Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第123巻第9号

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特集 統合失調症とはどういうことか
統合失調症―文化精神医学からの一視点―
江口 重幸
一般財団法人精神医学研究所附属東京武蔵野病院
精神神経学雑誌 123: 583-591, 2021

 この論文では,文化精神医学の視点から,統合失調症や精神病性疾患を,「軽症化」し「変遷」しうる疾患として論じた代表的著作を再検討した.それらは,樽味伸,Esquirol, J. E. D.,中井久夫,Devereux, G.,Hacking, I.,柳田国男らの議論である.統合失調症は,1908年にSchizophrenieという用語が鋳造されて以降現在まで,洋の東西を問わず観察されるいわば「普遍症候群」(中井)の不動の地位に据えられてきた.しかし近年の「軽症化」の議論にみられるように,時代や文化的背景に従って変化しうる疾患であるという視点が一般化しつつある.統合失調症を「モノ」という面から扱おうとする接近法と,「コト」という側面を強調する接近法がある.つまり,前者のアプローチが「存在」や「実体」を強調するものだとするなら,後者は「出来事」や「関係性」という側面を扱うことになる.21世紀の現在,広範に広まっている障害観は,正常と異常の境を埋めていこうとする方向をもつ.一方で,狭義の精神医学的な視点は,正常と異常を峻別することを強調する.これら一見すると相矛盾する二極化は,近年ますます進んでいるように思われる.ここで再度「普遍症候群」に対する「文化依存症候群」的な,あるいはMauss, M. の「身体技法」的部分のもつ意味が重要なものとして考えられるようになる.文化精神医学的統合失調症論の系譜を検討しながら,今日,患者(当事者),診断基準,治療者(診断者)の3者がそれぞれ大きく変容を遂げているシステムのなかで,「軽症化」を中心に「統合失調症」とはどういう「コト」なのかを考察した.

索引用語:統合失調症(軽症化), 文化精神医学, エスノ精神医学(Devereux, G.), 無反応な種/相互作用する種(Hacking, I.), 文化依存症候群>

はじめに
 統合失調症を精神医学の歴史の中心に屹立する巨大な山に喩えてみる.今日それは1つの峰ではなく,さまざまな峰が連なった山脈ではないか.あるいは観察者が描く(実体ではない)像にすぎないのではないかという議論がなされることがある.本稿では医学とはやや異なる人間科学的な登攀ルート,つまり山塊の裾野のほうからこの問題にアプローチしようと思う.それは「変遷」し「軽症化」しうる障害としての統合失調症という視点である.中井の言う「普遍症候群」21)の代表とされる統合失調症は,近年その「軽症化」14)25)が指摘されている.注目するのはそうした変化する部分である.
 「軽症化」については,市橋14)が,かつて1980年代の宮本ら19)による記述を踏まえて以下のようにまとめている.①産出症状の形成が不十分であり,症状の典型性が失われている,②症状が現実的・日常的テーマに変化し,③神経症的,うつ病的など非特異的症状が増加し,④予後の改善という標識が認められる,というものである.本稿でもこれに沿って考えていくことにする.

