Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第122巻第1号

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特集 健康生成の病跡学―サルトグラフィの試み―
漱石に転機をもたらした猫―神経衰弱と追跡狂とのつき合い方について―
田中 伸一郎1)2)
1)獨協医科大学埼玉医療センターこころの診療科
2)虎の門山下メンタルクリニック
精神神経学雑誌 122: 34-40, 2020

 これまで夏目漱石の病跡学研究は,伝統的診断の方法を用いて精神分裂病,躁うつ病,神経症,敏感関係妄想,抑うつ―偏執症候群,境界例,対人恐怖性パラノイアなどの精神病理から検討した論考を提出してきた.これらは疾病生成的(pathogenic)な視点からの論考である.しかし,没後百年を過ぎて,漱石研究は新局面を迎えている.国文学者の石原は,当時の読者,漱石が想定していた将来の読者,漱石が想定しえなかった現代の読者という三様の読者の位置から漱石テクストを読み直し,新たな漱石論を展開している.本稿では,こうした新たな研究を参照し,漱石のデビュー作である『吾輩は猫である』を素材として,「猫に託された生き様,死に様」と「神経衰弱と追跡狂とのつき合い方」のそれぞれについて健康生成的(salutogenic)な視点から考察を加えた.

索引用語:健康生成論, 夏目漱石, パトグラフィ(病跡学), サルトグラフィ, 『吾輩は猫である』>

はじめに―漱石研究の新局面―
 夏目漱石〔慶応3(1867)年~大正5(1916)年〕の病跡学研究は,生誕百年を過ぎるまでに,伝統的診断の方法を用いて,精神分裂病,躁うつ病,神経症,敏感関係妄想,抑うつ―偏執症候群,境界例,対人恐怖性パラノイア11)などの精神病理から検討した論考を提出してきた.近年,欧米にならって,操作的診断の方法に基づき,漱石を自己愛性パーソナリティ障害から検討した研究もみられるが,列挙された項目ごとの解説に終始しており,もはや人間学としての輝きはそこにない.いずれにしても,これまでの病跡学研究は,漱石という人間が胃潰瘍と神経衰弱と追跡狂をもちながらも小説を書き続けたことに着目し,病気と創造性の奇跡的な接点を考察したものであるとまとめることができよう.すなわち,疾病生成的(pathogenic)な視点からの論考である.
 漱石研究は,没後百年を過ぎて新局面を迎えている.国文学者の石原は,具体的な何人かの「あの人」,何となく顔の見える存在としての読者,顔のないのっぺりとした存在としての読者という三様の読者の位置から漱石テクストを読み直し,新たな漱石論を展開した2)3).三様の読者とは,すなわち,当時の読者,将来の読者として漱石が想定しえた読者,将来の読者として漱石が想定しえなかった現代の読者のことである.石原による一連の論考は,蓮實1)のいう「漱石をやりすごすこと」を実践したものであるといってもよいだろう.
 いくつかを簡潔に紹介すると,例えば,漱石の初期の名作である『坊っちゃん』〔明治39(1906)年4月に発表〕は,明治民法による家という制度のもとで,「頑固だけれども,そんな依怙贔屓はせぬ男」である次男坊,坊っちゃんが立身出世をめぐって葛藤する物語である.そして,当時の読者にとっては東京帝国大学の権威主義に対する批判が裏テーマとなっていただろう.石原は,石井の論考4)をその嚆矢としながら,漱石の露骨な女性差別,学歴差別,田舎差別などを改めて指摘する.となれば,漱石が想定しえなかった現代の読者は,みずからの立ち位置を考慮しないがゆえに,当時の読者が無意識に共有していた差別意識をわざわざ取り立て一方的な漱石批判を行っているといってもよいのかもしれない.
 また,漱石の前期三部作である『三四郎』〔明治41(1908)年9月から12月まで発表〕は,東京帝国大学の心字池と建物と「落ちかかった日」の位置関係が脳裏にまざまざと浮かぶ当時の本郷文化圏に暮らす読者にとっては「三四郎と美禰子の淡い恋の物語」である以前に「野々宮と美禰子の関係が破局する物語」となっていただろう.石原は,重松9)の作製した大学構内図を参照しながら,池のほとりで「美禰子は野々宮の気を引くために三四郎を利用した」と解釈する.さらに,三四郎と三輪田の御光さんの関係,さらには,帰省中に三四郎の縁談がまとまったことが暗示されているのではないかという.
 さらに,漱石の後期三部作である『こころ』〔大正3(1914)年4月から8月まで発表〕は,長年にわたって高校教科書に採用されてきたように,将来の読者として漱石が想定しえた読者にとっては「先生はえらい」10)という日本人の倫理を学ぶための小説であったのだろう.しかし,高等学校がもはや高等教育の場ではなくなった現代では,『こころ』の読解も変化してきている可能性がある.石原は,山崎の論考12)を引きながら,漱石が想定しえなかった現代の読者は,繰り返し「淋しい人間」と口にしている「先生」がKへの贖罪意識ではなくて自己の「空虚さ」から自死を決意したと理解するであろうことを指摘する.となれば,読み方は変われども,明治から現代までの日本人の心には「淋しさ」が底流しているといえるのかもしれない.
 本稿では,ここに紹介したような新たな漱石研究を参照し,『吾輩は猫である』〔明治38(1905)年1月から明治39年8月まで発表〕を素材として健康生成的(salutogenic)な視点からの考察を行う.なお,引用箇所については筑摩書房の『夏目漱石全集』を用いた.

