Bleuler, E. はスイス生まれの精神科医である.彼はチューリッヒ大学附属精神科病院ブルクヘルツリ第5代主任教授としてKraepelin, E. の早発性痴呆に代えて,新たに「スキゾフレニア」という概念を提唱した.この概念は最初1908年に発表され,1911年の『早発性痴呆または精神分裂病群』により世界的に知られることとなった.彼はさまざまな精神機能のスプリッティングがこの疾患の顕著な特徴であり,このような心理学的立場からの研究が新しい光明をもたらすであろうと考えた.この背景にはFreud, S. の精神分析が大きな影響を与えている.Jung, C. G. の役割も大きい.スキゾフレニアの基本症状としては連想の障害,情動性の障害,自閉に加えて,両価性を取りあげ,幻覚,妄想などは副次的症状とした.これらの基本症状はのちの精神科医たちにより「Bleulerの4 A」と呼ばれている.Bleulerが精神分析的認識でもってこの疾患の探求に向かった背景には,スイスの民主的政治風土を挙げなければならない.当時のドイツ精神医学が激しい非難を繰り返したFreudの思想を擁護することにより,ブルクヘルツリは精神分析を導入し,臨床的に評価した世界で最初の大学精神科病院となった.Bleulerの代表的著作をはじめ,生い立ち,経歴,家族関係,精神病を病む姉Annaの存在,Nijinsky夫妻の診察風景について紹介し,最後にBleulerの長男でもありブルクヘルツリ第7代主任教授となったManfred Bleulerの業績にふれる.新型コロナウイルスのパンデミックに右往左往する今日の医療事情を考えるとき,『医学における自閉的―無規律的思考とその克服』は大きな示唆を与える.
https://doi.org/10.57369/pnj.23-100
はじめに
「精神分裂病」から「統合失調症」への呼称変更について,「スキゾフレニア(Schizophrenia)」の和訳である精神分裂病では「精神が分裂している病気」という意味から偏見を助長するようになったため,日本精神神経学会で検討委員会がもうけられ,「Kraepelin・Bleuler症候群」「スキゾフレニア」,そして「統合失調症」のなかから統合失調症に決定された.これは今後の精神科医療のためにも意義はきわめて大きい.
しかし,呼称変更を契機として,スキゾフレニア概念の誕生から一世紀にわたる困難なこころの病の精神病理と精神療法をめぐる歴史的流れが忘れさられてはならない.病名の選択に挙げられた「Kraepelin・Bleuler症候群」という呼称についても,それぞれの成立にかかわる人物と歴史的背景を考えると,単純に併記されるべきものではない.
当時,ドイツ語圏精神医学においてKraepelin学派とスイスのBleuler学派が対立していた.Kraepelin, E. が病気の分類を企図して,精神病に秩序を与えようとしたのに対して,Eugen Bleuler(以下,Bleuler)は精神病の過程条件を理解するために格闘していた.Kraepelinは重篤な精神病の大多数のものに早発性痴呆という表現を用いたが,Bleulerはこの謎に満ちた病気にスキゾフレニアという名称を与えた.Bleulerは重症患者の内的生活においても人間的なものがとどまっていることを見抜いていた.Kraepelinは疾患の系統化により患者の人間的理解を困難なものにしたが,BleulerはFreud, S. の精神分析を評価し,その思考を自らのものとして患者の理解に応用しようとした.このようなBleuler学派に対して,Kraepelin学派は露骨に非難し嘲笑した.忘れてならないのはそこに反ユダヤ主義が存在したことであると,Kindler, H.4)は指摘している.反ユダヤ主義がKraepelin学派の人たちが,Freudの理論を先入観なく研究し確かめるということを不可能にした.Kraepelin精神医学の優勢によってドイツ,オーストリアは力動精神医学への連携を失い,小国スイスと大国アメリカ合衆国が世界をリードすることになる.
ここでBleulerを創始者とするBleuler学派,チューリッヒ学派2)の学問的立場を今一度振りかえり,先人たちの思想にふれることにより明日への治療のヒントが得られるのではないかと考える.
なお,外国においては,スキゾフレニアという病名表記は変更されていない.すでに発表されている著書,論文などに関しては,ここではその歴史性を考慮して「精神分裂病」という表記をもちいる.
Ⅰ.チューリッヒ,ブルクヘルツリ
1.新興都市チューリッヒ
ブルクヘルツリが精神分析を導入しその牙城の1つたりえたのは,スイスの国家思想とも深くかかわっている.ドイツ語圏では精神分析は数百年にわたり国王に代表される政治的,社会的上部秩序への攻撃ととらえられ,プロシャ・オーストリア国家体制に対する社会批判として扱われていた.他方,スイスは中世の「自由への戦い」以来,君主的秩序の暴君を追放して仲間関係に基づく民主主義的連邦国家への道をあゆんでいた.このような民主的風土のなかで,精神分析は自由の身となり,新しい発展をとげることができた.