I.問題の所在
 現在精神科医の多くは(どのような流派であれ),Hacking, I.13)の指摘するように統合失調症を,どこかで「生化学的・神経学的・遺伝学的な(おそらく3つすべての)障害」(p.234)と考えているところがある.しかし今日,そうした「生物学的」とされるアプローチでも,epigeneticsを例に挙げるまでもなく,環境からの影響で十分変化しうることが明らかになっている.
 Hacking1)12)13)は,特定の人々を分類して名づける行為が,その「人々を作り上げる(making up people)」ことになるという議論を展開する哲学者である.その例にしばしば挙げられるのが統合失調症をはじめとする精神医学的障害であった.Hackingはこう述べる.伝統的な自然科学で使用される分類は「無反応な種(indifferent kinds)」で,つまり対象は「動かない標的」であることが期待される.一方,社会科学で使用される分類の多くは「相互作用する種(interactive kinds)」で,対象は名づけられることによって自覚化したり,周囲の支援者が組織化されたりすることでその特性が変化する.Hacking13)はこれを「ループ効果」と呼び,これによって「動く標的」になると記している(p.245-247).
 しかし例えば,紆余曲折はあるにしても100年以上その診断名が続いているSchizophrenieを,ある時期ある場所に特異的に発生し,流行し,消褪する,彼の言う「一時的な精神疾患(transient mental illness)」11)である,あるいは,名指しだけによる「実在しない」「社会的に構成された疾患」であるとするのはやはり難しい.Hacking13)はさらに,一時的なものとは考えにくい,知的障害,小児自閉症はどうかと議論を進めていく.かつての反精神医学をめぐる議論において,その擁護者は繰り返し反対陣営から「統合失調症はあるのかないのか」「統合失調症患者がそれなりに健康であるということを肯定しているのか」という問いを投げかけられた*1.「社会的に構成されている(social constructed)」のか,「本当に存在する(real)」のかという議論は,こうした問いにも直接結びつくものなのである.
 著者(以下,私と記す)のこの問題に対する基本的視点は,文化精神医学や医療人類学経由のものである.この領域からこれまでも統合失調症に対していくつものアプローチがなされてきた16)17).その概略は人類学者のLuhrmann, T. M. ら17)によって紹介されているが,大胆に要約すれば「統合失調症の社会的コンテクストこそが重要である」(p.222)という結論に行き着く.本稿ではこの部分をもう少し掘り進んでいきたい*2

II.診断尺度の変容をめぐって―樽味伸の視点―
 まず診断尺度について考えてみる.樽味26)はかつて,森田正馬の「対人恐怖症」とDSM-IIIの「社会恐怖(社会不安障害)」という一見類似する障害を比較しながら,この問題に鋭い考察を加えた.この2つの診断が実際はかなり異なる対象を抽出することを,心理検査の結果などから示しながら,樽味は,DSM-III(1980年)以前,いわば「人格に練り込まれた(built-in)型」の(運命論的な)病前性格論や「内在化した」疾患イメージだったのものが,DSM-III以降,個人に「外在的に付着する(with)型」で存在する(着脱可能な)障害イメージに変化したことを指摘した.これによって病いは「軽量化」し,「克服する病い」から「治してもらう病い」への変容が生じたことになる(図1).かつての疾病観には,病前性格や体格や筆跡までも含まれる全体性があったが,今日では逆に,例えばうつ病や双極性障害の診断の際に病前性格を考慮するという篩がないために,「気分」のみで,さまざまな領域の障害が診断の網を通り抜けてしまうことになる.
 さらに私6)の文化精神医学的関心でいえば,1980年代は,完全な人格変換を伴う憑依事例が日本の臨床の場でほとんどみられなくなった時代である.それは,中井22)の指摘するように,「心因反応」という概念がなくなったことと密接に結びついているのではないか(p.40).かつてEsquirol, J. E. D.8)が,悪魔憑依(démonomanie)は「模倣の力による精神的感染」(p.501)によって時に流行病となることを指摘した事実を思い出してもいいだろう.
 このように統合失調症の「軽症化」という問題は,一歩踏み込むと精神医学の根本問題,つまり精神疾患やその診断とは何かということを浮き立たせるような難問にたどり着いてしまう.以下では,文化精神医学の立場から,代表的な議論のいくつか(Esquirol,中井,Devereux, G.,Hacking)を検討し,そのいずれもが,「軽症化」に注目しながら,さらにそのレベルを超えた障害の根本的理解を再考させる議論を提示していることをみていこうと思う.そして後半では,この「軽症化」問題への私見を述べてみたい.

