Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第122巻第7号

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特集 高齢者に求められる精神療法とはどのようなものか
高齢者の精神療法―その課題と方法―
北西 憲二
森田療法研究所/北西クリニック
精神神経学雑誌 122: 521-527, 2020

 高齢者は,さまざまなレベルの喪失体験に直面しながら,生きていく.それは生と死の狭間,過渡期を生きることであり,生老病死の苦を凝縮して生きることである.過渡期としての老いの理解として,①老いと失うこと:心と体,そして現実とのかかわりのなかで,さまざまなレベルの喪失を体験し,その変化のなかで生きていること,②適応不安:喪失に伴い高齢者は「自己の現在の状態をもって環境に順応しえないという不安」に陥る.その不安の背後にある生きる欲望の存在に注目することが臨床上重要となること,③境界があいまいになること:身体と意識,世界と自己,時間と空間意識などのさまざまな次元で境界があいまいになること,「今ここで」生きているという実感が失われやすいこと,④過渡期としての老いの現象:些細な刺激にゆさぶられやすいこと,不安,抑うつ,痛みとともに生きること,社会的孤立などが見いだせること,⑤高齢者のセクシャリティ:時に生々しい形で表現されるが,その柔軟な対応が求められる,などが挙げられる.高齢者の精神療法の要諦として,①共感と理解,肯定:その人生とそこでの感情体験を肯定し,積極的に承認していくこと,②シンプルな行動処方:生活に即したシンプルな行動を処方し,その取り組みを促すこと,③若さへの執着(「べき」思考):それをゆるめ,その人に見合った生き方を一緒に探すこと,④ステレオタイプな高齢者像:そこから治療者,家族が自由になること,⑤高齢者を支える環境:緩やかで,持続可能な環境作りへの介入,⑥一人でいる能力(豊かな孤独・自閉):そこへの注目とその積極的肯定,などがある.さまざまなレベルでの喪失をありのままに受け入れ,そこへの執着を減らすこと,諦念が,高齢者に見合った生き方を可能とすると考えられる.

索引用語:高齢者, 精神療法, 喪失, 受容, 諦念>

はじめに
 高齢化社会とは,延長した老年期を送ることであり,喪失体験に直面しながら,死と生の狭間の過渡期を生きることである.さまざまな区分がありうるが,個人差がより顕著となるのが老年期である.健康で活動的な老年期を過ごす人たちもいれば,さまざまな身体的,心理的,社会的問題を抱えて,不安,抑うつ,絶望に陥っている人たちもいる.さらに超高齢者においては,精神的・社会的離脱でもなく,サクセスフル・エイジングという中年期から連続する活動への重視でもない老年的超越が注目を浴びている9).これは質的な世界観の変化で,あるがままに老いを受け入れ,心の平安を得ている状態で,新村も指摘するように森田療法のめざす生き方7),さらにいえば東洋的な自己の変容と重なるものがある.
 過渡期としての老いの理解と高齢者の精神療法の要諦を述べる.

I.過渡期としての老いの理解
1.老いと失うこと
 老いはすべての人に同じように訪れるものであり,その訪れ方は,de Beauvoir, S.1)がゲーテを引用して述べているように「われわれを不意に捉える」のである.そして「万事共通の境涯―病気とか,親しいものとの仲たがいとか,死別とか―が自分の身に起こると,われわれはしばしば愕然となるのである」.
 われわれを不意に捉えるものは,さまざまなレベルでの喪失,失う体験である.仏教ではそれを生老病死の「苦」と捉え,その解決を模索してきた.老いとは,生老病死の苦を凝縮して生きることであり,思い通りにならない身体,心,現実をむきつけに突きつけられる.心と身体,社会,実存レベルでの危機との折り合いが,その人の生のあり方を決めていく,といってもよい.一方,精神療法的見地からは,その危機をおだやかに,時にはある種の諦念をもって受け入れていくときに,老いにおけるその人固有の生き方がみえてこよう.それは喪失と生成のダイナミズムとして捉えることができる4)
 老いとは,喪失と生成のダイナミズムを日常的に生きることであり,アンチエイジングではなく,適切にしっかりとその人として老いていくことが重要と考えられる.

