Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第122巻第9号

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特集 精神病理学の古典を再読する―DSM 精神医学の補完をめざして―
精神医学における疾患とは何か―Kurt Schneiderに学ぶ臨床精神病理学―
古茶 大樹
聖マリアンナ医科大学神経精神科学
精神神経学雑誌 122: 683-690, 2020

 Schneiderの主著『臨床精神病理学』は,精神病理学の教科書のように思われているが,その内容はJaspersの『精神病理学原論(総論)』のような網羅的内容ではない.診断学と分類に焦点を絞った,まさに「臨床」精神病理学なのである.その思想は,精神障害には疾患的であるものとそうでないものとがあるという前提に基づいている.その前提から出発し,精神医学における疾患定義に生活発展の意味連続性(の中断)という視点を導入し,精神障害を「心的あり方の異常変種」「身体的基盤が明らかな精神病」(器質性・症状性・中毒性精神病)と「身体的基盤が明らかではないが要請されている精神病」(内因性精神病)の3群に分けている.また精神医学における診断には,鑑別診断,鑑別「診断」,鑑別類型学,純粋な類型学の4種類があり,この順に診断の重み付けが軽くなる.彼は,精神医学の自然科学的側面を常に意識しつつ,実践的な臨床精神医学の確立をめざしていた.そのエッセンスが『臨床精神病理学』には詰まっている.今日,われわれはどのように彼の思想を活かしたらよいのかについても論じた.

索引用語:臨床精神病理学, 分類, Schneider, 理念型, ハイデルベルク学派>

はじめに
 著者は伝統的精神医学,Jaspers, K.,Schneider, K. に代表されるHeidelberg学派に傾倒している6).Schneiderの主著,『臨床精神病理学(Klinische Psychopathologie)』7)(以下,二重カッコ付きの臨床精神病理学は文献7)を示す)は,精神病理学の教科書のように思われているが,その内容はJaspersの『精神病理学原論(総論)(Allgemeine Psychopathologie)』2)のような網羅的内容ではない.診断学と分類に焦点を絞った,まさに「臨床」精神病理学なのである.著者がSchneiderの論考に惹かれる大きな理由は,臨床医が遭遇するいくつかの診断学上の問題について,「どこまでそう(正しいと)主張できるのか」ということまで含めて,一定の指針が示されていることである.Schneiderの論考は言葉ひとつをとっても注意深くその意味をはっきりさせて使っており,その厳密性ゆえに読みやすいとは言い難い.ここでは,その厳密性を多少は削ぐことになるかもしれないが,わかりやすさを優先して,著者の言葉でその要点を解説したい.本稿は文献6)とかなりの部分で重複することを断っておく.

I.精神医学における疾患とは何か
1.あらゆる精神障害は疾患か
 ここに「あらゆる精神障害は疾患か」という問いがある.この問いには「精神障害には疾患的であるものと,そうでないものとがある」「あらゆる精神障害は疾患である」という2つの答えがある.多くの臨床家は直感的に前者を支持するだろうが,脳科学者は後者を支持するに違いない.よくよく考えてみると,この問いには正解がなく,ただどちらを信じているのかと答えるしかないものである.検査技術の進歩により,後者を支持する医学者が増えつつあるように思うが,もしそう考えるのなら,精神障害を定義すればよく,疾患という言葉をどう定義するかという問題は棚上げにすることもできる.しかしその一方でこの考えは,精神的な異常は必ず身体的にも異常があり,それぞれに共通する身体的基盤は客観的に把握しうるものであるという前提が必要になるだろう.今日,統合失調症をはじめとする主要な精神障害はその水準にはないことは明らかである.
 さてSchneiderは前者の立場を前提としている.すると,「精神医学における疾患とは何か」という問いに答えなければならなくなる.