図1画像拡大

III.「軽症化」「変遷」をめぐる代表的議論
1.Esquirolの「軽症化」論(1824年)
 まずは「近代精神医学の父」と呼ばれるEsquirol(1772~1840)の議論を検討する.そのライフワークである論集『精神疾患論』には,「われわれの時代には,40年前より多くの精神病者がいるのか?」9)という1824年に書かれた論考が収載されている.そこには,フランス革命時には狂暴なマニーや激しい悪魔憑依の患者が精神病院に多く入院していたが,40年後の当時,麻痺性の患者や老年の痴呆(démence),物静かなモノマニーが中心になって,「精神病院の相貌をすっかり変えてしまった」(p.739)と記されている.今日の用語でいえば精神病の「軽症化」が注目されていることがわかる.
 さらにEsquirolは諸外国にも目を向け,国別の精神科病床数をもとに一般人口に対する精神病者数の割合を計算して各国別の統計学的な比較を行っている.あるいは山岳部と都市部の病態の比較検討もしている.つまり精神疾患は,その前面にあたる症状が変化するのか,疾患全体が変容しているのかは別としても,時代と場所によって大きく変化しうるという認識が,近代精神医学の黎明期にすでに十分に芽生えていたのである.

2.中井久夫の統合失調症の「変遷」論(1980年)
 時代を1世紀半下った1980年,中井による「『分裂病の変遷』という問題」21)という論考が発表され,そこでは統合失調症の「変遷」が論じられている.内容は,当時の中高年層の(つまり向精神薬出現以前の臨床を経験している)精神科医とのインタビューをもとに,その体験談を聞くという方法を採っている.要約すると次のようになる.
 中井は「身体症状の増大」をその「変遷」の第一に挙げている.統合失調症の発症過程と寛解過程において,著しい身体擾乱が生じる「臨界期」の存在に注目したのは,1970年代の中井とGross, G.(「前哨症候群」)であったから,この着目は当然のものといえる.ある大精神病院では風邪薬の消費量が極めて少なかったが,向精神薬の導入でその使用が増大したことが記されている.またかつての重症破瓜病者は非常に寡症状であったこと,さらに「統合失調症に悪性腫瘍なし」という古くからの言い伝えがあったことが紹介されている.Bleuler, M. は自身の病院では悪性腫瘍は「sehr selten」と記した.日本でも高齢医で統合失調症のがん患者を経験しない人のほうがはるかに多かった,とされる.
 中井は続けて以下のような議論をする.「(前略)分裂病は強烈な心理的ストレスに対して身体が共振しにくく,いわば“頭だけで受け止めて”いる観があるが,この共振しにくさのため身体的ストレスにたいする身体側の構えは全く尋常であって,身体は心理的ストレスによって弱体化されず(後略)」21)(p.381,引用ママ)いたのであろう.しかし,高齢医に聞くと,統合失調症者こそ結核に特に罹患しやすかったというのが,抗結核薬登場以前の精神医学的常識だったという.
 一方で中井は,「統合失調症に好発する精神症状」の減少を指摘する.つまり典型的な統合失調症症状―反響言語,反響動作(中略)滅裂言語,空笑,独語などがみられなくなった.しかし,こうした重症症状とされてきたものはすべて,幼小児期にコミュニケーション遮断の活動として頻繁に観察されるものであるという.オランダのRümke, H. C. はこれらを含め,通常の成人においてすべての統合失調症症状がみられると指摘した.中井は,統合失調症とその3亜型とみえていたのは,巨大精神病院が成立して約半世紀以降,その施設のなかで形成された骨格標本のようなものが古典的統合失調症病像だったのではないか.それ以前の「狂気」ははるかに多彩であり,また「巨大精神病院の解体しつつある現在以降は,何らかの共通分母の発見に苦しむプロテウス的な“狂気”になりつつある可能性が仄見される」21)(p.387)と記した.

