抗」にぶつかる.その際の「抵抗」は,高い強度をもつ現実性からなっている.それと同時に,医師(ヤスパース)には,高い強度の「自己確信」が生成すると考えられる.統合失調症の急性期の患者を前にこのような体験をするのは,著者ばかりではないだろう.
 「現実的なるものは我々に抵抗を及ぼすものである」「抵抗とは,我々の身体の運動を阻止するものであり,努力と願望の直接現実を妨げるものすべてである」という「抵抗」の考え方からすると,ヤスパース自身,患者の語りや振舞いに接し,感情移入できず,すぐには了解できない「抵抗」を体験したのではないか.内海氏が提唱する「エンパシー」の観点を著者はいまひとつ理解できないのだが,患者から発せられるヤスパースの意味での「抵抗」に近づけてみるのはあながち見当外れではないのではないかと思う次第である.
 内海氏は,ヤスパースの精神病理学には,医師―患者のあいだに治療阻害的な「アクリル板」がある,また「精神病理学を学ぶうえにおいて」ゆゆしき「障壁」があると糾弾する17)(p.546,p.552).再び誤解を恐れずに述べると,「アクリル板」や「障壁」はヤスパースの言う「抵抗」に由来する側面があるのではないか.感情移入と「エンパシー」は方向がまったく逆であると主張するなら,その前に,自分と他者のあいだにあって,原理的な障壁となる「抵抗体験」があることは治療する際に確認しておくべき事項だと思う.ヤスパースは,自分の前にいる他者を自分がすぐにわかるような存在としてとらえていない.緊張感をはらむ「抵抗」を内にもつ関係を想定しているのではないか? このような見方は,「エンパシー」の問題枠において参考になる事象ではないか?
 「人間存在の全体」と題された第5版の最終章において,ヤスパースは独自の精神療法といえる「実存的交流」について述べる.
 「医師対患者の関係の最終のものは実存的交流(Die exisistentielle Kommunikation)であり,これはすべての治療を,即ちすべての企画されたものや組織的に作られたものを凌駕する.」2)(一部改訳,括弧内著者,下巻p.363,原書p.668)
 「そのときには,すべての治療は,可能な実存(Exisistenz)に立って生きる理性的存在としての自己自身(Selbst)から自己自身(Selbst)への共同体によってとり入れられ,且つ制限される.」2)(一部改訳,括弧内著者,下巻p.363,原書p.668)
 「医師と患者は二人であり,それは運命をともにする伴侶である.医師は単なる技術者でも権威でもなくて,実存に対する実存であり,他者とともに移ろいやすい人間という存在であり,もはや究極の解決はない.」2)(下巻p.365,原書p.668)
 このくだりは,治療者と患者がともに,一個のかけがえのない実存としての出会い(Begegnung)において互いの交流(Kommunikation)が生じる局面を描いている.なお,実存の術語は,社会的身分・役割には還元されない自由な個としての人間のあり方を指す.催眠療法,精神分析療法や(今日で言う)認知行動療法といった各種の個別の精神療法技法を超えた局面で,治療者と患者が対等なパートナーとして言語的かつ非言語的交流をする.そこで,患者だけでなく,治療者も高い境地へと生成する可能性をもつと考えられている.実は精神科臨床を始めて46年を超える著者は,最近になって神経症と診断される患者だけでなく,統合失調症と診断される患者等の面接においても,このような実存的交流といってよい濃密な時をもつことが増えてきており,今回あらためてこの箇所を読み,「なるほど,そうだ」と文字通り共感した次第である.
 このような患者との密度の濃い出会いは,病いから自由な「狂わない精神」に焦点をあてる面接の方向を指し示し,非常に意義深い.認知科学優位になり,過剰な医学化が進む現代の医療現場における精神科面接において,実存的交流は再評価してよいと考える.また,―著者自身も経験しているが―,実存的交流は死を前にした癌を患う患者に取り組む緩和医療の現場でも求められているように思う.その意味で,実存的交流は臨床の「経験の可能性を広げる」地平を拓く含蓄をもっていると考える.認知行動療法,精神分析療法など一定の明確な手法をそなえた精神療法であろうと,その場その場の相談を簡単にする支持的精神療法であろうと,患者と治療者は一個の個人である以上,暗黙の裡に実存的出会いが作動していることもあるだろう.
 内海論文は,ヤスパースにはエンパシーの視点がないと論難するのだが,患者と治療者が二人の共同体において実存的交流をする時においては高次のエンパシーが生起しているのではないか?
 さらに述べると,ヤスパースが提唱する実存的交流の背景には,彼の哲学がひかえている.実際,実存的交流を述べる際に次の留保をつけており,そこから,実存的交流の考え方の基礎には,彼の<超越なるもの>(Das Transzendenz)の思想があることがわかる.
 「実存は,人間において…(中略)…もともと<超越なるもの(Das Transzendenz)>によって設えられたもので,実存は<超越なるもの>から授られるのだ….」2)(一部改訳,p.366,原書p.668)
 <超越なるもの(Das Transzendenz)>は,ヤスパース哲学の鍵概念の1つで,難解である.一言でいえば,人間主体にとって肝要な<了解不能なもの>で,「神性が顕現する」暗号(Chiffre)を媒介にして聴取可能である.既成の宗教における神を脱構築して導かれた概念と考えることができるように思う.
 こうみてくると,われわれは,実存的交流においては,個別の精神療法の技法を超えたところで,あるいはその手前で,患者と医師それぞれにとっての<了解不能なもの>に定位した精神療法過程が暗黙の裡に作動し,互いにそれぞれ高い質の自由な主体へと生成するという構想をみてとれるのではないか.
 内海論文は,「了解できないものを含む」と特徴づけられる「frontierとしての他者」の存在を指摘して次のように稿を閉じる.
 「他方,frontierとしての他者とは,地平のようなものです.こちら側に包摂しようとする試みの向こう側に逃れます.そのため,つねに了解できないものを含むのですが,まさにそれゆえに他者として存在しているのです.同時にこの他者は,われわれに問いかけてきます.地平の向こう側からやってくるのです.」17)(p.552)
 「地平のようなもので,こちら側に包摂しようとする試みの向こう側に逃れ,そのため,つねに了解できないものを含む」とされる「frontierとしての他者」という指摘は興味深い.この論点は,ヤスパースが了解不能な<超越なるもの(Das Transzendenz)>という表現で考えたこととどこかで通じるところがありはしないか,と勝手な印象を著者はもつ.いかがだろうか?

