超高齢社会において,アルツハイマー病の抗アミロイドβ抗体薬であるレカネマブの薬事承認は,認知症治療に新たな手法を加えることになった.本稿では,この新時代の認知症ケアと治療選択について,精神科臨床経験と社会学的調査結果を統合し検討した.著者の一人が勤める病院におけるレカネマブ投与希望者24名の検討では,最終的な実投与に至った割合は男性20%,女性29%であり,投与を選択しない事例も認められた.特に女性では,「夫はどうするのだろう」といった配偶者への配慮や,長期にわたる治療プロセスに対する消極的な言動が観察された.これは,家庭内役割の意識が自身の治療選択を制約している可能性が示唆される.このように認知症治療に対する意思決定において,性差や社会的背景に根差した価値観の関与を無視することはできない.さらに本稿では高齢者を対象として,高額医療のシナリオにおける意思決定の調査結果の一部を紹介した.日本では,高額療養費制度が活用できる可能性が高いが,「家計にゆとりがないと感じる」と回答した層では,収入の多寡にかかわらず,積極的な治療を選択しない傾向があった.高額療養費制度を適用してもなお残る自己負担額が,低所得の高齢者,特に収入が低い高齢女性の治療アクセスに対して構造的な経済的・倫理的障壁となっている可能性が示唆された.この医療の公正性にかかわる問題は,『認知症基本法』の理念である当事者主体の生活を実現する上で見過ごせない課題である.多職種連携による綿密な意思確認と救急体制を備えた治療構造の構築は,女性をふくむ両性の当事者の主体性を尊重し,治療効果を最大化するために不可欠である.今後は,性差に基づく環境や役割の違いに配慮した意思確認の手法,および希望する治療が受けられるための経済的・社会的支援の充実が求められる.
2)慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室
3)独立行政法人国立病院機構栃木医療センター精神科
4)東京家政学院大学現代生活学部現代家政学科
https://doi.org/10.57369/pnj.26-081
受付日:2025年11月20日
受理日:2026年2月24日
はじめに
2024年10月時点で,日本の総人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)は29.3%となった11).このような超高齢社会における認知症対策は,最も重要な課題の1つである.2023年6月の『共生社会の実現を推進するための認知症基本法』(以下,『認知症基本法』)成立,および同年9月の抗アミロイドβ抗体薬レカネマブの薬事承認は,この領域におけるアルツハイマー病(Alzheimer’s disease:AD)の治療戦略に大きな変革をもたらしたといえる.
『認知症基本法』は,認知症の人が尊厳を保持しつつ希望をもって暮らせるよう,当事者目線を尊重した理念を掲げ,そのうえでの生活全体への支援を強調している9).レカネマブ治療は,ADが発症する前段階での軽度認知障害(mild cognitive impairment:MCI)時点でADの病理に介入し,予防や維持の視点が画期的である一方,厳格な施設基準と多職種連携を要する複雑な投与プロセスが必須である.さらに,高額な医療費に伴う自己負担額が,高額療養費制度を適用しても家計にのしかかるため,患者の意思決定や家族の意向に経済的要因が強く影響する可能性が指摘されている1)17).
女性は男性よりも認知症の有病率が高く,さらに介護・ケアの主要な担い手が女性に偏るというジェンダー・ギャップの存在は,治療選択の議論において見過ごすことのできない論点である.本稿では,レカネマブの臨床導入経験と,高額医療に対する意思決定に関する社会学的調査の結果を統合し,新時代の認知症治療における治療選択時の意思決定支援のあり方を,精神医学,社会学による多角的な視点から,ジェンダーと経済的脆弱性という2つの非医学的要因に焦点を当てて検討した.
I.アルツハイマー病治療の変革期における臨床倫理的課題
レカネマブは,ADの病態生理に介入する初の抗アミロイドβ抗体薬として期待されるが,その特性は,従来の対症療法とは異なる臨床倫理的課題を提起している.
1.意思決定能力(DMC)の評価と動的な変動
レカネマブ治療は,早期診断・早期介入が基本であり,治療期間が長期にわたる.また,infusion reaction,アミロイド関連画像異常(amyloid-related imaging abnormalities:ARIA)などの副作用が生じるリスクを伴う.患者には治療のベネフィットとリスクを理解し判断できる能力が必要であり,医療者には正確に理解できるように説明する能力と長期的なコミットメントを継続する能力が求められる.