Ⅰ.『吾輩は猫である』が出版されるまで
 明治36(1903)年1月に英国から帰国した漱石は,牛込矢来町の妻の実家に寄寓したのち,3月には妻子を引き連れ,本郷区千駄木町に居を構えた.漱石37歳,妻鏡子27歳,長女筆子5歳,次女恒子3歳のときである.この辺りは坂が多く,雑木林に囲まれ,小さな癲狂院と養豚場と郁文館中学があるような東京の山の手であった7)
 千駄木時代の漱石は,留学中の引きこもり生活でこじらせていた神経衰弱を悪化させ,癇癪を起こして物を投げ,火鉢の側にいた長女を殴りつけるなどし,加えて,近隣に対して被害妄想を抱いていたらしい.このことは,かかりつけ医の尼子四郎に紹介され受診した東京帝国大学医科大学教授の呉秀三〔元治2(1865)年~昭和7(1932)年〕から「追跡狂という精神病の一種」と告げられたとする逸話8)とともによく知られている.しかしそれでも,漱石は英語教師として東京帝国大学で週6時間(年俸800円)と第一高等学校で週20時間(年俸700円)の講義に粉骨砕身した.妻鏡子によれば,「講義ノオトを作ったりして,ずいぶん勉強していたようです」8)とある.漱石は友人宛に「僕の神経は学校に適しない様に出来てるんだろう」と認めていたが,川島の緻密な調査5)によれば,客観的には,漱石は誠実な教育者であったに違いないという.
 教師生活の傍ら漱石は,明治37(1904)年の年末に『ホトトギス』の編集担当であった高浜虚子に強く勧められ『猫伝』を執筆した.モデルとなったのは,同年6月末ごろにいくら追い出しても這い上がってきて夏目家の住人となった黒猫である.この文章は,正岡子規の旧居で開催された「山会」で虚子によって朗読され,出席者の好評を得て,『ホトトギス』の明治38年1月号に『吾輩は猫である』として掲載された.書き出しをみてみよう.

