Advertisement第120回日本精神神経学会学術総会

論文抄録

第121巻第9号

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特集 児童精神医学と精神分析という「隣人」たちの対話
発達障害のある人の育ちを通した理解と育みの支え
岡田 俊
名古屋大学医学部附属病院親と子どもの心療科
精神神経学雑誌 121: 715-721, 2019

 発達障害は,DSM-5やICD-11における神経発達症群とおおむね重なり合う概念であり,発達期に出現し日常生活に支障をきたしうるような認知・行動特性である.発達障害の本態は神経生物学的病態であるが,発達障害の存在はそれぞれのライフステージにおいて心理的発達過程に少なからず影響をもたらし,二次障害を併存しうる.実際,自閉スペクトラム症特性は,基本的信頼感の獲得,対象関係の成立,愛着関係の障害,分離不安,自尊感情の傷つき,同一性の獲得,レジリアンスの低さと関連し,注意欠如・多動症の存在は,自身を制御できないことへの不安や困惑,対人関係の衝突のなかでの罪責感や喪失感,自尊感情の傷つきと関連する.発達障害の支援においては,これらの育ちの過程における躓きを踏まえ,障害受容や障害とともに育ちゆく現実の受容,また,周囲との軋轢などの現実的問題を解決しながら,当事者が自己肯定感を保ちうるようなかかわりが求められる.また,養育者の心理的負担や精神的不調は,十分なケアが及ばないことが少なくなく,養育者側の視点に立った援助が求められる.

索引用語:自閉スペクトラム症, 注意欠如・多動症, 育ち, 育み>

はじめに
 発達障害の医学的定義は明確でない.もとは知的障害や(多くは知的障害を伴う)自閉症に使用されることが多かったが,その後,学習障害や注意欠如・多動症などを包含するようになった.しかし,発達障害の医学的定義はあいまいなままにおかれている.知的障害がない,あるいは,比較的軽度な発達障害特性を有する者が生涯を通して必要とする援助を認識されるなかで制定された発達障害者支援法には,発達障害を「自閉症,アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害,学習障害,注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と規定している.発達障害のなかに慣用的に含まれる障害群を列挙し,そこに共通する概念を近年の理解に基づき記述したものといえる.
 発達障害に含まれる障害群は,DSM-51)やICD-114)における神経発達症群とおおむね重なっている.DSM-5で神経発達症群は「典型的には発達期早期,しばしば小中学校入学前に明らかとなり,個人的,社会的,学業,または職業における機能の障害を引き起こす発達の欠陥により特徴づけられる.発達の欠陥の範囲は,学習または実行機能の制御といった非常に特異的で限られたものから,社会的技能または知能の全般的な障害まで多岐にわたる」とされている.一方,ICD-11においては「発達期に出現する行動と認知の障害であり,特定の知的,運動,対人機能の獲得と遂行に顕著な困難を伴う.これらの行動と認知の障害は,多くの精神障害や認知障害においても認められ,発達期においても出現しうるが(例えば,統合失調症や双極性障害),その中核的な症状が神経発達的である障害のみをこの群に含める.神経発達症の推定される成因は複雑であり.多くの個々のケースでは明らかでない」と述べられている.神経発達症は,日常生活に支障をきたすような発達期に出現する認知行動特性であり,その視点は本邦における発達障害の定義とも共通している.しかし,伝統的に用いられてきた発達障害は,そのように日常生活に支障をきたしうる認知行動特性のみに限定されない,神経発達症に関連する諸問題を含めた広がりのある用語として使用されることが多い.本稿では,神経発達症群をもちつつこの社会のなかで育ちゆく過程の問題を扱うことから,あえて発達障害という術語を用いることとする.
 発達障害の成因論は,注意欠如・多動症のようにもっぱら器質因が想定され,今日では特性のみで規定される障害がある一方,自閉スペクトラム症のように当初は生得的障害として認知されながらも,児童期の統合失調症,「冷蔵庫のように冷たい親」2)による養育の影響など幾多の変遷を経たが,これらの成因論は否定され,生得的な発達障害に回帰した障害などさまざまである.発達障害は,神経生物学的基盤に起因する認知・行動特性であるが,同時に発達障害とともに育ちゆくことに伴う心理的障害も重要であると考えられ,特に発達障害に伴う二次的障害の理解に重要な知見を与える.また,発達障害のある子どもの育ちや保護者による養育の支援は,発達障害支援の重要要素であり,これらの関係について検討を加えることとする.