2.適応不安
 老いることは,さまざまな心身の機能が衰えることである.それは徐々に,あるいは突然にそのような事態に直面する.そのようなときに,われわれは不安,なかでも適応不安を覚える.
 適応不安とは「自己の心身の状態が自己の生存をまっとうするうえに,不利な状態にあると思う不安気分.ことばをかえていうと,自己の現在の状態をもって環境に順応し得ないという不安」5)である.これは神経症の準備状態として,高良が提唱した概念である.この適応不安は,青年期から成人期にかけて,自己の活動範囲が広がり,社会化を成し遂げていくプロセスで感じる不安をよく説明するものと思われる.
 しかし高齢者における喪失の経験は,適応不安を引き起こす.著者は高齢者ほどこの不安に陥りやすい,と考えている.そしてその不安の背後にその人としてよりよく生きたいという生きる欲望,生きる力があることを見逃してはならない.この理解は,高齢者本人,家族,そして治療者がしばしば陥りやすい「もう年だから」というステレオタイプな反応とは明確に一線を画する.またこの視点から,高齢者の不安を理解し,現在のあり方をともに考え,その人に合った生き方を模索していくことが高齢者の精神療法には必須であると思う.
 このような適応不安は,初期の認知症や軽度認知障害(mild cognitive impairment:MCI)などの不安を理解し,介入する場合にも有用であろう.MCIの患者がそれを受け入れることは難しく,常に受容と否認の間で揺れ動く3).記憶力の低下を喪失体験と捉えれば,それを受け入れる方法や,今の状態に見合った生き方や生活の仕方をともに考えるという介入が可能となる.

3.さまざまな次元で境界があいまいになること
 老いるにあたって,一般的には,身体の老いが先行し,それに意識(若さへの執着)と折り合いをつけることが難しいとされる.
 高齢者は,環境からの刺激(気候の変化,環境の変化,喪失など)にゆさぶられやすく,その対応に戸惑い,不安となる.身体の不調がそのまま心の不調となりやすく,その逆もありうる.
 しかし老いることは,死を迎え,滅びていく自分の存在を受け入れるうえで重要なプロセスである.森於菟は次のように述べる6)
 ただ人生を茫漠たる一場の夢と観じて死にたいのだ.そして人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番よい.というのはあまりにも意識化され,輪廓の明らかすぎる人生は死を迎えるにふさわしくない.活動的な大脳が生み出す鮮烈な意識の中に突如として訪れる死はあまりにも唐突すぎ,悲惨である.そこには人を恐怖におとしいれる深淵と断絶とがある.人は完全なる暗闇に入る前に薄明の中に身をおく必要があるのだ.
 老いという喪失のプロセスをそのまま受け入れていくことは,東洋的な老年的超越へとつながっていく.それは実存的な老いのあり方であり,適切に老いることである.心身の耄碌状態という喪失を受け入れていくことが諦念を準備し,それがおだやかな生の欲望のあり方へと結びついていく.これは活動への執着や喪失への恐れも超えた老いのあり方であろう.
 しかしここに到達することは容易ではない.多くの高齢者は心身の健康を失い,世界でのさまざまな関係を失い,この喪失体験にゆさぶられている.老いという喪失体験を受け入れ,その人に合った生きる欲望の形を見いだすための援助が高齢者の精神療法の基本的課題となる.