II.発生的了解における<了解不能なもの>
 さて,内海論文の副題にもなっている「ヤスパースの了解概念」について議論を進めたい.『精神病理学総論』の方法の基軸に据えられる了解概念があまりに単純化されていることに大きな問題があると考える.
 「ヤスパースの枠組みのなかでは,「了解」が限界に突きあたると「説明」に席を譲ることになります.ここから先は,主に身体的なものの領域ということになります.」17)(p.547)
 初版では,「存在する脳の病的過程の結果と解する」1)(p.181)とされ,確かに指摘のように簡素な論じ方であった.しかし第5版では,大きな補充がなされる.
 「病的精神生活(Seelenleben)の主観的現象(現象学)」と題された第1部第1章で「静的了解」が主題化され,これに引き続く第2部「精神生活の了解関連(了解心理学)」において,「発生的了解」が主題化される.この枠組みは基本的に同じで,了解関連を追及して了解不能なものの限界に突き当たった際,身体的レベルで「因果関連によって把握すべきである」2)(中巻p.10)と述べる.ここまでは初版と同じである.ところが第4版において,了解不能な事象について次のような「実存的了解(Das existentielle Verstehen)」という新たな視点が提出されるのである.

 「他方においては,了解不能なもの(Das Unverständliche)は了解可能なものの源泉(Der Ursprung des Verstehbaren)として了解しうる以上のものである.実存の無制約的なもの(Unbedingten)の中からこれを掴みとるならば,それは了解可能な生成するもの(verstehbar Werdende)として自己を開示する.」2)(一部改訳,括弧内著者,下線著者,中巻p.10,原書p.256)