チューリッヒのリマト河畔には,宗教改革の先駆者Zwingli, H. の彫像が立っている.チューリッヒではプロテスタンティズムの思想は市民階級の隆盛へのエネルギーとなった.
Bleulerが生まれた1857年は,当時人口17,000人の町にスイス・クレディ銀行が設立された翌年であり,世界各地から資金が集まる.鉄道建設が始まり,1882年アルプスをつらぬくゴッタルド・トンネルが完成し,ドイツとイタリアがつながる.チューリッヒは飛躍的な繁栄をとげ,人口は1900年までに11倍になり,この新興都市には莫大な富が蓄積され国際金融の中心地になる.急速な都市化のもとで生活様式は大きく変化する.スキゾフレニアが生まれた背景には19世紀から20世紀にかけて技術文明の発展に伴う激しい社会構造の変化がある.チューリッヒには産業社会に適応する人たちとともに反抗する人たちも集まってくる.Lenin, V. I. のような革命家はもとより芸術家,詩人,亡命者,アウトサイダーたちが集まる.チューリッヒはさまざまな価値観のるつぼとなり権威と秩序を否定するダダ運動が起こる.ドイツから亡命してきたBall, H. は「スキゾフレニアのソネット」7編を発表する.スキゾフレニアは当時の時代思潮を代表する言葉でもあった.
2.ブルクヘルツリ誕生4)
1)チューリッヒ大学附属精神科病院
Bleuler学派とブルクヘルツリは互いに分かつことができない.1870年に開院したブルクヘルツリの課題はすべての患者は人間的尊厳と活動的な共同体のなかに組み入れられねばならないということである.
ブルクヘルツリの始まりは13世紀にさかのぼる.啓蒙の時代は改革運動をもたらし,修道院から始まった古い病院は1804年,州立病院となり,医者が治療に責任をもつことになり,患者は拘束状態から解放された.1833年,チューリッヒ大学設立により大学附属精神科病院となるが治療の実態は決して満足すべきものではなかった.そこで病院の新設が計画され,チューリッヒ市当局は1860年,ブルクヘルツリという地所を購入する.以後,チューリッヒ大学附属精神科病院はブルクヘルツリという名称で呼ばれることになる.
2)Wilhelm Griesinger
1863年,チューリッヒ大学内科教授であったGriesinger, W. が建設の指導にあたる.チュービンゲン大学からチューリッヒに移ってきたGriesingerは治療環境づくりに腐心し,大きな陽当たりのよい広大な公園をつくった.Griesingerは,「精神病は脳病である」という教義で有名であるが,患者処遇にも強い関心を示し,イギリスのConolly, J. が提唱した患者処遇に関する「無拘束の原則」を導入し,精神医学コースをつくった.2年後ブルクヘルツリを去りベルリン大学に移った.
しかし,Griesingerには光と影がある.「精神病は脳病である」という教義によりドイツ精神医学の方向は決定づけられ精神医学と神経病理学はただ1つの分野となり,1つの言葉で話され,同じ法則が支配することになった.これが影の部分である.その反面,Griesingerが精神病患者の心理的反応について独特な洞察を示していたことを忘れてはならない.すなわち,一方では健全な精神的個性を抑制し覆い隠している病的気分と表象が取り除かれる必要があるが,他方では狂気のなかで失われることなくとどまり,なお十分に立ちあがる可能性を有する古い自我を回復し強化すべく繰り返し努力しなければならないという主張である.この洞察に意義を見いだし,スキゾフレニアの治療にむすびつけたのがBleuler学派である.
3)Heinrich Hoffmann
ブルクヘルツリの新設計画にはさらに一人のドイツの児童精神科医が貢献した.彼は最終建築計画のための第二次勧告をまとめ,細部にいたるまで設計変更を求めた.その結果,ブルクヘルツリはヨーロッパの精神科病院のなかで最も完全で最高の内部構造をもつことになる.この勧告をまとめた人こそ『縮れ毛のペーター』の作者Hoffmann, H. であり,多動児などさまざまな主人公を描いて子どものこころのなかに入っていく能力があった.
4)ブルクヘルツリ告発
こうして最高の内部構造はできても,内容がともなわなければ意味はない.文字どおりヨーロッパ最高の医療施設へと発展するためには乗り越えねばならない試練があった.1879年,前任のチューリッヒ州書記Keller, G. は,チューリッヒ生まれの精神を病む不幸な詩人Leuthold, H. をブルクヘルツリに訪問して大きなショックを受ける.Leutholdに対する酷い処遇とその姿に怒りを爆発させた.そして「人間愛と科学が……管理になっている」と「新チューリッヒ新聞」に告発.Kellerはスイスの詩人でもあり,『緑のハインリッヒ』は19世紀ドイツ教養小説の最高峰といわれている.