 吾輩は猫である.名前はまだ無い.
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ.何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している.吾輩はここで始めて人間というものを見た.しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ.(第一章)

 当時,文章といえば,目で読まれるのではなく,声に出して読まれるのが通例であった.この書き出しには「である」「無い」「泣いて」「見た」「聞く」という動詞があり,効果的にいくつも副詞が使われ,現代人でも音読できるリズム感がある.
 本作品の主人公は,漱石の分身である英語教師の珍野苦沙弥である.しかし,名無しの猫こそが主人公であり,漱石は見識をもって人間を観察する猫にみずからを投影していたということもできる.小森6)によれば,捨てられた猫は,幼くして塩原家に養子に出された夏目金之助の生い立ちに重ねられているという.
 写生の方法を用いた漱石は,漱石自身と家族と周囲の人物をユーモアたっぷりに戯画化した.そして,連載が長期にわたるにつれ,鬱積を晴らすような文明批判を中心に据えた.本作は『ホトトギス』の明治39年8月号に掲載された第十一章で完結することになったが,当時の漱石が意識していたのは,せいぜい当時の本郷文化圏に暮らす読者にとどまっていたと考えて間違いないだろう.ちなみに,漱石は,中篇自序に「「猫」は余を有名にした第一の作物である.有名になった事が左程の自慢にはならぬが,墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては,此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ」と書き,本作が生前の子規との友情に応答した作品であったことが確認できる.

Ⅱ.猫に託された生き様,死に様
 ここで,先述した漱石研究の新局面の潮流に乗り,猫に託された生き様,死に様について,「漱石をやりすごす」現代人はどのように理解するのがよいかを考えてみよう.
 書生に捨てられ苦沙弥に拾われた猫は,彼の家庭生活を覗きながら,訪問してくる美学者の迷亭,理学者の水島寒月,哲学者の八木独仙,新体詩人の越智東風ら「太平の逸民」の談話を聴き,「読心術」によって彼らの心中を精密に記述し,皮肉まじりに勝手な解釈を加えて報告する.

 彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄し切っているようなものの,その実はやはり娑婆気もあり慾気もある.競争の念,勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて,一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである.ただその言語動作が普通の半可通のごとく,文切り形の厭味を帯びてないのはいささかの取り得でもあろう.(第二章)
 主人は久し振りで迷亭を凹ましたと思って大得意である.迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが,主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである.世の中にはこんな頓珍漢な事はままある.強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに,当人の人物としての相場は遙かに下落してしまう.不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施こしたつもりかなにかで,その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない.幸福なものである.こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ.(第九章)

 その後,最終章(第十一章)では,苦沙弥,迷亭,寒月,独仙,東風が一堂に会し,寒月の冗長迂遠な「ヴァイオリン物語」に続けて苦沙弥の「いまの人の自覚心」が語られ,互いに結婚制度,親子関係,神経衰弱,自殺などに関する極論を放言し合ったのち,麦酒を持参した多々良三平が合流することになった.宴席が終わると,猫は次のような人間分析を披歴しながら,悟りに入る.

 呑気と見える人々も,心の底を叩いて見ると,どこか悲しい音がする.悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ.気楽かも知れないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない.寒月君は珠磨りをやめてとうとうお国から奥さんを連れて来た.これが順当だ.しかし順当が永く続くと定めし退屈だろう.東風君も今十年したら,無暗に新体詩を捧げる事の非を悟るだろう.三平君に至っては水に住む人か,山に住む人かちと鑑定がむずかしい.生涯三鞭酒を御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ.鈴木の藤さんはどこまでも転がって行く.転がれば泥がつく.泥がついても転がれぬものよりも幅が利く.(第十一章)
 主人は早晩胃病で死ぬ.金田のじいさんは慾でもう死んでいる.秋の木の葉は大概落ち尽した.死ぬのが万物の定業で,生きていてもあんまり役に立たないなら,早く死ぬだけが賢こいかも知れない.諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ.油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる.恐るべき事だ.(第十一章)

