Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第123巻第12号

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特集 「内因性うつ病」を多面的に把握する
DSMは日本のうつ病研究をどう変えたか―精神病理学の動きを中心に―
清水 光恵
伊丹健康福祉事務所/兵庫県精神保健福祉センター
精神神経学雑誌 123: 807-815, 2021

 革命とまで称されたDSM-IIIは,日本の精神医学と臨床にどのような変化をもたらしたのか.本稿では1981年から2000年代のうつ病論文を中心に文献を展望し,精神病理学への影響を中心に考察した.DSM-III前夜の日本のうつ病論文からうかがわれることは,おそらくは社会的経済的背景などから,病像や経過などのうつ病臨床は変化していたが,メランコリー親和型論などに依拠した従来のうつ病理論では変化に対応しきれなくなっており,新しい理論が待望されていた.当時,DSM-IIIは黒船来襲にたとえられたが,じつは黒船は潜在的には待望されており,それが日本の精神医学におけるDSMの受容につながったと考えられる.それまでごく少数の症例に対し心理学的,社会学的研究をしていた精神病理学は,多数の症例を集めて統計的に解析するなど科学らしい方法を採用していったが,時代の潮流に乗るのは困難だった.しかし臨床の学問としての精神病理学は今後も意義を保ち続けるはずである.

索引用語:DSM, うつ病, 精神病理学, 精神医学史, 日本>

はじめに
 アメリカ精神医学会によるDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders,いわゆるDSMは,現代の日本の精神医学・医療のあらゆる領域に広く普及している.しかしDSMは第1版から今日ほど受容されてきたのでは決してなかった.DSMが日本ばかりか世界の精神医学に強力な影響を及ぼすようになったのは,1980年出版の第3版(DSM-III)2)からであり,革命とまで称された14).操作的基準による「信頼性の高い」診断体系,病因論などの理論の廃棄など,現在のDSMの主要な特徴が導入されたのもDSM-IIIからである.DSM-IIIのそうした革新性は当時の日本の精神医学界でも「様々な反応」を生んだ6).議論の記録をみてみると,生物学的研究の共通言語として歓迎する意見から,「叩き台」という中立的ながら容認する意見,それを一歩進めて,将来的に日本独自の診断基準を策定するための試金石という声もあった6).一方で,特に精神病理学の立場からは,DSMの疾病概念が「独り歩きする危険」,例えば「大うつ病なら大うつ病というものは,実体としてそういう病気があるんだというふうにとられることがこわい」という懸念や批判もあった3)
 その後40年余り経過した現在,懸念や批判,独自の診断基準を望む声は目立たなくなったように思われる.DSMに対するこうした受容は,どのようになされてきたのか.功罪を含めて検証する必要があると思われる.
 以下では,日本におけるDSMの受容史の一端として,1981年から2000年代の日本精神神経学雑誌(以下,精神経誌)のうつ病論文を中心に文献を展望する.うつ病を取り上げる理由としては,まず,DSMは上記のように大うつ病概念を導入し,それに伴い,内因/心因という当時の日本の精神医学でも支配的だった病因論的分類を撤廃するなど,うつ病の臨床と研究への影響が特に大きかったと推察するからである.とりわけ,内因/心因という実証の難しい概念を理論的に構築し,内因性単極性うつ病論を洗練させてきた,そして上述のように大うつ病概念に強い懸念を示した,精神病理学という学問への影響を注視してみたい.

I.1981~1982年―DSM前夜―
 まず,1981~1982年に精神経誌に掲載された論文を検討する.この時期の論文は,1982年にDSM-III日本語版が出版される直前に執筆されたと考えられるため,「DSM前夜」と名づけておく.この2年間に精神経誌に原著論文として掲載されたうつ病論文8本の内訳をみると,4本を精神病理学的研究が占め,残りは精神生理学が2本,精神薬理学と薬物療法が各1本だった.精神病理学論文を以下に紹介する.