4.過渡期としての老い
1)ゆさぶられること
 この過渡期には,些細な環境からの刺激でゆれ,高齢者自身も思わぬ反応を示すことになる.いわゆる老成というイメージと異なり,不安,抑うつ,怒りなどの感情を受けとめることができず,それにゆさぶられ,待つことが難しくなる.高齢者がキレるということもこのような事態を物語っている.
 過渡期としての老いは,時間の経験にもみられる.今までの発達理論では,ある年代の課題を達成して,次の年代に移行するという統合モデルである2).老いとはそのような直線的な統合モデルでは,十分理解できない事態であると著者は考えている.
 高齢者では,しばしば子ども時代から現在,未来が交錯し,重なり合い,その境界があいまいとなり,自己の存在が不確かとなり,現実世界の立ち位置がつかみづらくなる.
 高齢者の精神療法では,そのような身体的,精神的,社会的生きづらさ,不自由さを理解しながら,「今ここで」のその人に見合った生き方ができるように援助する必要がある.
2)不安,抑うつ
 さまざまなレベルでの喪失は,当然のことながら,不安,抑うつを引き起こす.それはあらゆる病態を超えて存在する.そのための対応が高齢者の精神療法では必須となる.
 高齢者の精神療法は,この不安,抑うつを取り除くことのみを標的にするのではなく,そこでの喪失の痛みを理解し,その人に合った力の抜けた生き方をともに模索することが肝要である.
 不安,抑うつに圧倒されてしまう高齢者に,「今ここで」その人にできることを一緒に見いだし,それに取り組んでいくことが精神療法となる.ここに治療者の柔軟な発想が求められる.
3)痛みとともに生きること
 老いを生きることは,痛みに代表される体調不良とともに生きることである.それは突如として高齢者を捉えることも稀ではない.多くの高齢者は,健康的で,活動的な人生を送ってきて,突然痛みを伴う体調不良に襲われる.そしてその原因が特定されない慢性の痛みは,救急受診を繰り返しても原因がわからないまま「年のせい」と片づけられて,対症療法的な処置で終わる.そのような対応は,患者の不安,医療不信,無力感を強め,ドクターショッピングに追い込み,それに家族が巻き込まれ,本人も疲憊する.
 この現象を検討すると,不安,抑うつを伴う痛みからの回避行動(歩行などが困難となり,外出を避けるなど)と周囲を巻き込み,原因不明のまま症状が固着し,増悪する.この理解なくしては,高齢者の心気症や慢性疼痛への適切な介入は難しいと考えられる.
4)社会的孤立
 人は老いると人とのつながりが減り,人間関係が狭まった結果特定の人だけに頼るようになったり,社会的に引きこもりがちになる.そして社会的孤立は高齢者に自分の生活場面での立ち位置をつかみづらくする.
 ここは逆説的だが,一人でいる能力を磨くことが,適切に人に頼ることを可能とする.そのために,高齢者の生活そのものに注意を払い,何ができて,何ができないのかを具体的に検討し,できることを維持していくという対応が必要になる.

5.高齢者のセクシャリティに注意を払うこと
 de Beauvoir1)が指摘するように,高齢者にとって生々しいセクシャリティは決して無縁ではない.その表現は倒錯的なものも含んださまざまな形をとっていく.それらが事例化するときには,治療者は老いという常識的な枠組みにとらわれない柔軟な対応を求められる.家族,周囲は一般に拒否的となり,事態をしばしば紛糾させるからである.
 認知症のある時期には,このようなセクシャリティがむき出しに表現され,介護の現場でその対応に苦慮することも稀ではない8).それをタブー視しないで,どのように向き合うかは高齢者の介護において極めて重要となろう.
 それ以外にも臨床場面で,著者の経験からは,性機能不全で悩む男性たちと嫉妬にさいなまれる女性たちがよくみられる.
 高齢の男性が勃起障害で悩むことも稀ではない.その背後には,青年期心性と強迫的なコントロール欲求が見いだせる.それはある意味では若さへのとらわれ,あるいはその喪失への恐れといってよい.老いという喪失を受け入れる作業が,むしろ高齢者の情緒的で親密な関係を構築することを可能とする.
 高齢の女性のセクシャリティをめぐる葛藤の多くは,嫉妬という形で現れる.それは妄想性障害の嫉妬型や認知症での嫉妬妄想である.その嫉妬妄想は,しばしば配偶者への攻撃,時には暴力,さまざまな場面での支配的言動として表現される.そのような言動に対して,家族や医療従事者は,それをいわゆる症状として扱い,そのようなセクシャリティに基づく言動に困惑し,嫌悪感を示し,拒絶的となる.それがこのような高齢の女性の孤立感を強め,さらにこの妄想的言動を強めていく.
 このような高齢女性の感情をくみ取ることが精神療法的配慮につながる.そのような女性の面接では,配偶者との関係が今までどのようなものだったのか,という視点が必要となる.嫉妬妄想をもつ高齢者は,その生活史において配偶者の言動に傷つけられ,怒り,抑うつ,無力感などの感情を経験し,さまざまな社会的事情からそれを押し殺して生きてきたというケースが多い.それが高齢となり,配偶者との力関係が逆転してきたときに,攻撃,怒り,暴力という形で表現される.
 それらの女性の訴えの背後にある傷つき体験に注目し,そこでの無力感,抑うつ,不安,怒りなどへの共感,理解が必要である.ある高齢の女性は,面接でそのような経験を語り,「初めて自分の苦しさを理解してもらえた」とつぶやいた.彼女は,嫉妬妄想による言動により,家族からも孤立し,常に非難の的になっていたからである.