I.自閉スペクトラム症と育ち
 自閉スペクトラム症では,さまざまな場面における他者とのコミュニケーションや相互交流の難しさ,対人関係を築いたり,維持することの難しさ,それらとともに,行動,関心,活動の幅が狭いといった認知,行動特性が認められる.
 自閉スペクトラム症のある子どもは,自らの不足/欲求(want)を伝えようとしても明示的なメッセージの発信に乏しいだけでなく,親からの微妙なメッセージを解することも困難である.そのために,養育者も自身が必要とされている,効果的な子育てができているという実感をもちにくく,子と養育者との交流は,より少なくなりがちであるし,養育者が抑うつにさいなまれやすい.また,かかわりを他者とのつながりや意図性のもとにもてない子どもでは,対象関係の成立も微弱で,一貫性のない関係性の理解にとどまりがちである.このような子どもと養育者の相互交流の障害は,基本的な信頼感の育みや愛着形成に影響を及ぼしうる.分離に際しても,自閉スペクトラム症のある子どもは,極めて分離が容易か,分離に際してまとわりつくように離れないかの両極端になりがちである.子どもは,親を安心基地としながら,少し離れては不安になって戻ってくる,ということを繰り返して分離を果たすが,発達障害のある子どもは,見守られているという感覚を抱きにくいため,物理的非接触がそのまま強い不安へと結びつきやすい.また,想像力を働かせにくいため,保育園や幼稚園に自分を送り届けた後,自分のことを思い浮かべながら家事や買い物をしてくれている,また時間になったら迎えに来てくれる,といったことは実感がわきにくい.
 排尿・排便,更衣,洗面・入浴といった基本的な日常生活自立においても,自らの身体感覚への鈍感さ,周囲の刺激への感覚過敏,こだわり,指示内容の理解が難しいために,困難を抱えがちである.また,感情の統制が困難であったり,力加減がわからない,不器用などのために,思うような行動がとれない場面も少なくない.これらの経験は,幼児期における発達課題「自律性 対 恥・疑惑」に躓きを抱えがちである.
 入学後は,対人関係が家庭生活から仲間関係へと広がり,集団性を優先し,規律や秩序を守ることが求められる.また,他者との序列も広がり,他者の多様性に直面するほか,劣等感を意識する場面も多くなる.これらは,不安や困惑を伴う体験であり,自律性や自尊心の獲得に影響を及ぼす.
 社会性が発達してくると,他の子どもと同じように仲間がほしい,という気持ちになる.しかし,仲間関係を形成するスキルに乏しく,ちょっかいを出す,同じものをもっている,徒党を組むなど,不適切な行動や形式的な「仲間」関係になりがちである.そのなかで微妙なずれを感じたり,しばしば周囲から利用されたり,からかわれたりするなかで傷つきを深めることもある.自閉スペクトラム症の子どもたちは,えてしてレジリエンスが低く,傷つきから回復しにくい.一般的には,危うく死ぬようなトラウマに対して起こるような,フラッシュバック,抑うつや過覚醒,その体験を想起させる刺激の回避などが起こることも多い.
 二次性徴を迎えると,大人になりゆく身体像を受容するとともに,社会的に求められる男性性,女性性を受け入れ,性同一性を確立していく.しかし,自閉スペクトラム症の子どもは,ばらばらの身体像にとどまり,体全体が自らの意思のもとに動く一体感のある存在であるという感覚に乏しい.そのため,身体的な変化はそのまま違和感として受け止められやすく,さらにそこに性役割にまつわる混乱や異性との交流のなかでの傷つきが加わると不全感を募らせることになりがちである.