1.清田一民「躁うつ病の慢性化と混合状態-美術品の収集的窃盗の1症例研究」(1981)12)
 最初に取り上げるのは,当時は珍しくなかった,精神病理学的な1例研究である.患者の生活史や犯行時の状況を詳細に分析し,発症や経過を説明している.そこで清田は次のように述べている.「最近は抗うつ剤の使用による症状の急速な改善とは裏腹に,うつ病相の消退後も残遺症状を認め,慢性化を来しやすいこと(中略),遷延化などがあらたな問題になっている.さらに最近,躁うつ病の軽症化の傾向があることから,従来の病因論的分類とは別に,新しい分類が試みられている」12)
 ここでわかることは,まず1つめに,抗うつ薬による治療後のうつ病の急速な改善と慢性化,躁うつ病の軽症化などであり,当時のうつ病臨床が変化してきていることが指摘されている.裏返せばそれまでのうつ病理論では,うつ病は一旦は治癒するものであり,躁うつ病は一般に重症という認識だったことがわかる.2つめに,そうした変化を背景に「病因論を前提としない新しい分類」が試みられていた.注意すべきは,この「新しい分類」は,前年にアメリカで出版されたDSM(英語版)のことではなく,1975年に日本で発表された笠原・木村のうつ病分類7)なのである.1970~1980年代の日本では,うつ病と,メランコリー親和型という病前性格を基盤に発症する内因性単極性うつ病28)を同一視する理論が広く普及していた25).しかし,笠原らはそのような状況下でも,うつ病臨床の変化とそれを説明する新しい理論の必要性に気づいていたとみるべきだろう.3つめに,すでに述べたように,当時は精神病理学的な詳細な症例の提示と分析による1例研究が,精神経誌において原著論文として掲載されていたのである.
 なお,同じ1981年に,小島卓也,大森健一,望月澄子は「遷延うつ病の臨床的2類型について」13)という原著論文を精神経誌に発表している.この論文も,躁うつ病やうつ病の遷延化が当時の重要な問題であると指摘しており,また病前性格については,執着性格という従来的なタイプが多いグループに加え,未熟な性格傾向を併せもつグループもあることを報告し,新しい類型化を試みている.つまり,清田同様に小島らの研究も,新しいうつ病臨床像に対応した新しい類型を提案している.
 1981年の精神経誌には,慢性化したうつ病の増加とその病態の「神経症化」を論じた原著論文はもう1本1)ある.当時のうつ病臨床の変容をそれまでの概念がもはや説明しきれていない事態が強くうかがわれる.

2.湯沢千尋「中年危機的心性を伴ううつ病について」(1982)30)
 この論文は「近年マス・メディアによって問題とされた中年危機」が主題であり,流行作家の小説を引用するなど,社会的な関心と呼応している.湯沢によれば「中年の危機」とは,「およそ40歳前後(中略)に生じる内的自己像の混乱あるいは同一性の危機を伴う内的葛藤のことである.具体例をあげれば次のようなものである.『私は何かしら? 夫にとって妻であり,子供たちの母親であること以外に,何者でもないという私の存在は? 果てるともしれない自己との問答.回答は常になし.私は嘆きに嘆いた』(森瑶子『35歳の憂うつ』)」30).このような中年の危機は,アメリカの中産階級の男性で80%が体験するという.なお提示された5症例は全員主婦,主訴はイライラ,不安,不眠で,全員,結婚を後悔しているという記述がある.
 湯沢の論文の記述では,症例の主婦たちは,「夫にとって妻であり,子供たちの母親であること」という家庭内の役割に同一化しきれていない.これは,当時まだうつ病理論として日本で支配的だったはずのメランコリー親和型理論とは対照的である.先にもふれたメランコリー親和型はドイツの精神病理学者Tellenbach, H. によって「他者のための存在」と特徴づけられた28).ハイデルベルク大学での調査では主婦が最も多かったが,患者たちは「夫にとって妻であり,子供たちの母親であること」28)に過剰に同一化していたのである.また先述のように中年危機は,「アメリカ中産階級男性の80%が経験」するという.そのような危機が日本でも「近年マス・メディアによって問題とされ」ていたということは,日本においても中産階級が拡大していた可能性が推測される.実際に内閣府の「国民生活に関する世論調査」では,1973年以降は自らの暮らし向きを「中流」とする人が9割を超え19),「1億総中流」と呼ばれた15).第二次世界大戦後の復興期からバブル経済期へ向かうこの時代において,少なくとも国民の意識のうえでは,日本の社会経済的な構造が変化しつつあったといえる.そしてそのことが,個人の自己実現の理想像の変化,あるいは曖昧化を招いたことが推察される.

