Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第123巻第6号

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特集 同意取得が困難な事例を対象とした症例報告や研究における問題点と課題
当事者にとって症例報告の意味とは何か―同意取得が困難な事例を含めて,当事者・家族の立場からの検討―
夏苅 郁子
やきつべの径診療所
精神神経学雑誌 123: 354-360, 2021

 症例報告における本人同意の倫理規定を「煩雑な倫理上の縛り」「学問の自由に反する」ととらえる方もいるが,本人同意が担当医との信頼のうえで得られるものである以上,症例報告は当事者と医療者を結ぶ大切な絆である.当事者・家族は精神医学への信頼をもとに,精神医学の発展のために惜しみない協力をしたいと願っている.だからこそ,本人同意は原則必須なのである.医療では患者と医療者が対等性を保つことはかなり困難であり,患者・医療者双方が努力して「共同意思決定」を行うことが望ましい.しかし,本特集で取り上げる司法精神医学,児童虐待,ゲノム医療の3つは「司法における被告人,親に対する子,遺伝・ゲノムという高い専門性」という権力勾配があり関係者が対等性を保つことは一般医療に比してさらに難しい.また上記の3例は患者の個人情報という観点でも本人同意を一層困難とさせている.一方でこれら3つは,精神疾患の脳病態や環境,さらには取り巻く社会構造が複雑に絡んでいる可能性があり,3つにかかわる症例報告は精神医学への寄与が大きいと思われる.著者は当事者・家族の立場から,同意取得困難な事例も含めて「当事者にとっての症例報告の意味」という観点から考察を行った.昨今は当事者研究により「当事者や当事者の家族による学会発表」という新しい流れも出始めている.症例報告には,医学の進歩という目的以外に「当事者の回復につながる」「当事者のトラウマを生まない」「スティグマを助長しない」という意味が含まれるべきであり,この意味を支えるのは医療者との信頼関係である.学会は今後,オープンアクセスや当事者研究などの新しい動きに対応できるようなガイドライン作成を考える時期にきているのではないだろうか.

索引用語:倫理, 当事者, 家族, 症例報告, 同意>

はじめに
 当事者・家族は,精神疾患の病態解明や治療薬の開発を切に願っている.リカバリーは大切だが症状を抱えながらもプライドをもって生きることは,症状が重い場合は現実には容易ではない.社会問題となっている強制入院下での身体拘束も,医療側の人手不足の問題以前に,治療により症状が改善し隔離・拘束が必要ではなくなることが何よりの解決であり,病態解明の研究は是非進められる必要がある.
 そのうえで,ヘルシンキ宣言第8条(2013年改訂版)の重みを研究者は再認識しなければならない.大森9)は「『医学研究の主な目的は新しい知識を得ることであるが,この目標は個々の被験者の権利および利益に優先することがあってはならない』のである.研究遂行と患者の利益と権利が解決しがたく相反したときには医学研究が引かざるを得ない」と述べている.著者6)は本誌に当事者・家族の立場から本人同意について自身の考えを述べた.本人同意が軽視されると,真実を追求するというアカデミアの目的にとって最も重要であるはずの患者・医師間の信頼が損なわれるおそれがある.日本精神神経学会(以下,本学会)倫理委員会では『症例報告を含む医学論文及び学会発表におけるプライバシー保護に関するガイドライン』が作成されているが8)このガイドラインに対して同意必須化は臨床・研究を貧困化するという意見3)もある.当事者・家族の立場としては,もし症例報告の対象となる当事者が自分の家族だったら,と想像力を働かせて考えてみることを提案する.自分の知らない所で許可もなく,自分や家族の知られたくない秘密を公にされることに,どれだけの人が耐えられるだろうか.著者の本人同意についての基本的な考え方は上記である.症例報告によって患者の心を傷つけることは,医療にかかわる人間の行為として決して許されるものではない.
 本稿では著者の考え方を踏まえつつ,対処困難である司法精神医学,児童虐待,ゲノム医療の3つについて当事者・家族の立場から本人同意について考察する.また昨今は当事者研究の立場から当事者や当事者の家族による学会発表という新しい流れも出始めている.そうした流れやオープンアクセスなど新たな時代に対して本学会はどのように受け止め対応していくべきなのか,当事者にとっての症例報告の意味という観点から考察する.

