Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第121巻第2号

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討論
Jaspersの了解概念の精神療法的活用の可能性
佐藤 晋爾1)2)
1)茨城県立中央病院精神科
2)筑波大学医学医療系茨城県臨床教育センター精神科
精神神経学雑誌 121: 107-115, 2019
受理日:2018年10月6日

索引用語:ヤスパース, 了解, 精神病理学, 精神療法>

はじめに
 Jaspers, K.の了解概念は,精神病理学の方法論として再評価する議論1)5)16)41)がある一方で,繰り返し批判されてきた.安永45)は了解と説明の相互浸透性を指摘し,両者に本質的な違いはあるのかと問うた.笠原15)や山下44)も同様に,了解と説明の曖昧さ,了解自体が相対的でありうることを指摘している.これらは,説明なしの了解も了解なしの説明もあり得ないというRicœur, P.33)によるDilthey, W.の歴史学批判に通じる議論である.また,鈴木國文37)は,Jaspersの述べる了解の根拠となる明証性がどのようなものか不明確であり,そもそも了解と説明は別概念なのかと疑問を呈している.また石川8)は了解概念自体への疑義として,少なくとも妄想において静的・発生的了解両方を駆使しなければ把握できず,現象学(静的了解)を重視するJaspersの態度を批判している.さらに内海40)は他者の不可知性の無視がJaspersの態度の根底にあり,それは他者の固有性をないがしろにすることであると批判し,下坂35)も同様の批判を精神療法家の立場から述べている.また,Jaspersが了解概念を引用したDiltheyの議論にあった歴史性,持続する生命という視点の欠如が,了解概念,ひいては精神病理学自体をも貧しいものにしてしまったのではないかという渡辺42)の射程の長い批判もある.近年は熊崎21-23)が概念形成の歴史的経緯から了解概念の再検討を試みている.
 ここ数年のJaspers批判で説得力をもつ論考は鈴木茂39)のものであろう.鈴木は初期のJaspers論文から精神病理学総論までを詳細に読み込み,Jaspersの議論を内在的に批判するという方法をとった.その結果,鈴木はJaspersの精神病理学が全体として矛盾をはらんだ著作であるとし,その例として,実体性と実在性,主観性と客観性の境界が移動していること,了解概念がしばしば混乱していること,患者の心的体験を共体験することと概念を区別し述語を付与することが必ずしも結びつかないことなど,広汎な観点から批判している39).なお,近年,欧米でもJaspersの了解や説明概念に関する批判・検討は行われている.例えば,精神的内界でも器質的物質領域でもない,主観の客観表出にこそJaspersの了解の特異性があるという議論4)や,Jaspersが共感を直接的/間接的,認識論的/意味論的な方法かを曖昧にしていたという批判32),主観/客観概念の曖昧さと現象学的方法が主観的体験のどのような本質を明らかにするかといった議論24)がある.しかし,Jaspersはやはり精神生活の内面を重視していたのであり,さらに共感の性質や主観/客観についての批判なども哲学的厳密さを追求する議論であり2),議論自体は興味深いものの臨床への貢献という点では疑問が残る.
 さて,私たちも鈴木39)と同様に,Jaspersの文献をたどりなおし,さらに私たちの臨床体験に即して了解概念を再検討したい.私たちの結論をJaspers自身が分けた「学」10)12)と「実践」10)12)の二分法で先取りして提示するならば,了解という素朴な方法が精神病理「学」に適当なのかという疑義と,この素朴な手法31)45)は,むしろ精神療法的「実践」においてこそ重要ではないかということである.まず簡単にJaspersの了解概念の問題点を検討したい.