 きわめて抽象レベルの高い思索である.要は,普通なら了解不能とされる事象に対して,了解可能性を高め,了解を導く地平が論じられているのである.了解不能なものは,極限では了解可能なものとして生成してくる存在である(verstehbar Werdende)という見解には,患者を,生成する存在としての実存ととらえる姿勢が打ち出されている.精神病性の病的体験が了解可能性をもつという主張は,高次の発生的了解とみなされる.ヤスパースは,著作『ストリンドベリとヴァン・ゴッホ』7)の成果を『精神病理学総論』に導入し,ゴッホ,ヘルダーリンといった精神病に陥った天才の作品に,まさしく了解可能な生成存在(verstehbar Werdende)を認める姿勢を示す.こうした高次の発生的了解は,少なからぬ個々の精神病事例にも適応できるだろう.
 ヤスパースが『精神病理学総論』でめざしたのは,了解不能なものを身体的な変化に帰してこと足れりとしたのではおよそなく,了解不能な精神病理事象を肯定的に受けとめる準拠枠を創出して,高次の了解地平を切り拓き,精神病理学に固有なエビデンスを導くことであった.その意味でこそヤスパースは,精神病理学の創始者なのではないか.

III.静的了解
 内海論文では静的了解について次のように述べられる.

 「まず静的了解についてみてみましょう.ヤスパースによると,それは『相手のなかに心を移し入れ,まざまざと描き出すこと』としています.この際,ヤスパースは現象学という方法を適用していると言っているのですが,実際に施行しているのは『感情移入(Einfühlung)』です.」17)(p.547)

 内海氏は「静的了解」における了解=感情移入と断じているが果たしてそうだろうか?
 静的了解はすでにふれたように,『精神病理学総論』第5版の第1部「病的精神生活の主観的現象(現象学)」において鍵概念に据えられている.初版でもこれは同じで,その序論で,患者の病的な「精神生活(Seelenleben)に迫る特別なやり方」としての「了解」の概要が述べられる.

 「精神生活の個々の側面がわれわれに見えてくるような特別なやり方でやっていこう.」1)(p.20,原書p.8)

 そしてこの「特別なやり方」に関し次のように述べる.

 「精神病理学でわれわれの研究の基礎となるものは,(患者の)感覚的に知覚できる表情や行動と,(患者が)言葉でいいあらわしたものを通じて了解され(verständene),われわれの心に描き出される精神生活(uns zu vergegenwärtigende Seelenleben)である.」1)(括弧内著者,p.24,原書p.12)

 ここには感情移入の術語はなく,単に「了解され(verständene),われわれの心に描き出す(vergegenwärtigen)」と述べられる.感情移入という心理学的概念では及ばない患者の精神生活(Seelenleben)に迫ることこそヤスパースが取り組む課題と思われる.
 第5版の序論では,学問としての精神病理学の基本が次のように定式化される.

 「心を学問的に捕捉する第一歩は,ある体験された現象を分離し,限定し,区別し,記述することであって,現象はこれによって明瞭に心に描き出され(verge-genwärtigt),一定の表現によって規則正しく命名される.」2)(一部改訳,括弧内著者,上巻p.38,原書p.22)
 「こうして我々は諸種の妄覚,強迫現象,人格意識や欲求などを記述する.」2)(上巻p.38,原書p.22).

 要するに,「ある体験された現象を分離し,限定し,区別,記述する」なかで,病的現象は「明瞭に心に描きだされ(vergegenwärtigt),一定の表現によって規則正しく命名される」.著者には,こうした作業過程によってヤスパースは病的現象に対する静的了解の可能性を探っているように思われる
 第5版の第1部「精神生活の個々の事実」の冒頭「精神生活の主観的現象(現象学)」と題した章で,静的了解の概念が精神病性体験も挙げ,詳しく論じられる.その具体例を1つ挙げる.
 統合失調症急性期に特徴的な一次妄想体験に最初に接した際の精神科医の側のあり方が,正直に次のように述べられる.

 「一次妄想体験を究めようとすると」「我々は自分が全然知らぬ体験様式は,明白に直観的に自分の心に思い描き出せない(nicht anschaulich vergegenwärtigen)ものだということに気づく.」2)(一部改訳,上巻p.148,原書p.83)
 「把握できないもの,直観的にわからないもの,了解できないものの大きな残部はいつまでも残っている.それにも拘わらずこの試みは行われてきた.」2)(上巻p.148,原書p.83)

 一次妄想体験の実例として妄想気分を呈した患者が挙げられる.