I.同意取得困難な状況が抱える課題
1.犯罪と児童虐待について
 犯罪や児童虐待の背景に精神疾患があると推定される場合,当事者は医療につながることができずセーフティーネットからもこぼれ落ちた人であることが多い.事件が起きた原因は複雑で医療につながっていれば事件を防げたかどうかは予測困難だが,医療につながることのできない当事者への対処が現在の精神科医療の喫緊の問題であることは確かである.未治療の当事者への対応について医療制度・社会制度改革を進めるためにも,精神医学的見地に立った症例報告は非常に重要である.しかし,事件の詳細を学会発表や論文で公表されることを躊躇する当事者がかなりいることは想像に難くない.何より,個人情報保護法では守るべきは本人の秘密だけではなく関係者の秘密も含まれるが,関係者の問題はこれまであまり考えられてこなかったのではないか.関係者として位置づけられる家族の立場から著者の考えを以下に記述する.
1)司法における家族の思い
 著者は家族会にも属しているが,犯罪は精神障碍者の家族にとって他人ごとではない心配事である.精神科通院歴のある人が事件を起こすと,マスコミに大々的に報道されたり憶測による診断名がネットに流され,本人の犯罪=家族の責任,原因は家族関係と根拠なく書き立てられることもある.第三者に援助を求められず家族だけで対応しようとして孤立し,家庭という密室で当事者の家族への暴力,逆に家族から当事者への暴力では死亡に至る事例もある.
 関係者である家族としては論文として公表されると,世間から家族の責任を問われ日常生活が奪われるのではないか,刑が減軽されると「精神障碍者は何をやっても罪に問われないのか」という逆差別的な批判が起きるのではないか,精神の病気は治らないので,ずっと刑務所に入っていてほしいなどといった中傷を恐れ不安になるのは当然である.なるべく目立ちたくないと思う一方で,歪曲された報道に対しては公的な立場から正しい説明をしてほしいと希望する.正しい説明を求める気持ちは,国民の1人としても同じである.「事件のどこまでが精神症状によるものなのか,裁判結果だけでは曖昧でよくわからない」「事件が起きた原因がわからなければ,予防策もとれないのではないか」という不安から,可能な限り事件が科学的,医学的に検証されることを期待する.
 しかし司法には,被告人と検察官の間に権力勾配がある.それぞれの利益のため,法廷に出される事実は必ずしもすべてではない.そうであるならばアカデミアは真実を探求する場であるという大原則に立ち,精神医学こそが事件の動機や背景における真実を調査して公表すべきであろう.
 症例報告によって傷つく人が出ないためには,精神鑑定での同意が得られるような信頼関係が求められる.死刑の永山基準で知られる永山則夫の鑑定1)では,まさに鑑定の場で鑑定医が永山と精神療法的な関係を築き,彼が事件と向き合うきっかけを作った.永山自身がそこまで成熟し成長できたからだが,そこに導いたのは鑑定医の精神医学的なかかわりだと推定される.判決自体は検察官との駆け引きや過去の判例・世相が反映され精神鑑定の結果がそのまま判決につながるものではないが,精神医学においては被告人と鑑定医との関係こそが1つの成果である.真実を探求するというアカデミアの役割に基づき,症例報告では被告人の糾弾ではなく中立的な立場で同意が得られること・発表により被告人のトラウマを生まないこと・スティグマの助長につながらない配慮が必要である.当事者は症例報告をきっかけに真実と向き合うことで心の痛みやトラウマを抱えるかもしれない.当事者がそれに耐えられない場合は「症例報告によって傷つく人を出してはならない」という原則に立ち,当事者に語りと同意を請うのは控えるべきである.
 医療者のなかには「同意の有無で公表される情報にバイアスがかかり科学が歪むという可能性はないのか?」と案ずる方もおり,科学者として危惧するのは当然であろう.橳島7)は「科学する欲望が科学の本質であるならば,欲望を抑制する原理が倫理である」と述べている.症例報告により患者が痛みやトラウマを抱える状態となるなら,またそうした事態を回避できないのであれば「患者について発表したい」という欲望を抑制することが倫理である.「科学として歪みなく追求したい」という欲望は抑制されなくてはならない.
2)児童虐待事例における家族の思い
 児童の虐待事例では,虐待する親と虐待される子の間に圧倒的な権力勾配がある.虐待事例でなくとも親は子にとって圧倒的に強い立場であり,それは1)で述べた被告人と検察官の権力勾配とも共通する.
 著者は精神疾患の親に育てられた子の実態を精神科医に知ってほしいという目的をもって,多くの場で著者の生い立ちを語ってきた.しかし会場に来るのは非専門職か医療者では看護職や福祉職が多く,精神科医が聞きにくることはほとんどなかった.精神疾患の親をもつ子たちのなかには,子ども時代に親から包丁を向けられたり冬に水風呂に入らされたりなど被虐待の経験者がいる.最近はこうした子の立場の方が成人になって声を挙げることが増え,民間の場ではすでに事例発表もされている.このような事例では,患者である親はほとんどが未治療や治療中断例である.
 しかし学会では,子の立場の人がこうした実態を症例報告しようとしても患者である親の同意がなくては原則,発表は不可能である.実際には「同意を得られない親」ほど酷い子育てをしている場合が多く,子の立場として納得がいかない方もいる.「学会の倫理規定に縛られるくらいなら,学会で発表などしなくてもいい」「学会で発表するからには研究者として扱われるとなると,違和感があり躊躇してしまう」「当事者が語ることの意味を学会には理解してほしい」「子が生活する大変さを医療者に知ってほしいだけなのに,そこに学術性を求められるとつらい」「守らなくてはならないのは,どの権利も同じではないのか」「教育・福祉には『子どもの利益』という考えがあるが学会にはないのか」などの意見が,著者のもとに寄せられた.子の立場からしてみれば,こうした思いをもつのは当然ではないだろうか.
 一方で著者自身は,母親と自身のことを公表後,多くの研究者や臨床医と接することで「研究」に対する考え方に変化が起きている.ナラティブな語りの意義と同時に,多数の症例を数字に置き換えて初めてわかる事実があることに気づき,メタ解析による研究にも目を通すようになった.また精神疾患は「症候群」であり,症状や診断名が重なり合い多様な状態を示す.そのうえに事件が起きた家族の社会での位置づけや世相が加わり,結果として子への虐待に至るというプロセスがある.そう考えると著者の事例は「精神疾患の親をもつ子」のごく一部を表しているにすぎない.公表することで一部が代表例のように受け止められ,良くも悪くも「精神疾患のイメージ」が偏り,スティグマを助長することは防がねばならない.同じ精神疾患の親に育てられた子でも社会適応が良い事例もあり,必ずしも悪い状況を辿るとは言いきれない.精神科医療では予後が良い人達は声を挙げない(挙げたくない)傾向があり,結果として診療に不満をもつ人たちの声が目立つという対象バイアスの問題は慎重に考慮されなければならない.
 熊谷4)は「通常の社会では主治医と患者,親と子など圧倒的な権力の差があり公平・対等なやりとりは望めないが,『真実を探求する場』であるアカデミアで発表することで,権力勾配がある関係でも『真実』を語る可能性が高まると考えたい」と述べている.こうした場合,当事者にも「真実を語る」ことが求められる.真実を語ることは,当事者自身にとってなかなか難しいことである.著者自身も公表の目的は「子の実態を精神科医に知ってもらい診療のあり方を改善してほしい」というものであったが,その裏に「親や精神医学へのルサンチマン」が潜んでいたことを公表後の数年を経てやっと認められるようになった.これが著者の真実である.
 親を糾弾する目的の発表や論文では,本人同意は望めない.あくまでアカデミアとして中立的に真実を追求すること・当事者である親も真実を語れるような状態であることが必要であり,それを前提とした本人同意だと考える.これは司法の場合と同じである.黒田5)は児童虐待のため受刑中の親へアンケート調査を行い,回答者から「アンケートに回答したことで,自分の気持ちが見えてきた」という感想が送られてきたと述べている.これは「中立的な学術としての調査,同意に関しては安全第一に考慮,協力者の利益保全を優先,個人情報に関する不安に丁寧に説明する」などの努力をした結果であろう.回答者が信頼に基づき正直に答えたことで,「トラウマを抱えることなく」自分と向き合うことができたのではないだろうか.