I.了解概念の問題点
1.静的了解(現象学)の問題点
 Jaspersの精神病理学,現象学的方法とは,すでに述べた了解,すなわち「患者が現実に体験する精神状態をまざまざ(anschulich)とわれわれの心に描きだし(zu vergegenwärtigen)」,心的体験を「近縁の関係に従って考察し,できるだけ鋭く限定し,区別し,厳格な術語で名をつけること」である10)12).しかし,医師が「心中に描いて」了解できる範囲などは高々日常的な範疇にとどまるのであり,Jaspersが1913年に用いた表現,「狂気は了解不能」10)なのだとすれば,そもそも病的体験を「まざまざと心の中に思い描く」ことはできないことになる.言い換えれば「心中に描いた」うえで「区分された術語群」は,異常な病的体験を記述した精神病理学ではなく日常的な心的体験を記述した「正常心理学」にしかならないのではないだろうか.
 この齟齬の原因はJaspersが当初,準拠したHusserl, E.の方法が一人称的な行為である7)のに対して,Jaspersは二人称パースペクティヴな方法を試みていること,さらにDiltheyの記述・了解連関概念は,「精神諸科学(Geisteswissenschften)」つまり歴史,政治,倫理,経済などを対象にしており,そこに「異常心理」は含まれないこと,さらに了解は異質なものでなく同質のものの間で生じるとされており26),異質な患者理解を想定していないことからくると考えられる.
 私たちが行うのは,「自分の考えていることが他人に伝わる」体験と「自分の見ている風景が他人に見える」体験を「心の中に思い描く」ことではないだろう.私たちがまず行うのは,患者が具体的にどのような言葉使いで,どのような口調,表情でそれを述べたかを記録することである.とりわけ重要なのは,患者の言い回しの特徴を浮かび上がらせるために,患者と対話を継続することである.そして,それらの記述が蓄積していく中で,微妙な言い回しや態度から体験の質的差異が抽出されていくことになるのではなかろうか.その1つの範例が,中安30)による強迫と自生の鑑別であり,同様に中安29)は,Jaspersのいう記述は,了解過程すなわち患者の心的体験ではなく,患者の陳述に依拠しているのではないかと正確に指摘している.一方,加藤17)は,同箇所をある患者の語りを記述する際,別の患者の同様な語りを考慮に入れ抽象レベルを上げることで患者の心的生活の形象が浮かび上がることと解釈している.しかし,Jaspersは繰り返し現象学・静的了解において,vergegenwärtigen(ありありと思い浮かべる,想像する)にわざわざanschaulich(目の前にあるように,いきいきと)という形容詞を重ねており,ここに「抽象レベルを上げる」を挿入するのはJaspersにいささか「甘い」のではないかと考えられる.