 「『何か起こっています.ぜひ教えて下さい.一体何が起こっているのでしょう』とザントベルクのみた一人の女の患者は夫に訴えた.一体何が起こりなどするのかと尋ねられて患者はこういった.『私にはわかりません,けれどもやっぱり何かが起こっています』」2)(上巻p.148-149,原書p.83)

 これは,迫真にせまる特有な体験の質の自己記述と見なせる.引き続き,ヤスパースは次のように論を進める.

 「環界に新たな意味を見いだすというこの妄想的な現実性の体験の心理的意義を心に描き出そう(vergegenwärtigen).」2)(一部改訳,括弧内著者,上巻p.150,原書p.83)

 この局面で,「意味が無媒介に(自分に)押し付けられ迫ってくることを知る(Das unmittelbar sich aufzwingende Wissen von den Bedeutungen)」,それが一次的妄想体験である」2)(著者改訳,括弧内著者,上巻p.150,原書p.83)という規定がなされる.これによって,一次的妄想体験の「心理的意義を心に描き出す(vergegenwärtigen)」課題がある程度なされたと考えられる(下線著者).それまで他の精神科医が了解しようと試み,「了解できないものの大きな残部」に対し,了解レベルを上げることができたといえるのではないか.このような把握は,ヤスパースならではの専門的な精神病理学,かつ哲学の素養によって可能になったと思われる.
 著者が補ってこの作業を述べると,「患者は,意味内容はわからないが,意味自体が自分に押しつけられるように無媒介に迫ってくることを知る」と医師(まずはヤスパース)が心に描くことができたということではないか.「心理的意義を心に描き出そう」という企ては,了解不能な事象を心に描きだす作業ととらえられる.
 そうすると,今みてきた一次的妄想体験を前にした臨床場面の推移をふまえると,―ヤスパースははっきり述べていないのだが―,われわれは了解の作業における2つの段階を区別できるはずである.
 最初が,(i)「明白に直観的に自分の心に描き出せないものだということに気づく」という「直観的に自分の心に描き出せない」段階である.それは感情移入ができない事象であるはずだが,自分の心に描くことができない,とだけ述べ,感情移入の術語は出てこない.次が,(ii)「意味が無媒介に(自分に)押し付けられ,迫ってくることを知る,それが一次的妄想体験である」という把握に至る段階である.第1段階は素人・初心者の視点で,第2段階は現象学者の視点で,<了解不能なもの>を現象学の見地から抽象レベルを上げ「心に描き出す」(vergegenwärtigen)ことができるようになり,これにより静的な了解がなされたといえるのではないか.これは高次の静的な了解といえる.もし直観ということでいえば,第1段階の素人・初心者の視点では感情レベルで素朴に直観できなかった事象が,第2段階の現象学者の視点では現象学の知を介し,高次の直観ができたということではないか.このようにみると,ヤスパースが言う感情移入は,そしてまた内海氏が言う感情移入も,自然な感情レベルの素朴な直観に属すと解することができるのではないかと著者は考える.
 『精神病理学総論』初版でも,一次性妄想体験の例として,「何か起こっています.一体何が起こっているのでしょう」「私にはわかりません,けれどもやっぱり何かが起こっています」と確信をもって述べる事例が記述され,「意味妄想(Bedeutungswahn)」と命名されている1)(p.65,p.68,原書p.46,p.48).しかし,これを一段上の見地から精緻に把握することはなされない.第4版に至ってはじめて,一次的妄想体験に対する高次の静的了解がなされるのである.