当時,ブルクヘルツリにいたのは,無愛想なうえにベルリン風に患者とほとんど接触をもとうとしないドイツの神経科医,第3代主任教授Hitzig, E. であった.Hitzigはイヌの大脳の電気刺激の研究で知られる有名な学者であったが,脳実験室にこもっていた.初代主任教授ドイツのVon Gudden, B. は死後の脳研究により早発性痴呆の原因を発見しようとしていた脳解剖学者であった.彼はブルクヘルツリを去ったあとミュンヘン大学教授になり,国王Ludwig 2世の主治医となったが,散歩の途中自殺しようとした国王を助けようとして一緒に湖で亡くなった.第2代主任教授ドイツのHuguenin, G. は脳の炎症の解剖学的研究で知られる脳科学者であるが,臨床に熱心でなく,スイスドイツ語のなまりに習熟していなかった.
5)Auguste Forel
Hitzigは去り,スイス人Forel, A. が第4代主任教授になりブルクヘルツリは生まれ変わった.Forelは脳解剖学から出発したが,催眠術に興味をいだきナンシーのBernheim, H. M. とLiebault, A. A. のもとへおもむき催眠の意義について認識する.この新しい心理的方法を患者に応用すべく1880年代からブルクヘルツリで催眠療法を始める.Forelは禁酒運動にも熱心に取りくんだ.ForelはBleulerに大きな影響を与えた.なおForelとの関係で忘れてならないのが「アメリカ精神医学の祖」と呼ばれ,精神生物学を展開したMeyer, A. である.Meyerはチューリッヒ近郊に生まれForelと父子のような師弟関係にあった.Meyerも心理学的見解をスキゾフレニアの原因と治療に結びつけた最初の人物に数えあげられる.
ドイツの詩人Hauptmann, G. はForelの催眠術についてこの領域の驚異であると賞賛し,Hauptmannの詩「神に背かぬもの」のなかでブルクヘルツリを「この世の最高の英知の館」と謳いあげている.Hauptmannは多様な親和力をそなえた感受性と世界主義により1912年ノーベル文学賞を授与された.
Ⅱ.Bleulerの生い立ち3)
1.両 親
Bleulerは1857年4月30日,チューリッヒ近郊の小さな村ツオリコンの裕福な農家の第2子として生まれた.父親は絹織物を扱う商人であり,チューリッヒ湖畔の豪奢な屋敷に住んでいた.父親は良心的でやや鈍重な人物であるが,母親は聡明な教育者であり先見の明がある有能な主婦であった.Bleulerは溌溂とした少年であり,進取の気性に富み,好奇心にあふれていた.1881年,医学生を修了するまで両親のもとで暮らした.
Bleulerが生まれた当時,田舎の住民が学歴を身につけることは非常に困難なことであった.しかし,啓蒙思想の高まりとともに親たちは子どもに何とか学歴をつけさせ,牧師,裁判官,医者にしたいと願うようになる.特に自分たちの医者がほしいという願望の背景にはブルクヘルツリの当時の主任教授たちが患者と親しく交わろうとせず,スイスなまりのドイツ語を理解しようとしなかったことへの不満が大きかった.
2.精神科医をめざす
このような雰囲気のなかで,Bleulerは自分たちと同じ方言で話せる医者,患者を人格的に理解することのできる精神科医になろうと決心する.チューリッヒのギムナジウムを終え,1876年にチューリッヒ大学に入学して医学の勉強を始める.1881年,学業を終え国家試験に合格,同年,学位論文「脳橋の病巣疾患の症例研究」を仕上げる.その他,チューリッヒ大学生理学教室で動物実験による2つの生理学の論文を作成している.
チューリッヒ大学卒業後,ベルン大学附属ワルダウ精神科病院で3年間助手をつとめる.その後,パリ,ロンドン,ミュンヘンに遊学し,パリでは,ヒステリーの見世物師でもあるCharcot, J. M. 教授に出会っている.ミュンヘンでは,Von Gudden教授のもとで脳解剖学を研究していたForelに出会い神経病理学に興味を引かれる.1879年からブルクヘルツリ第4代主任教授についていたForelに重用され,1885年から1年間ブルクヘルツリの助手をつとめたのち,29歳の若さで州立ライナウ精神科病院の院長に任命される.1886年,精神科病院の満床の原因について報告している.
同年には,アルコール治療施設の設立準備にあたって禁酒を誓い,それを生涯つらぬいた.当時,年輩の入院患者の半数はアルコール中毒患者であり,その大半は振戦せん妄により死亡していた.Bleulerは,家族がいかに悲惨な生活におちいるかを目のあたりにして,スキゾフレニア患者とともに,彼らもまた救わねばならない同胞たちであると認識していた.
1887年と1889年,学問的世界で激しい批判にさらされていた「催眠術」についての論文を作成,ついで人間の身体的・心的素質についての自然科学的了解に基づいて1889年「犯罪者学」,ついで1893「道徳的イディオティ」などの論文を発表する(図1).