2.了解可能/不能の二分についての問題点
 一般的にJaspersは精神病を了解不能,神経症を了解可能として,両者を明瞭に鑑別できるようにしたと説明されることが多い25)43).実際にはどうだろうか?
 静的了解と発生的了解に分けて検討すると,まず気づかされるのはJaspersのいう現象学が「心の中に描き出すことであり(略)了解すること(Verstehen)」10)であるならば,精神病理学原論第一章の「病的精神生活」で記されている病的体験,知覚の異常,判断の異常など10)は,Jaspersの現象学的方法で記載されている以上,すべて静的了解可能になってしまうということである.ところが,第一章第二節冒頭で統合失調性の精神生活は了解不能と明記され10),同節5では「感情移入可能および不能の精神生活」として精神病体験が了解不能と改めて強調される10).つまり,第一章の段階で,了解することを方法とする現象学で把握された精神生活の中に了解不能な体験があるという矛盾が露呈する*1
 一方,現象学における静的了解不能であるが,同節5では「そうではないとしか言えない(was sie nicht sind, umschreiben können)」10)ものという二重否定を用いた迂遠な定義になっている.例えば,強迫でも受動でも自由でもないものとして作為体験が例示されている.このような曖昧な定義になってしまったのは,現象学の定義に「了解」を含めてしまったことに起因すると考えられる.
 次に発生的了解である.第一章第二節5で統合失調性の精神生活は了解不能と記されていた.ところが第三章「精神生活の関連」では「精神病の(in Psychosen)(略)妄想や幻覚,強迫観念の内容は了解関連がある」10)と,統合失調症に限らないが精神病体験一般が了解関連をもつと指摘し,さらに両価性や昏迷,拒絶などの統合失調性の体験も「了解関連」の例に挙げられている10).神経症圏では,強迫神経症について「強迫体験は究極的にはそれ以上さかのぼれない」「了解しがたいもの」10)という微妙な表現だが,要は了解不能であると記されている.一方,ヒステリーも「はじめは感情の動きと症状は了解可能なもの」10)だが「同じ症状がなんでもない出来事で起こるようになる」4)と「了解できなくなる」10)とし,「了解関連が異常な具合で現れる時」4),彼にとって無意識概念に相当する「意識外の機構」10)を持ち出し「異常な機構が普通ではない了解的関連を生じさせる」10)と説明している.
 以上から理解されるように,一般的にいわれる精神病=了解不能,正常から神経症圏=了解可能25)34)といった明確で単純な二分法に,すでに原論の時点でなっていない.それでも,まだこの時点ではそのような方向をめざそうとしていた努力の痕跡が見出される.しかし,1948年の総論12)になると,了解可能性と不能性,神経症圏と精神病体験との区分の重なりは一層曖昧になる.総論第二部「精神生活の了解関連」に第二章第五項「精神病の了解可能な内容」12)が追加され,統合失調症の症状についても「妄想の内容」「幻覚の内容」も「願望や経験から了解可能である」と書かれている12).一方,ヒステリー「の症状の一部は出現する際,さしあたり了解不能(unverständlich)なもの」12)として現れるが「意識的に存在する内容とは違ったものを暗に示すような種々の表出現象(たとえば拒食の動機を尋ねられた時,性的官能的身振りをするなど)」12)であると記載されている.表出症状が患者の意識と異なっているとすれば,患者の何を「ありありと思い浮かべれば」心的体験を了解したことになるのだろうか.また,病的反応についても「内容は了解できるが,病的なものへの転換そのものは了解しづらい」12)とされ「了解可能な側面(経験と内容)と因果的側面(意識外のものの変化)と予後的側面」12)に分けられるのである.以上のような議論の混乱は,鈴木39)の指摘通り主観/客観,自我/対象などの曖昧な二分思考を導入したことに起因すると思われる*2
 さらに付け加えると,1913年の原論10)よりも了解概念を精密に議論しようとして「実存的了解」「形而上学的了解」12)というそれ自体了解しがたい用語が追加される.これらはJaspersの実存哲学の成果が盛り込まれた結果だが,この点は重要なので後に改めて述べたい.
 さて,以上の問題点を考えるために,改めて初期論文からJaspersの論文を読み直し,了解概念の変遷をみてみよう.