 「一次妄想体験はすべて意味体験(Erleben von Bedeutungen)である」2)(上巻p.157,原書p.86)というように,「意味体験」の術語があらたに案出され,一次妄想体験は,「意味体験」として包括的にとらえ,「動機なしに,精神生活(Seelenleben)の関連のなかへ(内容不明な意味が)侵入して,意味(Bedeutung)が現れる」2)(括弧内著者,上巻p.157,原書p.87)と規定される.妄想知覚の第1段階にあたり,その内容は不明だが,何らかの意味が自分に差し向けられているという揺るぎなき体験である.これは一次的妄想体験に対する見事な高次の静的了解ではないだろうか.
 なおヤスパースには,静的了解において今述べたような「高次の了解」という表現はない.しかし,一次妄想体験に代表される<了解不能な>事象を「心に描き出す(vergegenwärtigen)」作業が首尾よくなされている以上,これを高次の静的了解ととらえることは許されるはずである.ドイツ,日本で目覚ましい発展を遂げたさまざまな現象学的精神病理学の多くは,静的了解と発生的了解の双方において高次の了解をめざすもので,この方法はヤスパースを端緒にしているのである.
 「ヤスパースは現象学という方法を適用していると言っているのですが,実際に施行しているのは「感情移入(Einfühlung)」です」17)(p.547)と断じる内海氏の見解は,一次的妄想体験の例でよくわかるように,第1段階の素人・初心者の見方での素朴な直観に基づく了解と,第2段階の現象学の方法を通じた高次の了解が区別されておらず,「意味が無媒介に(自分に)押し付けられ迫ってくることを知る」出来事が生じているといった高次の了解がもつ意義がまったく顧慮されていないように思う.
 「意味が無媒介に(自分に)押し付けられ迫ってくることを知る」という把握には鋭いものがある.この表現が指し示す「無媒介」に生じている出来事は,「意味不明な意味が患者に無媒介に押しつけられてくる」事態に加えて「この事態が無媒介に知られる」事態という二重の意味で理解するのがふさわしい特異な出来事である.このように「意味」をめぐる特異な出来事が生じていると把握することにより,一次妄想体験の精神病理学的理解が深められたことは間違いない.それはヤスパースの知的直観に負う部分が少なくないのではないか.
 『精神病理学総論』において,了解に関し,vergegenwärtigen(心に描き出す)とeinfühlen(感情移入する)の2つ術語が使用されている.しかし,圧倒的にvergegenwärtigen(心に描き出す)が多い.そもそも初版の緒言で,「精神病理学者の志すところは,体験することとか感情移入すること(Einfühlen)とか洞察すること自体ではない」1)(下線著者,p.13,原書p.1)と明言している.つまり,初版においてすでに感情移入できない事象に迫ることを射程に入れていることがうかがえる.
 さらに,「精神的なもの(Seelisches)を見,その豊かさをそのまま心に描き出す(vergegenwärtigen)能力と好みがなければ,精神病理学をやることはできない」1)(下線著者,括弧内著者,p.26,原書p.12).とも述べる.
 このように,ヤスパースが了解というとき,最大の関心は感情移入ではおよそなく,現象学的な方法に基づき了解不能な精神病理現象を「心に描き出す(vergegenwärtigen)」ことを果敢に試みる営為である.
 ヤスパースにとり,了解と感情移入は同じものではなく,心理学的なレベルに位置する「感情移入」から現象学固有な方法と位置づけられる「了解」を区別する姿勢がみてとれるのではないだろうか.「了解」は,感情レベルでは直観できない,つまり感情移入を阻む精神病性体験に力点をおき,現象学の方法に拠って立つ直観によって「心に描く」作業を指すのではないだろうか.
 内海氏は了解不能な事象を前にしたヤスパースの対応を次のように述べる.