3.ブルクヘルツリ第5代主任教授就任,結婚,仕事
Bleulerは1898年Forelの後継者として,第5代主任教授に指名される.1901年,チューリッヒ女子専門学校で国語と歴史の教鞭をとり,社会奉仕活動に熱心に参加していた哲学の称号をもつ女性,Hedwig Waserと結婚.2人の出会いはForelの禁酒運動の講演会であった.婚約時代について妻が回顧している.「1900年8月,グラールスアルプスへ登山に出かけて,高山の星のまたたきのもとで,わたしたちは婚約した.婚礼の証人はお月さまとおごそかで静かな雪山であった」.
この結婚で5人の子どもに恵まれる.長男Manfredは1903年にブルクヘルツリ敷地内にある宿舎で誕生.Manfredはのちにブルクヘルツリ第7代主任教授に就任している.ManfredによればBleulerは精神科医,病院長,医学生への講義,研究,そして社会奉仕活動のために1日に14時間から16時間働いたという.
1911年『早発性痴呆または精神分裂病群』出版,1913年「精神科外来クリニック」開設,同年アメリカへ旅行,1921年「児童精神医学」開設,1924年から2年間チューリッヒ大学学長をつとめた.
彼は44歳の晩婚であったが,家庭生活には高い価値をおき,82歳の生涯を終えるまで,38年間にわたり素晴らしい夫婦関係を続けた.わずかな休暇をみつけては,2人でハイキングに出かけた.家庭生活は円満であり,家庭でむずかしい問題が起きることもなかった.Bleulerは子どもたちの人生について厳しい意見をもっていたが,決して口にすることはなかった.みずからが手本を示すことにより養育した.口に出して飲酒を禁じたりしなかったが,5人の子どもたちはいずれも生涯をつうじての禁酒家となった.職業選択についても子どもたちの意志にまかせた.長男Manfredに対しても精神科医になれとは指図しなかった.4人の男の子は,精神科医,農場主,化学者,外科医になり,一人娘は大家族に嫁ぎ献身的な主婦になった.
Bleulerは会話,手紙,刊行物などにおける告白の素直さにもかかわらず,自伝的なものは残していない.Manfredによれば,Bleulerにとって最高の課題とは,患者たち,親類,家族に善をなすことであり,この原則にならって生きた人であり,孫たちとの交流も愛情と親しみに満ちており,最後まで娘の家族と生活をともにしていた(図2).
1939年7月15日,急性肺炎のため82歳の生涯を閉じた.Bleulerの研究魂と真実への意思は失われることなく,せん妄のとりこになりながらも,意識が回復した最後の数時間にはみずからの苦悩的なせん妄体験を詳細に描写したという.
4.こころを病む姉Anna
Bleulerの著作を読むと何よりも患者に寄り添い,理解しようとする姿勢がひしひしと伝わってくる.その背景として長く公にされることのなかった精神を病む姉の存在に触れないわけにはいかない.Manfredの遺族からブルクヘルツリ博物館に寄贈された未公開資料からScharfetter, C.5)により明らかにされた.
1898年,Bleulerがブルクヘルツリに引っ越してきた同じ年に両親が亡くなった.そのため5歳年上の姉Annaを引きとることになった.Annaは精神を病んでおり,慢性的な緊張病性-無言症的状態であった.Bleulerはまず姉をブルクヘルツリに入院させて,それから宿舎の自分の家族のもとに引きとった.Annaは無言のまま静かに生活していた.家族の昼食に参加したが,Bleulerが姉のためにみずから食事をつくり与えた.当時,助手であったBrill, A. A. によれば,Annaはホールを横切って終日,単調にあちこち歩いていた.Bleulerの子どもたちは幼かったが,彼女に気を遣うことなく遊んでいるようにみえた.BleulerはAnnaを例に取りあげ共同研究者たちと治療について言及していた.
Ⅲ.Bleulerの主要著作
発表順に『精神分裂病の概念』1)から簡単に紹介する.
1.「早発性痴呆」(1902/1903)
Bleulerの数少ない英語論文である.ここでBleulerは,早発性痴呆はいかなる精神疾患においても見いだされないような種類の知的な衰弱(mental enfeeblement)によって特徴づけられると述べる.その結果,さまざまな感情ならび観念の連合が障害される.この疾患のさまざまな型のあいだにはいかなる境界線も存在しない.この疾患は不明瞭な妄想型を例外とすれば他の精神病からは容易に鑑別される.これがスキゾフレニアの先行概念である.
2.「精神病の症状論におけるFreud的機制」(1906)
この論文を発表したのは,ドイツの精神科医がFreudの精神分析を酷評し激しく攻撃したため,人々が精神分析にも価値あるものが潜んでいるのではないかということを観察する余裕をなくしてしまったことに対する批判からである.
