Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第123巻第8号

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特集 仮想症例から学ぶアルコール依存症の新ガイドラインと治療ゴール―断酒と減酒の実践的治療を考える―
アルコール依存症治療における覚書
山下 悠毅
ライフサポートクリニック
精神神経学雑誌 123: 500-505, 2021

 アルコール依存症は,飲酒の合法性もあいまって,患者の治療意欲を育むことが困難となる.本稿では「患者の治療への動機づけ」を中心に著者の気づきや工夫を紹介する.最初に「人はなぜ依存症になるのか」について認知心理学の視点から考察し,実臨床における典型的な診察場面を描写した.本題の動機づけについては「患者が依存症という疾患を徹底的に理解すること」が重要である旨説明を行い,そのうえで,治療は「断酒意志を上げること」と「飲酒意志を上げないこと」を分けて考えることが大切となる根拠を説いた.最後に「アルコール依存症におけるハームリダクションの本質」について著者の意見を述べた.

索引用語:アルコール依存症, 動機づけ面接, 嘘つき, ハームリダクション>

はじめに
 「お酒が原因で強制入院になりましたが,入院中もお酒を飲み強制退院となりました」.市中のクリニックで依存症外来を行っているとこうしたケースに出会うことがある.奇妙なことに,アルコール依存症では「お酒がやめられない」という症状により強制入院となった患者が,その症状が原因で強制退院となりうるのだ.もちろん個々のケースでさまざまな事情が存在することは理解している.しかし,これがアルコールではなく自傷行為であったなら,自傷行為が原因で強制入院した患者が,入院中も自傷行為を繰り返し強制退院となる事態は起きえないだろう.見ようによっては,自傷行為的な飲酒もあるなかで,なぜアルコール依存症ばかりが精神科医療の場で冷遇されてしまうのか.おそらくその背景には,「やめたい」と話しながらも行動が伴わない患者が,治療者の投影対象となっていることや,アルコールが合法であるため,いまだ底つき体験を経ていない患者に「断酒の必要性を論理的に説明できない」といった治療者側の防衛機制も働くのだろう.本稿では「いまだ底つき体験を経ていない患者をいかに治療へ結びつけるか」をテーマに,著者の考えを述べてみたい.

I.「自分が何者であるのか」を知るには
 「人はなぜ依存症になるのか」と問われたなら,「人はヒトであると同時に,人間であるから」だと言える.人間とは「人と人の間」と書くわけだが,これは,人が一人では生きられない存在であることを物語っている.無人島に一人漂着した場面を想像してみてほしい.はじめは誰もが衣食住の確保に必死となるだろう.しかし,仮にそれらをすべて満たせたとしても,満足はできない.故郷に想いを馳せ,何とか脱出を試みるかもしれないし,遠方に船らしき物体が見えたなら全力で「ヘルプ」と叫ぶのである.そして,そこでのヘルプの対象は,体ではなく心なのだ.
 次に「なぜ人は一人では生きられないのか」を考えてみると,答えは「人は自分が何者であるのかを考えてしまうから」「その答えを見つけるには,他者からの評価や他人との比較が欠かせないから」となる.つまり,人は自分をヒトとして哺乳類ヒト科,人種は黄色,性別はオスなどと定義できても,人間としての自分は他者の存在なくして定義できないのである.人は人とかかわることで,さまざまな感情を手に入れ,人生の意味や意義を見いだす.本稿ではその際の自己重要感や連帯感,安心や自由といった肯定的な感情をもたらす他者を「良い依存」と呼ぶことにする.一方,良い依存をもたない人の心は無人島状態であり,そこでの飲酒は疑似的な「良い依存」として機能する.なぜならアルコールは,人を酩酊させ誇大的な自己重要感や自由といった感情や,鎮静させ連帯感や安心といった感情をもたらすからだ.つまりアルコール依存とは人ではなく飲酒による自己認識の獲得行為と言えるだろう.しかし,それは幻想であるため当人の心が救われることはない.それゆえ,治療の成否は治療者が当人の良い依存になれるか否かにかかっており,そのためには,まずは患者の話に丁寧に耳を傾け,安心感や自己重要感を与えることが欠かせないのである.