II.1982年―DSMへの初期反応―
1.「シンポジウム 精神医療と診断」(1982)6)
 DSM-III日本語版が発表された1982年には,日本の精神科医療における診断のあり方を問うシンポジウムが精神神経学会学術総会で催された.原著論文ではないが,69ページもの紙幅が割かれているので丁寧にみていこう.
1)導入
 司会の野口拓郎は次のように口火を切った.「従来のわが国における精神疾患の診断は,外国から輸入されたものと,独自のものとが重なり合った根拠や基準によってなされています.このため治療方針あるいは予後の見通し,さらには病因の検討などに際して,診断名の価値に限界があります.さらにまた,診断に際しての信頼性も低い(後略)」.当時の厚生省は1979年度からICDを採用していたが,「私どもも卒前ないし卒後教育にもこれを使うようになってきていました.そこに,1980年にアメリカ精神医学会編集による診断と統計のためのマニュアル,いわゆるDSM-IIIというのが登場しました.これには明確で操作的な診断基準が設定されていまして,高い信頼性を得ることが一つの目的とされています.また,御存知のように多軸診断方式も採用されています.またニューロシス(神経症)というカテゴリーがどこにも見当たりません.独特な概念,用語も採用されています.このように,目立った特徴を持っていまして,われわれの中にも種々の反応を生むに至っています.そこでこの機会に改めて,『精神医療と診断』というテーマで意見を交換し,われわれとしてとるべき方向を求めたいという考えでシンポジウムを持つことになりました」6)
 野口は日本における従来的な診断方法の信頼性の低さを指摘し,DSM-IIIという「明確で操作的な診断基準」の信頼性の高さへの期待を表明している.DSMのもつ,多軸診断や神経症概念の廃棄などの新奇性も指摘しつつ,「われわれとしてとるべき方向を求めたい」と言う.
2)演題
 シンポジウムの演題は3題で,1題めは人見一彦による,Bleuler学派(チューリッヒ学派)諸家による精神分裂病(当時の呼称.以下同様)論の精神病理学的な比較検討である.
 2題めは笠原洋勇,森温理らによる,軽症うつ病の診断に関する実証研究である.臨床症状の因子分析や,重症度と予後との関係,各種の診断基準を用いた診断結果と重症度との関係を報告した.使用された基準はICD-9,笠原・木村分類,DSM-III,RDC-3である.笠原らは,「主観にたよらぬ,症状の客観的評価は習熟することにより高い一致率を得るのに対し,精神病理学的基準をもつ分類では,主観による見解の違いが生ずることが」あると結論し,RDCとDSMを評価した6)
 3題めは,花田耕一,高橋三郎らによる,DSM-IIIと伝統的診断を用いた,精神分裂病と躁うつ病の診断の比較である.これには7つの大学の精神科教室が参加し,司会の野口も名を連ねている.なお周知のように,花田,高橋は同年DSM-III日本語版を出版することになる.
 「私たちは,わが国においても疾病分類の統一と診断基準の確立が必要であると考えていたが,もしわが国でもDSM-IIIのようなシステムが有用で,信頼性が高ければ,これを用いることによって,今日のわが国の精神科診断における混乱を整理し,臨床・教育・研究に寄与する面が大きいであろうし,ひいてはわが国独自の分類と診断基準を作っていく上で役立つであろうと考えた」6)
 方法は,滋賀大学,東京大学,司会者の埼玉医科大学など7大学病院精神科において,「医師2名がペアになって診察をし,相談をせずに独自に,DSM-IIIの診断基準に基づく診断と,その施設または医師がそれまで用いていた体系による診断(伝統的診断)の双方を下して,報告用紙に記載した」6)
 彼らの問題意識は明確であり,やはり当時の日本の精神科診断の信頼性の低さを問題視し,DSMに期待している.また,その後の日本独自の分類と診断基準構築の意志を示唆している.これはもしかしたら,グローバル化以前の日本人医学研究者の気概を表すのかもしれない.しかしながら彼らが生物学的研究に方向づけられていることを思えば,日本独自の分類と診断基準というものが,研究やその発表の役に立つのかは不明であり,実際そのような構築がなされることはなかった.
 結果と考察は主に以下の2点にまとめられる.①「抑うつに関する伝統的診断は175回下されたが,その診断名は38通りに及」んだ.「ICD-9でも抑うつ状態は,躁うつ病,その他の非器質性精神病,神経症,人格異常,不適応反応,他に分類されない抑うつ状態の6つの異なるカテゴリーにばらばらに分類されてしまう(中略)DSM-IIIはそれらの抑うつ状態をすべて一括してとり扱っているのが特徴である」.②DSM-IIIによる精神分裂病診断では妄想型と鑑別不能型が多く,これは,従来の破瓜型が多く妄想型が少ないという報告とは異なるが,アメリカでの戦後の統計と一致する.「今回の結果が,診断基準の差によるものか,時代的な流れによるものなのか,興味をひかれる」6)
 以上から,当時の日本の精神医療では,うつ状態の診断名はやはり百花繚乱状態であったことがわかる.研究者らは「抑うつ状態をすべて一括してとり扱っている」DSMに魅力を感じたようである.また,この7大学共同研究は,うつ病だけでなく精神分裂病をも対象とした.結果は,当時の日本の精神分裂病診断は予想に反して妄想型が多く,いわばアメリカ化していたのは,時代による変化のためであるという可能性が指摘されている.
3)討論
 シンポジウムの討論ではDSM-IIIが話題の中心となり,運用上の問題,例えば多施設,多地域でDSMが使用された際に結局信頼性が担保できないなどの問題が話題になり,ビデオによる研修の意義などが議論された*2.DSMへの批判はあるが,DSMの導入自体に異を唱える向きはないなか,皆川邦直が発言した.皆川はアメリカの2つの大学精神科で研修を受け臨床経験を積んだ精神分析家である.
 皆川はまず,DSM-IIIの5つあるアクシスのうち,7大学共同研究では,IとIIしか調べられていないことを批判し,多軸診断に至ったアメリカ精神医学の思想やその経緯が理解されないまま日本にDSMが輸入されることに危惧の念を示した.「それからもう一つは,これから先,本当にdescriptiveに正確な研究をしていくのであれば,基本的な日本の精神医療のあり方を変えていかない限り,できないだろうと思うのです.Descriptiveというのはパッと5分で見える,あるいは10分で見える症状のことを指してDSM-IIIは言っているわけではないと思うのです.アメリカの一般精神科医が1人の患者に対して少なくとも診断をするときには,最低45分会いますね.それも2~3回会って,初めて診断をする,症状をとりますし,それもただそれだけではなくて,家族に対してソーシャルワーカーがいろいろな情報を同じような時間を使ったところでのdescriptiveであるわけですね.その辺のところがわからなくて,この忙しい日本の精神科の外来や多くの人数を抱えた入院治療の中で何を行っても,アメリカと同じものはできないだろうと思います.そこで,同じようなやり方でアメリカを追いかけても,いつまでたっても私たち日本の精神科医はドイツをまず追いかけて,次はアメリカを追いかけてそれで終わってしまうのではないかというむなしさを感じました」6)
 司会の野口の反応は次のようなものである.「司会者の立場を離れて,7大学で研究を行っているうちの1人として,皆川先生の御批判に多少答えてみますと,別にあくまで追従して行こうというつもりではありません.ただ,比較検討する材料として非常に適当であろうということで行っているつもりです.ただ,下手な加工を加えたりするとかえって,それが各協調性を失ってしまうとか,いろんな問題もあると思いますけれども,私たちなりにやっていく上に,クライテリアとしての標準化について何か教えてくれるものがあるのではないかという,むしろこれからいろいろわれわれなりの環境でできる限り行ってみたいということでありまして,全く同じ環境でないこともよくわかっております」6)
 日米の精神医療に通暁した皆川は,両国の医療の環境や構造の格差を指摘し,DSMを日本の医療に導入する意義に悲観的な見通しを示した.ほとんど憂国の弁であるが,外国の文化や習慣を輸入することの根本的な困難にふれており,反論することは容易ではないだろう.実際,野口は反論できておらず,それどころか,皆川の批判したやりかたで推し進めようとしている.
 野口が「示唆に富んだお話をいただいて感謝しております」と述べて,このシンポジウム記事は終わっている.
 この記事は1982年のDSM-III日本語版出版を踏まえたシンポジウムの記録だった.
 それでは,DSMを検討する原著論文はどのくらい書かれたのだろうか.精神経誌上,1982~1984年にかけて,DSMの検討が主題の原著論文は3本である.1985年以降は,DSMに基づいた診断で実証研究が発表されるなど,DSMは受容されたようにみえる.