Bleulerは精神分析が精神を新しい側面から考察するきっかけになるのではないかと考える.Bleulerは重要な認識が締めだされないようにするのが学問における方法であり,神経症の症状論において証明されているのと同様の機制が精神病の病理においても働いてないかどうかを明らかにできるのではないかと考えた.そのため日常生活体験をつうじてFreudの学説の本質的な要素を明らかにしようとする.
あるとき,自分の病院で患者が自殺した.Bleulerはその夜,以前に勤めていた精神科病院で不幸な事態が起こった夢をみる.そのことによって,現実に起こってしまったことに責任をとらなくてもよいのみならず,これは後継者の管理下で起こったことであり,自分は後継者よりも優秀な院長であると自負できることにもなるからである.別の日の夢である.詰所のなかで幼い子どものようにおまるに座っており,そのうえ床を汚していた.その出来事を患者や看護者たちが一部始終目撃している.この夢は数日前,如才なく行うべきであった出来事に対する激しい嘲笑であり,自分が1歳の子どもに期待される課題さえ処理できなかったということを示唆している.
言い間違い,読み間違いにも同じ機制が働いている.「活動(Leistung)」を「管理(Leitung)」と読み間違えたのは「管理」が適合するような思考の範疇のなかに没頭していたからである.「連想の遊戯(Assoziationsspiel)」を「連想の資本(Assoziationskapital)」と読み間違えたのは,ある企画をめぐって資金繰りにせまられていたからである.まさに「資本」という概念は自分の感情が要求するコンプレックスに属している.別の機会には「中休み(Pausendauer)」の代わりに「吹聴休み(Posaunendauer)」と読んでしまった.なぜなら数分前にあった宴席での大袈裟な礼賛に怒りをおぼえていたからである.
詩人についてもそれが願望に一致した領域に生じることを明らかにする.von Goethe, J. M. はヴェルテルのなかにロッテ・ブッフへの見通しのつかない愛を解除し,ヴェルテルに死の運命を課すのは芸術的な必然性のみからではなく,いっさいのことをなして苦しんでいるみずからの人格の側面を抹殺しなければならなかったからである.
スイスの児童文学者Spyri, J. が執筆活動にはいったのは待望の孫を断念しなければならないときであり,文学の世界で自分の孫を創造した.Nietzsche, F. W. は内向的で神経質な子どもであったが,自分が悪くないと思うと黙りとおすという強い側面をもちあわせていた.幼い頃に父親と弟を失うという不幸を体験している.「神の死」という思想の背景にはこのような喪失体験が影を落としている.「神の死」という現代人の不信仰を問題としながら,ニヒリズムという大きな空白を「超人」を創造することにより未来への希望とした.
ある男性の破瓜病患者は,父親は亡くなっており,患者が剃刀でその首を切ったのだと主張する.父親と面会したあともこの考えに固執していた.父親が若い女性と結婚し,その女性を患者もまた愛していたことが明らかになった.このようにみると妄想観念についてFreudの発見を考慮することなく理解することは不可能である.
3.「早発性痴呆(精神分裂病群)の予後」(1908)
Bleulerが世界ではじめてスキゾフレニアという概念を提唱した有名な論文である.
Kraepelinの早発性痴呆という名称に対して,スキゾフレニアという新しい用語を提案する.さまざまな精神機能の解離,スプリッティングがこの疾患全体の顕著な特徴であり,心理学的研究こそが新しい光明をもたらすであろうと考えた.
この論文においてBleulerはスキゾフレニアの疾患過程と症状論についての仮説を立てる.疾患過程に属する一次症状と周囲の影響および精神の反応性として生じてくる二次症状を区別しようとする.骨粗鬆症を例に取りあげ,骨脆弱性が一次症状であり,外傷における骨折は二次症状である.もっとも要素的な障害は連想の障害であり,思路が誤った方向へと迷いこみ情動にゆだねられる結果,論理的機能の部分的あるいは全体的喪失にいたる.最後に,スキゾフレニアの痴呆は個々の症状においても全体としても消退可能性を有していると主張する.
4.「道化症候群」(1910/1911)
ヒステリー患者におけるガンゼル症候群はよく知られているが,スキゾフレニアの素質がある場合にもまったく同じ種類の病気が発症する.スキゾフレニア患者にとって病気になりたいという何らかの理由があると,結果として病気になる.一定の素質のもとで任意の刺激によりてんかん様の発作が解放されるのと同じように,道化症状も任意の動因によって引き起こされる.
5.『早発性痴呆または精神分裂病群』(1911)/復刻版(1988)
本著によりスキゾフレニアは世界中に知られることになる.基本症状としての連想の障害,情動性の障害,自閉の3 Aに加えて両価性を取りあげ,幻覚,妄想などは副次的症状とした.これらの基本症状はのちの精神科医たちにより「Bleulerの4 A」と呼ばれる.症状の理論としては疾患過程から直接に生じてくる症状としての一次症状と,患者の心性が二次的に反応して生じる二次症状という機構を仮定し,一次症状として連想の障害を想定した.連想の障害から思考の移動,濃縮,交換,一般化,音韻連合などにより二次症状が成立し,論理的機能の弱化により感情的に強調されたコンプレックスが妄想として姿をあらわしてくる.コンプレックスが自立性を獲得するにつれ心的機能はさらにスプリットする.