 それから猫は,「気がくさくさして」続けざまに2杯の麦酒を飲み,酔っ払ったまま大きな甕へ落ちて溺れ死んでしまう.事故死的な自殺であるが,「自然の力に任せて抵抗しない事にした」とあることからも,最期に猫はみずからの死を受容したといえるのかもしれない.
 ところで,猫のくさくさした厭世観はどこからきているのだろうか.二弦琴の御師匠さん宅にいる「近辺で有名な美貌家」三毛子が風邪をこじらせて死んだ際に「近頃は外出する勇気もない.何だか世間が慵うく感ぜらるる.主人に劣らぬほどの無性猫となった.主人が書斎にのみ閉じ籠っているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった」と漏らしていたように,猫の厭世観は,死別の悲嘆と喪失感と寂寞感に由来しているのかもしれない.これは,冒頭で『こころ』の新たな読解を示したように,明治から現代までの日本人に通底している「淋しさ」であり,ひいては英国留学中に下宿で引きこもり生活を送ることになった漱石自身の「淋しさ」でもあるだろう.
 漱石は14歳のときに実母の千枝を,20歳のときに長兄の大助と次兄の直則を相次いで結核で亡くし,24歳のときに嫂(三兄直矩の妻)の登世を悪阻で,英国留学中には子規を結核で亡くした.そして,『吾輩は猫である』の中篇自序において「憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ,待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである」「余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに,とうとう彼を殺してしまった」と子規の死に対する悔恨の情を打ち明けた.
 ここで,当時の死生観は,現代のそれとは異なっていることに留意しなければならないだろう.現代人は,医療技術が飛躍的に進歩した時代において,どこかで病気や死を否認し,それらに抵抗して生にすがりついているのかもしれないのである.本作において,漱石の分身である猫は「太平の逸民」が有している死へのベクトルを強烈に意識したのち,甕のなかで溺れながら,みずからの死までも受容する姿勢を示した.このように,生のなかで死を無抵抗に受け入れるところにこそ,健康か病気か,そして生か死かの二項対立を乗り越えようという健康生成的(salutogenic)な生き様,死に様が現れているといえるのではなかろうか.

Ⅲ.神経衰弱と追跡狂とのつき合い方
 次に,これまで『吾輩は猫である』に関して定説となってきた漱石の病気と創造性の関係を再考してみたい.すなわち,漱石が猫の目という「善悪の彼岸」にある視点を着想し,本作を執筆したことこそが,みずからの神経衰弱と追跡妄想を脱中心化(=自己相対化)し,自己治癒に寄与したのだという疾病生成的(pathogenic)な解釈についてである.
 作者の漱石と同様に,主人公である意地っ張りの苦沙弥も神経衰弱と追跡狂を患っていたことが描かれるが,次のように半病識であることが推察される.

 こう云う自分もことによると少々ござっているかも知れない.同気相求め,同類相集まると云うから,気狂の説に感服する以上は―少なくともその文章言辞に同情を表する以上は―自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう.よし同型中に鋳化せられんでも軒を比べて狂人と隣り合せに居を卜するとすれば,境の壁を一重打ち抜いていつの間にか同室内に膝を突き合わせて談笑する事がないとも限らん.こいつは大変だ.(中略)ことによるともうすでに立派な患者になっているのではないかしらん.まだ幸に人を傷けたり,世間の邪魔になる事をし出かさんからやはり町内を追払われずに,東京市民として存在しているのではなかろうか.(第九章)

 しかし,これに続けて苦沙弥の思考は特有の転回をみせる.

 こう自分と気狂ばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては,どうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない.これは方法がわるかった.気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである.もし健康な人を本位にしてその傍へ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない.(中略)ことによると社会はみんな気狂の寄り合いかも知れない.気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い,いがみ合い,罵り合い,奪い合って,その全体が団体として細胞のように崩れたり,持ち上ったり,持ち上ったり,崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん.その中で多少理窟がわかって,分別のある奴はかえって邪魔になるから,瘋癲院というものを作って,ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん.すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で,院外にあばれているものはかえって気狂である.気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが,団体となって勢力が出ると,健全の人間になってしまうのかも知れない.(第九章)