2.ゲノム医療における本人同意について
 犯罪や虐待と一見無関係にみえるゲノム医療だが,「症例報告によって新たな心の傷をもつ人を出してはならない」という観点からみれば,犯罪や虐待と共通する問題を含んでいると思われる.
 現在,ゲノム解析技術の進歩によりほとんどの疾患に何らかの形でゲノムが関与していることがわかっている.ゲノム解析研究は,たとえ当事者の利益にはすぐにはつながらなくても,未来に向けて不可欠な研究である.著者はゲノム医療が進み精神疾患の病態解明がなされて,精神疾患が「治る病気」となることを願っている.これはすべての当事者・家族の願いでもある.現在の精神科治療は原因が解明されていないなかでの治療であり,治療を受ける当事者からすると「やってみなくてはわからない」なかで治療を受けているに等しい.また,原因がわからないことに人は恐怖を感じる.精神疾患を「危険だ」と思う理由の1つは「原因がわからない」ことにあるので,病態解明は偏見の是正のためにも必要である.
 一方で,当事者・家族からみた「精神疾患と遺伝」のイメージは現在でも決して良いとはいえない.医療者も,長らく使われてきた「遺伝負因」という用語に象徴されるように,遺伝に対して良いイメージはもっていないのではないか.ゲノム解析が進むと「将来の発病の可能性」が判明し,当事者・家族は結婚や就職に不利になるのではないかと不安をもちやすい.症例報告に家族が同意しても親戚や同じ集落の縁者らが反対することも多く,本人同意の取得には高いハードルがある.この点は司法精神医学・児童虐待と同様である.
 臨床遺伝専門医の1人である石塚2)は「少なくともわれわれ精神科医は,精神疾患の家族歴を多様性の範疇として中立的に捉えるのが妥当ではないだろうか」と述べている.ゲノム医療という極めて高い専門性は,司法精神医学・児童虐待と同様に当事者との間に権力勾配を作りがちである.「真実を探求する」中立的な姿勢こそがアカデミアの存在価値であり,権力勾配に対する解決策だと著者は考える.
 また,長らく当事者・家族・世間の間に広まった遺伝への偏見を解決するためには,まず身近な存在である臨床医がゲノム医療の重要性を認識すべきではないか.ゲノム解析は病気の理解,予防や早期の適切な治療など大きな利益につながりうることを,中立的に当事者・家族へ説明する必要がある.自分の主治医が遺伝を語れば,当事者の理解も進むのではないか.Fusar-Poli, P.ら10)は,精神疾患と「環境要因」との関係を出生前から遡りライフサイクルを通して考察している.「遺伝か環境か」の二者択一で悩みながら青年期を過ごし誰からも説明をされなかった著者は,このような「遺伝も環境も」という中立的な受け止め方を臨床医がすることが必要だと考える.そうした考え方を支える臨床遺伝専門医が精神科医のなかに増えるべきである.一般精神科医も,難病に含まれている遺伝性疾患などについての文献に目を通し,日常診療においてゲノムバリアントが同定されている難病(例えば,22q11.2欠失症候群など)を合併した患者が目の前に現れる可能性があることを念頭におくことが必要であろう.当事者・家族が遺伝について主治医に躊躇なく相談できる環境は,何より遺伝への偏見をなくしゲノム解析への当事者・家族の協力を推進する.精神科医すべてが遺伝やゲノムについて高度な専門知識をもつ必要はないが,患者から遺伝相談を受けた際に身近に紹介できる遺伝専門医がいることが求められる.ゲノム医療の入り口を広げるさまざまな努力をして精神疾患における遺伝への理解を深めてもらってこそ,その結果として本人同意が得られやすくなるのではないだろうか.