 「さっぱりわからないこと〔言っていることはわかるが,それがどのようなものか思い浮かべることができず,類推や比喩によってのみ理解され,その了解不能性から受ける衝撃によって気づかれること(させられ体験など)〕」17)(p.547).

 この見解はどうもヤスパースの書いた文章そのままのものではなく,内海氏による断片的な引用を組み合わせて作られたもののようである.著者としては,了解不能な病的現象は「類推や比喩によってのみ理解される」と論じている,とヤスパースの学説を紹介する文言にひどく違和感を覚えた.
 『精神病理学総論』初版第1部「病的精神生活の主観的現象(現象学)」をしめくくる項目は「感情移入可能及び不能の精神生活(自然な精神生活と分裂性の精神生活)」と題され,統合失調症のさせられ体験をとりあげ,強迫現象と比較・対比しながら,質的に大きく違うことを指摘している.確かにそこで次のように述べられている.

 (させられ体験では)「その性質が全体として変化した精神生活は負の意味でしか,また比較(Vergleich)によってしか想像できない」1)(一部改訳,括弧内著者,p.117,原書p.90).

 了解不能の精神病理現象を強迫などとの「比較によってしか想像できない」という言葉は,『精神病理学総論』初版のものである.ただし初版においても,現象学の方法によって事象に迫っていこうとする姿勢は認められている.
 今,一次性妄想体験について論じたように,第5版では「類推や比喩」とは質を異にする高次の了解が試みられている.させられ体験についていえば,有名な「自我意識」の項目が設けられ,させられ体験を自我の「能動意識」「実行意識」の変容として了解する考察をする2)(上巻p.185-199,原書p.101-109).
 この現象学的な自我意識の理解を媒介にして,われわれは,させられ体験を「心に描く」ことができるようになるのではないか.このようにして,させられ体験に対し,高次の静的な了解がなされたといえるのではないか.
 初版では,第1部「病的精神生活の主観的現象」の最後は「感情移入可能及び不能の精神生活(自然な精神生活と分裂性の精神生活)」と銘打たれていたわけだが,第5版にはこのような項目はなく,感情移入できるのか,否かを重要な標識にした姿勢がみられなくなっている.
 第5版に準拠するなら,感情移入=了解とする見方は修正を迫られるはずである.3巻に分けられた第5版邦訳の大きな枠組みに限って言うと,(i)精神病理現象の記述を扱う上巻では,高次の静的了解に力がそそがれ,(ii)病的精神病理総体の成り立ちを扱う中巻では,高次の発生的了解に力がそそがれ,(iii)下巻では哲学的理解を含む「人間存在の全体」をふまえた治療論に力がそそがれるといった実に周到な構成になっている.<了解不能なもの>はすぐに身体的な問題に還元されてしまうのではなく,ヤスパースは了解の幅を大幅に広げ,一貫して了解地平にとどまって,考察を果敢に行ったのではないか.

おわりに
 内海論文では,静的了解の場面でヤスパースが強調している言葉,つまり専門的な術語による記述という事柄に一言も言及されない.『精神病理学総論』で扱われている精神障碍の種類でいえば,了解不能とされる統合失調症に最大の力点がおかれている.意味妄想,病的実体的意識性8)16),させられ体験等を記述した功績は大きい.再び初版の緒言に立ち返ると,精神病理学がめざす事柄を,「概念において表現されうるもの(das in Begriffen Ausdrückbares),伝えうるもの(das Mittelbare),何かの関係があることがわかるもの」1)(一部改訳,括弧内著者,p.14,原書p.1)と簡潔に述べる.「概念において表現されうるもの」「伝えうるもの」という言葉に明らかなように,精神病理学は名人芸にとどまっていてはならず,他人に精神病理現象をできるだけ正確に言葉で知らしめる客観性の確立に向かわなくてはならないと,初版の緒言で強調しているのである.
 その出発点は,病的体験を「一定の表現によって規則正しく命名する」記述の作業にほかならない.誤解を恐れずに言えば,精神病理学における記述は,あくまで限定つきだが,満天の星空にカシオペア座やオリオン座を見てとった古代人の営為に通じる側面があるように思う.そうすると,われわれは,意味妄想,病的実体的意識性,またさせられ体験などは一定の普遍妥当性をもち,記述的エビデンスと受け取ることができるのではないか.
 第5版の序論では,精神科臨床の基本となる具体的な方法が,次のように明示されている.
 「心的現象と状態を我々の心中に描き出し,それを限定し,常に不動な一つのものを意味する概念とすることが現象学の任務である.」2)(下線著者,上巻p.38,原書p.22)
 著者の見地からは,「常に不動な一つのものを意味する概念とする」現象学の任務とは,了解の問題枠から静的了解と発生的了解の双方において一定の普遍妥当性をもつ高次の了解を追及することだったと言いたい.『精神病理学総論』の何よりの意義は,了解不能な言動や振舞いが際立つ統合失調症の病理現象に対し,記述的エビデンスを導く作業に端緒をつけた営為に求められると著者は思う.
 まだ経験の浅い医師は,「どのようなものか思い浮かべることができず」「さっぱりわからない」言動や行動を前にして当惑し,自身も混乱,不安に陥ることもあるだろう.医師は丸腰で患者に接するのは精神衛生上よくない.このような場面で,医師は統合失調症性言語14)を学んでおくことが望まれる.ヤスパースの静的了解は,統合失調症性言語を会得するうえで必須の入門書であると思う.精神病性の体験の渦中にある患者に対する共感はそう簡単ではない.あらかじめある程度の言語的装備が必要ではないか.
 内海氏は「感情移入とエンパシーは全く方向が違う」17)(p.547)と喝破するが,感情移入できない事象こそ,ヤスパースが最大の関心を寄せる主題なので,この指摘はあまり意味をなさないように思う.感情移入とならびエンパシー(また共感)も元を正せば心理学の術語である.『精神病理学総論』は心理学的方法から離れ,現象学の方法によって精神障碍の病理に迫ろうとした.内海論文は『精神病理学総論』を「換骨奪胎」して出来上がったと位置づけているが,そこではどうも,ヤスパースの真骨頂である現象学や実存哲学に立脚した精神病理現象の把握がどういうわけか過度に心理学化されているように思えてならない.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