2.精神医学における疾患の定義
 身体医学において疾患という言葉の定義はさまざまであるが,ここでは「健常とは明らかに区別することのできる身体的基盤が存在する(客観的に把握できる)」ことを,その定義として,ここでは存在概念と呼ぶことにする.存在概念は身体医学における,ほとんどすべての疾患にあてはまる.精神医学においても「身体的基盤が明らかな精神病」(器質性・症状性・中毒性精神病)については問題なくあてはめることができる.しかし,内因性精神病には存在概念をそのままあてはめることはできず,Schneiderは内因性精神病に使うことのできる疾患定義について論じている.そこで登場するのが「生活発展の意味連続性の切断」だが,これはJaspersの了解的関連(了解不能)2)と深いつながりがある.
 私たちが「了解する」というとき,正確には心の何を「わかる」のだろうか.それは,心の静的な状態ではなく,「心の動き」である.例えばある知覚的体験刺激と,それに引き続いて生ずる感情とそこに含まれる志向性,ここに触発される思考,そして結果としての作為あるいは不作為を意味あるものとしてわかるわけである.了解は,知覚や感情,あるいは思考,意欲といった個々の要素ではなく,常に統合された全体像の推移を評価している.そして心の全体像がおおむね意味ある変化を切れ目なく続けていることを,Schneiderは「生活発展の意味連続性(Sinnkontinuität der Lebensentwicklung)・意味合法則性(Sinngesetzlichkeit)」と呼んだ.たとえ何かの大きな不幸に見舞われて,心のありようが大きく変わったとしても,その変化は意味あるもので,その連続性は途絶えることはない.ここでいう意味連続性とは,わかりやすくいえば,その人を十分よく知ったうえでの「その人らしさの連続性・合法則性」とでも表現できるのではないかと思う.Schneiderは内因性精神病において,発病の前後でその意味連続性が切断・中断されることに注目し,そこに疾病性の根拠をおいたのである.精神医学における疾患とは,1つは身体医学と共通する存在概念を,もう1つは精神医学固有の「生活発展の意味連続性の切断・中断」をあてはめていることになる.精神医学における疾患の定義を明確にしたことはSchneiderの大きな功績だろう.
 「生活発展の意味連続性」を吟味する作業は,その人の心的な「歴史」を辿り,理解することにほかならない.著者は,患者に感情移入して意味連続性(了解的関連)を追っていく作業そのものが精神療法と深いつながりがあるのではないかと考えている.これについては文献5)で詳しく論じた.

II.精神医学の類型は理念型であること
 主要な精神障害が類型(症候群)であることは,疾患単位による分類体系が確立している身体医学との大きな違いである.さらに重要なことは,身体医学における類型は症候群にすぎないのだが,精神医学においてそれは理念型(ideal type)8)の役割を果たしているということだろう.Schneiderは,理念型について直接言及していないが,疾患単位には「である(sein)」を,類型については「と呼ぶ(heiβen)」という動詞をあてることで,両者の本質的な違いを明らかにしている.
 精神医学においては,理念型である類型には必ずその概念が導かれた実在するモデル症例があるはずである.提唱者がモデル症例の臨床観察を通じて,これが本質であると感じ取ったいくつかの特徴を抽出して作り上げられた概念が理念型である.実在するモデル症例から導かれているという意味では,まったくの架空なもの・仮説的なもの,実在とは無縁なものではないが,その一方でモデル症例から本質的ではない部分はすべて捨象されたものであるから,もはやモデル症例そのものでもない.理念型は約束事あるいは観念的に作り上げられた(導かれた)虚構で,そのものの実在は保証されていない.たとえるならば,統合失調症と診断される患者はいるが,それは統合失調症という疾患が実在することを保証するものではないということである.
 理念型は観念的虚構であるから価値がないという批判はあてはまらない.それどころか,われわれが複雑多様な患者の精神状態を評価・理解・情報共有するために,なくてはならない道具と言ってもよい.われわれは一人の患者に,さまざまな類型を定規のようにあてがい比べてみる.そうすることによって患者の精神生活のいくつかの特徴がクローズアップされる.ぴたりとあてはまることもあれば,そうでないこともあるだろう.いくつかの類型のうちで最も近いものが診断名としてつけられ,それに基づいて適切な治療計画が立てられる.理念型を使った診断は,症例の特徴をクローズアップすることで,症例に構造が与えられる.理念型は,治療を進めるうえでなくてはならない道具なのである.
 精神医学における疾患単位と類型を比較したものが表1である3)5).疾患単位は実在するものであるのに対し,類型は理念型つまり仮説的なものである.ある1つの症例については,疾患単位では必要な情報が集まれば「であるか,でないか」の決着がつくが,類型では「どの程度あてはまるのか」が問題となる.疾患単位については,身体的水準において境界が明瞭となるのだが,類型についてはその境界は本質的に明瞭ではない.たとえていうならば,疾患単位は症例を入れることのできる「容器」であり,症例に「境界」を与える.一方,類型は症例を測るための「定規」のようなもので,症例に「構造」を与えるものと表現することができよう.疾患単位には確定された症例に基づいて作成された診断基準があるのに対し,類型については,臨床診断では理念型をあてはめることになる.ちなみに,その類型を対象にして,身体的原因を追究しようとする場合には,類型を境界が明瞭な疾患単位に見立てる必要がある.その作業が操作的診断である.