II.注意欠如・多動症と育ち
 注意欠如・多動症は,12歳以前から学校,家庭,職場などの複数の場面で認められる不注意,多動性-衝動性である.注意欠如・多動症の診断項目はいずれも病理的なものではなく,誰もが経験するエピソードであるが,その程度が「発達水準に不相応」なほど顕著である場合に診断される.
 注意欠如・多動症のある子どもは,まだ身体的に未熟で,親と密着した存在である間は,安定した親子関係を築くことができる.しかし,徐々に運動能力が向上してくると,周囲のさまざまな感覚刺激に過度に反応し,落ち着きがなかったり,癇が強いといった特性が現れ始める.熟慮する前に感情や行動が先走るので,非を指摘されると理屈のうえでは納得できるはずのことであっても,感情を収めることができず,攻撃的な言動に至りがちである.また,計画的に順序立てた行動ができないため,決められた時間までに準備を行うことができない.また,目先のことにとらわれてしまったり,リスクを顧みない行動をとって失敗をしたりしやすい.些細なことに気が散りやすく,周囲を適切に見渡して,適切に注意を絞るということができないため,短絡的に理解しやすい.こういった注意欠如・多動症の特性は,本人にとって,自分がコントロールできず,同時に周囲のことが把握できないという不安をもたらす.
 また,衝動的な振る舞いがある子どももいる.力加減のわからないまま衝動的に母親を突き飛ばしてしまったりして,その後は母親がびくびくと子どもの顔色をうかがってしまうこともある.子どもは,父親から懲らしめられるのではと怯えたり,自分を包み込んでくれるような母親像が崩れ去ってしまい,その喪失感と罪責感にさいなまれることになる.
 注意欠如・多動症のある子どもの多くが学業や仲間関係などの学校生活で困難を抱える.本邦では,集団規律が授業中のみならず,給食や掃除などの時間やそれに関連する当番活動でも求められる.また,ノートをきれいに書くこと,家で宿題を行うこと,提出物を出すことなど,注意欠如・多動症の子どもがしばしば不得意とする事柄を求められがちである.学年が上がり,より複合的なスキルが求められるにつれて学習面での困難が露見することが多い.また,友人からのちょっかいなどに衝動的に反応しやすく,トラブルも起こりやすい.そのために自尊心の傷つきなどが問題になりやすい.
 注意欠如・多動症の子どもでは,実行機能,遅延報酬,時間感覚の障害といった神経心理学的障害があることが指摘されているが3),この意味するところは以下の通りである:いまの満足を優先し,意思決定する,また,誇らしさには鈍感であるが,失敗すること,失うことへは敏感であり,同時に傷つきやすい,さらに多種多様な刺激のなかから,今,自分が注目したい,あるいは,注目すべき対象に焦点を絞ることができない.このような主観的な体験は,同時に心理的体験を伴う.すべてが新しく楽しく,興味はつきることがないが,同時に向こう見ずでもある.誇らしさへの鈍感さ,喪失への敏感さは,動機づけの乏しさや自尊心の傷つきをもたらす.さまざまな対象から焦点化できないことは,もどかしいだけでなく,状況が読めず,不安や困惑を伴ってくる.このことは注意欠如・多動症の子どもの心理的発達に大いに影響する.
 注意欠如・多動症には治療薬の有効性が高い一方,その効果に伴って自己像の揺らぎが起こりうることにも留意する必要がある.実行機能障害の改善は,さらに先のことを考えて慎重になるということであるし,報酬系の改善は,ほめられること,誇らしさの新たな体験を意味する.また,注目したいことに焦点化できる.しかし,このような新たな主観的体験は,分析的思考や面白みのなさをもたらす一方,動機づけの高まりや自尊心の獲得,状況がみえる,周囲がわかるという体験であり,このことは臨床症状の改善だけでなく,新たな体験に伴い,戸惑いをもたらしうることにも注意が必要である.