II.高齢者の精神療法の要諦
1.共感,理解と肯定
 言うまでもないことだが,今までの人生を一生懸命生きてきた人生の先達として敬意を払いながら,その訴えに耳を傾けていく必要がある.そして訴えられる内容(症状)にのみ焦点をあてずに,その背後に失ったものは何であろうか,という視点から高齢者に共感し,理解しようとすることが面接の最初のステップとなる.目の前にいるのは,喪失体験に直面し,適応不安を抱えながら,死に至るまでの過渡期を生きている人たちである.
 嫉妬妄想をもつ高齢の女性に対しても,それを単なる症状として理解すると,配偶者や家族の訴えに沿った対応になりがちで,「いいかげんにしましょう」「過去のこと」といった説得に終始してしまう.その背後に彼女らの傷つけられた自尊心があり,そのような家族,周囲の反応により再び二重,三重に傷つき,孤立し,そこでの無力感,抑うつ,怒りで苦しんでいるのである.
 「大変な人生でしたね」「一生懸命生きてきましたね」「そのような経験をすれば,怒りを覚えるのは当然のこと」と今までの人生を積極的に肯定し,そのような感情体験を承認することから精神療法的介入が始まる.共感を伝えることで,それらの妄想に基づく配偶者への攻撃,支配がゆるんでくる.妄想はそのまま受け入れていくことと,生活の再建をめざすことがここでの精神療法の要諦である.

2.シンプルな行動処方
 心気的不安とそれに伴うさまざまな身体的感覚や痛みに対して,その悪循環を見てとることから治療はスタートする.そちらに注意を向ければ向けるほど,その感覚は強くなり,それを何とかしようとすればするほどつらくなる,という状態を具体的な生活状況に沿って明らかにする.そして本人の生きるエネルギーの向かう方向性が間違っていることを伝えていく.それは高齢者本人,家族に理解を得られやすい.
 このような悩みをもつ人たちは,今まで活動的で中年期からある時期までは,サクセスフル・エイジングを地で行っていた人たちも少なくない.若さを求め,それを実行する能力をもちながら生活していた高齢者にも老いは平等に,突然訪れる.そこで心身の不調を感じ,それが彼らの適応不安を引き起こす.それを何とかしようと,悪循環が発動する.
 そのような高齢者は,頻回に医療機関を訪れ,何とかしようとするが,結果として本人,家族ともども消耗していく.そして今まで好きだったこともやめてしまい,閉じこもりがちとなる.
 それに対して,次のような2つの行動処方をきっぱりと具体的に伝える.
 ①ドクターショッピングをやめること,とりあえず待つこと.
 ②自分の好きだったことを1つだけに絞り,それに取り組むこと.
 この行動処方は,シンプルに1つだけ選ぶことが望ましい.散歩をしていた人ならば,「それだけやっていれば,大丈夫です」と積極的に保証し,本人の洞察,気づきを求めないことが,臨床的に重要となる.