3.Devereuxのethnopsychiatry(1965年)
 3番目はethnopsychiatry(以下,エスノ精神医学と記す)の提唱者,Devereux(1908~1985)の統合失調症理論である.Devereuxはハンガリー(後ルーマニアに併合)で生まれ,フランスで物理学と民族学を学び,アジアとアメリカで人類学的調査をし,その後米国で社会学と精神分析と精神医学を習得し,1963年再びフランスに戻り,エスノ精神医学を確立した人物である.1993年パリ第8大学に開設され,おもにアフリカからの移民の心理的サポートをする施設に,彼の名が冠せられている*3
 主著『エスノ精神医学の基本問題』4)(1970年に仏語版,1980年に英語版刊行)から,「ethnic psychosis」(以下,エスニック精神病と記す)としての統合失調症論を要約してみる.Devereuxはパーソナリティの障害を以下の4類型に分類した.①「典型(type)」障害:社会構造の典型(type)にかかわる障害,②「エスニック(ethnic)」障害:集団の特定の文化的パターンにかかわる障害,③「宗教的(sacred)」障害:シャーマニズム的な型に関連する障害,そして,④「特異的(idiosyncratic)」障害:個別的な障害,という4つである(p.13).
 そうしたうえで,Devereuxは2番目の「エスニック」障害に注目する.つまり各エスニック集団には,「狂気におちいってはいけないが,もしそうなるときはこのようにふるまわないといけない」という暗黙の指示(「作法」のようなもの)が存在する,というのである(p.34f.).こうした「不適切な行為」をとらざるをえないような場合のパターンを「エスニック神経症/精神病(ethnic neurosis/psychosis)」と呼んでいる.つまり,「狂気のときにいかに行動するか(how to act when crazy)」,「正気でないときの適切な方法(proper way of being insane)」というものがそれぞれのエスニック集団には存在するのである.例えば米国先住民の場合,狂気の者は(通常は禁忌である)亡くなった親族の名を公然と口にするなどが例として挙げられている.
 エスニック神経症/精神病の多くは,非西洋の共同体(Gemeinschaft)型社会でみられ,一時的に激しい症状や逸脱行動を呈するが,ほとんどの場合短期間で回復し,再びその社会で十分に機能しうる良性の経過をたどる.ラター・アモク・ススト・狐憑きに代表されるいわゆる「文化依存症候群」がこれにあたるだろう.
 ここから独特な統合失調症論4)が展開される.Devereuxはこう言う.西洋社会にも「エスニック神経症(障害)」があるが,それは「エスニック精神病」という形態をとり,しかもそれは先に記した「典型」障害の側面を前景化し,(比較的良性の精神病性障害とは対照的な)「統合失調症」という形態をとることになる5)(p.235).
 「要約すると,統合失調症者の仮面をつける患者は,文化的に『逸脱した』ヒステリーや躁うつ病の症状を受け容れるかわりに,順応主義であること(conformism)を示すことになる.なぜなら,統合失調症であることがわれわれの社会において『狂気』であることの『適切な』やり方だからである」5)(p.220).統合失調症的パターンへのこの適応は,現代人のエスニックなパーソナリティが基本的にはスキゾイド構造であることによって大いに促進されている.以上がDevereuxによる,統合失調症の「社会原性(sociogenesis)」理論4)(p.56),「涙なしの統合失調症論」と呼ばれるものの概要である.
 さらに,Devereuxには文化的・歴史的な視点をまじえたもう1つの別の視角がある.それは,その社会がほぼ適切に機能している時代(例えば前プラトン期のアテネなど)では,比較的良性のタイプの(ヒステリーのような)神経症が唯一のエスニックな障害となる.一方で機能不全を起こし,衰亡しつつある社会(紀元前4世紀のスパルタなど)では,その極期に,統合失調症のような,重症のエスニック精神病が典型化するというのである5)(p.235).そして,その時代の代表的なエスニック神経症/精神病がヒステリー的か統合失調症的かのパターンが,歴史的にみると,背景の文化に従って交互に,つまり拮抗・交替現象のようにして出現するという,大胆な議論を展開するのである*4