II.何をもって「依存症」か
 初診時に「どのくらい飲むと依存症なのか」と問われることは少なくない.著者はかねてより,人の幸せとは,「大好きな人と大好きなことをすること」であり「大切な人が大切にしていることを大切にすること」と考えている.それゆえ「お酒によって大切な人や大切なことを犠牲にしている」と感じながらも飲酒していたなら,それは精神の病と言えるだろう.しかし,「どのくらい飲むと」について,相手の納得する答えを提示することは難しい.なぜなら人は「自身を変えようとする相手」を強く恐れるからである.治療ガイドラインや自記式の質問紙を見せたところで,「医学的にはそうかもしれないが,自分にはあてはまらない」と反発されてしまうのである.もっとも,初対面の相手から「あなたは依存症の診断基準を満たしており治療が必要です」と言われ,「わかりました.よろしくお願いします」と答えたなら,それは依存症ではないかもしれない.そのため著者は,「どのくらい飲むと」の問いに対して,逆に質問をすることで,そらすようにしている.例えば,患者がお酒を飲む理由について「ストレス」を挙げていたなら,「暇なときや嬉しいときは,飲まないのですか」と尋ね,「美味しいから」を挙げていたなら,「美味しくないお酒にお金を払って飲んだことはありませんか」と尋ねるのである.人はいつだって,自身の問題を「まだ,ギリギリ大丈夫」と考える傾向がある.そのため,患者が底つきを体験することなく病識を育むには,患者と治療者が一体となり「自分はなぜ酒を飲むのか」について哲学的な態度で臨む必要があると言える.

III.「美味しいお酒」の正体とは
 先ほども少しふれたが,お酒の「味」について話し合うことは病識の獲得に重要と言える.外来で,飲酒の理由について「美味しいから」と答える患者によく出会う.しかし,そこで「では,あなたは味を重視した地ビールやワインばかりを飲むのですか」と尋ねたなら,答えは決まって,質より量を重視した安価なお酒や,度数の高さを売りにしたチューハイである.また,これは多くの方が誤解しているのだが,アルコールとは本来,不味い飲み物である.不味いがために,果汁や砂糖を入れたり,冷やしたり炭酸を入れたりするのだ.なるほど寒天も砂糖と果汁を加えたならばゼリーとなり,水ですら砂糖や炭酸を加えればサイダーとなる.つまり「美味しいお酒」なるものは本来存在せず,その正体は「樽に寝かせる」「お米を磨く」といった手法で,アルコール本来の不味さを隠せた商品なのだ.世間には,日本酒を口にした際の褒め言葉として「水みたい」と語る方がいるが,「それであるなら水を飲めばいいのに」と考える人は著者だけではないだろう.では,なぜそんなに不味いお酒を,古今東西,人は工夫を凝らして摂取するのかと言うと,1つ目は,飲酒により脳内でドパミンが放出され,「快」と呼ばれる感情をもたらすからであり,2つ目は,人は酩酊することで「ストレスが解消できた」と錯覚するからである.そのため,前者の作用を求める飲酒は合理的であり,後者の作用を求める飲酒は不合理と呼べるだろう.

IV.入院が決まった家族に対して
 患者が入院すると「これで肩の荷が下りた」と話す家族は少なくない.しかし,アルコール依存症という疾患は「入院さえすれば回復へつながる」というケースはわずかであり,冒頭に述べた「入院中の飲酒が原因で強制退院」という事態も起きかねないのである.これが統合失調症やI型の双極性感情障害であったなら,「複数回の入院を経て病識を獲得していく」ケースも存在するのだが,アルコール依存症では,入院回数が増えれば増えるほど,患者は精神科医療への不信感をつのらせ,家族との関係も悪化してしまうケースは少なくない.もちろん入院治療を経て,その後も長らく断酒が継続されるケースも存在する.しかし,それが実現されるには,退院後,断酒会やデイケアへつながったり,相性の良いパートナーや主治医と出会ったり,入院前は存在すら知らなかった組織や人物とのかかわりが不可欠と言える.そのため患者の家族には「患者は断酒している期間のみ社会生活を送ることができる」「本人の酒量のコントロール能力は回復しない」「入院はゴールでもスタートでもなく緊急対処」「自由にお酒を買える退院後が治療の本番」といった疾患の本質を説明しておかなければ,入院治療への過剰な期待から,家族が患者の「良い依存」となる日がより遠のいてしまうのである.