II.了解概念の変遷
 邦訳の総論で上・中巻にわたって行われた了解についての議論は,1912年に書かれた「精神病理学における現象学的研究方向」9)では簡潔にまとめられている.Jaspersはこの論文からすでに「明瞭にありありと心の中に描き出される」という文章を何回も繰り返すのだが,彼によれば了解はいわば「見る(原論訳:わかる,総論訳:直観する)(sehen, schauen)」ことと同義であるという9).つまり,彼が「心で描き出す(vergegenwärtigen)」「具象的に/まざまざと(anschaulich)」と表記していたのは,了解で想起されるものが,主に図像的イメージであると彼が考えていたことを意味していると推測される.あるいは,他人の考えや気持ちの動きを眼前の出来事として「見る」ことを想起すると考えていたかもしれない.さらに,静的了解=現象学,発生的了解=了解心理学とする区別もこの論文で述べられている.
 1912年の論文では了解の対象となる心的現象は3つあると指摘する9).1つは自己の体験で知っているもの9)で,怒りや妬みなど日常的な感情や記憶などが挙げられるだろう.Jaspers9)はその病的体験の例として追想錯誤を示している.2つ目は自己の体験の亢進や減弱,混合として捉えられるもので,Jaspers自身は急性精神病の恍惚や,偽幻覚などを挙げている9).そして問題は3つ目で,Jaspersは「了解しながらも思い浮かべることが十分にできない」もので,類推や比喩によって「理解される」,あるいは「積極的了解ではなく」「了解不能なものを通して経験する」としている9).例えば「させられ体験(gemacht)」を彼は挙げている9).「了解しながら」=心の中に思い浮かべながら,「思い浮かべることが十分にできない」というのもやや論旨が混乱しているが,しかし,ここは彼が自分の方法の限界を正直に提示している重要な箇所であると思われる.いずれにせよ,この3つの静的了解の対象となる体験の説明はわかりやすい.また,興味深いことに全体として「了解不能」についてほとんど言及されておらず,さらに3つめの記述にある「了解不能」は了解の停止のみを意味しているのではなく,「積極的了解」ではない「了解不能を通じて経験する」いわば「消極的了解」―Jaspersはそのような表現は使っていないが―とでもいうべき方法であると述べているとも考えられる.
 ところが,1年後に書かれた原論10)では静的了解,了解関連ともに,かなり詳細な記述に変貌し,その結果,議論が混乱し始めたことは前項ですでに触れた通りである.特に1948年の総論12)では,了解関連の下位分類が,正常な了解関連5項目,異常な了解関連5項目と,1913年と異なって対称的な分類になり,より「理論的」な構成になった.
 さて,1912年の論文で微妙な位置づけだった「させられ体験」に注目したい.1912年では,いわば「了解しつつ十分に了解しきれない」現象として挙げられていたが,1年後にはどうなっただろうか.この箇所に相当する議論は原論第I部第一章の「病的精神生活の主観的現象(現象学)」の中の一節,「感情移入可能及び不能の精神生活」という項目で「自然な精神生活と分裂性の精神生活」という副題のついた統合失調症の体験のみに焦点をあてた箇所で挙げられる10).いわく,「させられ体験」は「本来われわれにはわからない」10)ものである.それは「負のものとして」10)つまり否定形で,例えば「強迫的なものではない」「強制的に誰かに動かされているのでもない」10)という形でしか表現できず,「比喩でしか」10)想像できない.ここまでは1912年の論文をひきずった議論だが,その後,Jaspersは突如,したがって,それらは「静的了解不能」「感情移入不能」10)であると断定する.さらに「させられ体験」に限らず,別の箇所では「了解不能な狂った精神分裂性の精神生活(schizophrenes Seelenleben)がある」「狂気は感情移入できず了解不能である」10)と,精神病体験自体を了解不能としている.そして総論12)では,第I部第一章の自我意識の「実行意識の変化」の項で「させられ体験」は触れられ,「我々にはどうしても心に描けない現象である」とのみ記載されている12).さらに第IV部第一章「病像の組み立て(疾病学)」の項目で再度原論と同じ「自然な精神生活と分裂性の精神生活」が登場し,ここでも「させられ体験」が了解不能であると繰り返されている12)