III.発達障害のある人の育ちと育みを支えるということ
 発達障害のある人への支援を通して,良好な適応を図り,自尊心の低下などの二次障害を防ぐことが大切で,その前提として当事者とその家族が障害を受容し,家族や周囲の人は,特性に応じた対応を行う必要があるとみなされている.しかし,その前提を達成することは,必ずしも容易ではない.
 発達障害の診断を,知的に理解し,そして受容しているようにみえても,支援を受け入れることに親が逡巡することは少なくない.このようなとき,親が感じているのは,名前で呼ばれていたわが子が,障害名で呼ばれ,その障害名に基づく画一的な対応を行われることへの抵抗である.しかし,実際には同じ障害であっても,一人一人の障害特性のパターンは大きく異なっている.その子どもの障害名だけでなく,その子どもが体験していること,親が感じていることを言葉にすることが大切である.
 親は「この子は通常学級に通えるのでしょうか」「将来,仕事につき,結婚できるでしょうか」と言うことが多い.その子が生まれた時点では,その子は特別に元気な子であってほしい,賢い子であってほしい,優しい子であってほしい,素直であってほしいなどと特別であることを求めて名前をつけたりするものである.それなのに,発達障害の存在が伝えられるとともに「普通」であることが,かけがえのないことのように思えてしまう.しかし,そもそも「普通」の発達,などというものは存在しない.育児書の記載や文部科学省の検定教科書の並びのように,何歳では何ができるという,誰もが同じ歩みを辿ると考えることこそが幻想である.親が求めているものは,障害の有無にかかわらず,得られたはずの幸せが享受できるのかということである.しかし,寛容さのない社会のなかで「普通」に振る舞えないことを批判され,肩身の狭い思いをすることも少なくなく,親の求める「普通」は社会の求める「普通」と重なり合って,気づいてみると,常に社会の求める基準に少しでも近づけるように親が子どもに求めてしまっていることも少なくない.
 発達障害がある本人も「普通に友人がほしい」とか,「引きこもってばかりいられないから」などと言うことが多い.しかし,本人は具体的なプロセスをイメージして,そのように語っているのではなく,現状に対する否定的な認知ゆえに発せられた言葉であることに留意する必要がある.自分はそこそこやれているし,これでいいんだ,という身の丈の自己効力感や有能感を獲得できることこそが,援助の核になると思われる.なかには,治療者や支援者を質問攻めにしたり,何か助言をしたとしてもそこに畳みかけるように質問を加えたり,食ってかかるような物言いをする人もいるかもしれない.それは対人スキルの不足によるものであるが,その背景には,激しい不安と,それゆえに常に保証を求めなければならないその子どもの心性があり,そこを汲み取ってこそ支えといえる.
 発達障害への注目がかつてないほどに高まっており,高等教育を含めた学校教育,就労,家庭生活などの多方面において,発達障害を起点とした当事者の理解が進められているが,この背後には発達障害の人が不適応になりやすい社会構造があることを忘れてはならない.今日は,時代思潮や個人が参照すべき規範が明確ではなく,自身で指針を見いだす必要がある.しかし,その一方では,今日ほど独自の価値観が尊重されなくなった時代はない.その背景には,インターネットやソーシャルネットワークの普及があり,「いいね」と同調するか,炎上するかの二者択一のなか,個の価値観や多様性への寛容性が損なわれつつある.
 支援において重要なことは,その子ども,その親の「みかた」になることであり,同時にまなざしを提供することである.治療者や支援者は,好んで味方になろうとするが,味方になって社会の不条理に不満を述べたり,理解のない周囲の人を批判しても,その子どもを批判した相手も含めたこの社会のなかで生きなければならない現実は変わらない.むしろ,その子ども,親,周囲の人々の,それぞれの視点(見方)に立って,それぞれの見え方を翻訳して伝えることが大切であるし,自らの見え方に立脚してくれることこそが共感でもある.そして,その見え方のもとで生き抜いている子どもとその家族を見守り支えるまなざしを提供することこそ支えといえよう.診断は,その人の見え方,すなわち体験を知るためのよすがとなる.診断から支援へとつなぐためには,診断が意味する,その子どもの主体的な体験に基づき,その子どもとともに主体的に選択していくことである.そして,その子どもが,自分なりにそれなりに歩めたと感じられるところまでつきあいきることが肝要である.