V.なぜ患者は嘘をつくのか
 「この人は本当に嘘つきです」「私はこれまで何度も騙されました」.主治医の前で,このように患者を非難する家族は少なくない.もちろん,家族が憤慨する気持ちもよくわかる.しかしその際,「では本人が,正直に飲酒の事実を述べたならどうですか」と尋ねたなら,「もちろん怒ります」と家族は答えるのだ.つまり,患者もつきたくて嘘をついているのではなく,「本当のことを言うと叱られる」構造から,嘘をつかざるをえないのである.それゆえこうした場面で「この疾患は複数の再飲酒(スリップ)を経て回復へ向かう」「スリップの事実を話しても怒られなければ,患者は嘘をつく必要がない」という実態を家族に伝えておくことは大切となる.しかし,残念ながら,積年の苦労や恨みからか「それでも嘘をついたのは事実」と,なかなか理解を得られないケースもあるため著者は次のような説明も行っている.

VI.嘘つきではなく多重人格
 ここで言う多重人格とは,解離性同一性障害のことを指すのではなく「人の意識下には複数の意志が同時に存在している」という意味である.例えば,Aさんなる女性が「今年のお正月は沖縄へ行きたい」と考えたとする.しかし,調べてみたところ,その時期の旅行代金が通常の3倍ほどであったため,「お正月は沖縄以外の場所へ行きたい」となったとする.一方,予想していた値段と同じ金額でハワイにも行けることを知ったため「お正月は沖縄ではなくハワイへ行きたい」となったとする.しかし,そんな情報ひとつで自分の意見をコロコロと変えるAさんを「嘘つき」呼ばわりする人はいないであろう.つまり「お正月は沖縄」と考えていた彼女の意識下には,沖縄以外にも行きたい地域が多数存在しており,しかし,そこでさまざまな事情が統合され,「沖縄に行きたい」となっていただけなのである.それこそここで,Aさんに大富豪の恋人ができ,彼から「お正月に宇宙旅行に行かないか」と誘われ快諾したならば,彼女の意識下には,「正月は宇宙へ行きたい」という想いも存在したのである.しかし,彼から誘いを受けるまで,その実現性の乏しさから彼女がその想いに気がつくことはまずないのである.繰り返しになるが,人は誰もが多重人格である.例えば読書をしている際にも,意識下には「喉が渇いた」「トイレに行きたい」「あの仕事を片づけねば」といったさまざまな意志が存在している.しかし,それらは「意識下における多数決投票」なるもので1位をとるまで自覚されることはない.では,この話を依存症患者の心理にあてはめてみる.すると,患者の意識下には本人も気がつかないさまざまな飲酒への意志が常に存在することが理解できるのである.つまり患者が家族の前で二度と飲まないと発した言葉に嘘はないのである.しかし,その意識下には「しばらくやめたらまた飲もう」「いつかまたお酒とうまくつき合えるはずだ」などの飲酒意志も存在しており,時間とともに飲酒で失敗した記憶が薄れると,当人の「断酒意志」も低下していき,それが意識下にある「飲酒意志」を下回ったタイミングで患者はスリップするのである.その後はと言うと,どこかのタイミングで家族も気づき当人を問いただすのだが,その際,患者が飲酒の事実を述べない理由は,患者が嘘つきなのではなく,家族間の構造に由来することは先に述べた通りである.

VII.治療について考える
 患者のなかにはいつだって「やめたい自分」と「飲みたい自分」が存在する.そのため,たとえ何年断酒が続いても,当人の「断酒意志:飲酒意志」は「10:0」なのではなく,「6:4」や「5.1:4.9」といった状態と言える.そして,この断酒意志と飲酒意志は互いにシーソーのように連動するとは限らないため,「12:11」や「2:1」といった表現が適切なときもあるだろう.「6:4」といった形で断酒していた患者が,職場で酷いパワハラにあったなら,飲酒意志だけが上がり「6:7」となりスリップするかもしれないし,財布を落とした際には,身銭が戻ってくるまでは「6:1」と大幅に飲酒意志のみ下がるかもしれない.そのため本症の治療は,意識下にある「断酒意志」と「飲酒意志」の各々に,別々にアプローチすることが有効となる.