本著の意義についてManfredは,精神症状を先入観なく観察したままを提示したこと,個々の症状の背後に患者の人格との関連,内的生活との関連を明らかにしようとしたこと,Freudの精神分析に鼓舞されて精神症状を不安,希望,葛藤と関連づけようとしたことであると述べている.これにはJung, C. G. の役割が大きい.さらに患者には内的生活の障害と並行して豊かな内的生活も保持されていることを明らかにした.
6.「自閉的思考」(1912)
スキゾフレニアの重要な症状の1つは外的世界からの活動の離反をともなう内的生活の優位である.重症においては現実から退却して夢の世界を生きるようになる.この機制が睡眠の夢,白昼夢,迷信,神話のなかに見いだされる.木馬にまたがり将軍を演じる少年の夢に始まり,芸術作品のなかでみずからの不幸な愛を解消させ,あるいは幸福な愛に転化させるという詩人をへて,朦朧ヒステリー患者,さらに絶対実現不可能な願望を幻覚のなかでかなえようとするスキゾフレニア患者にいたるまであらゆる移行が存在する.
自閉的思考とは快楽表象への欲求であり,これをFreudは快楽機制と名づけた.自閉的思考は人間のなかにひそむ衝動を表現する.意識において数十年前に片づけられた志向が自閉においては生き生きと存在している.個人の神話におけると同様に,民族の神話においても大きな意義を有している.このテーマにはJungがかかわっている.
7.「両価性」(1914)
健常者は利益と不利益とを相対的に天秤にかけて不快が最小に快が最大になるように行動する.しかし,患者のスプリットした精神は有利なものも不利なものも同時に評価しようとする結果,2つの評価系列を統一的な均衡へともたらすことができない.健常者においてもいたるところに両価的なコンプレックスを見いだし,われわれの精神にとりわけ影響を及ぼしている.夢は両価的テーマに関係していることが多い.Freudの解釈を受けいれようとするなら両価性を夢の内容の本質的原因として考察しなければならない.両価性は詩作の重要な動機であり詩作へのエネルギーとなる.神話の本質も両価的である.太陽神は生命をあたえると同時に焼きつくし生命を奪う.善の運命と悪の運命に関与する全能の一者は絶えず神と悪魔に分離される.
両価性は同一人物に対する愛と憎しみが並列するなかであらわれる.妄想観念のなかでは憎しみは迫害者になる.患者が何か行動しようとすると良くないという声が聞こえてくる.それに従おうとすると今度はそれに反対する声が聞こえる.患者はそれを「プラスの声とマイナスの声」と呼び,それぞれ左右の耳に割り当てられる.
8.『医学における自閉的-無規律的思考とその克服』(1919)
Manfredはこれが出版された当時,Bleulerがいかに精神分析にあびせられる悪意に満ちた議論と闘っていたかを記している.この著書のなかでさまざまな思考形式を取りあげ,「注意深い思考」と「怠惰な思考」,「科学的思考」と「慣用的思考」,「現実的思考」と「自閉的思考」,「規律的思考」と「無規律的思考」というように対比させながら検討している.なかでも特徴的なのが「自閉的思考」と「規律的思考」である.
医学における「自閉的思考」とは天文学における占星術,化学における錬金術の段階に相当する前科学時代の思考をいう.これは神話を支配する思考,夢のなかの思考,自閉的スキゾフレニア患者にみられる思考と同一であるのみならず,われわれ医者としての日常行為とも無縁ではない.医学においては厳密な科学的方法で臨床の課題を解決できるほどわれわれの知識は深くない.ここに誤りを論理的に自覚することなく怠惰なごまかしの思考にながれる危険性が生じる.患者を助けなければならないという衝動に駆られるあまり,「わたしは何も知らない」とみずからきびしく認識することを嫌悪して,患者への親切さにかまけて論理的よりも情動的に「方向づけられた」思考に盲従するにいたる.われわれにとって自閉的思考は,いわば生理的必然性といってもよい.
「規律的思考」はこれと対極をなす思考である.科学に要求される注意深い思考,現実的思考,因果了解的思考がこれに属する.事実を基盤としてそこから類推し結論を出し仮説をたて検証することによりはぐくまれる思考,「何を知っており,何を半分しか知らず,何をまったく知らないか」という自己への容赦のない試問に耐えて,誤りの源泉への良心的な探索によりはぐくまれる思考である.したがって,規律的思考には自律性とともにあらゆる雑多な意見から自由であるという能力が要求される.それによりはじめて,自閉的思考への道を回避することが可能となる.すなわち,規律的思考により症状の了解的関連から原因を推測して心理的機制を研究し治療への正しい道を解明することが可能となる.この規律的思考に対立するいっさいの思考を「無規律的思考」という.したがって,自閉的思考と無規律的思考は本質的に同一の内容を意味する.