表1画像拡大

III.精神障害の3つの群
 Schneiderの分類体系は表2の通りである.全体を大きく「心的あり方の異常変種」と「疾患(および奇形)の結果」に分けている.そして後者には,身体的基盤が明らかなものと,いまだ明らかではないが仮定・要請されるものがあり,循環病と統合失調症が含まれている.これまでの論考を踏まえ整理してみると,精神障害は大きく3群に分けられる(表3).第1群の「心的あり方の異常変種」は疾患的ではない精神障害で,第2群以下が「疾患(および奇形)の結果」,疾患的である精神障害つまり精神病に相当する.精神病は第3群の「身体的基盤が明らかな精神病」と第2群の「内因性精神病」に分けられる.

1.身体的基盤が明らかな精神病(器質性・症状性・中毒性精神病)
 第3群「身体的基盤が明らかな精神病」は,器質性・症状性・中毒性精神病に含まれる疾患単位で構成される.その精神的病像は,急性の意識混濁と慢性のパーソナリティ解体と認知症が特徴的とされているが,その間に多様・多彩な通過症候群が広がる.それぞれの疾患の境界は,(精神症候学上は不明瞭であるが)身体的水準ではじめて明らかになる.このおよそ百年の精神医学の歴史からは,1つの疾患単位に特異的に対応する精神的病像はないという事実がすでに明らかになっている.症状と病因の非対応と換言することもできるだろう.「身体的基盤が明らかな精神病」については,精神症候学だけで疾患単位を同定することはできず,診断をつけるためには身体的検査が必要となる.
 この群の診断学は,表2の通り,病因論的系列と症候学的系列の二本立てからなる.例えば,SLEによる幻覚妄想状態であるとか,ステロイド精神病による躁状態という具合である.そしてその治療もまた,この2つの系列に従って実行される.甲状腺機能亢進症の患者が幻覚妄想状態を呈しているならば,甲状腺機能亢進症の身体的治療を進めながら,その精神的病像からは統合失調症に準じて,抗精神病薬が投与される.精神的病像に対する治療は,内因性精神病の諸類型を参照枠として使いながら進められていくわけである.