著者の一人である穴水の所属するNational Hospital Organization(NHO)栃木医療センターでのレカネマブ導入においても,意思決定能力(decision-making capacity:DMC)の評価は最も重要なプロセスとして位置づけている.DMCは,疾患の進行や精神症状,意識状態によって動的に変動する5).特に,AD患者の意思決定は,認知機能障害だけでなく,価値観や信念,社会的役割の意識,過去の経験といった主観的要因によっても大きく影響を受けることが指摘されている10).これらは,従来のDMCのアセスメントでは捉えにくい要素である.臨床経験として,治療を希望して来院したが,時間をかけて丁寧に説明するプロセスのなかで「投与したくない」と意思を変えたり,「家族に無理に連れてこられた」と訴えて投与の意思を撤回した事例がある.こうした事例の存在は,DMCの評価が単なる認知機能の閾値判断にとどまらず,治療プロセス全体を通じて継続的に行われるべき動的なプロセスであることを示唆している.
2.レカネマブによる治療と認知症ケアパスの再構築
レカネマブの厳格な投与施設基準は,多職種連携による認知症ケアパスの再構築を不可欠とする.穴水の所属するNHO栃木医療センターのチーム医療体制では,精神科医がDMCの最終評価と治療の主導権を担いつつ,複数人数のレカネマブ投与資格要件を満たした医師の存在,患者の急変時に対応できる体制の要件,認知症看護認定看護師および公認心理師などの存在が必須である.多職種チームは患者の治療に対する理解度や心理状態を日常的にアセスメントし,主となる投与権をもつ精神科医にフィードバックする役割を担う.この体制は,単にリスク管理を行うだけでなく,治療を受ける当事者の主体性の尊重と,治療への参加を促すうえでも重要である.またケアパスは随時見直しや点検が必要であり,1年間に6回程度の多職種ミーティングを行う.
II.治療選択における非医学的要因―ジェンダーと経済的脆弱性の影響―
レカネマブの臨床経験と社会学的調査から,治療選択における非医学的要因,すなわちジェンダーと経済的要因の構造的な影響が浮き彫りになった.
1.臨床経験に基づく治療非選択とジェンダー・バイアス
2024年4月~2025年4月に,NHO栃木医療センターでレカネマブ投与を希望した24名(男性10名,女性14名)中,最終的に投与に至ったのは男性2名(20%),女性4名(29%)であった.非投与の理由は,原則となるMini-Mental State Examination(MMSE)の点数基準・Clinical Dementia Rating(CDR)の基準の不適格,バイオロジカルマーカーである髄液中のアミロイドβの値あるいはアミロイドポジトロン断層撮影(positron emission tomography:PET)においてアミロイド陰性,頭部の磁気共鳴画像法(magnetic resonance imaging:MRI)所見で除外となる血管原性脳浮腫,5個以上の脳微小出血,脳表ヘモジデリン沈着症または1 cmを超える脳出血の存在,さらに心電図,血液検査をすべて行った結果「投与できないと判断する」医学的除外要因に加え,非医学的な理由も複数認められた.表に示す通り,非医学的な理由として,「夫は自分が治療のために家にいない間にどうするのだろう」という配偶者への配慮から生じる積極的な治療の非選択があり,ここにはジェンダー・バイアスが意思決定に影響を与えている可能性がある.
本研究で観察された,患者が配偶者の生活を優先し,レカネマブ投与に消極的な態度を示す傾向は,高齢者の治療に対する意思決定に関する海外における質的研究のメタ研究の報告4)とも類似していた.この報告では,高齢の患者は自分を介護するために家族の時間が割かれることを意識して,過度な負担をかけることを望まないという心理的葛藤が生じ,ストレス,不安,罪悪感を抱いていたとされている.このように高齢者は自身の健康維持よりも家族への負担回避を優先する傾向がある.また,特に女性においては,長年担ってきたケアの担い手としてのジェンダー役割2)13)や,経済的脆弱性3)18)が,高額かつ通院負担の大きい新薬の選択において心理的・社会的な障壁となっている可能性が示唆される.本研究の症例数は限定的ではあるものの,女性患者が自身の治療より家族を優先したのは,自己決定権の行使が,社会的・文化的役割意識によって制限されるという,自律性のパラドックスの1例と解釈できる.したがって,治療選択の自由を真に確保するためには,DMC評価の際に,潜在的なジェンダー・バイアスやケア役割が本人の真の希望を覆い隠していないかを,医療者が慎重に確認する必要がある.
一方で,自験例の男性患者において観察された「熟考後に,非投与の意思を表明した」ことや,「施設で静かに過ごしたい」と時間をかけて結論を出したことは,ケア役割に強く縛られないジェンダー背景をもつ男性が,自身の人生のあり方について,家族の役割から独立した形で「自己決定」の意思を形成していくプロセスとして捉えられた.