 さて,Jaspersの立場では精神病理学はあくまで学問であり,実践と切り離すべきものである以上,「診断は(略)精神病理学的研究にはもっとも非本質的なことである」12)となるのは当然であろう.了解精神病理学の役割は,よく誤解されるような鑑別診断学的な意味ではなく,Jaspers自身によって患者の体験,精神生活の区別を明確にすると宣言されていた.すなわちJaspersの表現では「精神生活の根本的な区別は(略)感情移入できる了解的精神生活と,(略)了解不能な,真の意味で狂っている分裂病的精神生活との差異であろう」12)(傍点著者)ということになる.ところが第六部「精神医学的疾病概念の編成」という診断学に関する項目で「観察者にとって何らかの了解不能性の様式を見つけることが出発点」であり「了解不能性の持ち味を識別することは診断学的区分の基礎である」と明記され12),Jaspersは了解概念と鑑別診断を重ねて議論してしまっている.
 以上から,彼の了解を用いた精神病理学的方法は,1913年以降,とりわけ1948年の総論では「学問」としての厳密さを求めてか理論化が追求され,かえって複雑になり輪郭が曖昧になっていった.そして結果として,了解可能と不能が精神病と神経症の境界と一致しなくなり,さらにこの方法が患者の体験の理解のためなのか鑑別診断のためなのかも曖昧となっていくことで,Jaspersが精神病理学に求めた「学問」的な厳密さからかえって遠ざかってしまったように思われるのである.
 その中で私たちが注目したい点は,1913年以降,Jaspersが消し去ってしまった箇所である.彼が臨床活動をしていた1912年の論文で記載のあった,了解できそうで了解しきれない,了解できない部分と了解できる部分がある,心の中で「完全に追体験」できないかもしれないが,しかし漠然とイメージできる,あるいは少なくとも気持ちは推測できる―Jaspers自身の言葉を使えば,「患者の自己描写を通じて(略)患者のそれを自己の体験様式に類同を求めて把握する」9)(傍点著者)あるいは内海40)の表現では「他者は隠喩でしか語れない」―,つまり「比喩的に,近似的に把握する」といった微妙なニュアンスの了解のあり方,いわば了解可能と不能のあわいである.ここにこそ,臨床的豊饒さとでもいうべきものが残されているのではなかろうか.
 例えば,患者が「まわりから見張られていて,盗聴されている」というよくある妄想を訴えたとき,確かに「比喩的」にすぎないかもしれないが,彼がおかれていると思い込んでいる状態を私たちはイメージできるだろう.行く先々で誰かからじろじろ見られているというイメージ,あるいは部屋のあちこちに「何か」があるのではないかと感じるイメージ,そして不安で怯えている,不条理さに怒りを感じている,このような主観的体験を想像することはできる.不完全かもしれないが,ある程度「心に思い描ける」ことを,つまり総論第一章冒頭で述べられていることがある程度はできていることを,1913年以降,Jaspersは静的了解不能と断じるようになってしまった.たとえ精神病的な体験であっても,漠然とイメージし,その苦痛に思いをはせながら聞くことができる訴えは確かにあるだろう.
 そして,このような態度で行われた聴取とその結果の記述を,杉林ら36)は「中心気質的記述」と呼んでいると思われる.その素晴らしい成果の代表例が,中井,星野,神田橋の「頭の中がざわめく」28)「頭の中がさわがしい」6)「頭の中が忙しい」14)などであろう.あるいは中井27)の「私は体験したことはないけれども,もしそのようなことが起こったら,さぞかしつらかろう」,星野6)の「世の中にはそういうこともあるかもしれない.何が起きてもおかしくないね」「あなたにとっては事実なんだね」「そうかもしれないがそうでないかもしれない」などの治療的な言葉,神田橋13)の自閉の利用などが出てくる下地も,この比喩的,近似的なイメージ把握,了解可能と不能のあわいへの注目,言い換えれば精神療法のもつ「患者を了解しようとする欲望」に対する反省から生まれたといえるのではないだろうか.