2.心的あり方の異常変種
 第1群「心的あり方の異常変種」は,疾患的ではない精神障害の類型を集めたものである.馴染みのある病名に置き換えるなら,心因反応(ストレス関連性障害),いわゆる神経症,パーソナリティ障害,軽度の知的障害,発達障害,摂食障害などがここに含まれる.この「疾患的ではない障害」を精神医学が積極的に取り上げていることは,身体医学との大きな違いとして重要で,精神医学・精神医療の社会における役割やその限界とも関連している.
 精神病の診断学は身体医学的(病因論的)系列と心理学的(症候学的)系列の二本立てであるのに対し,「心的あり方の異常変種」には身体医学的系列がおかれていない(表2).もちろんこの領域においても,それぞれの類型に生物学的な基盤を想定することは可能だが,そのような主張は正常心理においても生物学的な基盤があるという主張と本質的な違いはない.生活発展の意味連続性が一貫して保持され,正常心理との間に明瞭な境界線を引くことはできず,その違いは相対的なものでしかない(偏りとして認識されるべきものである).われわれは,この群の患者に「精神障害があるから社会適応が悪い」と考えがちだが,実際は「社会適応が悪いから精神障害としてとりあげている」と考えるのが正しかろう.異常であるか,否か(精神障害であるか,ないか)の判断は社会的な価値と深く結びついていて,同じような特徴をもつ人でも社会的に成功していれば,精神障害があるとは見なされない.
 例を挙げてみよう.ICD-11では,ゲーム障害が精神障害に認定される.日常生活の多くの時間をゲームに没頭(依存)するあまり,仕事や学業などの社会生活に大きな影響を与えるものをいう.自分でももう少しコントロールしたいのだが,それができない.引きこもりと結びついているケースもあるに違いない.そのような事例が社会的にクローズアップされてきていることは間違いないし,新たな精神障害と認められる理由はわからなくはない.しかし,その一方で,同じようにゲームに没頭していながら,それによって生計を立てている,ごく一握りの人がいる.eスポーツの世界では,それらの人々は大いに賞賛され,それをめざそうとする若者も少なくない.もちろん,彼らはゲームをやめたいとは思わない.それどころか,もっともっと練習して研鑽を積んで生活のために少しでも多くの賞金を稼ぎたいと思うに違いない.当然のことだが,eスポーツ選手はゲーム障害と診断されることはない.ゲーム障害と診断される患者とeスポーツ選手をめざそうとする若者との違いは,よくよく考えてみるとはっきりしない.ゲームのうまいへたで,その後の運命が正反対になる.ゲーム障害のように新たに精神障害と認定されるものがある一方で,性同一性障害のように社会が容認することで精神障害から外されるものもある.このような動きは,精神障害が社会的な価値と深く結びついていることを如実に示している.この領域は,文化,時代,世代,世相といった非生物学的要因の影響を強く受けると同時に,個人の生育歴・生活史が重要であることは言うまでもない.
 この第1群を精神病から分離することは治療上の観点から重要で,治療は原則的には精神療法を中心に展開することになる.それと同時に,ここには患者の人生の問題あるいは運命が含まれているという認識もまた必要で,精神医学の場に問題が持ち込まれてもできることには限界があるだろう.医療化することで問題が解決するとは限らないこともまた強調すべきかもしれない.

3.内因性精神病
 あらゆる精神障害が「身体的基盤が明らかな精神病」と「心的あり方の異常変種」のいずれかに必ず分類されるというのであればわかりやすいのだが,これだけ科学が進歩しても主要な精神病(例えば統合失調症)の診断に直結する身体的基盤が見つかっていないという事実は,誠に不思議なことである.
表3の第2群以下はすべて精神病に相当するが,そのうち身体的基盤が明らかである第3群を除いたものが内因性精神病の群となる.この群は身体的基盤が現時点では不明であっても,仮定・要請されている.「症状と病因との非対応」という事実を経験的に知りつつも,その身体的基盤の追究には精神症候学から出発しなければならないという,現代精神医学の抱える大きなジレンマがある4).DSM-III(1980)以降,40年以上にわたる現代精神医学の苦闘がまさにそれを実証している.
 内因性精神病患者の精神内界を理解することには特有の難しさがある.Schneiderの一級症状に代表されるように,患者の体験にはわれわれが追体験することのできないものが含まれている.そもそも病的体験を的確に表現する言葉はわれわれには与えられていない.患者はこれまでに体験したことのない何かを日常生活用語を使って懸命に説明しようとしているわけである.同じ言葉を使って表現されたもの,例えば「憂うつだ」という表現ひとつをとっても,体験反応として生ずる抑うつと,内因性精神病の抑うつとでどこかが違う.緊張病性昏迷にある患者を前にすると,あまりに多くの「語られていない体験」があるということに改めて気づかされる.内因性精神病の患者の精神内界を知ろうとするときに,言語による表現可能性という限界があることを心にとめておきたい.
 この群は伝統的に統合失調症と躁うつ病(Schneiderは循環病と呼んでいる)に二分されてきた.その発想はKraepelin, E. にさかのぼるが,Schneiderは両者の精神的病像には移行例や中間例があることをはっきりと認めているし,それぞれが身体的な意味での単一の疾患であるとは考えていないと明言している.内因性精神病の二分法は,他にもっと説得力のある類型がないから採用しているという立場をとっているのだろう.