2.高額医療に対する社会学的な経済的脆弱性の分析
経済的要因は,医療アクセスにおける公正性(equity)の問題として捉えることができる.認知症治療薬の開始に関する調査や,レカネマブ投与に関する大規模調査では,収入が低いほど治療開始や投与実施の割合が低いという報告がある3)18).
日本における高齢者の経済的・社会的脆弱性は国際的に高い水準にあり,特に高齢女性の老後の収入は男性の約半数(52.6%)であるという国際比較データがある(図1,図2)12).レカネマブ治療は高額療養費制度の対象となるが,所得に応じた自己負担額は月額数万円に及び,長期にわたる治療期間を考慮すると,年金収入が主な高齢者にとって無視できない経済的障壁となる.
日本の高齢夫婦においては,家庭内の性別役割意識が根強く,夫が一家の生活費を稼ぎ,日常の家計は妻が中心となって管理・運営を行っている場合が多い.しかし,自家用車のような高価な物を購入する場合は夫の裁量が大きい夫婦が多いことがわかる(図3)8).社会学においては,家計管理における女性の役割と,収入・資産の獲得における男女の分業構造との関係性が,夫婦間における役割の非対称性を示す重要な分析対象となっている.女性が家計管理を担うことは,意思決定の主体としての権限をもつというよりも,性別役割分業の慣習に基づいて「当然の役割」として期待されている側面が強い.実態としては,収入や資産の面では夫が優位に立ち,家事労働の多くは妻が担っている7)14-16).このような分業型のジェンダー格差は,表面的な役割分担にとどまらず,夫婦間の力関係や意思決定の構造に深くかかわっている.治療の意思決定は本人が行うものであるが,前述の高齢夫婦のように,高額医療に対する意思決定は,家庭内役割の影響が推測されるものの,社会学においては知られていない.
そこで,著者らは,配偶者が存命の65歳以上の男性500名,女性483名を対象に,抗アミロイドβ抗体薬による治療の意思決定に及ぼす家計のゆとりの影響,家庭内役割意識に関する調査を実施した.調査では,抗アミロイドβ抗体薬による治療に関するシナリオを設定し,自分ならその治療を受けるかどうか・配偶者にその治療を受けてほしいか,を回答させた.より実臨床に近く没入感をもって回答できるように,回答者の医療保険負担割合により,治療に支払う金額を変えて設定した.その結果,収入の多寡にかかわらず,家計のゆとりの感覚が,自分の治療選択の意思決定に影響を与えることが示唆された(図4).とりわけ「家計にゆとりがなく,多少心配である」という層から,治療を受けないという消極的な治療選択が増加する傾向が示された.
一方で,配偶者の治療に関しては,「家計にゆとりがなく,多少心配である」という層であっても,治療を受けてほしいという希望が増えたが,性別に関係なく,その傾向は同様であった(図5).
この社会学的な知見は,高額療養費制度を適用してもなお残る,自己負担による家計のゆとりのなさが,治療アクセスに対する経済的障壁として機能しているという,医療の公正性を脅かす構造的実態を示すものと考えられる.
『認知症基本法』の理念を実現するためには,レカネマブを含む革新的な治療薬に対し,経済状況に左右されないユニバーサル・アクセスを保障するための,公的支援の拡充が喫緊の課題であろう.われわれの本調査の結果が示唆するように,治療の意思決定が,個人の希望だけでなく,世帯全体の経済構造によって規定されるという事実を医療者は再認識する必要がある.特に注目すべきは,治療に対する個人の希望と,現実の経済的制約との間に存在する深刻な葛藤である.例えば,配偶者に対しては,家計にゆとりがない状況であっても治療を受けてほしいという希望が,男女問わずにみられた.この葛藤は,治療の意思決定において,本人の希望が必ずしも経済状況と一致しないという複雑な実態を示している.治療に対する意思決定の場面では,本人はもとより,配偶者や家族の葛藤にも医療者が気付き,寄り添うことで,本人の真の意思にもとづく治療が提供できる可能性が高まる6).
おわりに
ADの抗アミロイドβ抗体薬であるレカネマブは,治療の可能性を広げた一方で,治療選択における新たな倫理的・社会的課題を伴うことを述べた.
本検討は,レカネマブの臨床経験と高額医療に対する意識調査を通じて,治療選択が,ジェンダーに基づく家庭内での役割意識,および経済的脆弱性といった非医学的要因によって影響を受けている可能性が高いことを明らかにした.特に経済的・社会的に脆弱な高齢者,そして配偶者や家族への配慮から治療に消極的になりがちな高齢女性に対する,構造的な支援と,ジェンダーに配慮した医療者による意思決定支援が急務である.