4.Hackingの統合失調症への「希望」(1997年)
 『偶然を飼いならす』10)をはじめ主著のほとんどが邦訳されている哲学者Hackingには,精神医学関連の発言が多く,特に20世紀後半に欧米で流行した多重人格症を批判的に論じたことで名高い.なかでも『マッド・トラベラーズ』11)は,19世紀末に20年間だけフランスを中心に流行した「徘徊自動症(automatisme ambulatoire)」を「一時的な精神疾患(transient mental illness)」ととらえ,その誕生と流行と消滅という現象を詳細に追跡した著作である.ひとりの実在の遁走男性事例(Albert Dadas)とその主治医の精神科医(Philippe Tissié)との治療関係を中心にストーリーは展開し,臨床民族誌の模範ともいえる記述が展開される.主人公のDadasはボルドーからモスクワまで解離状態で徘徊し,その間の記憶の脱落部分は主治医の催眠によって復元されていく.
 20世紀末に流行した解離性同一性障害と重ねあわされるように議論は進み,1つの疾患が,ある時代ある地域に繁茂し,他所ではみられない様態を,「生態的ニッチ」という比喩で表わし,それらの「ニッチ」を可能にさせた4つのベクトル(医学的分類,文化的極性,観察可能性,解放)をもつものとして「徘徊自動症」の一時的流行を分析する.こうして,解離性同一性障害は果たして「実在の」精神疾患なのかという問いへとつなげていく.米国の哲学者Peirce, C. S. の「実在(reality)」のクライテリアを用いると,実在する疾患ではないと考えられる,とHackingは述べる.これと対比的に「実在の」精神疾患と考えられるものとして統合失調症を挙げ,以下のような「希望」を述べている.統合失調症は,20年以内に,1つか2つ,あるいは3つの基本的なタイプがしっかり理解できるようになるだろう.それらは病因も異なるまったく別の疾患単位(entity)になるかもしれない,と.

 私が希望するのは,統合失調症が,神経学的な,生化学的な,あるいは何であれ,ひとつ(あるいは複数の)身体的機能不全として明らかにされ,それに対して,われわれが理論的に十分理解でき,実践的にも明快に分節化された方法で,支援したり,治療したりできるようになることである.(中略)もしこの希望が満たされれば,統合失調症は実在の障害ということになる,つまり,いくつかの実在する別個の障害が現在のところ統合失調症と呼ばれているのかもしれない.11)(邦訳p.132)

 つまり,統合失調症が2010年代に2~3の別の疾患単位へ「分解」することへの「希望」が述べられているのである*5.この統合失調症の「分解」への「希望」は,Hackingの思いつき的発想のようにも読めるが,よく考えてみると,実際に1997年(上記の発言があった講演の年)以前には,アスペルガー症候群などの広汎性発達障害や,レビー小体型認知症は,統合失調症と十分な鑑別がなされなかった.くわえて今日カタトニアが統合失調症の枠組みでは説明しきれない横断的病態であることが判明しつつある.こうしてみると,Hackingの予測(希望)は結構正鵠を得ている印象がある.つまり,核心的な実体が解明されたわけではないが,気づかぬうちに統合失調症はその外延から「分解」しつつあるのではないか.
 Hackingは,冒頭でもふれたように,「無反応な種/相互作用する種」という視点を持ち込んで,「精神医学の哲学」1)という領域で社会構成主義に対する論争を喚起した.しかし彼は,統合失調症の「動かない」「実在性」を望みながら,それが「動く」ものであることを明らかにしている.「統合失調症者は,人間の種としては,動く標的であり,その分類は相互作用する種」13)(邦訳p.255)なのである.つまり,統合失調症という分類はそこに分類される人や周囲の者の感受性に影響を与え,その対象の特性に変容をもたらしてしまう.多くの者が自然科学の対象であると考えながら,実は周囲との相互作用で変容してしまうという部分,これによって,「本当に存在する」疾患や状態であるというものと,「社会的に構成された」ものであるという,重大な対立図式が浮かび上がる.それに対して,Hackingは二者択一ではない第三の道を探し出そうとしているように思われる.