この「自閉的-無規律的思考」の今日的意義について,Manfredは新しく発見された治療法が,証明されている適応範囲を超えて拡大され,願望に担われた無規律的思考により,そのまま放置したほうがよい場合でも適応とされるといった時代に生きてはいないだろうかと自問している.この指摘は新型コロナウイルスのパンデミックに右往左往する今日の世界の医療事情を考えるとき,大きな示唆を与えるものである.
9.『有機的発展の原則としてのプシコイド(類精神)』(1925)
一次性症状,二次性症状という構造論的な見解とFreudの深層心理学的な見解を包括的にとらえようとすることは容易なことではない.ここには心身の関係についての認識論的な問題が横たわっている.Bleulerは哲学的に理論を総括するという学識はもちあわせていないが,「自然科学者」としてみずからが体験した事実に基づいて考えぬくという精神でもってこの問題に取りくんだ.Freudの無意識論と生物学者Semon, R. W. の記憶仮説により,心的世界の構造を意識的および無意識的な精神世界の1つの機能としてとらえようとする.Bleulerは,記憶痕跡のなかに抑圧を見いだし記憶喚起は連想であると主張しながら,一元論的な記憶仮説的生物心理学に到達する.心的なものは「内から見られた」脳機能であると仮定することによって,同じ尺度でははかりえないはずの心的世界と物質的世界が矛盾なく統一されることになる.Bleulerは,下等な生物といえども有機体の発達途上にあり,精神類似物という意味で「プシコイド(類精神)」という名称を与えた.
Gaupp, R. はこのようなBleulerの見解について,大脳における物質的現象として「外から」の観察により認識されるものと意識的心的過程として「内から」体験されるものにいかなる直感的イメージをあたえようとも自然の認識の限界を超えるものであろうと批判している.
Scharfetter5)はBleulerのこのような「すべては一から」という願望に従って多元論を1つに統合しようとする原動力は,Bleulerの内的多元性に由来するものであり,彼の本質をPolyphrenia(multimind)であると新たに解釈している.
Ⅳ.Bleuler,Jung,Freud3)
Manfredは父親について外国の有名な学者,政治家,金持ち連中に対してまったく劣等感をもたず相手を侮辱することもなく,自分はあたかも別の人間として平民の出であることに誇りをもっていた,患者や貧乏な人たちに対しては温かく親しい存在であった,仕事の強烈さにおいても同僚の模範であり主任教授であるという素振りをみせることもなく控えめで謙虚であったと述べている.父親をほめすぎているといわれるかもしれないが,みんな認めてくれるだろうと述べている.
しかし,5年間医長として仕えたJungがBleulerにいだく態度は両価的なものであった.よく知られているエピソードである.Bleulerはすべての儀式や外見的承認を嫌悪する人間であり,何一つ名誉称号という類のものをもたずただ妄想的なキリスト教的名誉心をもっており,絶対的にものわかりがよくて青年のような知識欲をもっている超越している男であり,Jungが最高の美徳の1つとみなす素晴らしいチューリッヒの自由思想をもっていると絶賛する.その後Freudにワインを勧められBleulerとの禁酒の誓いを破るなどの出来事をきっかけに,Jungのコンプレックスがあたまをもたげてくる.Bleulerが自分につらあてをしている,それは彼の排他性,度量の欠如,偏向に由来するものであり,Bleulerがアルコール患者を審問する場にいあわせると暴力をくわえられる立場の苦痛がよくわかるなどと印象は逆転して,二人の個人的関係は消滅する.その後,Bleulerに出会ったFreudの印象では,これはBleuler側の問題ではなくJungの内面生活の秘密をもらしたもののようであると述べている.
一方,BleulerとFreudの関係についてもBleuler夫妻がFreudを訪問した際,Bleulerの頑固さにそうかぎりは好意的であり,幼児性欲についても弁護してくれたが,Freudが性欲という名称を別の何かの名称,自閉で置き換えてはならないと主張した途端に事態は一変する.Bleulerにとって自閉的思考は快楽表象への欲求であり,人間のなかにひそむ衝動を表現するものであると考えており,自閉以外に良い名称はないと激しく主張して,二人は決別した.
Ⅴ.Bleulerの診察風景5)
Bleulerは病棟回診を一人で毎朝の申し送り前に行い,気がかりな患者がいるときは数回行っていた.診察の詳細ははっきりしていなかったが,それがNijinsky, V. F. の診察で明らかになった.Nijinskyは「牧神の午後」で知られる天才的バレエダンサーであるが,30歳になる頃から精神を病み始めていた.
Romola夫人が最初に一人で相談に訪れる.Bleuler教授は物わかりのよいまなざしに満ちた老人で,2時間ちかくNijinskyや自分たちの結婚とその生活について話を聞いてくれた.Bleulerの考えでは素質があるが,天才と狂気は隣りあっており,正常と異常についても2つの状態のあいだに境界は存在していない,芸術家でありロシア人でもあるケースではなんら精神的な障害を意味するものではないだろうと説明した.