III.精神療法的方法としての了解
 私たちは了解概念が精神病理「学」10)12)においては厳密さを欠くため,それを忠実に用いて鑑別や病的体験を術語として区分・整理しようとすると,混乱が生じる可能性を提示した.しかし,古茶18)が述べる通り,臨床現場において精神療法を「実践」10)12)として行う際に,私たちは了解を欠かすことはできないだろう.しかし,その際に了解概念に多少,手を加える必要があると思われる.
 私たちは,患者の自己描写を通じて彼らの体験様式を把握する,つまり,患者の表出から彼らの心的体験をたどるというJaspersの方法の前提が原理的に不可能であることを出発点とした.病者でなくても「自分の気持ちをうまく表現できない」ことは起こり得るのであって,己の心的体験,心的表象や思考内容を十分に言語化あるいは表出することは,そもそも極めて困難なことではないだろうか.したがって,了解については,聞き手である治療者の「共感」能力だけではなく,語り手である患者が適切な言語化能力をもっているかも視野に入れていく必要がある.
 すなわち,まず患者自身が自らの体験をうまく言語化あるいは表出できるのかという問題がある.心的外傷の例や神経症圏でも患者自身も重要な要素に気がついていない場合が該当する.さらに精神病圏であれば,例えば「歯茎がねじれる」と訴えた自験例は,実際のところ「こうとしか言えない.なんとも表現できない」と困惑していた.あるいは急性期の体験を寛解後に証言する際に「夢のようで…」などと曖昧に述べる場合は,そもそも心的体験の言語化を患者側が適切にできておらず,それを聞き手が「了解」することは不可能だろう.
 さらに,患者が自らの心的体験を言語化できていても,まとまりを欠いていたり,言語新作をしている場合は,治療者は患者の話を理解できず,言語を通じての心的体験の追体験はできないであろう.
 また,なんとか患者が言語化して治療者が陳述としては理解できてもうまくイメージできない体験もあるだろう.すでに記載した自験例の統合失調症患者が述べた「自分の見ているものが人にも見えている」や,他の自験例では「言葉を話すと表情がなくなっていく」「脳が溶けて背中の内側を流れていくのがわかる」「視床下部をやけどした」などがある.
 一方で,先に述べた注察妄想や「まわりが自分の悪口を言っている」といった被害関係妄想など,患者は言語化可能で,治療者側も陳述として理解でき,事態を「類同的」に,比喩として,近似的にある程度了解できる体験もあるだろう.これが1912年にJaspersの述べていた3つ目の心的現象9)に相当する.
 以上の分類から了解とは何かを再定義すれば,それは「患者が心的体験をある程度適切に表出し,それを受け取った治療者が,その表出内容から患者の心的体験を再構成することに努めること」であり,「了解可能性と不能性は,両者が経験/想起している心的体験の近似の程度」ということになる.つまり,了解可能と了解不能はカテゴリーではなく程度でしかない.したがって「了解可能」「了解不能」といった断言はできず,あくまで「了解可能性」「了解不能性」としか表記できないということになろう.さらに付け加えるならば,了解という作業は,観察者が一方的に行うものではなく,より了解をするための問答,つまり繰り返される対話が必須となるのである.
 そして,精神療法とは「了解不能性=近似の程度の低さを前提とし,了解可能性=近似の程度を高めるべく努力する営為」ということになろう.つまり,私たちは了解できることから,了解の限界に向かって「了解不能」と断じることが臨床的営為であるとは考えない.むしろ,方向が逆であり,原理的に私たちは他者の心的内容を共感,追体験することは無理なのであり,むしろ了解不能性を前提とする,つまり,他者の固有性に配慮する40)ことから出発するべきではないだろうか.これは「過剰な了解を避ける」ということにもあたるだろう44).そしてこのような構えの場合,治療者は臨床現場で自ずと「誤解かもしれないけれども」「間違いかもしれないが」「私の勘違いかもしれないが」という前提で対話を始めるであろう.あるいは了解不能な病的体験を聴取した際,私たちは「不可能」には「応える」しかないのである.したがって,訳のわからなさにうんざりして聞くのではなく,もちろん訂正などせず,わからなさに驚きつつ,当人にとっての真実性を尊重する必要があるのではないだろうか1)
 ところで了解から了解不能に向かうより,了解不能こそが重要であるという考えはJaspers自身も抱いていたのではないかと思われる.原論10),総論12)で「了解精神病理学の任務」として「理解のできない尋常ならぬ関連(性倒錯など)や異常な機構を条件とする精神状態(ヒステリーなど)まで了解を拡大すること」と書かれており,確かにあたかも「了解できる範囲の領土拡大」のように読めてしまう.しかし,自身の実存哲学11)を援用した「精神的了解」「実存的了解」など,Schneider, K. らに批判された43)概念を総論でわざわざJaspersが追加したのは,彼にとって実存的であること,本来性を取り戻すことが生きていくうえでもっとも重要なことだったからである.彼は了解不能性の彼方にこそ実存的にしか触れえない世界が広がっていると考え,静的・発生的了解とは別に実存的了解を追加したと考えられる43)
 熊倉はこの点について興味深いエピソードを紹介している20).当時,熊倉は,指導医だった石川清から,Jaspersにとって了解不能性とは人間の自由性,包括者,神につながる重要な概念なのだと教わったという20).さらに石川はしばしば土居健郎と議論になり,これが後の「面接ではわからないところこそ重要」という土居の至言につながったという20).私たちの結論も,いわば土居と石川の議論の変奏である.つまり了解不能を強引に了解に広げるのではなく,あるいは了解不能で停止してしまうのでもない.了解可能と不能をそのままにしながら,了解可能性と不能性の精度を上げ続けること,さらにそれぞれへの対応の仕方を工夫することこそが重要と考える.
 本稿で私たちは,日常的な精神療法―支持的精神療法―におけるJaspersの了解可能性/不能性の意義について触れたが,では精神分析や認知行動療法においてはどのような位置づけになるだろうか.また,了解概念を精神療法に適用すると,精神療法自体のもつ了解不能性も検討する必要性が生じると考えられる.端的に言って「なぜ精神療法が治療効果をもちえるのか」,私たちは「了解」できない.これらは本稿の限界であり,検討の余地が残されている点である.
 さらに付け加えるならば,昨今,当事者研究が盛んになってきている19).これは了解,感情移入という側面からみると,興味深い点がいくつかある.例えば,Husserlの現象学が一人称パースペクティヴでJaspersのそれが二人称だとすれば,当事者研究は一人称複数と二人称が重なった独特の視点をもち,新しい了解の形を提示している.一方で,当事者であるがゆえの了解過剰,あるいは差異性―他者性と言い換えてもよい―がカバーされてしまう危険性もあると考えられる.この点は稿を改めて論じたい.