III.1976~1987年―精神病理学とDSM―
1.『躁うつ病の精神病理』
 DSM-IIIに対するうつ病の精神病理学の反応をもう少し経時的に眺めてみよう.ちょうどDSM-III刊行の前後の期間をカバーする1976~1987年の12年間に『躁うつ病の精神病理』と題されたワークショップを書籍化したシリーズが民間の出版社から5巻刊行された.このシリーズのまえがきは,各巻の編者が担っている.まえがきはもちろん論文ではないが,当時の精神病理学をめぐる風潮が鮮明に描出されているので以下に紹介する.
 1976年つまり自らが先述の笠原・木村のうつ病分類を発表した翌年に,『躁うつ病の精神病理』1巻のまえがきで,笠原嘉は次のように述べている.
 「躁うつ病は,分裂病にくらべると,何となく地味な対象にみえる.が,ここ十数年の間に分裂病研究をしのぐ理論的ならびに治療的進歩がみられたという意味においても,また,わが国をふくめて各国で近年うつ病者がいちじるしく増加してきたという意味からも,躁うつ病は専門家の間ではもっとも現代的な主題のひとつと目されている.事実,諸外国ではこの種の書物がここ数年の間に何冊も発刊されている.(中略)あまりうまい比喩ではないが,躁うつ病という大陸は発見され,生物学的探検隊と精神病理学的探検隊がそれぞれ正反対の方向から上陸し,すでに一定の距離を踏破した,といってもよい」8)
 当時精神病理学分野の花形だった分裂病研究に比べて「地味」と自嘲しながらも,躁うつ病研究の諸外国での活発化を指摘している.大陸の比喩では,生物学的研究と精神病理学的研究との対等さを前向きに謳っており,静かな自信がうかがわれる.
 順調に刊行が進んだ1981年の4巻では,木村敏がまえがきを書いている.「『躁うつ病の精神病理』も,ようやく4冊目が上梓されるはこびとなった.第1巻が出たのが昭和51年の1月だったから,ほぼ1年半に1冊というペースになる.(中略)これはある程度満足できる実績といってもよいのだろうと思う.(中略)(この巻の特徴は:著者注)第一には若い患者への着目ということが挙げられるだろう.(中略)第二の特徴は,編者自身のものも含めて,躁状態と祝祭との関係を論じた発表が期せずして2篇そろったことだろう.祝祭論は,現代の民族学や文化人類学のお気に入りのテーマである.精神病理学が,そういった時代の流行に迎合するだけだとしたら,これは非常につまらないことだと思うが,もしそれが独自の精神医学的・臨床的な立場からの経験に裏付けられた発言であったならば,それは精神医学自身を肥やすだけでなく,一般の思想界における祝祭論にも一石を投ずる効果を期待できるかもしれない」11)
 木村は『躁うつ病の精神病理』の順調な出版ペースに自負の念を隠さない.また,DSM前夜の精神病理学と人文社会科学との幸福な学際的関係(当時はニューアカデミズムと呼ばれた)にも希望的な観測を示している.
 ところが1987年の5巻は,1巻と同じく笠原が記しているが,打って変わった調子となる.
 「『躁うつ病の精神病理』第4巻が出版されたのは1981年だから,第5巻である本書までに6年の間隔があったことになる.この間には躁うつ病を感情病(あるいは感情障害)とよびかえる習慣がかなりの程度にわが国でもひろまった.アメリカの新しい疾病分類DSM-IIIのもたらした新風である.気分病とか気分障害と呼んだ方がよいという人さえあるくらいである.しかし名称変更が問題になった割には,正直なところこの6年間あまり大きな精神病理学的(心理学的)話題に恵まれなかった.それが空白の理由と思われる.たしかにこのところ躁うつ病(感情病)の研究というと生物学的方向に流れ,心理学の方は小休止といった恰好であった.精神病理学者の関心は分裂病とか境界パーソナリティに吸収されていた感がある.しかし躁うつ病についてもそろそろ歩き出してよい頃であろう.第1巻の「まえがき」の中で書いたことは今でも妥当すると思っている.(中略)久しぶりのワークショップが意義あるものになることを望む」9)
 1巻の誇らしさや前向きさがすっかり消えている.それまで1年半の間隔だった出版が,DSM-III出版を挟んで6年ぶりとなったこと,DSM-III輸入後に生物学的研究が発展し,躁うつ病の精神病理学が「空白」期間を迎えたことが淡々と述べられている.「小休止」と言い換えられた空白は停滞ではなかったか.ただしDSM-IIIの影響を「新風」と呼んでいるのは,自らも新しいうつ病分類7)を世に問うた笠原の懐の深さだろう.『躁うつ病の精神病理』シリーズは5巻を最後に閉じられた.