 当時の本郷文化圏に住む読者は,明治33(1900)年に私宅監置を強制する精神病者監護法が施行され,近隣の巣鴨には東京府癲狂院が開院していた時代背景を強烈に意識しながら,この苦沙弥の「沈思熟慮」の内容を読んだことであろう.半病人である苦沙弥にとっては,この「健康な人を本位にしてその傍に自分を置いて」というところが健康生成的な視点の転換点である.苦沙弥は,考え詰めるうちに気狂と健全を繰り返し反転させ,「何が何だか分からなくなる」状態に至ってしまうのだが,これこそパラノイア状態からの脱中心化であり,自己相対化の境地といえるのかもしれない.
 しかし,これを猫が「彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている.彼はカイゼルに似た八字髯を蓄うるにもかかわらず狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの凡倉である」と一蹴しているのが面白い.書斎でひとり腕組みして考えたって病人は救われませんよといわんばかりである.
 『猫伝』は子規宅での朗読会「山会」で産声を上げた.そして,『吾輩は猫である』の連載終了直後の明治39年10月からは,漱石宅で「木曜会」が開催されるようになった.漱石は,「気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが,団体となって勢力が出ると,健全になってしまうのかもしれない」ことを希望し,みなが一堂に会して時事放談することに存在意義を見出していたのだろう.
 ここまで考察の範囲を広げることによって,神経衰弱と追跡狂とのつき合い方のヒントを見出すことができよう.すなわち,健康生成的(salutogenic)な視点を強調するならば,漱石は,執筆活動によって病気との折り合いをつけたのみならず,身近な読者との語らいによって支持され,英国留学で染みついた引きこもり体質から脱出し,語らいの場のなかにおいて半病人のポジションを得たといえるのではなかろうか.

おわりに―漱石の病跡学研究のこれから―
 戦争の世紀を経て,疾病生成的(pathogenic)な視点から健康生成的(salutogenic)な視点への転換を果たしつつある現代人は,夏目漱石という天才すらも相対化しながら病跡学研究を行う時期を迎えている.すなわち,現代の読者として病気と創造性の接点ばかりを検討することから脱却し,当時の読者がどのような時代背景のなかでこの小説を読み,感じ,考えたのかについても思い巡らせながら,漱石が意識していたものとそれを超え出たものとを腑分けし,多次元的に検討していかなければならないということである.
 本稿では,そうした目的に接近するために,漱石研究の新局面を紹介し,そのうえで『吾輩は猫である』を素材として,「猫に託された生き様,死に様」と「神経衰弱と追跡狂とのつき合い方」のそれぞれについて健康生成的な視点から考察を加えた.本作は,漱石のデビュー作ながら,のちのあらゆる小説のエッセンスが凝集されており,さらなる検討が必要であることはいうまでもない.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 蓮實重彦: 夏目漱石論. 青土社, 東京, 1978

2) 石原千秋: 漱石と三人の読者. 講談社, 東京, 2004

3) 石原千秋: 漱石入門. 河出書房新社, 東京, 2016

4) 石井和夫: 貴種流離譚のパロディ『坊つちやん』―差別する漱石―. 敍説: 文学批評, 1; 22-29, 1990

5) 川島幸希: 英語教師 夏目漱石. 新潮社, 東京, 2000

6) 小森陽一: 漱石を読みなおす. 筑摩書房, 東京, 1995

7) 森 まゆみ: 千駄木の漱石. 筑摩書房, 東京, 2012

8) 夏目鏡子述: 松岡 譲筆録: 漱石の思ひ出. 岩波書店, 東京, 1929

9) 重松泰雄: 評釈・「三四郎」. 國文學 解釈と教材の研究, 24 (6); 120-129, 1979

10) 内田 樹: 先生はえらい. 筑摩書房, 東京, 2005

11) 内沼幸雄: 夏目漱石の病跡. 分裂病の精神病理7 (湯浅修一編). 東京大学出版会, 東京, p.217-274, 1978

12) 山崎正和: 淋しい人間. ユリイカ, 9 (12); 58-76, 1977

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