IV.再び「軽症化」をめぐって
 冒頭の「軽症化」や「変遷」という問いに戻る.文献をたどると,Esquirol以降,統合失調症を中心にした精神疾患はずっと「軽症化」し続けてきたように論じられてきた.というのも,「軽症化」についての論文はあるものの,その「重症化」を論じたものはあまりみられないからである.であるとしたら,かつて「重症」とみえたものが,どこかの時点で「軽症化」へと転じた転換点があるはずである.そこはどこなのだろうか.以下あくまで私の推論の域を出ないが,考えてみたい.
 その第一段階とは,今回の議論で言えば,Devereuxが指摘したように,ローカルな「エスニック神経症/精神病」が典型障害の「統合失調症」へと変容していった過程であろう.つまり「文化依存症候群」的部分が機能せず,「普遍症候群」に移行したときと考えられるだろう.それは「(例外状況である)狂気に陥ったときにどのようにふるまうかが(エスニック集団で)あらかじめ決まっていた」場面から,「どのようにふるまったらいいのかわからない」(医療)場面への移行時が背景にあるときではないか.
 私はかつてある山村における憑依現象の調査6)をしたことがある.そこでは,冬場積雪で完全に閉ざされていたこの村への交通が戦後の1950年代に可能になり,それまでの林業関連とは異なる業種が村内に流入するようになり,ほぼ重なる戦後期に村の人々の多くを巻き込む集団憑依現象が出現していた.さらにその後,従来症状形成に影響していたこの村独自の「憑依複合」と呼べるものが,社会的変動に伴い,それを構成するひとつひとつの要素が希薄になることで,結局,医療的介入なしには解決できない「普遍症候群複合」へと移行することになったのだろう,と私は仮定したのだが(図2).そのあたりを転換点としたらよいだろうか.
 あるいは19世紀や20世紀初頭の統合失調症患者を撮影した海外文献の写真が示すように,発症すれば制服を与えられ巨大精神病院で一生を過ごすことになる前提で,さまざまな絶望や断念を織り込みながら,「狂気」をいわば手探りで自己表出しなければならなかったという患者側の要素が考えられるだろうか.これはLuhrmann17)の「社会的挫折(social defeat)」という視点が強調するところである.

図2画像拡大

V.統合失調症は「モノ」なのか「コト」なのか
 そもそも本論考のもととなったシンポジウムは「統合失調症とはどういうコトか」というテーマであった.それは「どういうモノか」ではない.
 統合失調症(広く精神障害と言ってもいいが)はモノなのかコトなのだろうか.言い換えると,それは「実体」なのか「関係」なのか.あるいはHackingの言う「本当に存在している(real)」ものなのか「社会的に構成された」ものなのか.さらにJanet, P.15)の言葉を借りれば,信じうる「存在(être)」なのか,語るべき「出来事(événement)」なのだろうか.
 文化精神医学は,精神障害を,出来事つまりコトとしてみる系譜にある.それは出来事の「社会的コンテクスト」,さらにはそれらを左右する偶然性が強調される領域である.しかし臨床を重ねるにつれて,精神疾患のモノ的部分,つまり実体的部分をどこかで想定しない限り,正常/異常の区別ばかりか,そもそも診断・治療を含めた治療行為は成立しえないのではないかという疑念が湧き起こる.それは大前24)が「診断妥当性」をめぐる論文で正しく指摘したように「具体化・物象化(reification)の錯誤」なのだろうか.
 先に記した山村の馮依現像についての調査6)の際の私の理解は,柳田国男の『山の人生』27)に描かれた狐憑きの事例への視点に大いに影響を受けた.つまり,狐憑きは,その当人も周囲の者も,次第にそうした枠組みに沿って行動をエスカレートさせてゆく相互行為的なものではないかという視点である.これがある山村で発症した青年が長い間家の柱にしばりつけられた末に衰弱が著しくなり病院に連れてこられた背景であった.ここでは本人も周囲の者も,複数の出来事を,共通の物語に形成しようとしながら,結局解決に至らなかった過程が垣間みられる.関係性のうえに成り立つものを実体としてみるのは誤りだが,そもそもこれらのアプローチは二者択一的なものなのだろうか.ここでもDevereuxの言う「相補的」3)な視点が求められているように思われる.