 謝 辞 ヤスパースの精神病理学について改めて考える機会を与えていただいた,畏友・内海健氏に深く感謝します.

文献

1) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie. Ein Leitfaden für Studierende Ärzte und Psychologen. Verlag von Julius Springer, Berlin, 1913 (西丸四方訳: 精神病理学原論. みすず書房, 東京, 1971)

2) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie. Funfte Auflage. Springer-Verlag, Berlin, 1948 〔内村祐之, 西丸四方, 島崎敏樹ほか訳: 精神病理学総論 (上・中・下巻). 岩波書店, 東京, 1953, 1955, 1956〕

3) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie. Neunte, unverändete Auflage. Springer-Verlag, Berlin, Heidrberg, New York, 1973

4) Jaspers, K.: Philosophie 1, Philosophische Weltorientierung. Julius Springer, Berlin, 1932 〔武藤光朗訳: 哲学的世界定位 (哲学I). 創文社, 東京, 1964〕

5) Jaspers, K.: Philosophie 2, Existenzerhellung.. Julius Springer, Berlin, 1932 〔草薙正夫, 信太正三訳: 実存開明 (哲学II). 創文社, 東京, 1964〕

6) Jaspers, K.: Philophie 3, Metaphysik. Julius Springer, Berlin, 1932 〔鈴木三郎訳: 形而上学 (哲学III). 創文社, 東京, 1969〕

7) Jaspers, K.: Strindberg und van Gogh: Versuch einer pathographischen Analyse unter vergleichender Heranziehung von Swendenborg und van Gogh. Ernst Bircher Verlag, Leipzig, 1922 〔藤田赤二訳: ストリンドベリとヴァン・ゴッホ (ヤスパース選集36). 理想社, 東京, 1980〕

8) Jaspers, K.: Über leibhaftige bewuβtheiten (Bewβtheittäushungen), ein psuchopathogishes Elemntarsymptom. Zs f Pathopsychogie Bd2, p.151-161, 1913 〔藤森英之訳: 実体的意識性 (意識性錯誤) について―一つの精神病理学的要素症状―. 精神病理学研究2. みすず書房, 東京, p.361-373, 1971〕

9) 加藤 敏: カール・ヤスパースにおける精神病理学と哲学―架橋の試み―. コムニカチオン, 16; 19-35, 2009

10) 加藤 敏: カール・ヤスパースにおける精神病理学と哲学・哲学的信仰. 人の絆の病理と再生. 弘文堂, 東京, p.66-105, 2010

11) 加藤 敏: 『精神病理学総論』(Kヤスパース)の今日的意義. 臨床精神医学, 43 (2); 131-142, 2014

12) 加藤 敏: ヤスパースの実存哲学からみるレジリアンス, スピリチュアリティ. 精神経誌, 117 (8); 621-629, 2015

13) 加藤 敏: 狂気内包性思想の系譜と狂気内包性精神病理学. 精神医学史研究, 24 (1); 79-96, 2020

14) 加藤 敏: 精神科診断の基本視座―私の場合―. 精神医学, 63 (5); 605-613, 2021

15) Kisker, K. P.: Dialogik der Verrüktheit: Ein Versuch an den Grenzen der Anthropologie. Nijhoff, Den Haag, 1970

16) 宮本忠雄: 実体的意識性について―精神分裂病における他者の現象学―. 精神経誌, 61 (10); 1316-1339, 1957

17) 内海 健: 精神病理学の基本問題―ヤスパースの「了解」概念をめぐって―. 精神経誌, 123 (9); 545-554, 2021

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