3.若さへの執着(「べき」思考)をゆるめること
 高齢者に突然の老い(身体的不調,痛み,抑うつ,病など)が訪れると,「若くあるべきだ」「活動的であるべきだ」という意識(「べき」思考)に縛られてしまう.われわれはいつまでも若くあるべきだ,と思いたいのである.これが高齢者を縛る「べき」思考である.
 それは高齢男性の勃起障害にも見いだせる.この「べき」思考をゆるめることができれば恋愛の相手に対し,情緒的で親密な関係を築くことができるようになる.
 あるいは,今まで活動的な高齢者が,友人の死,身体的不調から,抑うつ状態に陥り,そのまま,引きこもりの生活に入ってしまうことも稀ではない.白か黒か,という強迫的な思考と行動様式である.ここでも若さへの執着と現実の自分を受け入れることができないという葛藤を見いだすことができる.
 そのようなときに,できることを1つ取り出し,シンプルに行動処方を示し,それに取り組んでもらうことから始める.例えば,ゴルフ好きの人が,抑うつのために,すべての日常の活動から遠ざかってしまったとする.そこでの行動処方は1つだけで,ゴルフのレッスンに行くことである.「これがうつ状態,体調不調の解決につながります」と保証して,その背中を押す.そこから今の自分に見合った活動,生き方を見いだしていくことが可能となる.

4.ステレオタイプな高齢者像から治療者が自由になること
 高齢者の精神療法的接近の難しさは,治療者,家族側の老いに対する認識,思い込みや「べき」思考と関係する.われわれは,しばしば高齢者に,成熟,老成,あるいは可愛い老人というステレオタイプな高齢者像を求めやすい.
 高齢者は,葛藤に満ちた過渡期を生きており,それは喪失のプロセスであり,その苦悩に向き合えるように援助することを通して,その人らしい老い方がみえてくる.

5.高齢者を支える環境への介入
 現実との境界があいまいとなり,その変化にゆさぶられやすい高齢者を支えていく環境作りが重要な治療的課題となる.それには家族を含め高齢者を支える側が,ほどよい距離をとることが重要なポイントである.しばしばよかれと思って高齢者を過剰に支えるか,逆に「もう年なのに…」と突き放してしまうなどの極端な対応をとりやすい.高齢者に治療的な介入を行い,環境,家族とのゆるやかで,持続可能な関係の結び直しをめざしていくことが大切である.

6.一人でいる能力(豊かな孤独・自閉)への注目と積極的肯定
 高齢者を社会的に孤立した惨めな存在と決めつけることから,治療者が自由になることが求められる.
 人生の最後の過渡期をゆっくりと下っていくときには,一人でいる能力が重要なものとなる.老いを受け入れていくプロセスが,現実への執着を減らし,高齢者に豊かな自閉,孤独を楽しむ能力を作り出す.そして現実のなまなましさは失われていく.
 この能力に注目し,それを育てていけるように,高齢者本人や家族に働きかけることも必要である.それには,さまざまなレベルでの執着のあきらめ,諦念を必要とし,それがこの能力を高めていく.

おわりに
 高齢者は,さまざまな喪失を経験し,生と死の狭間,過渡期を生きている.その過渡期の現象とそれに対する精神療法の要諦を述べた.喪失を適切に受け入れることが,固有な生のあり方を見いだすことを可能とする.

 なお,本論文に関連して開示すべき利益相反はない.

文献

1) de Beauvoir, S.: La Vieillesse. Éditions Gallimard. Paris, 1970 〔朝吹三吉訳:老い(下巻).人文書院,京都,1972〕

2) Erikson, E. H., Erikson, J. M.: The Life Cycle Completed. W. W. Norton & Company, New York,, 1997 〔村瀬孝雄,近藤邦夫訳:ライフサイクル,その完結(増補版).みすず書房,東京,2001〕

3) 橋本 衛: 軽度認知障害と森田療法. 日本森田療法学会誌, 29 (1); 35-41, 2018

4) 北西憲二: 回復の人間学―森田療法による「生きること」の転換―. 白揚社, 東京, 2012

5) 高良武久: 森田療法のすすめ―ノイローゼ克服法―. 白揚社, 東京, 1976

6) 森 於菟: 耄碌寸前. みすず書房, 東京, 2010

7) 新村秀人: あるがままの老い―超高齢社会に森田療法の知恵を活かす―. 日本森田療法学会誌, 29 (1); 29-33, 2018

8) 坂爪真吾: セックスと超高齢社会―「老後の性」と向き合う―. NHK出版, 東京, 2017

9) Tornstam, L.: Gerotranscendence: A Developmental Theory of Positive Aging. Springer Publishing Company, New York, 2005 (冨澤公子,タカハシマサミ訳:老年的超越―歳を重ねる幸福感の世界―.晃洋書房,京都,2017)

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