翌日,診察したあとBleulerは夫人に説明した.遺憾なことであるが自分にはどうすることもできません,情け容赦のないように思われるかも知れないが子どもを連れて離婚をされるのがよいでしょう,不治のこころの病であり,医者は救うことができる方たちを救わねばならない,そうでない方については残念ながら,残酷な運命にゆだねなければなりません.わたしは年老いた人間です.彼らを救おうとして人生の50年間をささげてきました.研究し勉強もしてきました.わたしはその症状を知っています.それを診断することもできます.しかし,それ以上に知っていることはありません.
夫人は驚くべき冷酷な説明に驚き憤慨しながら,Bleulerが詫びるのを聞いていた.
Ⅵ.ブルクヘルツリに集う人たち
Bleulerのまわりに精神分析家や新しい精神医学の創始者となる人たちが集まる.ベルリン精神分析協会の創始者Abraham, K.,アメリカへの精神分析の導入の功労者でありFreudとJungの著作を英訳したBrill, A. A.,スキゾフレニア概念をフランスに紹介し現象学的考察を推し進めたMinkowski, H.,現象学的人間学の創始者Binswanger, L.,現存在分析の創始者Boss, M.,『出会いによる精神療法』のTrüb, H. などである.
おわりに
BleulerはNijinskyの診察でスキゾフレニアを長年勉強してきて診断はできるが,それ以上に知っていることはないと謙虚に述べている.多忙な生活のなかで患者と一対一の治療関係を長く続けることはできなかった.
ManfredはBleulerの後継者であり,その遺産をまもりつつ,200余名の患者を一人で診察し治療し20年間にわたり観察するという課題をみずからに課した.その成果が有名な長期経過研究である.その経験から遺伝的素質と精神力動的反応がスキゾフレニアの症状,重症度および経過を形成すると考える.環境不良により人格発達傾向の不調和,対人関係の不調和が強化され,屈折点を超えると表象と論理を経験に適合させる能力が弱化する.他者との関係が引きさかれ内的矛盾と世界との矛盾との対決を避けるようになり自閉が増大する.こうして人格がスプリットし自然の調和が失われる.
Manfredがいつも強調する言葉がある.それは患者と健常者に共通する「人間的なもの」についてである.健常者の場合にもスキゾフレニアに類似した生活が健康な生活の背後に存在しているのと同様に,スキゾフレニア患者の場合にもスキゾフレニアの背後に依然として健康な生活が存在しているのだ.恐ろしい病的現象があらわれているときでも同時に,患者のなかに驚くべき知的な活動と繊細で情感にとんだ感覚の徴候を観察することができる.スキゾフレニア患者への治療とは,健常者であればそうするように,みずからの能力を精一杯に発揮して他の人たちとふたたび仲間になることができるように再三再四支援することである.
Manfredは病名に基づく偏見についても,スキゾフレニアという病名がヨーロッパで政治犯などを不当に拘束するためなどに利用されたことにこころを痛め,もし変更するとすれば自我衰弱(ego-weakness)が父親の概念に一番近いものであろうと述べている.著者もこれに賛成である.
Manfred Bleuler教授には,Bleulerの評伝を執筆するたびにご意見をうかがい,家庭生活についてもぶしつけな質問をしたが,手紙を差しあげると2週間以内にかならず返事が返ってきた.体調を壊されていたこともあったがMonica夫人の代筆でお返事をいただいたこともある.ありがたいことであった.
なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.
1) Bleuler, M.: Beiträge zur Schizophrenielehre der Züricher Psychiatrischen Universitätsklinik Burghölzli (1902-1971). Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt, p.11-115, 1979 (人見一彦監訳: 精神分裂病の概念―精神医学論文集―. 学樹書院, 東京, 1998)
2) 人見一彦: チューリッヒ学派の分裂病論. 金剛出版, 東京, p.73-89, 1986
3) 人見一彦: スキゾフレニアを読む. 松本工房, 大阪, p.100-122, 2018
4) Kindler, H.: Die Schule Bleuler. Die Psychologie des 20 Jahrhunderts, X; Ergebnisse für Medizin (2). Kindler, Zürich, p.24-45, 1980 (人見一彦: 分裂病概念の源流―ブロイラー父子, ボス, ベネデッティ, シャルフェッテル―. 金原出版, 東京, p.29-49, 1997)
5) Scharfetter, C.: Eugen Bleuler, 1857-1939: Polyphrenie und Schizophrenie. vdf. Zürich, p.43-46, p.50-51, 2006 (人見一彦: 紹介Christian Scharfetter著Eugen Bleuler 1857-1939 Polyphrenie und Schizophrenie. 精神医学, 48 (10); 1125-1131, 2006)