表2画像拡大表3画像拡大

IV.精神医学における診断の意味について
 鑑別診断あるいは診断の重み付けについてもSchneiderの指摘は示唆に富んでいる.精神医学において,身体医学と同じ意味での鑑別診断は「身体的基盤が明らかな精神病」にしかなく,その他に鑑別診断と呼ぶことができるものは,異常パーソナリティ・異常体験反応と内因性精神病との鑑別,つまり「精神病であるか,ないか」の鑑別「診断」しかない(身体医学にはない視点なので,ここではあえてカッコ付きにしておく).これに比べると,内因性精神病における統合失調症と循環病の間には鑑別類型学しかない.さらに精神病質者(今日のパーソナリティ障害)の類型は「診断」のようにみえるが,疾患を診断するという意味で使うなら,これを診断と呼ぶべきではないともいう.精神病質者の類型はあくまで類型学にとどまり,精神病ではなく,そもそも「そういう人」なのである.診断名には重み付けがあって,身体的基盤が明らかな精神病,内因性精神病(そのなかでは統合失調症,循環病の順),そして心のあり方の異常変種の順に軽くなる.そして,1つの症例については,その到達した最も深い層の診断名をつける.これを階層原則(Hierarchieregeln)あるいは層の規則(Schichtregel)2)と呼ぶ.この原則を明らかにしたのはJaspersだが,Schneiderもまたこの考えを踏襲している.

おわりに
 Schneiderの『臨床精神病理学』をわれわれはどう活かすべきか.彼は,精神医学の自然科学的側面を常に意識しつつ,実践的な臨床精神医学の確立をめざしていたように思う.そのエッセンスが『臨床精神病理学』には詰まっている.どのように活かしたらよいのか思いつくままに以下に列挙してみよう.
 ・精神医学と身体医学の本質的な違いをよく認識することで,診断・分類について説明することができる.
 ・ある精神障害が3群のどこに含まれるのかによって,研究の進むべき方向性やその注意点を認識できる.
 ・新たなカテゴリー・病名が提唱されたら,それが3群のどれに相当するのか,その参照枠の役割を果たす.
 ・了解的関連・生活発展の意味連続性を吟味するためには感情移入が不可欠で,それだけで患者の傷ついた自己価値を回復する作用があり,日々の診療が精神療法的効果を生み出している.
 ・刑事責任能力判定では,「疾患的である精神障害」と「疾患的ではない精神障害」という視点が重視されている.
 未来志向の研究と現実的な治療では,それぞれにふさわしい診断学や分類が必要だろう.原因追究という,自然科学としての精神医学の究極的な目標には,アメリカ国立精神衛生研究所(National Institutes of Mental Health:NIMH)の主導するResearch Domain Criteria1)が採用される機会が増えてくるかもしれない.その一方で,Schneiderの診断学とその分類体系は,目の前にいる患者一人一人の現実的な治療には優れた体系である.その有用性をフルに活かすためには,その思想を十分に咀嚼し,その限界を踏まえておくことが肝要である.拙著文献6)は,Schneiderの論考を基にして,精神医学における疾患と診断について論じたもので興味のある方は参照してほしい.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) Insel, T.: Transforming Diagnosis. 2013 (http://www.nimh.nih.gov/about/director/2013/transforming-diagnosis.shtml) (参照2019-12-04)

2) JaspersK.: Allgemeine Psychopathologie.. Springer Verlag, Berlin, 1913 (西丸四方訳: 精神病理学原論. みすず書房, 東京, 1971)

3) 古茶大樹, 針間博彦: 病の「種」と「類型」, 「階層原則」-精神障害の分類の原則について-. 臨床精神病理, 31 (1); 7-17, 2010

4) 古茶大樹, 針間博彦, 三村 將: 現代精神医学のジレンマ. 精神医学, 54 (3); 325-332, 2012

5) 古茶大樹: 精神病理学と精神療法-臨床精神病理学的な精神療法-. 臨床精神病理, 37 (2); 161-168, 2016

6) 古茶大樹: 臨床精神病理学-精神医学における疾患と診断-. 日本評論社, 東京, 2019

7) Schneider K: Klinische Psychopathologie. Mit einem aktualisierten und erweiterten Kommentar von Gerd Huber und Gisela Gross. 15. Auflage. Georg Thieme, Stuttgart, 2007 (針間博彦訳: 新版 臨床精神病理学. 文光堂, 東京, 2007)

8) Weber, M.: Die "Objektivität" sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis. Archiv für Sozialwissenshaft und Sozialpolitik, 19 (1); 22-87, 1904 (富永祐治, 立野保男訳: 社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」. 岩波書店, 東京, 1998)

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