IV.精神病理学の「科学」化
 DSMは結局のところ,少なくとも精神経誌でみる限りは,さほど侃々諤々の議論が続くことはなく日本の精神医療に受容され,生物学的研究は発展した.そしてうつ病の精神病理学は停滞したようにみえる.それでは精神経誌上では,1970年代から毎年発表が続いた,少数例の精神病理学的うつ病研究への影響はどうだったのか.こうした研究は1982年のDSM-III日本語版出版以降,精神経誌上9年間にわたって姿を消す.それと交代するように1983年に出現したのが大森健一の「初老期・老年期うつ病の発病状況―その臨床精神医学的・精神病理学的研究―」20)である.この研究は,50歳以上発症で,大森が診療および討議に参加したうつ病患者134名を対象に,発病の状況因を調査し,年齢・性と,状況因の有無,種類の関係を分析した.うつ病の診断基準は,更井(1974)22)を参考に「一次性に生じる感情の抑うつ,不安を中核として精神活動全般の停滞,自律神経障害を主症状とする症状群」としたという.22ページと浩瀚な論文であるが,Tellenbach,von Baeyer, W. R. らドイツ精神病理学の影響を受けた格調高い状況因論と,全体として平明な文体,整然とした構成が印象的である.
 この論文は,それまでに精神経誌に掲載されたうつ病の精神病理学論文とは趣を異にする.明文化された基準(DSMではないにせよ)に基づいた診断,100を超す対象症例数,統計解析による考察といった特徴は,その後DSMがもたらす,数量化という意味での「科学的」な精神医学論文の特徴そのものである.大森論文はおそらく,「科学的精神病理学論文」として最初期のものだと思われる.
 精神経誌上において従来的な精神病理学研究が1983年から9年間沈黙したのは,「精神病理学のDSMショック」と名づけることが可能だろう.精神病理学の「科学」化,数量化はそれと交代して出現し,1990年代以降増加した.