おわりに
 統合失調症を,「軽症化」し「変遷」する,つまり「動く」障害であると考える議論を検討してきた.これは私の憶測だが,「軽症化」とされる事態は,Devereuxの述べるハードな統合失調症概念が大きく崩れつつあることを示しているのであろう.統合失調症(つまり彼の言う「典型」障害)は,「狂気に陥ったときにどのようにふるまったらよいか」という,共同体(Gemeinschaft)型社会を背景にした「エスニック」障害という枠組みが機能しないところに生じる.
 しかし現在,そうした際の「身体技法」(Mauss, M.18))上の困惑や模索が不要なほどに精神障害関連の情報が巷に流布している.つまりここでは,症状自体を排除せずに,いわば飼いならし,手なづけていくという「症状の馴致」というものが展開されているように思う.例えば,べてるの家の「幻聴さん」20)や,さらには「Hearing Voices Network」17)のように,当事者も周囲も共同して,「統合失調症」の症状を,あたかも「文化依存症候群」を扱うように,半ば外在化させ,形式化,無害化して取り込む「身体技法」が進行しているように思われる.中井はかつて「普遍症候群」しか残っていない西欧型=都市型文明を「欠陥」ととらえる視点を示した.つまりそれは「文化依存症候群の貧困あるいは欠如」という西欧の病理性を問題にすることであった22)(p.39f.).
 Devereux5)の述べるように,社会的統制が緩む社会と,一方でそれを許さない厳格な社会があり,それらが今後も,大きくヒステリー圏の病態と,統合失調症圏の病態を交互に形成しながら出現するのかもしれない.しかしそうしたとき,われわれは新たな共同性をもとに,狂気に陥った際の「身体技法」をさらに洗練していけるかもしれない.統合失調症の「軽症化」や「変遷」をめぐる議論は,統合失調症が(Hackingの「一時的な精神疾患」とは異なる)「実在のもの」でもあり,また「社会的に構成されたもの」でもあるという重要な視点への手がかりを与えてくれるのではないか.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) Delille, E., Kirsch, M.: Natural or interactive kinds? Les maladies mentales transitoires dans les cours de Ian Hacking au Collège de France (2000-2006). Rev Synth, 137 (1-2); 87-115, 2016

2) Devereux, G.: Reality and Dream: Psychotherapy of a Plains Indian. International Universities Press, New York, 1951

3) Devereux, G.: Ethnopsychoanalysis: Psychoanalysis and Anthropology as Complementary Frames of Reference. University of California Press, Berkeley, 1978

4) Devereux, G.: Normal and abnormal. Basic Problems of Ethnopsychiatry. University of Chicago Press, Chicago, p.3-71, 1980

5) Devereux, G.: Schizophrenia: an ethnic psychosis, or schizophrenia without tears. Ibid., p.214-236

6) 江口重幸: 滋賀県湖東―山村における狐憑きの生成と変容―憑依表現の社会―宗教的, 臨床的文脈―. 国立民族学博物館研究報告, 12 (4); 1113-1179, 1987

7) 江口重幸: 統合失調症の「変容」―Georges Devereuxを再読する―. こころと文化, 20 (1); 41-50, 2021

8) Esquirol, J. E. D.: De la démonomanie. Des Maladies Mentales Tome I. Baillière, Paris, p.482-525, 1834

9) Esquirol, J. E. D.: Mémoire sur cette question: existe-t-il de nos jours un plus grand nombre de fous qu'il n'en existait il y a quarante ans? Des Maladies Mentales Tome II. Baillière, Paris, p.723-742, 1834

10) Hacking, I.: The Taming of Chance. Cambridge University Press. Cambridge, 1990 (石原英樹, 重田園江訳: 偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命―. 木鐸社, 東京, 1999)

11) Hacking, I.: Mad Travelers: Reflections of the reality of transient mental illness. University of Virginia Press, Charlottesville, 1998 (江口重幸, 大前 晋, 下地明友ほか訳: マッド・トラベラーズ―ある精神疾患の誕生と消滅―. 岩波書店, 東京, 2017)

12) Hacking, I.: Kinds of people: moving targets. Proceedings of British Academy, 151; 283-318, 2007

13) Hacking, I.: The Social Construction of What? Harvard University Press, Cambridge, 1999 (出口康夫, 久米 暁訳: 何が社会的に構成されるのか. 岩波書店, 東京, p.231-272, 2006)

14) 市橋秀夫: 軽症化はなぜ進行したのか. こころの科学, 168; 20-25, 2013

15) Janet, P: L'évolution de la Mémoire et de la Notion du Temps. Chahine, Paris, p.288-289, 1928

16) Jenkins, J. H., Barrett, R. J.: Schizophrenia, Culture, and Subjectivity: The Edge of Experience. Cambridge University Press, Cambridge, 2004