II.当事者にとっての症例報告の意味
 「症例報告によって新たな心の傷をもつ人を出してはならない」,この原則を念頭に,ここでは司法精神医学・児童虐待・ゲノム医療に限らず,症例報告全体に対して「当事者にとっての症例報告の意味」について考えたい.
 症例報告に同意する際,当事者はどのような気持ちをもって同意するのであろうか.「医学の進歩に貢献したい」「目の前の担当医の役に立ちたい」という気持ちもあれば,単に事務的に同意するという方もいるだろう.担当医から症例報告についての説明を受けるなかで,当事者は自身の症状や経過を改めて振り返ることになる.自身の発症の全容を初めて聞く人もいるかもしれない.そう考えると,同意するかどうかの決定は簡単にできるものではない.時には一度承諾しても決定を翻すこともあるだろう.その逆も,またあって当然である.
 医学の進歩と当事者・家族を個人として尊重するという観点は同じ線上で秤にかけられる問題ではない.それぞれの立場がその正当性を論じていては堂々巡りになる.医学の進歩は研究参加者の協力があってこそ成り立ってきたはずだ.個人情報の有用性と個人の権利利益の保護が相反したときには,医学研究は引かざるを得ないという大森の考え方に著者は賛同する.
 ここで,医学の進歩という目的とは別に当事者にとっての症例報告の意味を考えてみたい.
 前述したように著者が自身と母親について症例報告をした背景には,親や精神医学へのルサンチマンがあった.著者は公表により多くの人に話を聞いてもらったことで,自身の真実を認めることができるようになった.真実に正直に向き合えたことで,そこから一歩踏み出して親子関係や精神医学を新たな視点から考え直したいと思えるようになった.こうしたプロセスは著者の回復につながり,これまでの傷つきやスティグマからの解放となった.永山則夫もそうした紆余曲折を経て,最後には自身の鑑定を受け入れたのではないだろうか.
 著者は当事者が本人同意を求められる状況,また当事者研究の1つとして当事者自身や家族が学会で発表する状況は,当事者・家族にとって大きなストレスであると考える.しかし真実に対して当事者が時間はかかっても最後に正直な気持ちで向き合うことができれば,症例報告は当事者の回復に寄与すると考えている.これが,著者が考える当事者にとっての症例報告の意味である.
 本人同意に至るには当事者の心のなかでさまざまなプロセスが必要であることを理解のうえで,それに医療者が伴走する姿勢が必要である.そうした姿勢を通して信頼関係が築かれるのではないか.また,当事者自身が正直な気持ちにいまだ至っていないにもかかわらず,発表を希望する場合もあるかもしれない.そのような発表は当事者の痛みをさらに増幅させるだろう.痛みに耐えられないと思われるケースに対しては,精神医学の立場から配慮することが必要である.
 当事者の回復につながる症例報告という考え方に立てば,倫理規定を煩雑な事務手続き,学問の自由に反すると言うことはできないはずである.症例報告によって当事者の回復が促される,トラウマを抱えずにすみ,偏見が助長されないための新たな倫理ガイドラインが,オープンアクセスの時代において必要なのではないだろうか.