V.日本精神医学のグローバル化と精神経誌の位置づけ
1.精神経誌(和文誌)の立ち位置の揺らぎ
 科学的精神病理学論文が増加するなか,1992年,精神経誌の投稿ジャンルとして,原著論文と症例報告が分離された.精神経誌の誌面上には特にことわりはなく,1992年94巻12号の,つまり年末の「編集だより」にあっさりと「1992年4月より,本誌『投稿規定』が改訂されております」24)と事後報告として記載されているのみである.そこで投稿規定を調べてみると,それまでは「研究論文および症例報告」とあり,原著論文にあたると思われる研究論文と症例報告が一応は1つのジャンルにまとめられていたが,1992年94巻4号より,「投稿の対象として以下の諸欄を設けます.原著(臨床的または基礎的な独創性に富む学術論文),臨床報告(症例報告,臨床で得た知識,経験,成果などの報告)」23)となっていた.これでは少数症例の精神病理学的研究は症例報告つまり臨床報告とみなされ,原著として受理されにくくなるおそれがあろう.原著が学術論文なのだから,症例報告や,症例報告にスタイルが近い精神病理学論文は,学術的価値が低下することになるだろう.
 7年後の1999年の精神経誌「編集後記」は,もちろん原著論文ではないのだが,原著論文とは何であるかを再考させる記述であるように思われるので引用しよう.
 「精神神経学雑誌は精神医学全般を網羅する学術誌である性格上,集まってくる論文の内容は多彩である.筆者のように脳器質性疾患を生物学的手法を用いて研究する立場の者からいうと,精神病理学やその他の臨床精神医学についての論文に力作が多いように思う.(中略)一つには生物学的精神医学の論文は専門誌,とくに欧米の英文誌に投稿することが多いことにも原因がある.最近は精神医学の領域でもインパクトファクターが重んじられるようになったからやむを得ない状況であるが,本誌が時代の趨勢にどのような立場をとっていくかは編集委員として検討すべき重要な課題である(中略).生物学的精神医学領域の論文がどうしても引用頻度の高い欧米誌に投稿されがちなのはやむを得ないとしても,精神病理学の分野の編集委員から,最近の投稿論文は精神病理学的内容のものであっても,統計処理など数値化することが必要条件のようになっており,これが論文の内容をかえって底の浅いものとしていると苦言がなされていた.(中略)時代の趨勢に迎合せず,投稿者の臨床経験ないし研究データとそこから導き出された考察が納得いくまで掘り下げられており,一方では独善でなく読者にも理解できるように書かれた論文を掲載していくというのも本誌の今後の行き方ではないだろうか」4)
 執筆した編集委員は自らは生物学的研究の研究者であるとして,精神経誌に集まってくる論文のなかで「精神病理学やその他の臨床精神医学についての論文に力作が多いように思う」と述べる.「力作が多い」と評価された精神病理学はそれではどのような学問であるのか.「精神病理学の分野の編集委員から,最近の投稿論文は精神病理学的内容のものであっても,統計処理など数値化することが必要条件のようになっており,これが論文の内容をかえって底の浅いものとしていると苦言がなされていた」.「統計処理などの数値化」の先鞭をつけた論文の少なくとも1つは,先の1983年の大森論文である.DSM以降の学術論文とは数量化された実証研究を意味することになることを,大森は予測していたのであろうか.しかしその後精神経誌に掲載された精神病理学の原著論文には,大森論文の深みは十分には継承されず,数量化だけが継承された.そして精神病理学は「底の浅いもの」になってしまった.精神病理学は,DSMショックを経て実証科学化による延命を図ったがゆえに底が浅くなったのだとしたら,悲劇的である.一方で,英語で書かれ数量化され底も浅くない学術論文には,生物学的精神医学が多いようだが,それらは精神経誌ではなく「欧米の英文誌」に投稿される.つまり,使用言語と学問領域のセットによってそれぞれ,雑誌の棲み分けがなされている.実際,1981~2000年の精神経誌のうつ病原著論文を渉猟すると,例えば遺伝子研究はなんとゼロであり,画像研究は2編のみである.そうした科学としての評価の高い論文は英文誌に投稿されるのだろう.当時は和文誌のみだった精神経誌は,必然的に,学術雑誌としての立ち位置を問われることになる.執筆した編集委員は,時代の趨勢という語を2回使用している.まず「本誌が時代の趨勢にどのような立場をとっていくか」と,精神経誌の立場を問い,それを受けて,「時代の趨勢に迎合せず,投稿者の臨床経験ないし研究データとそこから導き出された考察が納得いくまで掘り下げられており,一方では独善でなく読者にも理解できるように書かれた論文を掲載していくというのも本誌の今後の行き方」と提案した.和文誌としての精神経誌は臨床経験を掘り下げた考察を学術論文として掲載するという方略は,日本では精神科臨床は多くの場合,日本語でなされていることを思えば,妥当なものであると考えられる.ただし「重んじられ」ているというインパクトファクターについて言えば,和文誌にはない.