VIII.断酒意志を上げる
 患者の「断酒意志」を上げるべく,当人に「断酒のメリット」を説く治療者や家族は少なくない.しかし,その主張が的確であればあるほど,患者は強い不安に襲われ,患者のなかで上がるのは「断酒意志」ではなく「飲酒意志」となってしまう.では,どうすれば「断酒意志」が上がるのかと言うと,「患者が依存症という疾患を徹底的に理解する」ことにつきるのである.依存症の形成過程(表1)はもちろん,先に述べた「人は誰かに依存しなければ自己を定義できない」「酩酊とはそれが叶わない際の心の痛み止めである」「やがて誰もが必然的に周囲から嘘つき扱いされてしまう」といった疾患の本質と恐ろしさを医師が患者に伝えられたなら,断酒意志は必ず育まれるのである.

表1画像拡大

IX.飲酒意志を上げない
 そもそも「飲酒意志はどこにあるのか」というと,それは患者の内側ではなく外側だと言える.依存症治療において,渇望を呼び起こす要因を「引き金」と呼ぶが,先の宇宙旅行の話と同様,患者は「絶対に飲めない」場面や状況に身をおかれたなら,当人の飲酒意志が上がることはない.そのため,ここでの治療目標は「渇望に負けない自分を作る」ではなく「渇望が出にくい環境を作り続ける」ことである.次に「飲酒意志を上げない」具体的な治療について紹介する(表2, 表3, 表4).
 患者は診察ごとに「一行日記」と呼ばれる飲酒について記した日記を持参し,主治医は日記の内容と,患者が「THE・TPO」に基づき設定した「マイルール」の遵守(○・△)について確認する.スリップの記載(×)があった際は,叱るのではなく,記載できた事実を称賛し,「マイルール」の見直しや,患者の治療意志を確認する.患者がスリップした際に,まるで「癌が再発」したかのごとく騒ぎ立てる家族は少なくない.しかし,問題の本質は「患者がスリップをした後に,飲酒が止まらなくなる」ことであり,たとえスリップしようとも,そのタイミングで当人が主治医や家族に報告できたならば,それは治療が失敗したのではないと言える.そして,もし,この一行日記が中断されたならば,改めて疾病教育を重ねていき,患者の「断酒意志」を上げることで再開へつなげる必要がある.

表2画像拡大表3画像拡大表4画像拡大

おわりに
 最後に,本疾患におけるハームリダクションについて意見を述べ,本稿を終えたいと思う.薬物依存症の治療では「ハームリダクション」という用語がある2).これは例えば「覚醒剤依存症では患者同士が注射器の使い回しをするためHIVの感染が蔓延する」という現状に対し,「覚醒剤の使用量を今すぐ減らすことは困難だが,注射器が使い回されなければHIVの感染を容易に減らすことができる」という視点で,「行政が無料で清潔な注射器を繁華街のトイレなどに置き提供する」という施策である.馴染みのない方が聞くと,とんでもない話に聞こえるかもしれないが,すでに欧州では有効な施策として運用されている.この話をアルコールに置き換えたなら,どのようになるのか.いわゆる「減酒」をハームリダクションと呼ぶことは,どこか異なる印象を受ける.なぜならハームリダクションとは,当該物質の使用量が減らせない際に考えるセカンドベスト(次善策)だからである.では,アルコール依存症において「何がその次善策にあたるのか」と言うと,それは「自殺の予防」ではないだろうか.自殺とアルコールとの関係については精神科医であれば誰もが知るところである.アルコールによる二次的なうつ病の発症だけでなく,普段は恐ろしくて起こせない行動が,酩酊することで恐怖心が和らぎ実行されてしまうとの報告がある1).一方で,アルコール依存症の治療は本当に難しい.医師は患者の酒量が一向に変化しなければ,「治療者としての無力感」をもたらす相手を憎むリスクを抱えている.そしてその負の感情に押しつぶされそうになったなら,正論を振りかざし,転院や入院を勧めてしまうおそれもある.しかし,このハームリダクションという視点に立ったなら,医師はその責任感を少し手放しても良いのかもしれない.なぜなら,たとえ患者の酒量が減らなくとも,治療者が肩の力を抜くことで,頻回かつサポーティブな診察が継続され患者の自殺が防げたなら,それはセカンドベストどころかワンオブベストと言えるからである.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 張 賢徳: 人はなぜ自殺するのか―心理学的剖検調査から見えてくるもの―. 勉誠出版, 東京, 2006

2) 松本俊彦: ハーム・リダクションの理念とわが国における可能性と課題. 精神経誌, 121 (12); 914-925, 2019

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