おわりに
 精神療法とは,理想にすぎない患者と治療者の心的体験の近似性の極小点,不―可能(im-possible)*3な両者の一致に向かって,間を―保ち続けること(entre-tien:対話を続けること),了解不能性と了解可能性のあわいの中で,了解という理想点に向かって「永遠」に努力し続けなければならない慎み深い営為,終わりなき対話(entretien infini)なのではなかろうか3)34).そして,そのことをJaspersの了解概念は改めて私たちに教えてくれていると考えられる.

 本稿は2017年精神病理コロック(於,自治医科大学)で発表した一部である.また,本稿の一部は科研基盤(C)18K09937(研究代表者:佐藤晋爾)の助成を受けた.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) Aragona, M.: Empathy and psychopathology: a historical and epistemological analysis of Jaspers' understanding. Journal of Psychopathology, 19; 14-20, 2013

2) Ashraf Adeel, M.: The concept of understanding in Jaspers and contemporary epistemology. An International Journal in Philosophy, Religion, Politics, and the Arts, 10 (1); 17-23, 2015

3) Blanchot, M.: L'Entretien Infini. Gallimard, Paris, 1969〔湯浅博雄, 上田和彦, 郷原佳以訳: 終わりなき対話I-複数性の言葉(エクリチュールの言葉)-. 筑摩書房, 東京, 2016〕

4) Brücher, K.: Jaspers und das Problem des Verstehens: Plädoyer für eine Revision. Fortschr Neurol Psychiatr, 80 (4); 213-220, 2012
Medline

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6) 星野 弘: 精神病を耕す―心病む人への治療の歩み―. 星和書店, 東京, 2002

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8) 石川 清: 妄想の研究―現象学的―了解心理学的考察―. 精神経誌, 62; 498-512, 1960

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10) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie. Springer Verlag, Berlin, 1913 (西丸四方訳: 精神病理学原論. みすず書房, 東京, 1971)

11) Jaspers, K.: Existenzphilosophie. Springer, Berlin, 1938〔鈴木三郎訳: 実存哲学(ヤスパース選集1). 理想社, 東京, 1961〕

12) Jaspers, K.: Allgemeine Psychopathologie. 5 Aufl., Springer Verlag, Berlin, 1948 (内村祐之, 西丸四方, 島崎敏樹ほか訳: 精神病理学総論. 岩波書店, 東京, 1953)

13) 神田橋條治: 「自閉」の利用―精神分裂病者への助力の試み―. 発想の航跡. 岩崎学術出版社, 東京, p.194-228, 1988

14) 神田橋條治: 初心者への手引き. 花クリニック神田橋研究会. 東京, 1997

15) 笠原 嘉: 分裂病の了解学はどこまで進んだか―最近の精神病理学研究から―. 精神経誌, 85; 671-676, 1983

16) 柏田 勉: Jaspers, K.の「了解」概念について―Jaspers, K.に対する批判の検討―. 臨床精神病理, 35 (3); 261-269, 2014

17) 加藤 敏: 精神病理・精神療法の展開―二重らせんから三重らせんへ―. 中山書店, 東京, 2015

18) 古茶大樹: 精神病理学と精神療法―臨床精神病理学的な精神療法―. 臨床精神病理, 37 (2); 161-168, 2016

19) 熊谷 晋一郎編: みんなの当事者研究. 臨床心理学, 増刊(9). 金剛出版, 東京, 2017

20) 熊倉伸宏: 精神疾患の面接法. 新興医学出版社, 東京, 2003

21) Kumazaki, T.: The theoretical root of Karl Jaspers' General Psychopathology. Part 1:Reconsidering the influence of phenomenology and hermeneutics. Hist Psychiatry, 24 (2); 212-226, 2013
Medline