2.PCN誌の発行と日本語による学問のゆくえ
 学術的な評価が高いのは英文による生物学的研究であるのに,精神経誌にはそうした論文は投稿されず,科学的な衣をまとった精神病理学論文が和文で投稿される.この状況のなか,2008年に日本精神神経学学会の英文機関誌が創刊された(周知のように,その英文誌『Psychiatry and Clinical Neurosciences』自体は1933年には創刊されていた).2008年に日本精神神経学会の英文誌が創刊されたのはとても象徴的である.というのは,同じ年に,小説家で批評家の水村美苗は『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で-』17)を出版した.この書物は,大手新聞の時評で次々に取り上げられ5)21)27),文芸誌で特集が組まれ29),日本最大手のジャーナリスト協会で記者会見が行われる18)など,大きな反応を巻き起こしたと言ってよいだろう.
 この書物の主要なテーマの1つは,世界中が「英語の世紀」に入り,日本でも重要な学問ほど英語でなされ,日本の優秀な人材が英語で学問を行っていくことは,英語と日本語の学問上の役割分担を招き,日本語による学問の地位の低下と,ひいては日本語自体の貧困化をも招くという警句であった17).このことは,日本の精神医学における,英文による生物学的精神医学論文の地位向上と,日本語による精神病理学および症例報告論文の地位低下という現象とを正確に言い当てているように思われる.さてそうすると,水村の言うように,次に起こる現象は,貧困化した日本語による貧困な精神科臨床なのだろうか.
 精神病理学者の笠原嘉は,あえてグローバルな時代の趨勢に逆らうかのように,「日本ローカルでも,短命でもいい,診察室で役立つ臨床研究がしたい」10)と言いきった.そして逆説的にも,広く長く読み継がれる数々の臨床研究をものした.これはおそらく精神病理学がめざすべき方向の1つでもあると思われるが,臨床研究の地位がますます低下した時代に,笠原のような器量も度量ももたない私たちにとって容易ではない.

おわりに
 本稿はDSM-III輸入前後の精神病理学の盛衰を中心に,日本におけるDSMによるうつ病の研究および臨床への影響を展望した.本稿の議論をふりかえって結びのことばとしたい.
 DSM-IIIの導入は,当時は,いわゆる黒船来襲にたとえられたという26).しかし本稿でみたように,DSM-III前夜の日本のうつ病論文からうかがわれることは,おそらくは第二次世界大戦後からバブル期直前の社会的経済的背景などから当時の日本のうつ病臨床は変化しつつあったが,従来のうつ病理論はその変化に対応しきれなくなっており,新しい理論が待望されていたことである.日本でも笠原・木村分類のほか,精神経誌上でもさまざまな分類や類型の試みが掲載されていた.つまり,黒船は潜在的にはむしろ待望されていたのではないか.信頼性の高さが期待できる診断基準は大学や研究機関での生物学的研究にも必要不可欠であり,かくして世界中で,DSMと,DSMに基づいた研究とは,互いに精神医学における地位を高め合っていった.精神病理学も,多数の症例を集めて統計的な解析方法を採用するなどしてみたが,時代の潮流に乗るのは困難だったのである*2
 精神医学も医学である以上は臨床の重要さは言うまでもなく,また現在のところ日本における精神科臨床の多くの場面で日本語が使用されている以上,笠原の言うように,ローカルな日本語学問としての臨床精神病理学は一定の意味を失わないはずである.ただ,注意しないと潮流のなかで沈殿してしまう危険性は常にはらんでいる.精神病理学は,精神現象や臨床という構造をことばで表現するという性質上,哲学の知見を援用したり難解な表現をとることがしばしば避けられない.本稿で,精神病理学を擁護するような内容の精神経誌「編集後記」を紹介したが,そこには「独善でなく読者にも理解できるように書かれた論文を」という一文がさりげなく込められていた.これは精神病理学に対する批判であろう.臨床の経験を理論的に高めながらも共有可能性に開いていくことが,学問としての精神病理学に求められている.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 阿部輝夫, 分島 徹, 飯田 真ほか: 単極性うつ病の神経症化-4症例の症例分析から-. 精神経誌, 83 (6); 357-371, 1981