おわりに
 司法精神医学・児童虐待・ゲノム医療という,3つの領域に共通する「症例報告における本人同意取得の困難」について,当事者・家族の立場から考察した.精神医学・精神医学研究の目的とは「当事者の生命・人生・生活を良くすること」ではないだろうか.医学研究の発展と病態解明・創薬を待ち望みつつも,症例報告への同意に躊躇する当事者・家族の心情を理解する必要がある.医療者と当事者が話し合い信頼のうえで本人同意を得ることで,回復が促されるような関係性が望ましい.そこに医学の進歩という目的と同時に,症例報告のもう1つの意味がある.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) 堀川惠子: 永山則夫―封印された鑑定記録―. 岩波書店, 東京, 2013

2) 石塚佳奈子, 尾崎紀夫: 「遺伝」を継承と多様性で語る精神科医療に―精神疾患の遺伝要因を当事者やその家族とどう話し合うか―. 精神経誌, 121 (8); 602-611, 2019

3) 小林聡幸: 症例報告への患者同意必須化は臨床・研究を貧困化する. 精神経誌, 120 (9); 752-756, 2018

4) 熊谷晋一郎: 当事者研究における倫理を考える前提として―スティグマ・トラウマ・トゥルースの観点から―. 第61回日本児童青年精神医学総会, 倫理委員会セミナー. 2020

5) 黒田公美, 白石優子: 児童虐待刑事事件の生物・心理・社会要因に関する質問紙調査―妥当性, 安全性および倫理的配慮―. 精神経誌, 123 (6); 333-341, 2021

6) 夏苅郁子: 当事者・家族からみた精神医学研究の倫理―症例報告における本人同意を中心に―. 精神経誌, 121 (11); 858-864, 2019

7) 橳島次郎: 生命科学の欲望と倫理―科学と社会の関係を問い直す―. 青土社, 東京, 2014

8) 日本精神神経学会: 症例報告を含む医学論文及び学会発表におけるプライバシー保護に関するガイドライン. 2018 (https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/patient_privacy_considerations_guideline20180120.pdf) (参照2020-09-30)

9) 大森哲郎: 症例報告における本人同意原則化の必要性―投稿規定改訂(2018年4月)に添えて―. 精神経誌, 120 (9); 757-758, 2018

10) Fusar-Poli, P., Tantardini, M., De Simone, S., et al.: Deconstructing vulnerability for psychosis: meta-analysis of environmental risk factors for psychosis in subjects at ultra high-risk. Eur Psychiatry, 40; 65-75, 2017

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