おわりに
 本稿は,日本精神神経学会第114回学術総会におけるシンポジウム「児童精神医学と精神分析という「隣人」たちの対話」における発表「発達障害臨床を起点とした患者理解―児童精神科医の立場―」に加筆をしたものである.しかし,児童精神医学と精神分析学は,その根源を同じくしており,アンナ・フロイトやメラニー・クラインの名を引き合いに出すまでもなく,発達期の力動的理解と治療的試みは精神分析の1つの有力な接近法であり,同時に,児童精神医学のメインストリームであったし,今日も児童精神医学において欠かすことのできない視点とみなされている.
 発達に対する扱いにおける力点にはいくつかの相違があった.力動精神医学が養育者とのかかわりを基盤としながら内的表象の獲得とその様態を重視し,そこからさまざまな精神病理を探求したのに対し,児童精神医学では親への依存と養育者のケアのもとで育まれる子どもの愛着と養育者から子どもへのボンディングが着目され,この関係性に基づく愛着行動が重視される一方,あらゆる介入に抵抗し,関係性の構築に困難のある自閉スペクトラム症にも関心が拡大していった.自閉スペクトラム症の解釈においても,母元論などの紆余曲折を経た後に神経生物学的病態としての理解が進み,認知・行動面からの介入が主体になり,心理的・力動的理解は時に過度に抑制されてきたように思える.しかし,発達障害の範囲が,発達障害特性の軽度な一群に拡大するなかで,その子どもの育ちにおいて理解する機会は飛躍的に増加し,認知・行動特性に付随して起こる精神力動に対しても再び注目が集められるようになった.
 他方,精神疾患に発達障害,ないしは,閾値下の発達障害特性がしばしば併存することは,患者の病理の理解に不可欠であるとともに,介入への反応性や接近性が異なることから,従来の力動的治療の対象から除外されることも多かった.しかし,その一方では,発達障害のある人々への理解は力動精神医学を専門とする治療者の関心の対象であり,その理解が徐々に深められるとともに,軽度な発達障害特性を有する者を介入の対象から除外することは現実にも不可能であり,その特性に応じた介入の方向性が模索されつつある.
 「隣人」のあり方もさまざまである.この表現から,近接しながらもまったくかかわりをもたぬままに異なる歩みを遂げていると考えるのは誤解であろう.隣人でありながらも二重螺旋のように,ともに結びつきあいながら前進してきたということがあてはまるように思われる.両者の視点を活かしながら,発達障害とともに歩む育ちの視点から患者理解を押しすすめ,育みや生のあゆみの支えへとつなげていくことが,両者の学びを臨床に活かすうえで有益であると考えている.

利益相反
 講演料など:塩野義製薬株式会社,大塚製薬株式会社,日本イーライリリー株式会社,ヤンセンファーマ株式会社,シャイアー・ジャパン株式会社

文献

1) American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed (DSM-5). American Psychiatric Publishing, Arlington, 2013 (日本精神神経学会 日本語版用語監修, 髙橋三郎, 大野 裕監訳: DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院, 東京, 2014)

2) Bettelheim, B.: The Empty Fortress: Infantile Autism and the Birth of the Self. The Free Press, New York, 1967 (黒丸正四郎, 岡田幸夫, 花田雅憲ほか訳: 自閉症・うつろな砦1. みすず書房, 東京, 1973; 黒丸正四郎, 岡田幸夫, 花田雅憲ほか訳: 自閉症・うつろな砦2. みすず書房, 東京, 1975)

3) Sonuga-Barke, E., Bitsakou, P., Thompson, M.: Beyond the dual pathway model: evidence for the dissociation of timing, inhibitory, and delay-related impairments in attention-deficit/hyperactivity disorder. J Am Acad Child Adolesc Psychiatry, 49 (4); 345-355, 2010
Medline

4) World Health Organization: International Classification of Diseases 11th ed(ICD-11). 2018 (https://www.who.int/classifications/icd/en/) (参照2019-01-27)

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