2) American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 3rd ed (DSM-III) . American Psychiatric Association, Washington, D.C., 1980 (髙橋三郎, 花田耕一, 藤縄 昭訳: DSM-III精神障害の分類と診断の手引き. 医学書院, 東京, 1982)

3) 土居健郎, 藤縄 昭編: 精神医学における診断の意味 東京大学出版会, 東京, 1983

4) E. I.: 編集後記. 精神経誌, 101 (6); 576, 1999

5) 池澤夏樹: 今週の本棚. 毎日新聞, 2008年11月23日

6) 加藤正明, 野口拓郎, 人見一彦ほか: 精神医療と診断. 精神経誌, 84 (10); 734-803, 1982

7) 笠原 嘉, 木村 敏: うつ状態の臨床的分類に関する研究. 精神経誌, 77 (10); 715-735, 1975

8) 笠原 嘉: まえがき. 躁うつ病の精神病理1 (笠原 嘉編). 弘文堂, 東京, 1976

9) 笠原 嘉: まえがき. 躁うつ病の精神病理5( (笠原 嘉編). 弘文堂, 東京, 1987

10) 笠原 嘉: うつ病臨床のエッセンス新装版. みすず書房, 東京, 2015

11) 木村 敏: まえがき. 躁うつ病の精神病理4 (木村 敏編). 弘文堂, 東京, 1981

12) 清田一民: 躁うつ病の慢性化と混合状態-美術品の収集的窃盗の1症例研究-. 精神経誌, 83 (2); 84-108, 1981

13) 小島卓也, 大森健一, 望月澄子: 遷延うつ病の臨床的2類型について. 精神経誌, 83 (4); 222-235, 1981

14) 黒木俊秀: DSM-III創出背景史. 九州神経精神医学, 58 (2); 94-105, 2012

15) 松村 明 (監修), 池上秋彦, 金田 弘ほか編: 一億総中流. デジタル大辞泉 小学館, 東京, 2021 (https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E4%B8%AD%E6%B5%81-433213) (参照2021-07-13)

16) 松尾 正: 分裂病者との間で治療者自身が"沈黙"するとき, そこにもたらされるもの-現象学的治療論の一試み―. 精神経誌, 88 (8); 509-538, 1986

17) 水村美苗: 日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で-. 筑摩書房, 東京, 2008

18) 水村美苗: 著者と語る『日本語が亡びるとき』. 日本記者クラブ, 2009 (https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/opdf/415.pdf) (参照2021-07-13)

19) 内閣府: 国民生活に関する世論調査. (https://survey.gov-online.go.jp/index-ko.html) (参照2021-07-13)

20) 大森健一: 初老期・老年期うつ病の発病状況-その臨床精神医学的・精神病理学的研究-. 精神経誌, 85 (3); 156-178, 1983

21) 齋藤美奈子: 文壇時評. 朝日新聞, 2008年11月26日

22) 更井啓介: 老年うつ病. 老年精神医学 (加藤正明, 長谷川和夫編). 医学書院, 東京, 1974

23) 精神神経学雑誌編集委員会: 投稿規定. 精神経誌, 94 (4); 1992

24) 精神神経学雑誌編集委員会: 編集だより. 精神経誌, 94 (12); 1992

25) 清水光恵: 本邦におけるメランコリー親和型をめぐる学説の変遷―日本文化論との結びつきから―. 精神医学史研究, 16 (1); 69-81, 2012

26) 高橋三郎, 大野 裕, 染矢俊幸: DSMと精神科臨床. 医学界新聞, 2014 (https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2014/PA03082_01) (参照2021-07-13)

27) 武田将明: 平成時代名著50. 読売新聞, 2018年7月28日

28) Tellenbach, H.: Melancholie: Problemgeschichte Endogenität Typyologie Pathogenese Klinik, 4 Aufl. Springer, Berlin, 1983(初版1961) (木村 敏訳: メランコリー改訂増補版. みすず書房, 東京, 1985)

29) ユリイカ2009年2月号「日本語は亡びるのか?」. 青土社, 東京, 2009

30) 湯沢千尋: 中年危機的心性を伴ううつ病について. 精神経誌, 84 (6); 412-423, 1982

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