17) Luhrmann, T. M., Morrow, J.: Our Most Troubling Madness: Case Studies in Schizophrenia across Cultures. University of California Press, Oakland, 2016

18) Mauss, M.: Techniques du corps. Sociologie et Anthropologie. Presse Universitaires de France. Paris, 1968 (有地 亨, 山口俊夫訳: 身体技法. 社会学と人類学II. 弘文堂, 東京, p.121-152, 1976)

19) 宮本忠雄, 水野美紀: 分裂病の軽症化をめぐって. 臨床精神医学, 18 (8); 1187-1192, 1989

20) 向谷地生良: 幻聴から「幻聴さん」へ―だんだん"いい奴"になってくる―. べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章―(浦河べてるの家編). 医学書院, 東京, p.98-104, 2002

21) 中井久夫: 「分裂病の変遷」という問題. 分裂病(中井久夫著作集1巻―精神医学の経験―). 岩崎学術出版社, 東京, p.377-388, 1984

22) 中井久夫: 治療文化論―精神医学的再構築の試み―. 岩波書店, 東京, 2001

23) 荻野恒一: 精神医学における疾病概念―社会学的視点から―(および討論). 精神医学と疾病概念 (台 弘, 土居健郎編). 東京大学出版会, 東京, p.47-70, 1975 (再販: みすず書房, 東京, p.59―88, 2010)

24) 大前 晋: 精神医学における診断妥当性―具体化・物象化の錯誤を超えて―. 精神科治療学, 35 (2); 133-140, 2020

25) 須賀英道: 統合失調症は軽症化しているか. 臨床精神医学, 45 (1); 5-12, 2016

26) 樽味 伸: 「対人恐怖症」概念の変容と文化拘束性に関する一考察―社会恐怖(社会不安障害)との比較において―. こころと文化, 3 (1); 44-56, 2004 (樽味 伸: 臨床の記述と「義」―樽味伸論文集―. 星和書店, 東京, p.127―150, 2006所収)

27) 柳田国男: 遠野物語・山の人生. 岩波書店, 東京, p.151, 2007

注釈

*1 荻野による反精神医学の擁護とそれをめぐる白熱した討論23)を参照されたい.この討論集会が開催された1974年当時,日本における反精神医学の流行はピークを迎えようとしていた.

*2 精神科医自身の視点もこの数十年間で,自覚されないまま大きく変容している.統合失調症の「軽症化」や「変遷」という問題を考えるとき,「変容する対象」に「不動の観察者+不動の診断尺度」がかかわるという二項対立図式ではなく,「対象」と「観察者」と「診断尺度」がそれぞれ変容しているという三項円環型のモデルを想定することが必要であろう.

*3 このような紹介よりも映画『ジミーとジョルジュ―心の欠片を探して―』(Desplechin, A. 監督,2013)に描かれたジョルジュが彼であると紹介したほうがわかりやすいかもしれない.この映画はメニンガー・クリニックを舞台に,フランス語圏から来た他所者の治療者と,米国先住民の帰還兵が出会い面接を重ねる映画で,Devereuxの処女作『Reality and Dream』(1951)2)に記された面接のトランスクリプトを比較的忠実に再現したものである.Devereuxをめぐるさらなる詳細は,江口7)を参照されたい.

*4 なおDevereux3)は,(今日広く流布しているbio―psycho―socialモデルのような)「学際(interdisciplinaire)モデル」とは異なる,「複数学問領域(pluri―disciplinaire)モデル」というべきものを提唱する.それによれば,前者のようにいくつかのアプローチをつなぎあわせて全体像を形成するというのではなく,心理と社会という視角からその出来事を記述するとき,それぞれ完全なリアリティをもつ別々のものとしてその事態を描けなければならない,とした.Devereuxはこうしたアプローチを,Bohr, N. の量子力学から取り入れた「相補性(complementalism)」モデルと呼んでいる.

*5 この引用のもととなる講演は1997年に行われ,翌年出版された.1909年ナントの会議で解離性遁走が否定されて100年目,さらには1908年のBleuler, E. によるSchizophrenieという術語の鋳造から100年目にむけた「希望」が述べられていることになる12)(p.131).

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