今後は,性差に基づく環境や役割が異なる点にも配慮した,DMC評価と意思決定支援の標準化をさらに検討する必要がある.また,希望する治療が経済状況に左右されることなく受けられるよう,公的支援と医療の公正性を確保する政策提言が,精神科医を含む医療専門職に求められている.多職種連携による質の高い治療構造と包括的なケアの提供が,レカネマブ治療の真のベネフィットを当事者に届けるための鍵となる.
レカネマブ投与に関して,NHO栃木医療センターにおいては,各投与者および主介護者に看護師同席のうえ,レカネマブ投与資格要件を満たした医師より説明と告知を行い,個人情報への配慮を行ったうえでの学術的発表についての書面での同意を得た.同意書面は病院で保存をしている.本稿に含まれる社会学的調査は,慶應義塾大学経済学部附属経済研究所研究倫理委員会にて承認(受付番号25001R)を受け実施された.
編 注:本特集は第121回日本精神神経学会学術総会シンポジウムをもとに奥山純子(尚絅学院大学総合人間科学系)を代表として企画された.
なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.
謝 辞 本研究はJSPS科研費JP23K10283,JP23KK0035の助成を受けたものです.エディテージ(www.editage.jp)に英語抄録の言語編集をご担当いただき,感謝いたします.
1) 安藤道人: 高額療養費上限額引き上げ案の衝撃と教訓―「治療断念」と「家計破綻」を防ぐ医療保険の再構築に向けて―. 社会保険旬報, 2966; 6-13, 2025
2) Brodaty, H., Donkin, M.: Family caregivers of people with dementia. Dialogues Clin Neurosci, 11 (2); 217-228, 2009![]()
3) Cooper, C., Lodwick, R., Walters, K., et al.: Observational cohort study: deprivation and access to anti-dementia drugs in the UK. Age Ageing, 45 (1); 148-154, 2016![]()
4) Hestevik, C. H., Molin, M., Debesay, J., et al.: Older persons' experiences of adapting to daily life at home after hospital discharge:a qualitative metasummary. BMC Health Serv Res, 19 (1); 224, 2019![]()
5) Kato, Y., Matsuoka, T., Eguchi, Y., et al.: Anxiety impacts consent capacity to treatment in Alzheimer's disease. Front Psychol, 12; 685430, 2021![]()
6) Kawano, S., Eguchi, Y., Oosumi, A., et al.: Establishment and clinical impacts of decision-support system for older patients with aortic valve stenosis: a retrospective observational study. Gen Hosp Psychiatry, 92; 106-111, 2025![]()
7) 小原美紀, 阪本 諒: 日本における女性の「家計内交渉力」の変遷. 日本女性のライフコース―平成・令和期の「変化」と「不変」― (樋口美雄, 田中慶子, 中山真緒編著). 慶應義塾大学出版会, 東京, p.217-235, 2023
8) 国立社会保障・人口問題研究所: 第6回全国家庭動向調査報告書 (人口問題調査研究報告資料第38号). 2020
9) 厚生労働省: 共生社会の実現を推進するための認知症基本法概要. 2024 (https://www.mhlw.go.jp/content/001212852.pdf) (参照2026-02-01)
10) 松田 修: 認知症高齢者の権利擁護と意思決定能力―心理測定によるアプローチ―. Dementia Japan, 26; 185-195, 2012
11) 内閣府: 令和7年版高齢社会白書. 2025 (https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2025/zenbun/07pdf_index.html) (参照2026-02-01)
12) 内閣府男女共同参画局: 高齢期の女性の経済状況について. 2022 (https://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/keikaku_kanshi/siryo/pdf/ka15-1.pdf) (参照2026-02-01)
13) Pinquart, M., Sörensen, S.: Gender differences in caregiver stressors, social resources, and health: an updated meta-analysis. J Gerontol B Psychol Sci Soc Sci, 61 (1); 33-45, 2006![]()
14) 佐野潤子: 既婚女性の資産形成とジェンダー意識―日本とノルウェーとの比較から―. 生活経済学研究, 57; 61-81, 2023
15) 田中慶子, 阪口尚文: 共働き夫婦の家計運営. 日本労働研究雑誌, 689; 28-39, 2017
16) 田中洋子: 時間分配のジェンダー平等. 日本労働研究雑誌, 766; 4-18, 2024
17) Zafar, S. Y., Peppercorn, J. M., Schrag, D., et al.: The financial toxicity of cancer treatment: a pilot study assessing out-of-pocket expenses and the insured cancer patient's experience. Oncologist, 18 (4); 381-390, 2013![]()
18) Zhou, F. F., Essien, U. R., Souza, J. M., et al.: Disparities in early Lecanemab uptake among US medicare beneficiaries. JAMA Netw Open, 8 (5); e2511711, 2025![]()