22) Kumazaki, T.: The theoretical root of Karl Jaspers' General Psychopathology. Part 2:The influence of Max Weber. Hist Psychiatry, 24 (3); 259-273, 2013
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23) 熊﨑 努: 101年目のヤスパース (歴史編)―了解概念は消滅したのか?―. 精神医学史研究, 19 (1); 27-31, 2015

24) McMillan, J.: Understanding and Jaspers: Naturalizing the phenomenology of psychiatry. Eu J AP, 6; 43-54, 2010

25) 松本雅彦: 日本の精神医学 この五〇年. みすず書房, 東京, 2015

26) 森本 司: ディルタイにおける「了解」と「構造連関」. 哲学・思想論叢, 3; 53-60, 1985

27) 中井久夫: 精神分裂病者への精神療法的接近. 治療 (中井久夫著作集―精神医学の経験―, 第2巻). 岩崎学術出版社, 東京, p.3-23, 1985

28) 中井久夫: 奇妙な静けさとざわめきとひしめき. 治療と治療関係 (中井久夫著作集―精神医学の経験―, 第4巻). 岩崎学術出版社, 東京, p.59-88, 1991

29) 中安信夫: 精神病理学における「記述」とは何か. 臨床精神病理, 14 (1); 15-31, 1993

30) 中安信夫: 強迫性の鑑別症候学―制縛性ならびに自生性との比較を通して―. 思春期青年期精神医学, 9 (2); 145-156, 1999

31) 岡 一太郎: 他者―他者了解の方法論的諸相―. 臨床精神医学, 44 (5); 719-725, 2015

32) Oulis, P.: The epistemological role of empathy in psychopathological diagnosis:a contemporary reassessment of Karl Jaspers' account. Philos, Ethics, Humanit Med, 9; 6, 2014
Medline

33) Ricœur, P.: Expliquer et comprendre. Sur quelques connexions remarquables entre la théorie du texte, la théorie de l'action et la théorie de l'histoire. Revue Philosophique de Louvain, 75: 126-147, 1977 (久米 博, 清水 誠, 久重忠夫訳: 解釈の革新. 白水社, 東京, 1978)

34) 佐藤晋爾: 臨床における対話I―ブランショの「対話 (entretien)」概念から―. 日本病跡学雑誌, 87; 51-62, 2014

35) 下坂幸三: 精神病理学的接近と心理療法的接近の協働. 臨床精神病理, 22 (2); 121-127, 2001

36) 杉林 稔, 桑代智子, 濱田伸哉: 正岡子規の「写生」と精神科臨床における記述. 日本病跡学雑誌, 90; 92-97, 2015

37) 鈴木國文: 「欲望」の精神病理学にむけて―精神病理学固有の困難とLacan理論の可能性―. 臨床精神病理, 14 (1); 7-14, 1993

38) 鈴木國文: 精神病理学から何が見えるか. 批評社, 東京, 2014

39) 鈴木 茂: 臨床的方法としてみた記述と了解概念. 自己愛性人格/解離性障害/躁うつ病の拡散―精神医学における症例記述の復権のために― (生田 孝編). 金剛出版, 東京, p.230-254, 2015

40) 内海 健: 精神病理学における言説の可能性について. 臨床精神病理, 14 (1); 43-48, 1993

41) Valdés-Stauber, J.: "Verstehen" in der Psychiatrie-Teil 1. Nervenarzt, 2017 Nov 29. doi: 10.1007/s00115-017-0454-4

42) 渡辺哲夫: 二十世紀精神病理学史序説. 西田書店, 東京, 2001

43) 山岸 洋: 了解について. 精神科治療学, 31 (6); 689-693, 2016

44) 山下 格: 誤診のおこるとき―精神科診断の宿命と使命―. みすず書房, 東京, 2009

45) 安永 浩: 精神医学の方法論 (安永 浩著作集III). 金剛出版, 東京, p.13-98, 1992

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